世界史の目−Vol.10−

神聖ローマ皇帝、雪中での屈辱1077

 封建制度下の中世ヨーロッパ世界では、キリスト教の精神が国王・諸侯(貴族)から下層民にまで溶け込んだことで、教会の権威はますます高まり、教皇・大司教・司教・司祭・修道院長といった聖職者の階層制度(ヒエラルキー)が確立した。政治的にも支配権を兼ね備えるようになり、農奴などに十分の一税を課すなど、教会の領主化も進んだ。

 さらに教会は、聖職叙任権(領主的存在となった司教や修道院長の任命権)や聖職罷免権を教皇が持つといった、公会議で決めた信仰・慣習・規律などを絶対的なものとした。しかしこれはあくまでも内輪だけの形式理念であり、現状として、多くの教会は世俗権力者の支配にあった。荘園領主は領内に教会・修道院を建て、領主自身が修道院長や司祭を任命して自身の支配下においた。その典型的なのが神聖ローマ帝国という、当時のドイツ地方にあった大封建国家であった。

 神聖ローマ帝国962〜1806)の教会は帝国教会として、神聖ローマ皇帝の直接支配制度であった。ここは諸侯勢力が強く、皇帝権を維持するためには聖職叙任権や罷免権といった教会の権威を皇帝が握らねばならないというのが当然とみなされていた。だが、領主の聖職売買(シモニア。司教や修道院職といった聖職とそれに伴う世俗財産の売買行為)がおこり、教会の世俗化・腐敗化がすすんだ。聖職売買は10〜11世紀には日常的に行われていった。

 この事態を悲観した修道院は、聖職売買や聖職者の妻帯といった、教会の腐敗と世俗化を自浄し、教皇が頂点に立ち、聖職者の権威をもとに戻そうとする教会刷新運動を起こした。イタリア人ベネディクトゥスの「祈り、働け」を戒律としたモンテ=カシノ修道院、フランスで荒れ地開墾を推進したシトー派修道会、教会の財産所有を否定したフランチェスコ修道会やスペイン人ドミニコが南フランスにたてたドミニコ修道会など、修道院の教会刷新運動は盛り上がった。その中で、11〜12世紀にかけて、刷新運動が最も盛んだったのが、フランス南東部にあるクリュニー修道院だった。ロマネスク様式の修道院で、刷新運動の中心的な存在となった。さらに教皇レオ9世は、刷新運動の改革者らと教皇庁の改革をはかり、1059年教皇の選出する際、皇帝の介入を受け入れないことを決定した。このため、神聖ローマの王室に動揺が走った。当時神聖ローマ帝国は皇帝ハインリヒ4世(位1056〜1106)が幼少の頃であり(即位した時は6歳)、強い諸侯勢力から皇帝権を維持するために、皇帝が教会の権威を握るという意味では、大きな打撃となった。

 少々時が経ち1073年、教皇にグレゴリウス7世(位1073〜85)が選出された。彼は腐敗した高位聖職者を退かせ、教皇自ら高位聖職者を任命し、強い宗教支配体制を築こうとしていた。また彼は1075年、教皇権の絶対権威、世俗権に対する優越権を宣言した(「教皇教書」)。この宣言により、ローマ教皇・グレゴリウス7世と、教会のあらゆる政策を国策と考える神聖ローマ皇帝・ハインリヒ4世との対立は決定的となった。1076年、ハインリヒはミラノの大司教任命を行う予定だった。この叙任権による闘争が大きな事件へとつながっていくのである。

 教皇グレゴリウス7世は皇帝ハインリヒ4世に書簡を送り、ミラノの大司教を皇帝が任命することへの憤りを伝え、叙任権を教皇に返却するように皇帝に求めた。これに対し皇帝はウォルムスでのドイツ司教会議で教皇の廃位を決め、教皇に宣告した。ところが教皇はこれをものともせず、教皇の最後の切り札、"破門"を皇帝に投げかけた。

 皇帝が破門を受けるということは、臣下は君主に対する忠誠の義務がなくなるわけで、これまで皇帝によって任命されていたドイツの司教は当然の事ながら動揺し、神聖ローマ帝国は死に等しいほど大混乱に陥った。そもそも神聖ローマ帝国は諸侯の選挙によって皇帝が選ばれる選挙王制であり、強い勢力を持った世俗諸侯は、破門された皇帝の廃位をめぐって、各地で反乱を起こし始めた。グレゴリウス7世側につく地方の領主も増え、皇帝は劣勢に立たされた。さらに不運は続き、ドイツ諸侯は集会を開いて、破門から1年後の1077年2月までに国王が破門を解かれない限り、帝位を廃することを決定した。

 1076年末、皇帝ハインリヒ4世は決意し、ローマに赴いた。1077年1月末、トスカナ女伯マティルダの仲介により、カノッサ城に滞在していた教皇グレゴリウス7世に破門を解いてもらうよう、雪中の城門で3日間、裸足になり断食を続け、謝罪した。よって破門は解かれたのである。これがカノッサの屈辱である。

 破門を解かれ、皇帝の勢力が回復したことによって、皇帝に反抗していた諸侯の大義がなくなり、結局皇帝によって反対派諸侯は抑圧された。逆に劣勢に立たされたグレゴリウス7世は再度破門を通告したが、皇帝はこれにそむいてローマ出兵し、グレゴリウスを追放した。結局この聖職者の叙任権闘争で始まった皇帝と教皇の対立は、グレゴリウス7世死後も続いたが、4世の息子皇帝ハインリヒ5世(位1106〜25)が教皇カリストゥス2世(位1119〜24)間によるヴォルムス協約(1122)により、司教選挙に皇帝参加が認められ、叙任権は教皇が容認するとし、ようやく叙任権闘争は終結した。

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 いつも最後まで読んでいただいてありがとうございます。遂に「歴史のお勉強」が10回目となりました。記念すべき第10回は、神聖ローマ帝国でのお話しです。神聖ローマ帝国は今のドイツの母体となった国です。"ローマ"の名前がついている国だからといってイタリアにあるわけではありません。オットー1世962年に教皇ヨハネス12世より戴冠をうけ、帝国は誕生しました(962年は"オットー苦労人"と覚えましょう)。

 教皇と皇帝の対立を物語る上で欠かせないのがこの「カノッサの屈辱」事件です。教皇と皇帝との対立事件には他にも、フランスで起こったアナーニ事件1303 教皇ボニファティウス8世vs国王フィリップ4世)、同じくフランスで起こった教皇のバビロン捕囚1309 教皇クレメンス5世vs国王フィリップ4世)などがありますが、この2事件とカノッサ事件との違いは、カノッサ事件は皇帝の立場が教皇より劣勢であり、後者の2事件はその逆であるということです。今回お話しした時代はまさに教皇権の隆盛期でした。グレゴリウス7世以後、教皇ウルバヌス2世(位1088〜99)が十字軍を提唱したり(1095クレルモン公会議)、教皇インノケンティウス3世(位1198〜1216)の時代にはカンタベリ大司教の任命をめぐりイギリス王ジョンを破門とするなど、「教皇は太陽、皇帝は月」と呼ばれる絶頂期がおとずれています。

 今回チェックすべき所は、前半に登場した数々の修道院の名前、覚えておいた方がいいですね。イタリア中部にあるベネディクトゥスモンテ=カシノ修道院においては"祈り、働け"の戒律を覚えておきましょう。細かいところですと、クリュニー修道院ロマネスク様式であること、シトー修道会荒れ地を開墾したこと、フランチェスコ修道会はイタリア中部にあるアッシジの聖者が建てたということ、ドミニコ修道会の建設者ドミニコはスペイン人であることなどです。ちなみに教会建築にいたって、11〜12世紀はロマネスク様式13〜14世紀はゴシック様式であることも重要です(ちなみにビザンティン様式は4〜8世紀)。

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