世界史の目−Vol.102−

"ルイ"の改革

 ナポレオン時代(1799-1815)の終焉とウィーン体制の確立により、1814年、フランスはルイ18世(位1814-24)によるブルボン復古王政となった(ブルボン朝。1589-1792,1814-30)。ルイ18世没後は弟のシャルル10世(位1824-1830)が、兄と同じく極右王党派を指導して反動政治を行った。国民による革命を抑止しようとする反動政治は、ルイ18世の治下ではまだ緩めであったが、シャルル10世即位後は露骨に打ち出され、極右王党派からポリニャック(1780-1847)を首相に任命(任1829-30)、言論抑圧・旧教聖職者保護・国民軍解散などを行った。なかでも、フランス革命によって国外逃亡の身分となり、財産を没収された亡命貴族(エミグレ)に多額の補償金を供与して救済しようとした動きは、血税を納めてきたフランス国民を激怒させ、内閣不信任決議案を提出するなど、自由主義勢力が動き始めた。議会を解散させたシャルル10世は、こうした国民の政治批判回避の目的で、1830年7月アルジェリア出兵を行った。

 同じ頃、総選挙が開かれたが、当然復古王政に反対する自由主義勢力が多数を占める結果となった。シャルル10世は7月25日、議会が招集される前に議会解散の命令を出し、国王派以外の選挙権を剥奪する選挙法改悪と、言論・出版の厳しい統制を義務づけた(七月勅令)。上層ブルジョワジーを中心とする市民は、翌々日の7月27日、政府軍に対して戦闘を開始、3日間市街戦を展開した(「栄光の3日間」)。結果、国王軍は敗北、シャルル10世は8月2日に国外亡命となった(七月革命1830.7)。
 革命派は共和政派と立憲王政派の2大派閥があったが、相互間の融和がはかられることになり、自由主義精神であることと、立憲王政も取り入れることで、ブルボンの分家であり、革命を支持したオルレアン家から、ルイ=フィリップ(1773-1850。自称"国民の王")が金融資本家らのバックアップでフランス王位に就き(位1830-48)、七月王政を開始した(1830-48。オルレアン朝)。ブルジョワジーの支配的地位が確立した瞬間であった。これにより産業資本家が急成長、産業革命がフランスにも到来した。

 七月王政下に始まった産業革命は、労働者階級を形成した。労働者は、社会的不平等の根源を私有財産に求める社会主義精神を身に付けるようになっていく。これにより様々な労働運動・社会主義運動が勃発した。これが共和政支持、すなわち王政打倒につながっていったため、ルイ=フィリップはしばしばこうした運動を弾圧するようになっていった。復古王政を倒しブルジョワ支配を確立して、選挙権を拡大させたものの、それでも有権者は全人口の1%に満たない状況(約0.6%)であった。銀行家・大商人・大地主といった大資本家が物を言う時代であり、労働者・中小市民は以前の復古王政とさほど変わらなかったのである。
 これにより工場者・労働者ら中小市民による集会(改革宴会)がフランス各地で結成され、選挙法改正運動が始まった。折しも1847年、恐慌に陥ったこともあり、改革宴会は、1848年2月、パリで全国大会を開催、政府へ過激な改正要求を突きつけた。時の首相ギゾー(任1847-48)は「選挙権が欲しいのなら金持ちになれ」と発し、上層ブルジョワの代表として威厳を高め、これらの要求を拒絶し、逆に改革宴会の解散を命令した。

 1848年2月22日、改革宴会の選挙法改正運動は遂に暴動と化し、パリはデモの嵐となった。ルイ=フィリップはこの事態を重く見て、23日ギゾーを更迭したが、暴動は収まらず、翌24日は武装反乱も始まってパリは火の海となった。ルイ=フィリップは遂に退位してイギリスに亡命、七月王政は崩壊した(二月革命)。

 王政崩壊後の2月24日に、臨時政府がおこされた。政府は、産業資本家や有産市民、またロマン派の詩人ラマルティーヌ(1790-1869)ら穏健共和主義者たち、また少数の労働者や、急進的雑誌『良識』の編集長ルイ=ブラン(1811-82)ら社会主義者などで構成された。政府はすぐさま共和国宣言を行い、フランス第二共和政が成立した(1848.2-1852.12)。ルイ=ブランは、武装した下層市民を従えて徐々に台頭、リュクサンブール委員会という労働委員会を設置して、その委員長に就任した。そしてその幕開けとして委員会に属する"国立作業場"の設置を発表、実行に移した。ルイ=ブラン委員長は最低賃金・労働時間の設定など、労働者階級の改善策を施し、労働問題を収束させて、生産の国家統制をはかろうとしたが、これは紛れもなく社会主義的改革であった。

 このため、穏健共和主義者は、ルイ=ブランの社会主義的改革に不満を呈し、やがて両者は対立した。国立作業場は、恐慌における失業者対策としての土木作業など、有効であったが、社会主義の理念に基づくため、開店休業中でも賃金を給付する義務があり、資本家やブルジョワは困惑するのも当然であった。またにわか作りの工場であるため資材の流通、仕事の配分、土地の確保などで混乱し、特に農民は社会主義化(農場国営化・集団化)による土地没収の不安が高まったため、ルイ=ブランら労働者・社会主義者側を離れて穏健共和主義者側を支持するようになっていった。
 1848年4月、総選挙が行われ(四月普通選挙)、結果、労働者・社会主義者側は惨敗、穏健共和主義者による組閣が行われた。リュクサンブール委員会は解散させられ、国立作業場も閉鎖となった(6月21日)。このため、作業場の労働者は一転して再度失業者となり、23日から26日にかけて大規模な労働者暴動がパリを中心に展開(六月暴動)、ルイ=ブランは亡命身分となり、彼の改革は崩壊した。
 六月暴動はカヴェニャック(1802-57)率いる政府軍によって鎮圧された。12月に大統領選挙が始まり、カヴェニャック、ラマルティーヌ、そして、ナポレオン(1769-1821)の弟でオランダ王だったルイ=ボナパルト(位1806-10)の子ルイ=ナポレオン(1808-73)らが出馬した結果、ルイ=ナポレオンが総投票数の75%を得て大統領に当選、就任した(任1848-52)。伯父であるナポレオンの名声、すなわちナポレオン伝説を宣伝材料として利用し勢力を上げたことや、有産市民階級や産業資本家といったブルジョワジー勢力と、貧民・賃金労働者らプロレタリアート勢力らが拮抗する中、中小農民など中間層に基盤を持つ権力の支持を取り付け、まるで両勢力の調停者のように振る舞うボナパルティズムを適用したことが勝因であった。さらにナポレオン時代には伯父に可愛がられた軍隊階級が大いに支持したことも挙げられる。

 ルイ=ナポレオン大統領はこうしたボナパルティズムからの軍事独裁体制を夢見ていた。ナポレオン体制の崩壊後、ウィーン体制の転覆を図って数々の反乱を指揮しては失敗、亡命を繰り返した男であった。彼にとって、二月革命はフランスに帰国する絶好の機会であったのである。帰国後も立憲議会議員に当選し、遂に大統領まで昇り詰めたのであった。しかし、伯父のように光り輝く栄光を自身にも味わうには、大統領のポストで満足できるわけがなく、すべてを掌握したポストに辿り着くことが彼の野望であったのである。そのため、彼の中には、議会など必要がなかった。
 こうして、1851年12月、議会が憲法改正案を否決したことに乗じ、ルイ=ナポレオンは武力クーデタをおこした(1851年クーデタ)。王党派を一掃し、議会を解散させてから、大統領任期を10年延長に決め(1852)、さらに同年11月、国民投票によって、遂に皇帝としてのフランス国民に認められた。これにより第二共和政は廃止、ルイ=ナポレオン改めナポレオン3世(位1852-70)として第二帝政(1852-70)を宣言した。労働者・無産市民・小農民が打ち立てた、ブルジョワ支配に対する答えが、ナポレオン3世誕生へと導いたのであった。

 ナポレオン第一帝政(1804-14,15)の復活を目指して、内外政と軍事は皇帝が握り、責任内閣制を否定する専制君主政へと変貌、フランスはナポレオン3世によって軍事独裁国家と化していく。そして、伯父がかつて行ったように、侵略的姿勢を全面的に押しだし、植民地獲得を狙った。国民が願う社会の安定を軍隊に期待した、まさに伯父の時代と重ね合わせたナポレオン3世は、国民の人気を維持するため、次々と外征を行い、皇帝の権威を見せつけた。その外征とは、クリミア戦争(1853-56)、アロー戦争(1856-60)、仏越戦争インドシナ出兵。1858-62)、イタリア統一戦争(1859)など、19世紀を代表する大戦争に次々と介入した。
 内政では、行政官オスマン(1809-91)をセーヌ県知事に任命(任1853-70)、パリ市の改造事業に努めさせた。道路交通、上下水道など社会資本の改善をはかり、1855年にはロンドンに続くパリ万国博覧会を開催させた(1855.5.15-11.15)。世界最初の百貨店であるボンマルシェが開店、プレタ=ポルテ(既製服)の販売、オペラ座の建設(1861。ガルニエ宮。完成は1875年)、街灯設置など、パリは一流都市として発展していった。

 ナポレオン3世の転落は、英仏通商条約の締結(1860)である。イギリスの自由貿易推進者コブデン(1804-65)が取り付けた条約だった。コブデンはイギリスで定められていた穀物法(1815-46。地主・農家保護による穀物輸入制限法)を廃止させ(1846)、航海法の廃止1849)にもつなげた人物である。産業ブルジョワの自由貿易が叫ばれたイギリスに押された条約であり、フランスはイギリスによって自由貿易国を実現させられた形となった。工業発展には有利に動き、フランス産業革命は完成をみたが、労働者も増加、一方で自由貿易のためフランス国内の地主や手工業者、農業家などは不満を増大させ、特にカトリック勢力は同条約には締結反対の姿勢をとった。これが、独裁体制をしくナポレオン3世の大きな誤算であり、国民がナポレオン3世の反動にようやく気づいたことで、自由主義運動がたちまち高揚した。ちょうど皇帝狙撃事件(1858)直後に発布した治安維持法でナポレオン3世の姿勢を示した後だっただけに、この条約締結では自由主義者を抑圧する勇気が出ず、日和見的に彼らに接近して皇帝支持に取り付けようとしたのである。

 その後アメリカが南北戦争(1861.4-65.3)の隙に乗じて、ナポレオン3世が起こしたメキシコ出兵(メキシコ事件。1861-67)も同国軍の必死の抵抗と疫病流行でフランス軍は壊滅、侵略は失敗に終わった。
 すでにこのメキシコ出兵の失敗がナポレオン3世の致命傷となっていた。彼の名声は下る一方で、普墺戦争(1866。プロイセン-オーストリア戦争)の勝利に酔いしれたプロイセンのビスマルク(1815-98)はフランス失墜の好機と判断し、隣国ドイツの統一に焦るナポレオン3世をエムス電報事件によって挑発、普仏戦争(1870.7-1871.2。プロイセン-フランス戦争)はフランス側からの開戦となったのである。ドイツ統一を妨げることが名誉回復であると信じ、自ら親征し戦ったナポレオン3世だが、軍事力はプロイセンが勝っていた。1870年9月2日、ナポレオン3世はフランス東部国境のセダンスダン)で包囲され、捕虜となり退位、第二帝政は終焉を迎えた。その後イギリスに亡命、同地で没し、フランスには三度目の共和政が成立することになる(第三共和政。1870.9-1940)。

 ルイ=フィリップ→ルイ=ブラン→ルイ=ナポレオンと続いた3人の"ルイ"は、政体を次々と変えながらフランス国家を支えていったが、国民から支持されては不支持に陥るという歴史を繰り返した、まさに天国と地獄を両方とも体験した激動の政権であった。3人の中で、その後フランスの政治に関与できたのは、第二帝政崩壊で帰国後(1870)、翌年議員となったルイ=ブランただ1人だけであった。

 これまで数々の分野で登場したルイ=ナポレオンことナポレオン3世を中心に、ルイ=フィリップ、ルイ=ブランという3人の"ルイ"を取り上げました。ルイ18世を入れて、4人の"ルイ"でも面白かったのですが、スペースの都合もあって今回は3人のみとさせていただきました。
 伯父ナポレオンと同じく、あちこちによく動く皇帝ではありましたが、伯父の名声を借りて独裁の地位に躍り出ようとした行為をはじめとして、イタリア統一戦争でのヴィラフランカの講和や英仏通商条約の失敗で見られるご都合主義的態度、そしてメキシコ事件の時にフランスが撤退する際、ロボット皇帝として擁立したハプスブルク家出身のマクシミリアン皇帝(位1864-67)を見殺しにするなど、個人的にはナポレオン3世のことをあまり好きになれないのですが、皆様はいかがなものでしょうか?
 彼は大統領選に出馬した時、ボナパルト派に属していたそうです。ボナパルト派とは、伯父ナポレオンの第一帝政で誇った軍事面での名声に追慕して、再び帝政を実現させようとする党派です。ルイ=ナポレオンは亡命時代から、伯父を神格化して『ナポレオン的概念』を執筆(1839)したりと、ナポレオン伝説をいいように扱っていましたから、伯父が没落して以降のボナパルト家はよほどルイに期待していたんでしょうかね。ブルジョワジーとプロレタリアートの両勢力が相対抗して互いに屈しない状態では、2勢力の上に立って、調停者であるかのように振る舞うというボナパルティズムを使って、これまで陽の目があたらなかった軍隊や小農民に支持を集めて選挙運動を行い、大統領選挙に圧勝したことも、よく言えば機転のきく政治知識の豊富さ、悪く言えば悪知恵が働くズルさならではの勝利だったと思います。
 身勝手な行為ばかり目立つナポレオン3世ですが、パリ市を発展させたこと、フランス国内に産業革命を促進させた功績は大きいですね。また後世のことを考えれば、伯父ナポレオンの名声が現代でも世界各国に輝いて残っていられるのも、ナポレオン3世の功績であるとすれば、この人はやはり偉人と言わざるを得ないでしょう。

 さて、今回の学習ポイントです。大きく分けて七月王政期・二月革命時代・第二帝政期の3時代に分けられます。まず七月王政期から。
まず、ブルボン復古王政はルイ18世→シャルル10世と続きます。シャルル10世の時にでたポリニャック首相も合わせて覚える必要があります。七月王政では、最初の"ルイ"であるルイ=フィリップが登場、オルレアン家出身、自称「国民の王」はキーワードとして知っておきましょう。七月革命の影響によって、オランダからベルギーが独立しています(1830)。ベルギーは永世中立国となって産業革命が発展していきます。またポーランドでは反乱が起き(ポーランド騒乱。ポーランド反乱。1830)、ドイツではドイツ騒乱(ドイツ反乱。1830)、イタリアでも騒乱(イタリア反乱。1831)とマッツィーニ(1805-72)の"青年イタリア"結成がおこります。
 二月革命時代では、改革宴会の選挙法改正運動でスタートします。これをギゾー内閣が弾圧します。これで市民がクーデタをおこし、ルイ=フィリップは亡命となります。これが二月革命です。臨時共和政府では、共和主義者側と労働者・社会主義者側に派閥が分かれ、前者にはラマルティーヌ、後者にはルイ=ブランがいました。結局ルイ=ブランが主導することになり、社会主義的な改革を施します。その第一歩が国立作業場です。でも農民らはこれに不満を抱き、四月普通選挙ではルイ=ブラン派は完敗し、作業場も閉鎖、これに怒った作業労働者が六月暴動を起こし、ルイ=ブランは亡命し、臨時政府は終わります。
 この革命もヨーロッパ各国に過大な影響を与えてしまい、各国のナショナリズム・自由主義勢力を増大させました("諸国民の春")。プロイセン、オーストリアといったドイツ諸国(ドイツ連邦)では三月革命が勃発、イギリスでもチャーティスト運動(都市労働者の選挙法改正運動)が頻発、イタリアでも民族運動が高揚しました。このあたりも重要ですね。

 そして、最後は第二帝政期です。まずナポレオン3世はルイ=ナポレオンとして大統領に就任します(1848.12)。1851年にはクーデタで議会を解散させ、大統領任期を10年伸ばします。1852年11月には、人民投票で、晴れてナポレオン3世として第二帝政を迎えるといった具合です。内政ではパリ万博を開いてパリの知名度を上げ、公共事業を促進させて労働条件を改善させようとします。よく出題されるのが外政で、クリミア戦争、アロー戦争、インドシナ出兵、イタリア統一戦争、メキシコ出兵、普仏戦争の六大戦争に介入します。普仏戦争でビスマルクに負けたナポレオン3世は、フランスのセダン(新課程用語集では"スダン"表記)で捕虜となり、第二帝政はこれにてTHE ENDです。

 第三共和政の黎明期はVol.105でお話しする予定です。パリ=コミューンの壮絶な歴史が登場しますので、ご期待下さい。

※次回は5月中旬に更新の予定です。次はかなり時代が飛びますので、これもご期待下さいV(^_^)

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