世界史の目−Vol.103−

ギリシアの覇者

 アケメネス朝ペルシア(B.C.550-B.C.330)との大戦争で(ペルシア戦争。B.C.500−B.C.449)で歴史的勝利を収めたギリシア・イオニア人のポリス・アテネアテナイ。拠点は中部ギリシア東部のアッティカ)は、プラタイアでの勝利(B.C.479)で勝利を確信し、ペルシアの報復に備え、B.C.477年、エーゲ海周辺の数百のポリスを集めて、デロス同盟を設立、防衛政策を徹底した。これにより、同盟資金が加盟ポリスから得られ、盟主アテネ・ポリスは支配力を高め、ペルシア戦争終了後も同盟を解散させず、"アテネ帝国"と呼ばれるポリス体制を形成していった。

 ポリスはB.C.8C頃、ギリシア本土や小アジア西岸に作られ始めた。それぞれのポリスは、神殿の丘・アクロポリスを信仰の場とし、ふもとの公共広場・アゴラを政治・経済・文化の活動の場とした。また城壁の外部に果樹園・耕地などの田園地帯があった。
 国家形成の中心は市民男子によって為された。ポリスは貴族階級と平民階級があったが、奴隷以外は自由民であった。市民は私有地(クレーロス)を持ち、奴隷を所有して労働を行わせた。アテネでは、散在していた村落を貴族の支配下にいれるため彼らを移住(シノイキスモス集住)させた国家である。

 ギリシアや小アジアで数多く作られたポリスは、独立国家であり、また連帯した市民共同体であるという認識があり、共通の民族意識・宗教意識を持ち、守護神を祀って、他のポリスと戦った。そして、みずからをヘレネス、他民族をバルバロイと呼び、自身の国土をヘラスと呼んだ。オリンポス12神に代表される神話やホメロス(B.C.8C頃)の叙事詩が語り継がれ、デルフィ(デルフォイ。中部ギリシア)のアポロン神託オリンピア(ペロポネソス半島北西部。ゼウス神の神殿がある)の競技と祭典(大会中はポリス同士の戦争を休止)、隣保同盟(ポリス間の宗教的同盟。神殿と祭礼を共通化)といった共通のならわしがあった。

 アテネは、こうした数多くのポリスの中で、歴史的な頂点に立つことができたが、ペルシア戦争の時、三段櫂船の漕ぎ手を務め、勝利に貢献した下層無産市民の発言権が増大化した。貴族でも、上層貴族や有産市民らによる貴族政治を維持しようとする保守派や寡頭派と、参政権を持つ市民を中心に民主政を主張する民主派に分かれていた。そこで登場したのが、民主派のペリクレス(B.C.495?-B.C.429)である。
 ペリクレスは母がクレイステネス(生没年不明。B.C.6C末)の姪であり、富裕の名門出身であったが、父が民主派の政治家であったことから、当初から民主主義の実現を目指そうとしていた。クレイステネス自身も、貴族政の不信から僭主(せんしゅ)が生まれ、恐怖政治が生まれることに悩み、さまざまな貴族政の改革を断行した人物であり、中でも陶片追放政策は有名である。ペリクレスは、クレイステネスが行った改革の正統性が民主政の基礎であると確信し、また同世代の哲学者アナクサゴラス(B.C.500?-B.C.428?)からも感化されて、市民の政治参加を主張した。
 B.C.463年、保守・寡頭派の代表者キモン(B.C.510?-B.C.451?)を弾劾したペリクレスは、美しい容姿と巧みな雄弁も幸いして、市民に激励された。翌年、彼の不在に乗じて、ペリクレスは民主派の同志エフィアルテス(?-B.C.461)を軸にクーデタを計画、アレオパゴス評議会(貴族政以来の保守派の牙城)を攻撃し、評議権を剥奪させて会議の権限を弱らせ、国家運営の中心を民会500人評議会(クレイステネス改革で改編。地域10部族からそれぞれ50人を選出する評議会)、民衆法廷(市民の裁判所)に移した(エフィアルテスの改革。B.C.462)。翌B.C.461年、キモンを陶片追放したが、エフィアルテスが暗殺されたため、民主派はペリクレスが主導することになった。民主政治はB.C.508年に最初に実現されたが、ペリクレスが先頭に立ってからは一段と加速化した。

 エフィアルテスの改革によって18歳の成年男子市民で構成される民会(立法・行政・司法の最高機関)が国政における最高議決機関となった。直接民主政で、政党はなく、役職も500人評議会の議員はくじで公平に選出され(任期1年)、アルコン(統治役職)や軍司令官も下層市民まで選べるシステムを構築した。またアテネ市民権を決める市民権法を制定し(B.C.451)、アテネのポリス的地位を高めて、デロス同盟資金をアテネに移し、それを流用して友人であり建築家のフェイディアス(B.C.490/485?-B.C.430?)を使ってパルテノン神殿(B.C.447起工。B.C.432完成)やアテナ女神像などの公共建築も統率したのもペリクレスだった。
 しかし、アテネ民主政では、女性と奴隷には参政権は与えられず、商工業に従事していた在留外人(メトイコイ)は参政権だけでなく、土地・家屋の所有権も与えられなかった。前述の市民権法においても、両親がアテネ人の場合にアテネ市民権を認めると定められた国法であることから、アテネでは、他のポリスに対して徹底した排他的民主政が行われていた。

 ペリクレスは政敵を陶片追放後、B.C.443年から実に14年連続で軍司令官に選ばれ、アテネでは文字通りの"ペリクレス時代(B.C.443-B.C.429)"が現出された。『オイディプス王』の著者として有名な悲劇詩人ソフォクレス(ソポクレス。B.C.497/496-B.C.406)は、当時の財務官(任B.C.443-B.C.442)および将軍(任B.C.441-B.C.439)を歴任している。私生活では、歴史家ヘロドトス(B.C.485/484-B.C.425?)とも交友を深めた。またペリクレスはミレトス出身で才色兼備の遊女アスパシア(生没年不明)に魅せられ、妻と離婚後、妾としたアスパシアと同居した(B.C.445?)。ペリクレスはアテネ市民からゼウス主神になぞらえて"オリュンピオス"に、アスパシアはゼウス神の妻ヘレンにそれぞれたとえられたが、前妻との間にできた2人の嫡子を、おりから流行していたペストで失うなど(後述)、家庭内では波乱であった。

 ペリクレスの台頭で、アテネ・ポリスは全盛期を迎えたが、民主政治は形式に留まり、実質はペリクレスの専政として行政が行われた。実際、デロス同盟に集まった資金は、前に述べたようにアテネ帝国のために使われたため、加盟ポリスはアテネのために資金を上納し、まるでアテネの支配下におかれた状態となっていった。事実、アテネは加盟ポリスを強制的に支配しようとしていたため、加盟ポリスはデロス同盟からの離脱を望むようになった。このため、アテネのライバルで、ペルシア戦争でアテネと共に活躍したスパルタ(公式名称ラケダイモン)が動き出すことになる。

 スパルタは、ペロポネソス半島南部のラコニア地方に侵入したドーリア人が、先住民を奴隷化させて建設したポリスで、アテネと並び広大な支配地を形成していた。征服民であるドーリア人の子孫がスパルタの完全市民であり、数は少なく、先住民や自由民を服属させた。先住民は奴隷となり、家族を持つことを許されたが、土地に定着してスパルタの国有隷農(ヘロット)として、主人に貢納を行った。自由民はペリオイコイと呼ばれ、主に商工業を営んでいたが、参政権はなく、従軍の義務が課せられた。スパルタとペリオイコイを合わせてラケダイモン人とも呼ぶ。
 また立法家リュクルゴス(生没年不明。B.C.9C頃にいたとされる人物)による改革によって、スパルタの軍国主義的な国制が定められていった。市民が共同に食事をとったり、貨幣経済の使用を厳しく禁じた。また成文法は設けず、ヘロットの耕すクレーロスは平等に分配された。また王を2名たてて半年交替で統治し、戦争が始まると王は軍司令官となって指揮・統率する。軍隊は拠点が内陸であるだけに陸軍が主流であり、厳しい軍事訓練が施された。この厳格な軍国主義的教育は"スパルタ式教育"という語として現代でも残っている。

 アテネのデロス同盟を離脱した多くのポリスを味方に付けたスパルタは、徐々に勢力を伸ばし、海軍中心のデロス同盟に対抗して、陸軍中心のペロポネソス同盟を結成した。この同盟は、アテネに挫かれたペルシアに絶賛され、支援を多大に受けた。

 またアテネやスパルタ以外にも、有力ポリス・テーベ(テーバイ)の存在もある。中部ギリシアのボイオティア地方(ギリシア東南部)のアイオリス人のポリスで、ペルシア戦争の時はペルシアを支援した。スパルタと同じく反アテネ派で、ボイオティア同盟を結成していた。

 一方、加盟ポリスが離脱する中でも、アテネはペリクレス民主政が続く限り、スパルタの台頭に動じることはなかったとされていたが、遂にB.C.431年、アテネのデロス同盟対スパルタのペロポネソス同盟における争覇戦・ペロポネソス戦争の火蓋が切って落とされ(B.C.431-B.C.404)、全ギリシアは炎上と化した。離脱ポリスがいても優勢な海軍力を誇るアテネは、ペリクレスの指示により、人命最優先を目的として、アテネ封鎖を敢行、アテネ側市民を城壁内に入れて、アテネ軍隊をペロポネソスへ派遣させた。
 しかし、予期せぬ出来事が起こった。戦争が勃発したその翌年、アテネでペストが蔓延し始めたのである。
 そんな中ペリクレスは、2人の嫡子をペストで亡くし、継承者問題に悩んでいた。というのは、妾のアスパシアとの間にできた庶子(小ペリクレス。B.C.5C初期の人)のことである。アスパシアはミレトス出身のため、小ペリクレスにはアテネ市民権が認められなかったのである。ペリクレス自身が制定した市民権法に、自身が苦しめられる悲痛さと、アテネ民主政を守りたいという誇りがペリクレスの心の中に入り乱れた。ペリクレスはアテネ市民に、小ペリクレスへ市民権賦与を認めてもらうよう、涙ながらに頼み、市民権法に背いて小ペリクレスに市民権を賦与した。こうして、アテネ内では市民の不安化が増発した。

 戦時中、ソフォクレスの『オイディプス王』が上演された。「テーベ=ポリスでペストの原因を探っていたテーベ王オイディプスは、この原因が、知らずして先王である父ライオスを殺した犯人の穢(けがれ)から来ていたことがわかり、自身の妃は、母、つまりライオスの妃であるイオカステであることに気づいた。王位に就いていたオイディプスが自信の本当の素性を知ったことに絶望して、遂には自ら両眼を失明させていく。」といった、ギリシア神話をモチーフにした悲劇であり、舞台はテーベだが、ギリシアにおける当時の危機的状況がここからも把握できる。

 ペリクレスは、ペロポネソス戦争勃発後、最初の戦没者に対する追悼の弁を演説した。
 "人の理想を追うのではなく、人をして我が模範を習わしめるものである。少数の独占者を退かせ、多数者の公平を守るのが民主政治である。個人と個人の間に紛争が起これば、定められた法律によって全国民に平等な発言が認められる......わがアテネが偉大であるがゆえにすべての土地から多くの実りがアテネにもたらされ、これと同様にすべての人々から多くの幸福が実り、味わうことができるのだ。"
 この有名な弔辞は、ペスト流行と戦争回避によるアテネ封鎖によって、誤解を招いて反ペリクレス運動がおこりはじめていた市民たちを鎮静化させるための、ペリクレスの手段であったと思われる。アテネの政体である民主政治を信ずることを貫けば、必ず国民は守られると、アテネの優位性と民主政治の信頼を国民に対し強調したのである。しかし、ペストの猛威は避けられず、戦況不利に転落、ペリクレスもペストに感染した。

 B.C.429年、ペリクレスは病没した。戦況不振のアテネでペリクレス没後に待っていたのは、民主政治が堕落した、衆愚政治の到来であった。政治家クレオン(?-B.C.422)らに代表される、自己の政権獲得のために好戦的な民衆を扇動して味方に付けるといった扇動政治家デマゴーグデマゴーゴス)が続出した。無定見なだけにデマゴーグに率いられた軍隊も次々と敗れ、クレオンもペロポネソス戦争で戦死した。結果、海軍が大壊滅となり、アテネはスパルタに敗北を喫した。いったんは和約が成立したが、その後スパルタはペルシア艦隊の支援もあって、アテネは再び攻撃を受け、サラミス以外の海外領土全てを喪失した。アテネはその後、寡頭政(少数者の政治独占状態)に陥り、ペリクレスが生前に最も嫌う政体にかわった。

 スパルタは遂にギリシアの覇者となった。しかしその強大化に脅威を感じたペルシアはスパルタを見限り、荒廃したアテネに接近するようになる。アテネの復興を手助けし、アテネには速やかに民主政治が復活した。このため、スパルタの同盟からかつてのアテネのように離脱ポリスが相次いだ。これはペルシアが陰で糸を引いていたともされている。事実、アテネや離脱したコリント=ポリスはペルシアに煽られてスパルタと戦い(コリント戦争。B.C.395-B.C.386)、スパルタはペルシアと和約し(B.C.386。"大王の和約"。またペルシア王の力を借りて条約を成立させたスパルタ軍人の名から"アンタルキダスの条約"ともいう)、小アジアのギリシア諸都市はペルシアの支配下となった。

 スパルタはその後エパミノンダス将軍(エパメイノンダス。?-B.C.362)率いるテーベ=ポリス軍に敗退(レウクトラの戦い。B.C.371)、テーベに領内を侵されて、多くのヘロットが解放された。スパルタは、ギリシアの覇者となった直後の大転落であった。テーベ・アテネもその後衰え、ギリシアでは、農業も荒廃、重装歩兵を担った中産市民も没落し、徴兵から傭兵の使用に傾いていった。民主政はすでになく、寡頭政が中心となり、富と権力をポリス間で争うような有り様で、メトイコイの不正市民登録といった市民権の無意味さ、公有地の私有地化など、共通の民族意識・共同体的性格は失われた。すべてが弱体化した上、最後はカイロネイアの戦い(B.C.338)に挑んだアテネ・テーベ軍が北のマケドニアに敗れ、遂にギリシアは他国の支配下に置かれてしまうのであった。

 連載103話目にして、ようやくギリシア・ポリスの本筋をご紹介することができました。時の偉人、ペリクレスもこの時代に登場しましたね。

 この分野では、この時代にしか登場しない多くの用語が登場します。ヘレネス、バルバロイ、ヘラス、クレーロス、ヘロット、ペリオイコイ、陶片追放、僭主、デマゴーグなど、受験には欠かさず出題される用語のオンパレードです。その中でも重要なのが、アテネとスパルタの相違点を知ることでしょう。

 まずアテネは集住によって形成されますが、スパルタは先住民を征服して形成されます。産業では、アテネは商工業中心、スパルタは農業中心です。奴隷制では、アテネは個人所有に対し、スパルタは国有化されます。軍力は、アテネは海軍、スパルタは陸軍が主力となります。そして、政体はアテネは民主政、スパルタは王政(実際は貴族政で、王政は名目的であったとされる)でした。ポリスを全体的に見てみると、政体はもともとは王政で、その後貴族政→財産政僭主政→民主政→衆愚政→寡頭政となります。また基本的にギリシアの全ポリスは共同体としての民族意識は欠けず、アクロポリスとアゴラを持ち、オリンピアの祭典を催し、デルフィの神託を行います。

 さて、今回の学習ポイントを見ていきましょう。ペリクレス時代とペロポネソス戦争は要チェックです。ペリクレスの施した民主政では成年男子市民の民会が重要ですね。女性や在留外人(メトイコイ)は参政権がありません。戦争では、アテネが負けてスパルタがギリシアを制覇します。しかしそのスパルタもテーベに負けます。ここでポリスは没落していき、最後はマケドニアにやられて、ヘレニズム時代の幕開けとなります。言うまでもありませんが、アイオリス人のポリス・テーベは、エジプト・中王国と新王国の首都テーベとは別地ですのでお間違えのないように。また本編には登場しなかったですが、ペリクレスの名言を綴り、後世に残したのはヘロドトスと並ぶアテネの大歴史家トゥキディデス(B.C.460?-B.C.400?)です。ヘロドトスが著した『歴史(ヒストリアイ)』はペルシア戦争の歴史をテーマに、史料を忠実に用いて物語風に叙述しているのに対し、トゥキディデスの『歴史(ヒストリアイ)』はペロポネソス戦争の歴史をテーマに、史料を批判して科学的に叙述しています。このトゥキディデスは、ペリクレスを偉大な人として尊び、ペリクレス時代のアテネ民主政についての評価を"名は民主主義政治、実質はペリクレスという第一人者による支配"としています。

 次回は6月中旬に更新させていただきます。

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