世界史の目−Vol.105−

パリ、血の一週間

 1870年、ナポレオン3世(位1852-70)の普仏戦争(1870.7-1871.2。プロイセン-フランス戦争)での敗北で、フランス第二帝政は崩壊した。直後の9月、パリで国民防衛政府(国防政府)が市民・労働者・ブルジョワ共和主義者によって成立、共和政を宣言した(第三共和政。1870.9-1940)。政府では将軍トロシュ(1815-96)、共和派の内相ガンベッタ(1838-82)や七月王政で首相を務めたことのあるティエール(1797-1877。旧オルレアン派)らがおり、政府はプロイセンへの抗戦継続を主張した。その後パリはプロイセン軍に包囲され、ガンベッタは気球で包囲網から脱出、地方から国民軍を組織して抵抗した。

 しかしプロイセンのビスマルク(1815-98)の手で完成されたドイツ統一ドイツ帝国成立の宣言(1871.1.18)を、フランスのヴェルサイユ宮殿鏡の間で行われたことで、敗色濃厚となったフランス国防政府は、1月末、独仏休戦協定を受け容れ、事実上の降伏を決意した。休戦条約による総選挙後、ボルドーで国民議会が成立、2月、ティエールが政権を掌握する行政長官に任命され、臨時政府が樹立された(ティエール政権。1871.2)。その後、フランスの鉱産資源の宝庫であったアルザス・ロレーヌの割譲と、50億フランの賠償金支払いと合わせて、ドイツと合意、5月のフランクフルト講和条約で正式に決定された。

 実は、七月王政下の1839年に、革命家で社会主義者のルイ=オーギュスト=ブランキ(1805-1881)が結成した"四季の会"による襲撃事件があった(暴力革命)。ブランキは七月革命にも参加して勲章を受けたこともあったが、徐々に左傾化して数回投獄され、次第に、暴力の徹底と、労働者保護による社会主義化・プロレタリア独裁を目指してきた人物であった。彼の一派は少数派であったが、ブランキストと呼ばれた武力団体で、行動理論はブランキズムと呼ばれ、マルクス主義者たちには反感を買われながらも、革命実現を信じて、政府に真っ向から勝負を挑んだ、39年の革命は失敗し、"四季の会"は解散、彼も投獄されたが、二月革命期においても、ルイ=ブラン( 1811-82)による政府の社会主義的政策が施されたものの、完全ではないとのブランキの見方から、国会へ乱入、暴動を起こした(五月暴動。この1ヶ月後に六月暴動が起こる)。これも失敗して懲役10年の判決後、アフリカへ追放された。帰国後もナポレオン3世の第二帝政に睨まれて投獄され、帝政崩壊後の1870年においても武力行動をおこしたが、ここでも失敗し、逮捕・投獄されている。
 こうしたブランキの行動において、パリ市民の一部には、徐々ではあるがブランキズムの存在が脳裏に焼き付くようになっていった。市民全体がブランキのシンパサイザーではなく、また純粋なブランキズムではないにせよ、これまで数々の革命において、下層市民の味方となって立ち上がった彼の姿は、たちまち市民の記憶に留まっていき、そして下層市民らによる国政改革の意識が芽生え始めたのである。
 これが決定的となったのは、ティエール政権による、国民軍への制裁である。1871年3月18日未明、ティエールはパリ市民の自治体(コミューン)による反発を防ぐため、国民軍の武装解除を目的として、モンマルトルとペルビルにある国民軍の中央委員会の大砲を奪取する作戦を政府軍に発した。

 和平交渉をドイツと行ったティエール政権に対し、パリ市民は落胆を隠せない上での追い打ちであった。ドイツ軍に包囲されたパリで、食糧不足が深刻な中、国民軍は市民のたった1つの拠り所であったため、政府の国民軍解散命令は、パリ市民の無念、失望、そして怒りを引き起こし、革命熱は頂点に達したのであった。

 18日、パリ市民は、コミューンの直接民主政を掲げて、政府軍に対して各地区で武装蜂起し、指揮官を虐殺するなどの行為に出た。できたばかりの政府が統轄する軍隊であるだけに、統治能力も結成当初から不安定だった政府軍は次々と敗退、ティエールは遂に臨時政府と政府軍に対し、ヴェルサイユへ撤退を命じ、パリを離れた。18日夜には、国民軍中央委員会による、パリ市民による自治政府・パリ=コミューンが誕生した。

 その後、パリ市民による選挙が行われ、1871年3月28日、パリ=コミューンの成立がパリ市庁舎のバルコニーから宣言された。世界史上初の、労働者階級を中心とする中小市民層の自治政府である。『オルナンの食後』『石割り』などで知られるパリの写実派画家、クールベ(1819-77)もパリ=コミューンの議員として選ばれている。
 コミューンでは、全役職直接選挙案、議決公開案、女性参政権案、児童の夜間労働禁止案、汚職死刑案、政教分離案、共和暦導入案といった、当時としては斬新な法案が次々と出された。

 ヴェルサイユに政局を移したティエール政権は、ドイツに支援を受けることになり、再度パリ=コミューン制圧に乗り出すことになった。5月21日、政府軍がパリ入城、コミューン軍との壮絶な戦闘が始まった。コミューン軍は善戦したが、結果、5月28日のペール=ラシェーズ墓地での抗戦を最後にコミューン軍はねじ伏せられた。セーヌ川の水が、血で赤く染まるほど、多くのパリ市民とコミューン関係者が虐殺され、4万人の逮捕と300名近くの処刑が行われた("血の一週間")。クールベも逮捕され、巨額の罰金後、スイスへ亡命した。

 パリ=コミューンを圧殺したティエールは、ブルジョワ共和派として、第三共和政の初代大統領に選出され(1871.8。任1871-73)、本格的な第三共和政がスタートした。しかし、王党派や極左共和派からの反発が激しく、1873年の国民議会でティエールは解任させられ、1877年9月に没した。ティエールの後大統領となったマクマオン(任1873-79)は、1875年第三共和政憲法を制定した。

 ドイツのカール=マルクス(1818-1913。哲学者・経済学者・社会主義者として有名)は、『フランスの内乱』を著し、パリ=コミューンを支持、"血の一週間"で虐殺されたコミューン参加者の名誉を主張した。またマルクスは、労働者階級のために国家的コミューンは存在するのであり、プロレタリアートの革命でこそ社会主義が実現するものであるとも説いている。これにより、パリ=コミューンは後の社会主義(共産主義)の布石となった事件であると言える。

 本日は「Vol.102"ルイ"の改革」の続編にあたる部分で、また「Vol.37 第三共和政の悪夢」の直前のお話です。「Vol.37」でも本編のパリ=コミューンやティエールなどは登場しましたが、ここでようやく主役となりました。

 本編は、第二帝政が倒れて第三共和政が立ち上がるものの、これに不満なパリ市民が自治組織(コミューン)を立ち上げて抵抗するという内容です。覚える用語は国防政府、臨時政府、ティエール、パリ=コミューン、第三共和政憲法ぐらいで良いと思いますし、年代は第三共和政が立ち上がった1870年、ティエールの臨時政府ができた翌1871年、パリ=コミューンがおこった同1871年、第三共和政憲法の1875年ぐらいですかね。ブランキはなかなか興味深いのですが、出題されたことはありませんし、ガンベッタが気球に乗ってパリを脱出したという逸話も面白いのですが、残念ながら出題されるどころか、用語集にも載っていません。あと、クールベという画家も登場しました。政治運動とかみ合ってできた写実主義絵画の代表で、他にはドーミエ(フランス。1808-79)、レーピン(ロシア。1844-1930)などがいますが、試験に出るのはクールベぐらいで、自然主義のミレー(フランス。1814-75。『落穂拾い』『晩鐘』)らと合わせて出題されることがありますね。

 ちなみにフランス第四共和政は第二次世界大戦後の1946年から1958年まで、ド=ゴール(1890-1970)の政権復帰(大統領任1959-69)で始まる第五共和政は1958年から現在に至っています。ド=ゴールのあと、大統領はポンピドゥー(任1969-74)→ジスカール=デスタン(任1974-81)→ミッテラン(任1981-95)→シラク(任1995-2007)そして現在のサルコジ(任2007.5- )と続きます。ポンピドゥー以外は新課程用語集に出ておりますし、ミッテランとシラクは基礎知識として知っておきましょうね。

 次回の更新は7月中旬です。

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