世界史の目−Vol.107−

帝国主義の波−列強の中比進出−

 日清戦争(1894-95)で大敗北を喫した朝(しん。1616-1912)は下関条約(日清講和条約。1895)によって領土割譲・多額な賠償金支払を命じられた。清朝は、これまでヨーロッパ側からは"スリーピング・ライオン(眠れる獅子)"と呼ばれており、力があるものの実体を示さない東の大国であるとして怖れられていたが、小国日本に惨敗したことは、王朝の無力化・弱体化が露呈されたのも同然であった。これにより、日本と欧米列強の中国進出が激化することとなる。

 清朝は、賠償金支払いの手段として、借款(しゃっかん。外国政府から資本を借りること)を行い、その支払保証に鉄道敷設権鉱山採掘権租借権の提供を行うことを決めた。これらは、帝国主義を推進する列強にとって、またとない利権であり、1890年代後半より、列国は、勢力拡張の糸口を中国に向けて、激しい利権獲得合戦を展開していくことになる。特に租借地(租界。租借期間中は、租借国が全権を掌握し、事実上の領土割譲状態)の激しい争奪は、中国の半植民地化が進んでいく(中国分割)。

 1891年からシベリア鉄道の工事を始めたロシアは、極東の南進策を練っていたが、下関条約で日本が、敗戦国・清朝から遼東半島(りょうとう)を割譲したことによって挫折状態になっていた。遼東半島をロシアが手にすれば、日本の極東進出を妨げられ、また東清鉄道の敷設権を獲得でき、不凍港である旅順・大連(りょじゅん・たいれん。遼東半島南部)を獲得できるという画策であった。東清鉄道とは、中国東北地方の満州を走る鉄道で、ロシア国境の満州里(マンチョウリ)から、ウスリー川以東の沿海州(シベリア東南部、日本海に臨む。1860年の北京条約以降、ロシア領)にある港市ウラジヴォストークに至り、ハルビンから旅順・大連の支線が接続されていた。ロシアは、当時露仏同盟を結んでいた相手のフランスと、同じく新航路政策を推進しようとする皇帝ヴィルヘルム2世(位1888-1918)率いるドイツを誘い、日本に遼東半島返還を強要し、これを中国に返還させた(1895三国干渉)。

 ロシアは遼東半島を返還させた代償を清朝に迫り、東清鉄道敷設権を獲得した(1896)。さらに1898年、今度はドイツが宣教師殺害事件を口実に膠州湾(こうしゅう。山東半島南西岸)の租借権を、またそれに続いて、同年ロシアも旅順・大連の租借権を獲得した。ロシアは、東方問題(Vol.86,87,88)の時代に獲得できなかった不凍港を、極東の地において獲得、悲願を達成したのであった。しかし、ロシアの朝鮮半島接近で日本は警戒を強め、日露間の緊張が走っていった。同じく日英同盟を結んでいたイギリスも、北京と奉天(ほうてん。南満州)を結ぶ京奉鉄道(けいほう)の敷設を進めていたため、ロシアへの対抗心を強め、同1898年、東洋艦隊の基地として威海衛(いかいえい。山東半島北東岸の海港)と香港島対岸の九竜半島(クーロン)を租借した。九竜半島は付属の33島とともに(新界という)とよび、期限99ヵ年で租借された。フランスも広東省の広州湾を同1898年に租借した。

 また列国は、特定地域を他国に割譲しないことを清朝政府に宣言させた(不割譲条約)。ロシアは東北地方、ドイツは山東半島、イギリスは広東南部・長江流域、そしてチベット方面、フランスは華南の広東西部と広西地方、日本は下関条約で得た台湾澎湖諸島(ほうこ。台湾西)の対岸にあたる福建地方というように、利権の優先権を清朝政府に認めさせ、勢力圏を定めていった。こうして日本とヨーロッパ帝国主義列強は中国大陸を思うように貪っていった。

 一方で、中国と同様、19世紀末に激動の時代を現出したフィリピンも、帝国主義の波に呑まれることになる。

 スペインから独立をはかるフィリピンでは、海外留学からの帰国者らによる啓蒙改革が進んでいたが(フィリピン独立運動)、当初からスペインの圧政を暴露していた中心人物ホセ=リサール(1861-96)は1892年、フィリピン民族同盟を結成した。しかしリサールは流刑の身となり、運動は武力組織化していった。その代表となるのががマニラで結成された急進的民族同盟・カティプーナンである。マニラ近郊カビテ州の町長アギナルド(1869-1964)も秘密結社カティプーナンに加入後、決起に参加(1896)、8月、独立宣言を行った(フィリピン革命。リサールはカティプーナンの反乱を口実に処刑されている)。翌1897年、カティプーナン内では分裂が起こり、アギナルドは幹部となってフィリピン初代大統領に就任した。しかしスペインと妥協的な休戦協定を結んだことで、革命は頓挫した結果となり、アギナルドは国外へ亡命した。このフィリピンに着目したのがアメリカ合衆国であった。

 アメリカはマッキンリー大統領(任1897-1901。共和党)のもとで帝国主義政策を行っていた。スペインに対するキューバの独立運動を好機とみたアメリカはメイン号爆沈事件(1898.2)を口実に米西戦争(アメリカ−スペイン戦争。1898)を起こし、キューバを保護下においてグアム島プエルトリコを領有し、ハワイを併合した。

 アギナルドはアメリカの援助により、米西戦争中、フィリピンに帰国していた。彼は米軍を助けてスペインからの解放と完全独立に期待していた。翌1899年1月、アギナルドはフィリピン共和国の発足を宣言し、マロロスで憲法を発布(このためマロロス共和国とも呼ばれた)、アギナルドは再度大統領に就任した。しかし実は、前1898年末、アメリカは米西戦争終結条約をパリで行い(パリ条約)、フィリピンのアメリカ譲渡が決定されていたため、アメリカはアギナルドの独立宣言を撤回させようとした。裏切られたアギナルドは反米武力闘争を起こし(1899)、その結果彼は1901年に捕らえられ、フィリピンは敗戦してアメリカの領有を認めさせられる結末となった。

 アメリカはもともとパン=アメリカ主義という、ヨーロッパの中南米干渉に対抗して、中南米団結と協力を主張していたが、帝国主義推進策として、アメリカの指導下に中南米諸国をおくという意味を持たせるようになった(1889年のパン=アメリカ会議が最初)。パン=アメリカ主義の立場においたアメリカはその後、ヨーロッパ列強を震撼させる大胆な中南米諸国の干渉を行った(カリブ海政策)。特にセオドア=ローズヴェルト大統領(任1901-09。共和党)の時は棍棒(こんぼう)外交と呼ばれ、ある時はベネズエラ干渉(イギリス・ドイツ・イタリアの封鎖にアメリカが干渉。1902)の調停者として、ある時はスペイン領から独立したドミニカを保護国化(1905)、そしてまたある時はコロンビアからパナマを独立させ(1903)、その租借権を得てパナマ運河(1904年着工。1914年開通)を開通させるなど、アメリカの圧力を見せつけた。これにより、アメリカはヨーロッパ以上の強さを知らしめたのであるが、原点は、まさしく米西戦争勝利後のアメリカ帝国主義政策、つまり、グアム・プエルトリコ・ハワイ・フィリピンの領有であった。モンロー主義に始まる孤立主義を貫いていたアメリカのこうした積極外交は、ヨーロッパ列強を脅かした。

 このアメリカが、遂に本格的な中国政策にとりかかったのである。米西戦争勝利後にフィリピンとグアムを獲得したことによって、極東進出を決めたアメリカは、国務長官ジョン=ヘイ(1838-1905。任1898-1905)のもとで、中国分割を行うヨーロッパ列強に対し、門戸開放機会均等を提唱した(1899)。これは、諸外国に対して、中国市場の門戸は均等に開かれるべきであることを宣言したものである。翌1900年もヘイ国務長官は中国の主権尊重と領土保全を提唱し、中国分割に先んじたヨーロッパ列強を牽制しながら、アメリカも介入しようとしたのである。この門戸開放・機会均等・領土保全の3原則は、"ヘイの門戸開放宣言"と呼ばれる。中国分割に遅れをとったアメリカの巧妙な手段であった。
 ヨーロッパ列強はこの宣言に同意して、中国分割政策を緩和させていった。そして、期待通り、アメリカの資本は中国市場へ進出していったのであった。

 中国分割はかねてから多くの分野で取り上げて参りましたが、メインで紹介するのは初めてです。単純にご紹介するより切り口をかえて、フィリピン進出を中心としたアメリカ帝国主義政策と結びつけてご紹介致しました。少々強引な結びつけだったかも知れませんがm(_ _)m

 中国分割はだいたい1898年あたりであることを注意しておきましょう。同時にアフリカ分割もあった頃で、ファショダ事件は1898年の出来事です。その間、アメリカは米西戦争でスペインと戦っていました。中国分割の対象となった利権は、鉄道敷設権、鉱山採掘権、そして領土の租借です。よく出題されるのが鉄道敷設権と租借地で、前者は、ロシアの東清鉄道の獲得に至る経緯、後者は、ロシア(旅順・大連)、ドイツ(膠州湾)、イギリス(九竜半島と威海衛)、フランス(広州湾)のそれぞれの租借内容を知っておきましょう。教科書や参考書には、必ずといって良いほど租借の地図が描かれていますので、場所も確認しておきましょう。そして、アメリカ国務長官ジョン=ヘイの門戸開放宣言の"門戸開放・機会均等・領土保全"の3原則も要チェックです。

 フィリピン関連ではホセ=リサールとアギナルドの名前は大事です。フィリピン民族同盟を結成したのがリサール、独立を宣言したのがアギナルドです。カティプーナンという用語も登場しましたが、いちおう新旧両課程の用語集には記載されていますので、余裕があれば覚えておきましょう。

 最後にアメリカ関係ですが、米西戦争はマッキンリー政権のときの戦争で、終戦後、キューバはアメリカの保護下において独立、フィリピン・グァム・プエルトリコを獲得しました。そしてハワイ王国も併合されます。すべて1898年の出来事です。その後のカリブ海政策は、セオドア=ローズヴェルト政権による棍棒外交が中心となります。中でもパナマ運河開通は重要項目です。ちなみにセオドア=ローズヴェルト大統領は国内改革も積極的でした。国内は"革新主義(進歩主義。プログレッシヴィニズム)"の運動があり、帝国主義進展によって独占資本が膨大化し、資本主義経済に弊害が生じたため、中産階級を中心に独占の規制や自由競争の復活を訴えていたところで、ローズヴェルト大統領もこの革新主義推進策を掲げ、トラスト(企業合同)の抑制、労働者保護などを行いました。1913年に就任したウィルソン大統領(任1913-21。民主党)も"新しい自由(新自由主義)"と題して反トラスト法を制定するなど様々な政策を行っています。

世界史の目に戻る
参考文献

Copyright (C) KOBE MANTOMAN SHIDOU SENMON GAKUIN All Rights Reserved.