世界史の目−Vol.109−

楊広の功罪

 中国の南北朝時代(439-589)、北朝の北周王朝(ほくしゅう。556-581)の外戚だった楊堅(ようけん。541-604)は、7歳の静帝(せいてい。位580-581)の摂政となった。楊堅の父は北周を建設した宇文一族(うぶん)に協力して最高官職を手にした人物であり、文武両道を兼ね備えた人物であった。このため、楊堅も父に倣い、非凡な資質を見せ始め、やがて世襲により父と同地位にいたった。さらに長女が前帝の妃となったことで皇室外戚となり、やがて静帝の摂政にまで昇りつめたのである。

 しかし勢力を上げて台頭する楊堅に対し、宇文一族を中心とする保守派たちは彼を警戒し始め、王位簒奪の危機感を募らせた。やがて一部の保守派重臣たちが反乱を起こし、楊堅排斥を訴えたが、武力では楊堅が格段に上であった。結果、楊堅は反対派を鎮圧、581年、静帝に迫って禅譲(ぜんじょう)に成功、北周は滅亡した(581)。そして、その直後に楊堅は皇帝に即位し(位581-604)、隋王朝を創始した(ずい。581-618)。

 北周をおこした宇文一族とは鮮卑系(せんぴ。五胡の1つ)である。楊堅の母親は鮮卑の貴族出身、功臣だった楊一族は漢族出身であった。よって楊堅は混血児であったが、彼は異民族を取り締まって漢民族における中国大陸統一王朝の復活を目指した。後漢(ごかん。25-220)が滅んで以来、内紛や、異民族の内地侵入が繰り返され、楊堅は廃れかけていた漢民族の中央集権国家体制を再び甦らせようとしたのである。このため、楊堅は隋王朝の創始後に、静帝をはじめ宇文一族を皆殺しにしたとされている。
 583年、楊堅は前漢(ぜんかん。B.C.202-A.D.8)の都だった長安(ちょうあん)に大興城(だいこうじょう)を築き、ここを首都とした。そして589年、南朝の最後・王朝(ちん。557-589)を滅ぼして南北朝を合体、中国統一を成し遂げたのである。約370年ぶりの統一王朝の誕生であった。

 楊堅はさっそく漢民族中心の中央集権国家体制を計画した。北周の官制を廃止し、後の王朝(とう。618-907)で発展される三省六部の基礎をきずき、郡を廃して州県制を取り入れた。税制では均田制(きんでんせい。582)や租庸調制(そようちょうせい。582)、兵制では府兵制(ふへいせい。590)など、建国以前から行われていた伝統制度をさらに整備して打ち立てた。また、王朝(ぎ。220-265)の時代から行われてきた官吏任用制度である九品中正法(きゅうひんちゅうせい。九品官人法)を598年廃止し、学科試験で選択推挙できる科挙制(かきょ)も導入した。また、モンゴル高原からおこって強大化したトルコ系民族の突厥(とっけつ。552-744)や朝鮮・高句麗(こうくり。コグリョ。?-668)への討伐準備を始めるなど、外政も充実させた。楊堅の功績は"開皇の治"と称され、国力は上昇していった。

 楊堅は非常に奢侈を嫌い、非常に質素な生活だったとされている。よって人民に大きな負担をもたらすことなく、自ら為政に励んだことで信奉を集めたが、その一方で感情の起伏も激しく、強い猜疑心ものぞかせて、一族・高官・将軍らを手厳しく取締り、しばしば血の雨を降らせた。
 楊堅には長男楊勇(ようゆう。?-604)・次男楊広(ようこう。569-618)ら、5人の子を擁した。楊勇は長男であるがゆえに、当初は帝位継承者と定められていた。しかし楊勇は非常に奢侈を好む人物であった。このため、節倹を第一とする父楊堅には嫌われていた。

 楊広は、幼少の頃から容姿が美しく、また賢明であったとされる。彼は父楊堅が皇帝となった直後に北方の晋(しん)を封じられ、父母の寵愛をうけながら軍の総指揮官の職を与えられて江南にも進出、陳軍討伐の最高責任者として南北朝合体に一役買った。質素な父帝の治世では、父に倣って地味に装っていた楊広だったが、陳王朝滅亡後に長江下流の揚州(ようしゅう)に駐屯してからというものの、そこで味わった華やかな六朝文化(りくちょうぶんか。詩・書・画が発達。清談の流行)に溺れるようになってしまった。実際の楊広は、兄と同じか、兄以上に贅沢を好む人物であった。
 当時は楊勇が帝位継承者であったが、楊広も帝位の座を捨ててはいなかった。父楊堅は一族には一際厳しかったため、兄楊勇が奢侈に耽って父に嫌われているのを好機とみて、楊広自身、父には決して贅沢を施す姿を見せず、質素倹約を装うという優等生姿を振る舞い、父に逆らわず節倹を主とした諸政策を施していた。結果は楊広の思惑通りとなり、楊堅は長男楊勇を見限り、質素を好んだ次男楊広を帝位後継者と改め、楊勇を皇太子の地位から廃したのである(600)。楊広の謀略は、近臣の楊素(ようそ。?-606)の働きかけが効き目を為した。楊素は楊広が晋王に就いてから、彼の補佐役であり、楊広と陳討伐で功のあった人物である。当然楊堅は、楊素が南北統一の功労者であり、何事も質素に活動する楊広の側近として信頼を受けていた。楊広はこれにつけ込み、楊素を使って、皇太子楊勇が派手好きで贅沢三昧であるため、楊勇を廃して楊広を太子に定めるよう、楊堅に薦めていた。楊勇は楊素の讒言によって、太子を降ろされたことになる。翌601年、楊素は軍の指揮官を務め、突厥軍討伐などでさらに功を上げ、ますます楊堅の信頼を高めた。

 604年楊堅が没した。諡(おくりな。死後に贈る称号)に"文帝(ぶんてい)"が与えられた。一説によると、文帝が楊広の実体を知り、楊広を廃嫡して長男・楊勇を再び太子としたため、楊広は密議後、楊素らをつかって毒殺させたとされている。楊広は、父の遺詔を捏造し、楊勇をはじめ弟たちを殺害して帝位に就いた(位604-618)。楊素はその後、即位したばかりの楊広に疎まれて失脚させられ、失意のうちに没した(606)。

 帝位に就くやいなや、楊広はこれまでの"芝居"を捨て、本来の派手で贅沢な姿を公然と現した。そして父の時代から行われていた政策を大々的に行ったのである。まず大興城の建設に10万人を動員する一方、繁華な六朝分化を華北にもたらすため、東都として洛陽を造営、全国の富豪を移住させ、また200万の人民を動員させて華麗な宮殿を造営した。また文帝が地道に造り上げた黄河と長安間の運河・広通渠(こうつうきょ。584年開通)と、大陸中部の淮河(わいが。淮水)と長江間を結ぶ運河・山陽瀆(さんようとく。587年開通)をさらに発展させ、全1500キロメートルに及ぶ大運河の建設を始めた。洛陽の宮廷庭園に飾る珍木や奇岩奇石を船で搬送するという動機から始まったこの計画は、100万の男女を動員させ、605年に通済渠(つうさいきょ。黄河と淮河間)、608年に永済渠(えいさいきょ。黄河と天津間)、610年江南河(こうなんが。長江と杭州間)を開通させ、華北と江南を結ばせたのである。竣工後、楊広は4階建ての竜舟にのり、十数万人の文官や武官を引き連れて、数千隻の舟に乗せて、揚州行幸を行った。

 苛酷な労働に耐えきれない人民は不満が高まったが、これが極度に達したのが、版図拡大を狙った無謀な対外遠征である。北の突厥に備えて長城を修築、また青海地方(中国西北部)には鮮卑の血を引く吐谷渾国(とよくこん。4-7C)を圧して同地方を併合し、他、ヴェトナム南部の林邑(りんゆう。チャンパー。2-17C)、さらには流求(りゅうきゅう。"琉球"の古名だが、該当地は必ずしも"沖縄"ではなく、"台湾"の可能性もある。「"琉球"="沖縄"」が定着したのは明代から)などを討った。これにより版図は拡大した。
 また隋王朝は、倭国(わ。日本。推古天皇。位592-628。すいこ)に対しても積極的な入貢を求めていた。文帝時代の600年に第1回遣隋使が派遣、2回目は607年の煬帝の時期であり、遣隋使は小野妹子(おののいもこ。生没年不詳)であった(妹子が「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」と書き出された国書を携え、対等外交の要求を迫り、楊広の不興を買った話は有名)。

 楊広における対外遠征は、遠征費の逼迫も気にせず、その後も続けられたが、高句麗遠征は百万の大軍をあげ、3度行いながらもすべて失敗(611,612,614)、王朝の威信が失墜した。軍需品や食糧の輸送で多大な人民を徴発したことで、農民の不満は絶頂に達した。これにより各地で群雄が反乱を起こし、各地の隋の地方官が虐殺された。反乱軍の中にはに王朝を建国する李淵(りえん。565-635。のち唐の高祖。こうそ。位618-626)もいた。楊広は大興城を捨て、末子である楊杲(ようこう。605-618)と難を逃れて、江南の揚州に向かった。

 揚州に定着してからの楊広は、かつて六朝文化に明け暮れた日々を思い出すかのように贅沢を極め、隋王朝の行政を完全に見捨てた。しかし大興城では孫の楊侑(ようゆう。605-619)が恭帝(位617-618)となって即位したが、これは楊広が譲位したのではなく、李淵が自身への禅譲を目的に、長安で擁立したのであった。この時点で、大興城(長安)や東都の洛陽は陥落状態であった。

 楊広は首都陥落にも目を向けず、首都への郷愁にかられた廷臣や近衛兵らを無視しながら、遊楽に耽っていた。長安出身で近衛兵の隊長・宇文化及(うぶんかきゅう。宇文一族とは無関係。?-619)は、かつて父が楊広によって高句麗遠征の総司令官に抜擢されており、自身も楊広により官職を与えられたりして可愛がられていた人物であったが、大興城に帰ることもなく、ただ遊び呆ける帝の姿を見て、618年3月、遂に楊広を見限る決心をした。兵士を使って揚州の宮中に押しかけ、まず13歳の子・楊杲を惨殺した。子の返り血を浴びた楊広は、無念から自身の帯を兵士に渡し、その帯で絞殺された。恭帝から禅譲を迫り、帝位についた李淵は、唐王朝を建て、隋王朝は滅んだ。14歳の恭帝も、李淵の子李世民(りせいみん。598-649。のち唐の太宗。たいそう。位626-649)の手にかかって殺害された。

 没した楊広は、諡を「明帝」とされたが、唐では明帝にかわって「煬帝(ようだい)」が贈られた。これには"礼を避け衆を遠ざけ、天に逆らい民を虐げる"の意味があり、2代で隋王朝を滅ぼした暴君・悪名として定着させられたが、これは、首都および大運河建設などによる民衆の負担やこれに伴う王室への不満憎悪、また高句麗遠征の失敗とそれに続く各地の反乱、晩年の帝の責務放棄などから来るものであり、さらには兄楊勇失脚や父・楊堅の殺害への関与説なども加えると歴然である。しかし大運河は煬帝の個人的な動機で建設されたにせよ、煬帝は分裂傾向だった中国大陸内を南北に結び、商業の発展と、その後の統一王朝の価値観を高めた功労者としても評価できる。文帝時代、南北朝の統一において陳朝を討ったのは紛れもなく帝に就く前の楊広であり、結果は文帝の手柄となるものの、ここに漢王朝以来の統一王朝をもたらした功績も大きい。同じく統一王朝を初めて具現化した秦(しん。B.C.8C-B.C.206)の始皇帝(しこうてい。位B.C.247-B.C.210)と同様、あまりにも大きい"功"と"罪"の持ち主であった。

 例の如く、中国史は長くなりますが、楊堅と楊広親子のことを書くだけでここまで長くなるとは思いませんでしたね。隋王朝は統治期間が短いながらも、世界史だけでなく日本史としても非常に重要ですし、小中学生の社会においても頻出事項ですから、避けては通れない分野です。
 今回は楊父子、特に子の楊広(煬帝)をクローズアップしましたが、秦の始皇帝と同様、当時は暴君として悪名高き人物であったにせよ、後世には歴史にその名を轟かす"名君"としても捉えられることもあって、多面的評価でもって位置づけられています。

 さて、学習ポイントです。文帝は楊堅の名前も覚える必要がありますが、煬帝は楊広の名前までは覚えなくても良いと思います。隋の建国年(581)・統一年(589)・滅亡年(618)は覚えましょう("ハイ益いっぱい隋文帝"の覚え方があります)。統一のときは南朝の陳を征服したこと、首都は大興城で、長安と同じであることも大事です。文帝時代では、北魏王朝(ほくぎ。386-439-534)時代に制定された均田制、北朝の西魏王朝(せいぎ。535-556)や北周王朝時代にも使われた府兵制の使用、また租庸調制度の導入、官吏任用は九品中正をやめて施行された科挙制などが出題されます。煬帝時代では、大運河建設、東突厥を服属したこと、高句麗遠征は3回とも失敗したことを知っておきましょう。

 ついでに突厥の内容も知っておきましょう。突厥はトルコ系の遊牧騎馬民族で、ササン朝ペルシア(226-551)と協力してエフタル(イラン系?)を滅ぼしたり、モンゴル系の柔然(じゅうぜん、5-6C)を滅ぼしたりなどして勢力を上げたのですが、6C末に文帝の離間策や内紛などで東西分裂東突厥 583-744。西突厥 583-7C末)します。その後東突厥は隋・唐に降り、744年にウイグルによって滅ぼされます。西突厥は内紛や唐の侵入などで7世紀末に滅んでいます。

(注)UNICODEを対応していないブラウザでは、漢字によっては"?"の表示がされます。山陽"瀆"→さんずいに賣

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