世界史の目−Vol.111−

帝国分裂〜西ローマ帝国の滅亡〜

 3世紀のローマ帝国(B.C.27-A.D.395)は軍人皇帝時代(235-284)と呼ばれ、専横化した各属州の軍隊が皇帝を擁立して争っていた。軍人皇帝の統一策は無定見であり、富裕層からは土地を没収し、軍人たちを昇級させた。また軍事力偏重により、一方ではパルティアとの戦いに明け暮れ、一方ではゲルマン人の侵入に悩まされた。政治・経済・軍事・社会すべてにおいて、不安定な時代であった。
 また奴隷制度に基づくラティフンディア経営にも変化が生じた。帝政になって以降、奴隷人口が減少しつつあったローマでは、奴隷を使用する非効率的な経営が見直され、徐々に奴隷は解放されていき、解放された奴隷の中には平民の地位まで向上する者も出た。よって労働力は何も奴隷だけに限ることはなくなり、自由農民によっても補えた。やがて、解放奴隷や自由農民たちを、コロヌスと呼ばれる小作人として大農地労働につかせた。コロヌスは土地とともに売買され、地主に隷属する身分であり、ここにコロナートゥス制度が確立、農奴制の先駆となった。
 さらに市民は、軍人皇帝の偏重的な軍政によって、さらなる圧迫を受け続けた。おりからのパルティア軍やゲルマン人との対戦によって、軍事力強化を主張した皇帝は、その搾取を市民に求め、多大な重税を課した。経済的に行き詰まった市民は重装歩兵として軍隊を組むのが難しくなり、代わって報酬契約で雇われた傭兵隊が組まれていくことになる。

 社会変化にともない、帝室では皇帝権力を強める傾向が出、ユピテル(英語名ジュピター)神の体現者と称し、神的権威を持つ皇帝・ディオクレティアヌス(位284-305)の即位によって、遂に軍人皇帝時代を終わらせた。もともとディオクレティアヌス帝も軍人皇帝時代の擁立形式と同様であり、ニコメディア(現トルコのイズミット)で軍隊に推されて即位したのだが、その後皇帝崇拝主義を取り、ローマ市民は臣民として皇帝に対し跪拝の礼を行わせ、ローマ皇帝としての尊厳を高めた。これは、東方オリエント、特にペルシアの宮廷儀礼を応用したと思われる。
 また広大な帝国であるがゆえ、元の同僚を副帝、ついで正帝に任命して帝国を東西に分け、さらに2人の副帝をたててテトラルキア体制(四分統治制)を成立させた。これにより、各地の軍隊の勢力は薄れていった。ちなみにディオクレティアヌス帝は東の正帝であった。

 ディオクレティアヌス帝の改革はさらに進んだ。全域を4道・12管区・100余の属州に区画整理し、それぞれの代官・総督を皇帝が任命した。経済政策では税制の統一化、物価騰貴の統制、また皇帝崇拝主義政策の一環としてキリスト教徒の大迫害を行った(303)。彼の帝政によって専制君主的な権力が定着したことで、彼以降のローマ帝政はドミナートゥス専制君主政)と呼ばれた。

 コンスタンティヌス1世(大帝。位306-337)の時代は、312年の戦争の際、天空に"汝これにて勝て"という文字が十字架とともに現れ、これに弾みがついて戦勝をもたらしたという伝承があり、これはディオクレティアヌス帝時代に迫害されても絶やすことなく、カタコンベ(地下墓所)などでも活動していたキリスト教会の教父たちに広められた。翌313年、コンスタンティヌス帝は東帝リキニウス(位308-324)とミラノ勅令を発してキリスト教を公認したが、リキニウス帝が迫害に転じたことで、彼を破って単独皇帝となった、帝国統一の最初の事業として、325年ニケーア公会議を開き、アタナシウス(295?-373)の主張する"三位一体(父なる神・子なるキリスト・聖霊が一体である)"を正統とし(アタナシウス派)、イエス=キリスト(B.C.4?-A.D.30?)の神性を認め、これに対抗するするアリウス(250?-336)のアリウス派("キリストは父なる神の被造者"としてキリストを人性を主張)を異端とした。また330年、非キリスト教的伝統の強いローマを離れ、ビザンティウム(ビザンティオン)へ遷都、コンスタンティノープル(コンスタンティノポリス)と名付けた(現トルコのイスタンブル)。
 内政ではコロヌス土地緊縛令(332)を発して身分と職業の固定を重視し、官僚を整備してドミナートゥスを維持した。外政ではゲルマン一派のゴート族の討伐を行った。

 361年、コンスタンティヌス帝の甥に当たるユリアヌス帝(位361-363)が即位した。彼は幼少時、帝室内紛によりコンスタンティヌス帝の子であり前帝のコンスタンティウス2世(位337-361)に家族を殺され、ユリアヌスも幽閉された。幽閉時代、彼はギリシアの古典文化・哲学・多神教を学ぶ機会が多かったこともあり、キリスト教に対する反感が芽生えた。即位後、ローマ神やユダヤ教など、非キリスト教徒に信教の自由を認め、神殿再建令を発布、またこれらに反対するキリスト教徒にも圧迫的行為をおこない、教会権力を弱らせた。市民が動揺する中、帝はササン朝ペルシア(226-551)との戦いで破れた。戦死に際し、帝は"ガリラヤ人よ、汝は勝てり"と叫んだのは有名だが(ガリラヤ人はイエスのこと)、この言葉は当時のキリスト教徒らが伝えたもので、ユリアヌス帝自身が発した言葉かどうかは定かではない(ユリアヌス帝は、キリスト教徒により異教の復興を企てた"背教者"と軽蔑された)。

 ローマ帝国が揺らぎ続ける中、歴史を揺るがす大事件が舞い込んできた。375年ゲルマン民族大移動である。フン族に圧迫されて定住地であるドナウ河畔を追われた東ゲルマンの一派西ゴート族が、ローマ帝国属州であるドナウ南岸のトラキアへの移住を試みた。西ゴート族は、傭兵隊をローマ帝国に差し出し、帝国内で農耕に従事することを条件に、トラキアでの定住許可をとりつけようとした。時のローマ皇帝だったウァレンス帝(位364-378)は、過疎化の激しいドナウ河畔の発展を切望しており、また軍人皇帝時代以降の帝国軍の弱体化も著しかったため、西ゴート族の申し出を承諾した。翌376年、西ゴート族はドナウ渡河を開始した。
 ところが、トラキアの官僚は西ゴート族に対し冷遇的であった。特に秋の収穫期に移住してきたため、翌年まで1年間の生活保障がなく、遂に他のゴート一派をも含む西ゴート族の暴動が勃発、各地で略奪行為を行い、ローマ兵を次々と破っていった。戦場はハドリアノポリス(アドリアノープル。現トルコのエディルネ)で行われ、ウァレンス帝も親征した(アドリアノープルの戦い。378)。
 結果はゴート族の圧勝であった。ローマ軍は約3分の2が壊滅、戦傷を負ったウァレンス帝は撤退した。途中帝は臣下に抱えられながら小屋に避難したが、小屋に火を放たれ、ウァレンス帝は小屋ごと灰と化したといわれている。

 ローマ帝国の弱体に対して、ゲルマン民族は軍隊を中心に勢力がますます強くなっていった。戦争の結果西ゴート族はローマ帝国領内に定住した。ゲルマン民族は、ニケーアの公会議によって異端とされ、帝国から追放されたアリウス派を受け入れていたため、国内ではキリスト教における争いも起こっていた。またイラン系遊牧民であるサルマタイの侵入をはじめ、ヌミディア(北アフリカ)ではキリスト教の異端運動や、ガリアでは貧農による反乱がおこるなど、瓦解寸前であった。コンスタンティヌス帝時代におこした東方遷都以来、西のローマにも固執するものも当然いたわけで、ローマ帝国の東西分離傾向は高まっていった。

 このような状況の中で、379年、テオドシウス1世が即位した(大帝。位379-395。最初は東の正帝として)。テオドシウス帝は、侵入するゴート族を破ったのち和解、"同盟者"として帝国内での定住を認めた。380年にはアタナシウス派のキリスト教を国教化する勅令を出し、392年には異教信仰を大逆として処罰することを決めた。西帝をめぐる内紛も鎮め、有能なスティリコ将軍(365-408。ヴァンダル族出身)の尽力もあって、394年には四分統治をやめてローマ帝国最後の統一を果たすが、翌395年死去した。テオドシウス帝は遺言で、17歳の長男アルカディウス(377-408)と10歳の次男ホノリウス(384-423)に帝国を再び分割統治することを命じたが、東側はコンスタンティノープルを首都とし、西側はミラノを首都とする東西のローマ帝国としての統治を継承したのである。よって、ドミナートゥス体制は終焉、ローマ帝国は東西分裂、西は西ローマ帝国395-476)、東は東ローマ帝国(395-1453。開始年を遷都年である330年ともとらえる場合がある)として別々の道を歩み始めた。

 西ローマ帝国の方を引き継いだホノリウス(位395-423)は政治には無能であり、東と違いゲルマンの侵入や横暴が激しかったため、テオドシウス帝の信頼が厚かったスティリコ将軍が軍務と政務にあたった。スティリコ将軍はゲルマン一派、ヴァンダル族の血を引いており、娘はホノリウスの妃であった。西ゴート族はアラリック王(位395-410)の下で強大化、トラキア・マケドニア・ギリシア・イタリアを荒らし回った。402年、西ローマは、アラリック王のイタリア侵攻の際にラヴェンナに遷都したが、イタリア全土は既に異民族の蹂躙によってかき回されていた。それでもスティリコはアラリックと対戦してアラリックを敗退させ、侵攻を再度にわたって阻止した。この間ホノリウスはラヴェンナの宮廷に閉じこもったままであった。

 官僚や元老院は、次々と軍功をあげていくスティリコを疎んでいた。当初は皇帝も幼少であったため、スティリコを黙認せざるを得なかったが、スティリコはヴァンダル族出身だけに、アリウス派を信仰している異端者というぬぐえないレッテルを貼られ続けた。遂に皇帝側近の反スティリコ派は、成人になったホノリウス政権を確立させるため、讒言によってスティリコを処刑、ホノリウス自身もこれを受け入れた(408年)。スティリコ没後、アラリックはイタリア侵攻を再開、410年、一時的であるがローマ市を陥落させ、略奪行為を行った。アラリックはこの年に没したが、ホノリウス帝との協約により、418年、西ゴート族はイベリア半島において、遂に独自の王国を樹立した(西ゴート王国418-711)。

 これにより皇帝の権威は失墜、その後もヴァンダル、ブルグント、フランクなどといった諸ゲルマン民族が次々と帝国内に入り込んでいった。民族移動の影響が少なく、安定していた東側と違い、西ローマ帝国は次々と属州を奪われ、実質的に統治していたのはせいぜいローマ市中心のイタリア半島ぐらいであった。423年にはホノリウス帝が没し、その後の西ローマ皇帝も短命であった。このため、傭兵として雇われたゲルマン人が将軍となって、実質的に実権を握っていき、他ゲルマンの侵攻を阻止するという事態も一般化していき、騒がれたスティリコ将軍時代とはもはや異なってしまっていた。451年には民族大移動の原因をつくったフン族が、大王アッティラ(位433-453)の下で西ヨーロッパ侵攻を行い、西ローマ帝国は西ゴート、ブルグント、フランクらと連合軍を組んで戦って勝利を収めたが(カタラウヌムの戦い)、西ローマの軍隊はすでにゲルマン人傭兵隊長が握る傾向にあった。傭兵隊長は皇帝の権威も動かし続け、西ローマ皇帝を追放し、自身の子を即位させることもあった。
 476年、ゲルマン人傭兵隊長・オドアケル(433?-493)は、当時の西ローマ皇帝ロムルス=アウグストゥルス(位475-476)を廃位させ、オドアケル自身はイタリア王位(476-493)を名乗り、西ローマ帝国は滅亡した。ロムルス=アウグストゥルス帝も前の傭兵隊長の子であった。

 西ローマ帝国が消滅する一方で、ゲルマンの干渉が比較的少なかった東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は、首都コンスタンティノープルを中心に繁栄を極め、1453年に滅ぶまで1000年余りにも及ぶ歴史を東欧世界に轟かせることになった。

 古代ローマ時代において、ドミナートゥス時代のお話はまだ触れていませんでしたが、ようやくここに来てご紹介することができました。ついでながら、西ローマ帝国の滅亡までを書かせていただきましたが、西ローマ帝国というのは、世界史Bにはテオドシウス帝死後、東西分裂し、最後はオドアケルに滅ぼされるのみの内容だけで、西ローマ帝国の治世そのものはあまり書かれていません。しかし暗君ホノリウス帝、スティリコ将軍、西ゴートのアラリック王などの話を読むと、これがけっこう面白いですよ。しかしながら彼らはあまり入試には登場しません(ただしアラリックは用語集にも載っていますし、難関私大では出題されることもあります)。

 さて、専制君主政は3大帝を知っておきましょう。キリスト教徒を迫害したディオクレティアヌス帝、ミラノ勅令でキリスト教を公認したコンスタンティヌス帝、キリスト教を国教化したテオドシウス帝です。ディオクレティアヌス帝は四分統治、コンスタンティヌス帝はコンスタンティノープル遷都、テオドシウス帝は東西分裂がキーワードとなります。覚えておきましょう。

 また本編でユリアヌス帝も出ましたが、ドミナートゥスの単元よりもキリスト教の誕生の分野で登場します。"背教者"がキーワードとなります。またニケーアの公会議ではアタナシウス派が正統、アリウス派が異端であることも重要、ローマから追放されたアリウス派はゲルマン人が受容します。これも注意です。ちなみエフェソス公会議431)というのもあり、東ローマ皇帝がネストリウス派キリスト教を異端として追放します。これが、ペルシアや中国に渡り、中国では景教(けいきょう)と呼ばれたのも有名ですね。

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