世界史の目−Vol.117−

マクドナルド挙国一致内閣

 1867年のイギリス。保守党・第3次ダービー内閣(1866-68)の時、都市労働者・小市民にも参政権を拡大する第2回選挙法改正が可決された。労働者に選挙権が得られ、国政参加者の一員となったことで、労働組合法1871)・労働者法(1875)の制定がスムーズに行われ、労働組合の合法化が認められた。1884年には第3回選挙法改正1884)が行われ、農業・鉱山労働者に参政権が拡大した。
 イギリスでは、同時に社会主義・共産主義勢力も台頭、劇作家バーナード=ショウ(1856-1950)や社会学者のシドニー(1859-1947)・ベアトリス(1858-1943)のウエッブ夫妻らによってフェビアン協会が結成され(1884)、穏和的社会改革を主張した。また炭鉱労働者からでたケア=ハーディ(1856-1915)らによって1893年に結成された独立労働党も、労働者の議会進出と社会改革の徹底をめざした。他にもマルクス主義の影響下において1881年に結成された社会民主連盟(SDF)という団体もあった。

 これら社会主義団体は、1900年に65の労働組合と合流して労働代表委員会となった。この委員会の書記担当を任されたのが、当時34歳だったラムゼイ=マクドナルド(1866-1937)である。マクドナルドはスコットランドで貧農の家に生まれ、教師やジャーナリストなど職を転々とした後、1894年独立労働党に入り、台頭していった人物である。

 マクドナルド書記長は、労働代表委員会の議会政党への組織変更を目指し、1906労働党と改称した。マルクス主義を主張する社会民主連盟は、意見の相違で離脱したが、労働者の保障や産業国有化などを強く主張し、議会・選挙・法を通じて穏健的に改革を達成させようとする姿が好意的に受け入れられ、同年下院で29議席を獲得、マクドナルドは下院労働党党首となった(任1911-14)。

 1914年、第一次世界大戦が勃発した時、非戦論を唱えるマクドナルドは党首を辞任した。大戦中のイギリスはアメリカからの戦債を抱えたために不況に陥り、失業者を大量に生んだこともあって、4回目の選挙法改正(1918第4回選挙法改正)が行われ、21歳以上の男子と30歳以上の女子に選挙権が与えられた。1918年の総選挙でマクドナルドは落選したが、1922年に下院に復帰、再度党首に選ばれた。
 労働党は、1924年の選挙で第2党に進出、自由党の支持による連立式であるが、マクドナルドを首相(任1924)とする初の労働党内閣が誕生した(第一次マクドナルド内閣)。この間マクドナルド首相は外相としても敏腕を発揮、敗戦国ドイツに対するアメリカのドーズ案(ドイツの賠償対策。1924)や、フランスのルール撤兵(1923-25。フランスがベルギーとともにドイツの賠償支払遅延を理由に出兵、ルール工業地域を占領)にも関わった。内政でも失業保険の改善などで業績を上げたが、組閣して9ヶ月後、革命で社会主義国家として誕生したソ連を承認する際(1924)、コミンテルン執行委員会議長のジノヴィエフ(1883-1936)との暗躍が取り沙汰されて(ジノヴィエフ書簡事件)、9月末、退陣に追い込まれた。

 1928年、保守党のボールドウィン(1867-1947)が首相のとき(第2次ボールドウィン内閣。1924-29.6)、女子の選挙権も21歳以上と引き下げられて(第5回選挙法改正)、普通選挙が実現した。しかしいっこうにおさまらない産業不振と失業者増加に対し、ボールドウィン内閣は翌1929年の総選挙で破れて瓦解した(1926年に起こった、9日間に及ぶ炭坑夫ゼネストの影響が大きい)。
 この選挙で第1党に躍り出たのは、労働党であった。初の第1党で、労働党の単独政権である第2次マクドナルド内閣が誕生した(1929-31)。
 一方で、ホイッグ党からの歴史を持つ自由党は1922年の総選挙で敗北以降、第3党に転落しており、元首相だったロイド=ジョージ(1863-1945。自由党。首相任1916-22)が1929年に自由党党首になったものの、労働党の躍進で党勢の挽回はできず、衰退していった。

 第2次マクドナルド内閣はロンドン軍縮会議1930)においての条約締結に成功したが(補助艦保有比率を英:米:日=10:10:7弱とする)、世界経済恐慌1929.10。アメリカ)の波がイギリスにも迫っており、大量に発生した失業者への対策・産業と貿易の改善が急務となった。しかし時すでに遅く、失業者の増加は、失業手当給付の増加を余儀なくされ、結果、財政的にも危機に陥ってしまった。このため、マクドナルド首相は失業手当の大削減1931)を提案、党内反対を押し切って削減を実行した。これにより、マクドナルドは孤立化、内閣も総辞職に追い込まれてしまった(1931)。マクドナルドは、国王ジョージ5世(位1910-36)の要請を取り付けて、恐慌による経済危機から脱出するための、3政党を包含する国を挙げての組閣をめざした。こうして、1931年8月、マクドナルドは、彼を支持するマクドナルド派(3人)をはじめ、保守党4人、自由党2人とともにマクドナルド挙国一致内閣(国民政府。1931-35)を誕生させた。労働党はマクドナルドを"裏切り者"と呼び、遂に彼を党除名処分を下したが、10月の総選挙では、マクドナルド側が615の議席のうち554議席を獲得した一方、労働党はわずか52名の少数政党に転落した。

 マクドナルド内閣は、1926年に開催されたイギリス帝国会議の内容(バルフォア報告書)を1931年ウェストミンスター憲章で成文化し、イギリス帝国をイギリス連邦と改称した。1926年のイギリス帝国会議は、前述の炭坑夫ゼネストの頃に開催された会議で、大戦後、衰退傾向にある本国に対し、イギリス自治領(カナダ・オーストラリア・ニュージーランド・南アフリカ連邦)の本国からの自立を警戒して、本国と自治領の同等の地位を承認したものである。

 恐慌で国際収支の悪化をうけたイギリスでは、イギリスの通貨を見直す必要があった。そこで、マクドナルド内閣は、ポンド貨幣を金との兌換停止に踏みきって通貨量を金保有量と関係なく発行できるようにした(金本位制度廃止1931)。
 貿易面では、保護関税貿易政策への転換をはかった。トーリー党時代から保守党は保護関税貿易を主張していたが、保守党が多数を占めていた中で、1931年の非常関税法、翌1932年6月には保護関税法が次々と成立した。同1932年7月には自治領であるカナダのオタワでイギリス連邦経済会議(オタワ会議)が開催、イギリス本国と自治領との間には特恵関税制度がとられ、それ以外の諸国との貿易は関税を高率に定めて、外国商品の国内進出を防ぐ排他的な封鎖経済政策をはかった。これがブロック経済である。ポンド貨幣で決済できる領域はスターリング=ブロックと呼ばれた。これを機に各国では経済ブロック圏がつくられていき(フラン=ブロック、ドル=ブロックなど)、自由貿易体制による世界貿易は大幅に減少した。その後、イギリスは恐慌から脱した。

 マクドナルドは1935年、病気のため首相を保守党のボールドウィンに譲って辞任(第3次ボールドウィン保守党内閣。1935-37)、1937年に政界を引退、同年末、南米旅行先において急死した。彼流のイギリス社会主義から発した労働党は、その名の通り労働者への保障、及び労働問題の改善を真っ向から取り組み、"労働者のための政党"として、その後のイギリス社会保障制度・福祉政策に大きな影響を与えた。やがて、1942年公表のイギリス社会保険関連報告(ベバリッジ報告)の中に記された、社会福祉制度の充実さを示す"ゆりかごから墓場まで"という言葉を生むことになる。

 現代、労働党は、保守党と二大政党政治を展開、イギリス行政を支えている。

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 遅ればせながら、あけましておめでとうございます。神戸校がお届けする2008年の最初の「歴史のお勉強」です。今年もよろしくお願いいたします。

 さて新年最初は、イギリス労働党の誕生をご紹介しました。受験世界史では、産業資本家に対して労働者による労働問題・労働運動が発生した経緯から、"労働者≠資本主義者"の原則があり、場合によれば"労働者=社会主義者"となるわけです。ですから受験世界史では、労働組合や労働委員会なる言葉を含む場合は、反資本主義であることに注意が必要です。
 産業革命が大きく進展したイギリスでは、労働者・資本家間の係争や労働組合の結成は続発しましたが、他国でも同様です。フランスでは、労働組合が革命を起こして国を治めることを目指すサンディカリズムと言われるのがかつてありました(サンディカ=労働組合)。政治活動ではなく、労働者の直接行動(たとえばゼネストなど)をおこして革命を成功させようとした闘争的組合主義で、労働総同盟(CGT)が代表的でした。無政府主義と結合してアナルコ・サンディカリズムと言われたりもしました。日本でも労働組合期成会が1897年に結成され、労組結成を推進しました。

 さて、本編における学習ポイントを見て参りましょう。労働党が誕生するまでの経緯を覚えておきましょう。フェビアン協会(バーナード=ショウ、ウエッブ夫妻)、独立労働党、社会民主連盟といった社会主義団体が結合して、労働代表委員会が誕生し、1906年、労働党が誕生しています。

 マクドナルドの第一次内閣の誕生は1924年で、自由党との連立内閣でした。しかしこれは短命に終わりました。世界恐慌時代に第2次内閣が誕生していますが、これは単独政権です。ここでは恐慌対策ですが、マクドナルド首相がおこなった 失業保険削減でマクドナルドは党から除名処分を受け、労働党内閣も終わります。その後、マクドナルドが自由・保守も合わせて国民政府を立ち上げたのが、挙国一致内閣です。1931年から35年までです。ここでは、恐慌対策として金本位制停止とブロック経済が重要でしょう。またブロック経済(スターリング=ブロック)を決めたオタワ会議も覚えましょう。金本位制は、1934年にアメリカ、1936年フランスも停止にふみきっています。

 イギリスは植民地・資源、さらに自己市場によって、"持てる国"として自分たち優位の経済体制をつくりあげました。それにより他の"持てる国"フランス・アメリカもそれぞれ"フラン=ブロック"・"ドル=ブロック"を掲げて保護関税貿易が促進されていったので、自由貿易体制(世界貿易)は大幅に減少しました。一方で、植民地・資源を持たない、いわゆる"持たざる国"であるドイツ・イタリア・日本は、列強の経済ブロック化によって、アメリカ・イギリス・フランスの市場から締め出されます。このため、方向を軍事に向けて近隣諸国への侵略・再分割を促進していくのです。これが全体主義からなるファシズムやナチズムを生み出していくわけです。

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