世界史の目-Vol.12-

ドイツ宗教改革

 中世のドイツは帝権の弱体化で国民的統一を欠いていた。というのも、当時のドイツは神聖ローマ帝国であり、ローマ教皇の戴冠をうけて、皇帝としてドイツと、イタリアに君臨する仕組みであったため、本国ドイツよりも、かつてローマ帝国として栄えたイタリアの方に勢力をはる、いわゆるイタリア政策に力を入れていた。よって、本国ドイツの政策はおろそかになり、ドイツ諸侯は各自独立して分立した地方国家を形成しており(この地方国家を領邦という)、15世紀前半の段階でおよそ300の領邦が形成されていて、皇帝の中央集権体制は困難であった。16世紀になっても、この事態は変わらず、教皇による政治的・財政的干渉が受けやすくなり、ドイツは教皇庁による利益搾取の標的とされた。”ドイツ農民は角のない牝牛(めすうし)で、種を蒔いても、収穫物は坊主に持って行かれる”といった歌からドイツは「ローマの牝牛」とまで見下げられた。ドイツ商人や農民は次第に批判精神を持ち合わせるようになった。

 この「ローマの牝牛」の状況に乗じて、フィレンツェの大富豪メディチ家出身のローマ教皇レオ10世(位1513~21)がある行動に出た。おりしも、イタリアはルネサンスの隆盛期で、フィレンツェやローマはルネサンスの中心地であったため、教皇庁の財政が破綻寸前にまで追い込まれた。また、レオ10世の前教皇ユリウス2世(位1503~13)時代にはサン=ピエトロ大聖堂の修築や、ミケランジェロ(1475~1564)やラファエロ(1483~1520)らに対する文芸保護を行い、この頃から費用の捻出ははかりしれないものとなっていた。そこで、レオ10世は、ユリウス2世時代から行われていた贖宥状(しょくゆうじょう。免罪符のこと)をドイツで大々的に販売して、民衆がこのカトリック証書を買って、善行を続けると罪の許しが得られ、魂は救われるとした。しかし、この行為に待ったをかける人物が現れた。この人物は、贖宥状はカトリックの教義を利用して、教皇が金集めを行っているだけで、これを購入しても救済の意味がないと考えた。マルティン=ルター(1483~1546ラファエロと生年が同じ)である。

 ルターは、ドイツ中部ザクセンにあるヴィッテンベルク大学・神学部の教授をしていた。1517年、彼は、魂の救済は、神のあわれみに対する信仰のみであるとして贖宥状を真っ向から批判し、「九十五ヵ条の論題(意見書)」をヴィッテンベルク城にある教会の門扉に貼りだした。これがドイツにおける宗教改革の勃発となる。これにより教皇は翌1518年、使節を送り、ルターに審問したが、彼は自説を守った。この論題はルターも教皇も、最初は公表しなかったが、1519年ライプチヒで、彼と、教皇寄りの神学者ヨハン=エック(1486~1543)と公開討論会が行われた時、ルターは、かつてベーメン(現チェコ)で起こった教会批判運動の立役者フス(1370?71?~1415)の説を取り上げたことで、自分が異端的立場にいることが明白とし、さらに1520年「キリスト者の自由」・「ドイツ国民のキリスト教貴族に与う」・「教会のバビロン捕囚」を公刊したことで、教皇はルターを破門し、ルターと教皇の対立は公然化した。

 1521年、ルターは神聖ローマ皇帝カール5世(位1519~56。スペイン=ハプスブルク王朝ではカルロス1世と呼ばれる)によってヴォルムスの帝国議会に召喚され、自説の撤回を迫られた。この帝国議会は皇帝になったばかりのカール5世がドイツ諸侯を召集した初めての会議であったために、主宰者カールはかなりの強硬で迫ったが、ルターはここでも自説を通し、「追放刑」の宣言を受けた。結局ルターは教皇だけでなく神聖ローマ皇帝も敵に回し、反皇帝派のザクセン選帝侯フリードリヒ(位1486~1525)によって居城ヴァルトブルクにかくまわれた。ルターはこの城内で最初の新約聖書のドイツ語訳を完成させ、ドイツ国民に知れ渡ることとなり、多くのルター派が誕生し、宗教改革は戦乱をもたらしていった。

 まず1522年、ドイツ騎士戦争が勃発した。ルター派の帝国騎士の反乱であるが、崩れた騎士階層復活を目指して、攻撃を展開しようとしたが、これは庶民の支持が得られる所まではいかず、失敗した。本当の大戦乱は1524年、ドイツ南部を中心に起こったドイツ農民戦争(~1525)である。これは説教師トマス=ミュンツァー(1490頃~1525)が参加した大農民戦争だった。ミュンツァーは1519年ルターと出会い、翌年彼の推薦で司祭となった経歴がある。ちょうど九十五ヵ条論題の騒動があった頃であった。この頃、ミュンツァーは農民の立場から、農奴制の廃止を強く訴えており、やがてルターと訣別して個人的見解から教会の腐敗を攻撃するようになっていった。ドイツ農民戦争は、勃発当初、農民らの封建地代軽減や公正な裁判、十分の一税撤廃、聖職者選択の自由といった要求を掲げ、ルターも同情してそれを支持した。これは「十二ヵ条」としてまとめられたが、反乱は中部にも移り、ミュンツァーが指導するようになると、一層戦乱が過激化し、流血の惨劇が相次いだ。現状を見たルターは、農民の本当の標的は領主層に向けられ、教会の革新とつながらないものとして農民に味方することを断念、彼らを厳しく非難した。よって農民から「嘘つき博士」と呼ばれた(一方ルターはミュンツァーを「悪魔」と呼んだ)。結局ルターの呼びかけで領主層が結集して徹底的に鎮圧した。

 反乱が終わり、ルター派は反皇帝派諸侯や市民らを中心に展開された。諸侯、つまり領邦の君主は”最高の司教”として各領邦の教会をローマ教皇から独立させた。これを領邦教会制度という。ルター派諸侯は、ローマ教皇によってドイツ権威を保持しようとする神聖ローマ皇帝と対立した。この頃、神聖ローマ皇帝カール5世はイタリア権益をめぐってフランス王フランソワ1世(位1515~47)と対立していた(イタリア戦争1521~44)。同時にローマ教皇もまた、スペイン=ハプスブルク王朝のカルロス1世を兼ねるドイツ皇帝カール5世の勢力の拡大を恐れ、皇帝とも対立し、旧教国フランスに接近した。これによりフランソワ1世はドイツにいるルター派諸侯を援助し、さらにオスマン=トルコ皇帝スレイマン1世(位1520~66)がフランスと手を結び東方からドイツを攻めようとしたので、カール5世は1526年、シュパイエル帝国議会を開催して、ルター派に布教の自由を不本意ながら認めて、諸侯の支持を取り付けた。これによりルター派諸侯は領邦教会制度を発動していった。しかし1529年、スレイマン1世率いる12万のオスマン=トルコ軍は1ヶ月間ウィーンを包囲し、カール5世は危機に瀕した(第1次ウィーン包囲)。ただトルコ軍の極寒対策や兵粮準備の不完全さからウィーンの陥落は避けられ、包囲は失敗に終わった。しかも国内の状況も包囲実施前から安定せず、ルター派容認が決まって以降のルター派諸侯が強勢になってきたため、カール5世は同年、2度目のシュパイエル帝国議会を開き、前回とは一転してルター派の布教禁止を決定した。ルター派はこれに対し抗議文(protestantio)を提出した。彼らは抗議者、つまり、プロテスタント(protestant)と呼ばれるのである。

 抗議したルター派諸侯は、1530年、フランスの支持を受けてシュマルカルデン同盟を結成した。一方旧教側では、教会の腐敗・堕落、新教の誕生などの反省から、内部を正すための反宗教改革も起こり、1545年トリエントで新旧両派の調停を行われたが(トリエント公会議1545~1563)、新教派が出席を拒否したため、カトリックの立場を再確認し、新教の勢力拡大阻止を目標に掲げた公会議となってしまった。1546年、ルターは生地ザクセンで没し、シュマルカルデン同盟は旧教派・皇帝派と戦い(シュマルカルデン戦争1546~47)、新旧対立は一進一退を繰り返した。

 しかし、この繰り返しも1555年のアウグスブルク帝国議会で一応の妥結を見た。これはアウグスブルク宗教和議と呼ばれ、ルター派の信仰の容認が決定した。ただし、諸侯・領主は新旧両教いずれも採用できるが、領民はその領主の宗派に従わねばならない、という内容だった。翌年、カール5世は帝位を弟のフェルディナント1世(位1556~64)、スペイン王位を子フェリペ2世(位1556~98)に譲るわけだが、カール5世は信仰するカトリックをルター派から守ろうとする一方、フランスやオスマン=トルコを巧みに操ったローマ教皇からは嫌われるなど、失意ではあったが、退位後は、スペインで修道士として余生を送り、1558年、この世を去った。

 ドイツ宗教改革の登場です。この時期は、ルネサンスやイタリア戦争などが展開される中で、宗教においても革命が起こり、政治的にも財政的にも、教皇や皇帝は大忙しの時代だったわけです。
 この時代も学習ポイントがたくさんありますが、まず、ルター、教皇、皇帝、諸侯、他の国王との関係はしっかり抑えておきましょう。ルターは教皇・皇帝ともに対立しています。神聖ローマ皇帝カール5世はイタリア戦争で教皇や他国と対立します。ルターに味方するのは、ザクセン選帝侯フリードリッヒなど、反皇帝・反カトリック派を唱えるドイツ諸侯らです。イタリア戦争をもう少し内容を深めたほうがこの時代の背景もより理解できましたが、スペースの関係上、必要最小限にとどめました。

 ドイツの国柄もしっかりおさえておきましょう。領邦の分立で皇帝による国の統一ができず、結局各領邦に集権化をもたらします。有名な領邦にドイツ騎士団領(のちに公国となりプロイセンができる)やブランデンブルク辺境伯領(のちのホーエンツォレルン家領となる)、それにオーストリアハプスブルク家領)などがありますので、知っておきましょう。

 また、この時代とは関係ないですが、フスという人物が出てきました。プラハ大学の神学部教授で、教会批判を徹底した人物です。結局1414年のコンスタンツ公会議で異端者として火刑となり、これに憤慨したベーメンのフス派が反乱を起こす(フス戦争1419~36)というお話です。”いよいよ(=1414)始まるコンスタンツ”といった覚え方がありました。

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