世界史の目-Vol.122-

敗将の哀詩
秦王朝の興亡・その4~

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 始皇帝(しこうてい。位B.C.221-B.C.210)の崩後、二世皇帝(胡亥。こがい。位B.C.210-B.C.207)が帝位に就いた王朝(しん。?-B.C.206。首都咸陽)であったが、その盛時に翳りが見え始めたのは、二世皇帝の悪政が後を絶たなかったからであった。父始皇帝のやり方そのままを継承した二世皇帝は、相も変わらず阿房宮などの土木工事で次々と人を動員、酷使させ、自身は奢侈に耽った。寵臣である宦官の趙高(ちょうこう。?-B.C.207)も同様に潤った。
 一方、これまでは宮中に協力的であった丞相(じょうしょう。行政の最高責任者)の李斯(りし。?-B.C.208)だったが、趙高に依られて好き勝手に政策を施す二世皇帝に不快感を募らせ、皇帝に阿房宮造営の行き過ぎを緩和するよう申し出た。しかし趙高の謀略によって、丞相の地位を剥奪され、ついには処刑された(李斯処刑。B.C.208)。

 李斯は趙高が仕組んだ讒言によって処刑されたが、この讒言は趙高の専売特許であり、反趙高派の皇族などを様々なでっち上げで粛清していった。たとえば、次のような逸話がある。趙高が宮中に"鹿"を入れ、「珍しい"馬"がおります」と二世皇帝に言ったところ、皇帝は「"鹿"ではないのか?」と返した。趙高は"鹿"をさして、「これは"馬"です」と答え、家臣に「これはどう見えるか?"馬"か?それとも"鹿"か?」と尋ねた。このとき趙高派の家臣は"馬"と返したが、趙高を不快に思う反趙高派の家臣は"鹿"と返した。"鹿"と返した家臣たちはその後趙高の讒言をまともに食らい、処刑されていった。"鹿を指して馬となす"の故事にもなったこの逸話は、阿房宮の"阿呆"の由来とともに、"馬鹿"の由来の1つとしても有名である。

 李斯を死に追いやった趙高は、二世皇帝の下で、丞相に就任した。始皇帝時代から行われている大土木事業はますます拍車がかかり、重税・重労働による国民の不満はます一方であった。国民の爆発はまず陳勝・呉広の乱(ちんしょう・ごこうのらん。B.C.209-B.C.208)で表されたが、将軍・章邯(しょうかん。?-B.C.205)がこの乱を平定した。また、この乱に乗じて挙兵した旧楚軍(楚。そ。?-B.C.223)の項梁(こうりょう。?-B.C.208)は章邯に討たれたものの、甥の項羽(こうう。B.C.232-B.C.202)や江蘇省出身の農民・劉邦(りゅうほう。B.C.256?/B.C.247?-B.C.195)が徹底的に抗戦し、秦軍を苦悩させていった。
 かつて楚の名将であり、祖父である名将・項燕(こうえん。?-B.C.223)を秦の王翦(おうせん。生没年不明)の軍に討ち落とされ、そして叔父・項梁を同じく秦の章邯の軍に殺された。項羽は遺恨をはらすべく楚軍を送り込み、次から次へと秦軍を打倒していった。そしてついに章邯を降伏させることに成功、項羽は捕虜にした20万人の秦軍を虐殺した(このため項羽は人望を失う)。当時最も強力と言われた秦の軍隊の、楚軍に敗北を喫した瞬間が訪れたのである(B.C.207)。

 B.C.207年、このとき楚では、かつての楚の懐王(かいおう。位B.C.329-B.C.299)の孫である心(しん。?-B.C.206)が、項梁の働きによってその名・懐王を受け継いでいた。項梁が没した時、懐王は関中(かんちゅう。秦の領地。函谷関(かんこくかん)の西。現・陝西省。咸陽がある)に一番早く入った者に、その地を与えて関中の王とみなすという"懐王之約"を発していた。このため、楚軍の士気は大いに高まっていた。

 内紛が多い宮中に不安が隠せない秦の民衆は、軍がただ1つの拠り所であったために、項羽の楚軍に敗北したのは大いなる絶望であった。民衆だけでなく、宮中にとっても、秦の国体護持の前提におかれた強力な軍隊が弱小の楚軍に降りたのは予想外であった。丞相になったばかりの趙高は軍の理解を示さず、楚軍を甘く見ていたとされ、また丞相の地位に立つものの劣勢の事態を修復する知恵と能力はなく、ついに二世皇帝から咎められる始末となった。
 すでに趙高は短絡的な謀略・讒言で自身の臣下を次々と粛清しており、すでに人心が失われていた。やがて、反秦に燃える項羽の別働隊として動いていた劉邦の軍が西方から咸陽に迫り、この事実を知った二世皇帝によって、趙高は丞相の地位剥奪だけでなく、死罪をも免れないと考え、子嬰(しえい。?-B.C.206。始皇帝の血筋とされるが一切は不明)を次期君主にたてるべく、奇襲をかけて24歳の二世皇帝を捕らえ、自殺させた。これにより、子嬰は"秦王"として即位した(王位B.C.207-B.C.206。すでに秦は小国化しているため、皇帝として即位できず、単に王とされた)。

 劉邦は項羽に先んじて関中に入った。形勢不利とみた趙高は劉邦と内通をはかろうとするが、この急転の背信行為が秦王子嬰の怒りに触れ、趙高を謀殺することに決意した。皇帝は即位式をわざと欠席し、説得に出向いた趙高の隙をねらい殺害したのである(趙高暗殺。B.C.207)。壮絶な奇襲返しであった。

 劉邦に遅れて入関した項羽の軍は自身より先に劉邦が入関したことに激怒した。項羽は貧農・遊侠出身の劉邦が関中の王になることに不快感を示し、劉邦を討ち破ろうとした。項羽に比べて圧倒的に兵力の弱い劉邦は、部下の張良(ちょうりょう?-B.C.186。かつて始皇帝暗殺を企てたこともある人物)とともに謝罪するため朝早く項羽の陣地である鴻門(こうもん)に赴いた。彼らはここで項羽の部下である笵増(はんぞう。B.C.279-B.C.204)によって危うく殺されかけたが、項羽の叔父にあたる項伯(こうはく。?-B.C.192)がなぜかこれを阻んだ。項伯がかつて人を殺し、これを張良に匿ってもらった恩恵があったからであった。身内を裏切ってまでして、項伯は恩人を助けたのである。この有名な"鴻門の会"にて、劉邦は九死に一生を得るのであった。

 国政の修復をはかろうとした秦王子嬰であったが、秦の軍隊は、咸陽入城を果たした劉邦の軍に劣勢が続いた。とうとう秦王子嬰は一族の身の安全とひきかえに帝位を退くことを決め、劉邦に降伏した(B.C.206)。これにより、秦帝国は、B.C.221年の統一からわずか15年で滅亡に至った(秦王朝滅亡)。劉邦は降伏した子嬰とその一族に対し、彼らの命を保証したが、その後に咸陽に入城した項羽は、祖国・楚を滅ぼした秦帝国の大罪を追及し、ついには子嬰とその一族を処刑した(B.C.206)。その後項羽の軍は宮中に入って高級品の略奪を行い、咸陽を火の海にした。これにて秦朝は名実ともに消滅した。

 楚に戻った項羽は懐王を謀殺(B.C.206。項羽は懐王殺害前、帝号"義帝"を献じていた)、のち諸将を各地の王に封じた。項羽は、復興した楚を"西楚(せいそ)"と呼んで、自身を"西楚の覇王"と称し、抜山蓋世(ばつざんがいせい)の威力を誇った。劉邦に対しては、陝西省の南西隅にある漢水上流の盆地で、四川省・湖北省に至る、すなわち漢中(かんちゅう)を封じた(劉邦は関中より西側、地図上で左側に遷された。これが"左遷"の語源の1つともされている)。劉邦は封じられたこの地を「漢」と称し、漢王として統治していった。一方で項羽は短絡的な統治により諸王へ不満をもたらし、次々と反乱が起こった。項羽はこれを武力で弾圧、捕虜を虐殺し、敵地に火を放った。

 やがて劉邦は漢中に根付いて多くの領地と人心を得、張良や韓信(かんしん。?-B.C.196)、蕭何(しょうか。?-B.C.193)といった"漢の三傑"にも恵まれて、すぐれた知謀と兵力でもって、項羽の楚軍と激戦を展開する(楚漢戦争)。統一国家・秦亡き後の壮絶な戦いはB.C.202年における、垓下(がいか。安徽省霊璧県南東)が最大の山場となった(垓下の戦い)。
 垓下の決戦時、兵力は劉邦の漢軍が逆転しており、項羽の楚軍は、兵力どころか、食糧・物資も不足していた。激戦の末、垓下の防塁に籠もる項羽率いる楚軍の周りを漢軍が包囲し、戦局が決定した。

 その夜、四方の漢軍の包囲陣から、項羽の故郷である楚の歌が盛んに聞こえてきた。項羽は、"楚の人々がすべて漢軍に投降したのか、そして自身から仲間が離反したのか、すでに周りは敵だらけなのか"と驚き嘆いた("四面楚歌"の語源)。敗色濃厚である項羽の残軍は身の破滅を悟り、別れの宴席を設けた。そこで項羽は、愛妾・虞姫(ぐき。虞美人。ぐびじん。?-B.C.202?)と愛馬の騅(すい)、そして最期まで項羽に仕えた数少ない臣下に対し、次の歌を詠んだ。

"力は山を抜き、気は世を蓋(おお)う。時、利にあらず、騅逝かず。騅逝かざるを、奈何(いか)にすべき。虞や、虞や、若(なんじ)を奈何んせん(私の力は山を抜き、気迫は世をおおいつくすのに、時局は不利であり、騅は行こうとしない。騅が行こうとしないのを、どうすべきなのか。虞よ、虞よ、おまえのことをどうすれば良いのだろう)。"

 この「垓下の歌」を絶唱後、項羽は漢軍に突撃した。このとき敵軍に旧友をみつけ、彼に手柄を与えるべく、自ら刃を入れ、項羽は死んだ(B.C.202)。これにて終戦、楚の再興と統一は幻となり、項羽に勝った劉邦はついに天下統一を果たし、秦に続く大統一王朝・(かん。前漢B.C.202-A.D.8後漢25-220)の高祖(こうそ。位B.C.202-B.C.195)として君臨していくのである。

 中国古代史・秦王朝シリーズ最終編をお届けしました。本編では秦が滅んだ後の項羽と劉邦の有名な楚漢戦争も抜粋しました。もっとも、項羽と劉邦の壮絶な戦争や、高祖三傑(張良・蕭何・韓信)の逸話(韓信の股くぐりなど)、垓下での故事など、ひとつにまとめて取り上げたかったのですが、また機会があればお話ししたいと思います。

 さて、肝心の秦王朝滅亡編ですが、受験世界史における本編の内容からは、滅亡年のB.C.206年を覚えればよろしいわけで、趙高や始皇帝崩御後の二世皇帝(胡亥)・秦王(子嬰)は登場しません。"馬鹿"や"阿呆"のルーツをおこした彼らも興味深いのですがね。項羽と劉邦の項では、垓下の戦いは知っておいてほしいです。"鴻門の会"、"四面楚歌"、"抜山蓋世"といった、司馬遷(しばせん。B.C.145?/B.C.135?-B.C.86?)の『史記(しき。紀伝体の史書)』絡みの内容は、むしろ漢文の世界ですので、漢文受験生にとっては知るべき分野として覚えておいた方が良いですね。

 ちなみに、秦帝国が崩れた後、南方の南海郡では、同郡のに任じられていた趙佗(ちょうた。?-B.C.137)によって占領されて、同地に南越国(なんえつ。B.C.203-B.C.111)が建国されました。できたら南越という国も知っておきましょう。いうまでもなく、ベトナムの越南国(えつなんこく。1802-1887)や、カンボジアの扶南(ふなん。1C/2C-7C半)、雲南の南詔(なんしょう。?-902)とは別物です。この南越国は、B.C.111年、前漢の名君・武帝(ぶてい。B.C.141-B.C.87)によって滅ぼされ、再び南海郡をはじめとする9郡が置かれることになります。武帝外政の1つとしてこれも重要です。

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