世界史の目-Vol.125-

無敵艦隊(The Spanish Armada Was Invincible)

 ハプスブルク家(スペイン=ハプスブルク家。1516-1700)に支配されていた16世紀のカトリック国スペイン。ハプスブルク家から出たスペイン国王フェリペ2世(位1556-98)は、イギリス・テューダー家(テューダー朝。1485-1603)のメアリ1世(位1553-58)を妃に迎え入れた(1554)。テューダー家のイギリスでは国教会(イングランド国教会)が中心であったが、メアリ1世はカトリック教徒(旧教徒)で、当然のことながら国教徒のテューダー家から冷遇された。メアリ1世と結婚したフェリペ2世は、スペインを西ヨーロッパのカトリック超大国に仕立て上げようとし、メアリ1世を使ってイギリスの旧教教会復興と国教会弾圧を断行した。このときのフェリペの支配域は、スペイン本国をはじめとして、ミラノ、ナポリ、シチリア、サルデーニャ、ネーデルラントまで広がり、またアメリカ大陸という大植民地、皇太子時代に彼の名にちなんで命名された植民地であるアジアのフィリピンまであわせると全世界中をまたぐ大領土であり、いわゆる"太陽の沈まぬ帝国"であった。1580年にはポルトガルも併合し(ポルトガル併合1580)、絶大な勢力を誇った。

 遡ること1571年、スペインはヴェネツィア、ローマ教皇らによって編制された十字架旗を靡かせる連合艦隊208隻でもって、強大化したオスマン帝国(1299-1922)の艦隊250隻(トルコ船は半月旗)と、ギリシアのコリント湾内にあるレパント沖で戦い、オスマン艦隊を撃退した(1571レパントの海戦)。大量の戦死者を出しながらも大国から勝利を得たことで、大いなる名声を恣にしたスペイン・フェリペ2世は、スペイン艦隊を国の象徴として考えるようになっていった。

 レパントの海戦では、連合艦隊、トルコ艦隊ともにガレー船が多く用いられた。ガレー船とは主に地中海内で使われた細長い大型の人力船で、櫂(かい)を使って多人数で漕ぎ、16世紀以降には火砲も導入された(帆船ほどではないが三角帆なども装備された)。17世紀以降は漕ぎ手は主に囚人や戦争捕虜が使用されたが、櫂を漕ぐ乗組員が多数いるため、兵士としても役立つことから、ガレー船はもっぱら軍用として使用された。
 ただし、この時期では軍用艦の改良期にもあたり、ガレー船をしのぐ強力な帆船も登場していた。実際レパントの海戦においては、旗艦はガレー船ではなく、ガレアス船と呼ばれる大型の軍用艦が用いられ、また四角帆と三角帆を組み合わせたキャラック船(カラック船)や、遠洋航海用として使われていたガレオン船といった大型帆船も軍用として用いられた。ガレオン船は3~4本の帆柱(マスト)と大砲を備え、速度が速く、商用・軍用双方に用いられた。商用ではスペインによるアカプルコ貿易で有名であり(ガレオン貿易といわれた)、イギリスでは私拿捕船長(私拿捕船。しだほせん。私掠船ともいう。政府から許可を得、敵国の船や町を攻撃、略奪する船。海賊の代表)で、イギリス初の世界周航者、フランシス=ドレーク(1540/1543?-96)が使用したゴールデン=ハインド号もガレオン船であった。

 イギリス・テューダー朝ではメアリ1世没後、異母妹エリザベス1世(1533-1603)が王位に就いたが(位1558-1603)、彼女は旧教復活という反動体制を敷いたメアリ1世とは違い、国教徒であった。エリザベス1世は、国教徒の始祖であり、父であるヘンリ8世(位1509-47)の国教会体制を継承して、不安定であった国教会の確立を施した。これが1559年統一法である。スペインのフェリペ2世はイギリスとの関係維持をはかるためエリザベスに結婚を求めたが、一国のみの関係を強めることが国際情勢を悪化させることを主張したエリザベスはこれを断り、"私はすでにイギリスと結婚した"と宣言して反カトリック精神を打ち出した。このためフェリペ2世はイギリスにいる旧教徒と結んでスコットランドにカトリックのメアリ=ステュアート(1542-87。位1542-67)のスコット女王擁立を後押ししたが、1587年エリザベスは彼女を処刑した。そればかりか、エリザベス1世は、私拿捕船長ドレークを起用して、南米のスペイン植民地を襲撃・略奪させた。このため、ドレークは悪魔の化身である"ドラゴン"を意味する"エル=ドラコ"と呼ばれ怖れられた(ドレーク自身も以前にスペイン艦隊に殺されそうになった経験があり、復讐に燃えていたとされる)。イギリスによる私拿捕船の横行はその後もスペイン植民地を中心に継続したが、こうした海賊行為はエリザベス1世の後押しのせいで、日増しに激化していった。このため、スペイン本国は植民地からの物資移送がままならず、スペインとイギリスとの関係は急激に悪化の一途をたどっていった。

 スペイン艦隊を国の象徴として考えていたフェリペ2世は、レパントの海戦で功のあったサンタクルス提督アルバロ=デ=バサン(1526-1588)の意見を聞き入れ、対英海戦にむけた艦隊増強を計画した(1583)。しかしレパントの海戦の7倍以上の予算であったためこの計画は流れ、代案となった。そして1587年、ドレーク率いるイギリス艦隊から襲撃があり、艦船20数艘が潰された。これをきっかけにスペインは艦隊の機動力と戦闘能力を中心とした改良計画を練り直すことになった。
 地中海内では風が弱いため帆船への改良が遅れており、帆より人力で動くガレー船が主流であった。こうした事情からレパントの海戦ではガレー船が多く用いられたわけだが、今回の改良計画においては、ガレー船を大幅に減らし、大型帆船化がはかられた。結果、1588年にはついに攻撃型艦船は130隻を超えるという、文字通りの"大艦隊(アルマダ。Spanish Armada)"となっていった。中でも大型艦船は多数の重砲を備え、重量も1000トン級である。国王フェリペ2世は、対英戦を"スペイン艦隊の父"と称されたサンタクルス提督アルバロ=デ=バサンに託し、臨戦態勢を整えた。

 1588年1月の予定で出撃に備えたが、国王フェリペ2世が急病を発したため延期、さらに2月には総指揮をとるはずであったアルバロ=デ=バサンが過労が元で死亡するハプニングが起こり、彼の指揮のもとで動いていた乗船兵は動揺した。しかも後任の総司令官は海軍経験のないアロンソ=ペレス=デ=グスマン(1550-1615。メディナ=シドニア公。アンダルシアの貴族)という陸軍畑の軍人であり、これにより彼のもとに集められた乗船兵は陸軍兵が3分の2を占めた。このため陸軍によってイギリス本土上陸後の陸戦中心に計画が移され、海戦中心とされていた艦隊は、必勝を前提として、堅実な戦術がとられなかった。突然の戦術変更に動揺が走ったが、全体の兵士数は3万人に及び、戦力に見劣りはなかった。一方イギリスでは上陸阻止を前提に海戦でのスペイン艦隊を壊滅するべく、海賊として西洋航路と海戦術に詳しいドレークが指揮官として任じられた。

 同年リスボン(ポルトガル首都)を出た130隻のスペイン艦隊は、7月から8月にかけて赤十字旗のイギリス艦隊と激しい戦闘を繰り広げた。このときのイギリス艦隊は100隻余で、乗船兵はスペイン兵の約半数であった。戦況としては、イギリス上陸後の陸戦を考えていたスペイン軍が、その上陸を阻止したイギリス軍によって痛めつけられる有様であった。結果スペインの誇る大艦隊は壊滅、イギリス上陸を実現することもなく大敗北を喫した。陸戦ならずとも、スペインは自国が誇る大艦隊を縦横無尽に活用することができなかった。

 当初はスペイン軍有利と見られていたこのアルマダ海戦。帰還したスペイン艦隊は半数も満たず、2万人もの死傷者を出した。敗因としては、悪天候でありながらも戦場が狭いドーヴァー海峡などイギリスの慣れた場所であったこと、イギリス艦隊はスペインよりも軽砲装備の小型船中心で、動き回りやすかったこと、海賊出身のドレークが指揮官であったため荒々しい戦法であったこと(数隻の炎上船をスペイン艦隊に突入させるなど)、イギリス海軍が誇るホーキンズ父子(父1532-95,子1562?-1622)の活躍、イギリスの距離を置いて砲撃する戦法と違いスペイン側は旧式の接近戦であり、また海戦経験のない軍人が多数を占めていたため航路と海戦術に慣れないことなどが挙げられた。イギリス側は対戦中200隻近くまで増援があり、スペインの大型船は次々と撃沈していったのであった。総指揮官アロンソ=ペレス=デ=グスマンはこの戦争に開戦前から不本意であったにもかかわらず戦争を指揮しなければならず、しかも敗戦を被った重責を背負い、暗愚な将軍として蔑まれていった。
 西欧の海上権を失ったスペインはその後オランダに独立を許し、(1609)、その間に国王フェリペ2世も没した(1598)。1640年にはポルトガルがスペインから離れていき、1659年のピレネー条約ではフランスからも圧せられ、スペインはこのときすでに"太陽の沈まない帝国"の面影がすでになく、1700年王家も断絶した(これによって引き起こされたのがスペイン継承戦争である)。

 戦勝国イギリスは名誉あるとされたスペイン大艦隊を、"Invincible(インヴィンシブル。"無敵"という意)"と皮肉り、"無敵艦隊(インヴィンシブル・アルマダ)"と呼んだ。これを境にイギリスは無敵艦隊を壊滅させた艦隊を誇りに国際的地位を上げ、海洋軍隊のさらなる強大化を目指していった。またエリザベス1世の晩年期には東インド会社も設立され(1600)、重商主義政策を推進、やがて"南・北の太平洋・南・北の大西洋・南氷洋・北氷洋・インド洋"のいわゆる「7つの海」を支配していく大英帝国の基礎が創られていくのである。


 "太陽の沈まない国"スペインが誇る大艦隊をご紹介しました。スペインの国力の充実がそのまま大艦隊に乗り移った形でありましたが、アルマダ海戦でイギリスに敗れてからは急速に衰退していきます。"無敵艦隊"という言葉はアルマダ海戦が終わってからつけられた呼称だったのですね。今年春にはエリザベス1世の治世が映画化されましたし、このあたりの時代についての関心が多く集まっているようです。

 スペインではフェリペ2世の時代です。バリバリのカトリック信者です。王妃でイギリス女王だったメアリ1世が生きている間は実にフェリペの思いのままであったことでしょう。しかしメアリが死んでイングランド国教徒であるエリザベス1世が即位してからは、宗教的対立に加えて海上権や植民地経営など経済的対立も絡んで戦争となっていきます。

 さて本日の学習ポイントです。レパントの海戦は非常に大事です。1571年も覚えましょう。またこれとセットで覚えてほしいのが、この戦争より前の1538年に、同じオスマン帝国相手に、スペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇の連合艦隊が挑んだプレヴェザの海戦というのがあります。こちらはオスマン側が勝っています。これも覚えましょう。
 アルマダ海戦は1588年という年代と、エリザベス率いるイギリスがスペイン無敵艦隊に勝ったこと、スペインが衰退するきっかけとなった戦争であることを知っておきましょう。またドレークは私拿捕船と世界周航で重要、ホーキンス父子も一応用語集に載っていますので、余裕があったら知っておいた方が良いと思います。

 最後に余談ですが、『ドン=キホーテ』の作者であるスペイン作家ミゲル=デ=セルバンテス(1547-1616)はレパントの海戦に従軍して左手が不自由になり、また、アルマダ海戦では食料徴発員として登場します。片やイギリスではアルマダ海戦の時にドレーク船長の指揮下で、貨物補給船船長として活躍したウィリアム=アダムズ(1564-1620)という人がいます。この人は後にリーフデ号に乗って日本に漂着し、日本に来日した最初のイギリス人として有名で、徳川家康(1542-1616)の側近として仕えました。日本名の三浦按針(みうら あんじん)としても知られています。

 次回の更新日は6月21日(土)頃となっております。期末テストの時期に入ってきますので、頑張ってイイ点取って下さいネ!!

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