世界史の目-Vol.126-

大統領任1037日・前編

 1962年のキューバ危機の回避、1963年の部分的核実験停止条約(PTBT)締結、インドシナ問題の早期改善計画など、常に大歴史が動く中でさまざまな偉業を果たし続けたジョン=フィッツジェラルド=ケネディ(1917-63)。民主党大統領として辣腕をふるい、輝かしい功績を収めた若き大政治家であった。

 1917年、ジョン=F=ケネディは、アイルランド系移民の子孫としてマサチューセッツ州ブルックラインに生まれた。カトリック一家で、父ジョセフ=P=ケネディ=シニア(1888-1969)は金融家であり、駐英大使も務めた(任1937-40)。また長男のジョセフ=P=ケネディ=ジュニア(1915-1944)というジョンの2歳年上の兄がいた。
 ジョンは1940年にハーヴァード大学(マサチューセッツ州ケンブリッジ)を優等で卒業した。卒論では第二次世界大戦時に開かれたミュンヘン会談(1938.9)におけるイギリスの外交政策がテーマだった(論題「なぜイギリスは眠っていたか」)。卒業後、海軍を志願し、大戦中は魚雷艇PT-109の艇長を務めた。

 1944年、同じく海軍に属していた長男ジョセフ=P=ケネディ=ジュニアが戦死、その翌1945年、ジョンは終戦直前に除隊した。その後は政界への進出を試み、まず民主党下院議員として政治家の一歩を踏み始めた(任1947-53)。1952年には上院議員へ出馬して大差で共和党候補に勝利した(任1953-60)。翌1953年には実業家の娘ジャクリーン=ブーヴィエ(1929-1994)と結婚した。

 ジョン=F=ケネディの存在を大きく知らしめたのは労働界の腐敗追及活動を行ってからで、これには弟のロバート=ケネディ(愛称"ボビー"。1925-1968)の活躍が光った。彼は大学卒業後に弁護士となり、その後司法省に入省(1951)、1954年から上院調査官を務めた。そこで彼は兄ジョンとともに、労働組合とマフィアのつながりを暴いて功績を挙げた。これによりケネディの名がいっきに知れ渡った。

 1960年、知名度を上げたジョン=F=ケネディは民主党の大統領候補者として大統領選へ参戦、現職の副大統領だったリチャード=ニクソン共和党。1913-94。副大統領任1952-60,大統領任1969-74)と戦うことになる。
 1960年大統領選挙戦で必ず取り上げられるのが、大統領選挙史上、初めて行われたディベート(公開政策討論会)である。当時はモノクロ映像でありながらも、ジョン=F=ケネディとニクソンとの白熱するディベートが全米でテレビ放映された。これまでのケネディは民主党の支持と大いなる期待を寄せられて立候補したものの、やはり圧倒的存在感を保つニクソン現職副大統領にはかなわず、ニクソン支持が遙かに上回っていた。しかしこのディベートによって、形勢が逆転、途端にケネディの支持率が増加した。ケネディ支持が高まった要因としては、一説では、テレビ出演の膝をケガして顔色のあまり良くないニクソンが、メイクを施さず出演して不健康そうに見え、一方のケネディは日焼けした健康そうな顔つきで登場しており、印象がまるで異なっていたことが挙げられた。またケネディの着ていた濃い色のスーツが決め手となり、薄色のスーツを着ていたニクソンは、モノクロ映像ではいっそう弱々しく見えたという。いずれにせよディベートが行われて以後、これまでニクソンに対して劣勢だったケネディが優勢に転じた。

 そして1960年11月8日の選挙日を迎えた。結果、僅差でケネディがニクソンを破り、選挙選出によってでは最も若い、43歳で当選した大統領が誕生したのである(ケネディ大統領誕生任1961.1.20-1963.11.22)。また初のカトリック教徒出身の大統領としても話題となった。翌1961年1月20日にケネディ大統領宣誓就任を行い、その就任演説において、"国家が国民のために何をしてくれるかを尋ねるのではなく、国民が国家のために何ができるかを尋ねてようではないか"と主張、アメリカ国民が新しい時代への先駆者となるための心構え、すなわち"ニュー・フロンティア"の精神を携えて国家を変えていこうとする内容であった。

 ケネディ大統領は弟のロバートを司法長官に迎えて、さっそくニュー・フロンティア政策に乗り出した。教育改革、高齢者の健康保障、貧困層救済策、人種差別問題などに及び、難題解決に向けて懸命に取り組んだ。特に人種差別問題では次期ジョンソン政権(任1963-69)において可決される公民権法(1964.7制定)へとつながっていく。
 外交対策では、ケネディ大統領の試練が次々と襲ってきた。まず最初の難関、冷戦下のドイツ/ベルリン問題では、第二次ベルリン危機(1958-62)に直面した。
 第二次世界大戦終了後、敗戦したドイツはポツダム協定に基づいて米英仏ソ4国によって分割占領され、首都ベルリンも同様に4国の共同管理下に置かれていた。その後第一次ベルリン危機(1948-49)において、東西関係悪化がドイツにおいて集約的に示され、結果西部および西ベルリンは西ドイツ(ドイツ連邦共和国。首都ボン)として西側陣営の一員として組み込まれ、再軍備がはかられた。また東部も東ベルリンを首都として東ドイツ(ドイツ民主共和国)として、ソ連を中心とする東側陣営の一員となった。東ドイツでは大胆に社会主義を取り入れたことで労働者や農民が西ドイツへ逃亡していく有様で、さらには医療従事者・知識人階級・技術者、その他多くの自由主義者も逃亡を激化させていき、事態は深刻であった。
 こうした情勢の中で、1961年6月に、ソ連のニキータ=フルシチョフ書記長(1894-1971。書記任1953-64)と会談、フルシチョフは"西側(米英仏)と、東ドイツとの平和条約締結、および達成後の西ベルリンにおける米英仏軍撤退"を提案した。西側における西ベルリン管理権を放棄する内容であったため、ケネディ大統領はあくまでも西ベルリンを守り抜く姿勢であり、撤退を拒否した。これにより、東ドイツで"ベルリンの壁"が構築されることになる。

 ベルリン危機をはじめとして、ケネディ外交は常に冷戦への対処に向けられた。ケネディ外交の代表とも言えるキューバ問題では、フィデル=カストロ(1926- )によって社会主義国家と化したキューバがソ連に接近し、ソ連が中距離核ミサイルIRBMの基地をキューバに建設していることで、アメリカ国内ではキューバ襲撃か、海上封鎖かで議論が分かれた。ケネディ大統領はNATO(北大西洋条約機構)の支持を得て海上封鎖を決断、中南米諸国には"進歩のための同盟"を呼びかけて反共を強調した。その後アメリカのU2偵察機が撃墜されるなどの悲運もあったが、結果フルシチョフ側が折れる形でソ連船は次々と引き上げていき、ミサイル基地も解体され、核戦争が勃発することなくキューバ危機は平和的に回避された。その後も米ソ間における平和解決は進展し、1963年8月には地下実験を除く大気圏内、宇宙空間及び水中における核実験を禁止する「部分的核実験停止条約(PTBT)」を米英ソ間で締結した。
 続くインドシナ問題においては、ケネディ大統領は南北ベトナム対立にむけての早期解決にあたり、約1万6000からなる軍事顧問団を南ベトナム(ベトナム共和国。アメリカ指揮下によるゴ=ディン=ディエム政権。1956-63.11)に派遣することを決定した(その後は国民に対するゴ政権の求心力が弱く、また援軍の効力も薄いと見て早期撤退を表明)。

 こうした数々の諸問題の解決に尽力したケネディ大統領であったが、アメリカがソ連に遅れをとっている最も重大な分野として、宇宙開発を指摘した。ソ連による人工衛星スプートニク1号打ち上げ成功は1957年10月で、アメリカはこれに遅れて翌1958年12月に成功した。しかし1961年に今度はソ連は有人人工衛星ボストーク1号を成功させた(宇宙飛行士ユーリ=ガガーリンによる"空は暗く、地球は青かった"は有名。1934-1968)。ケネディ大統領は60年代中に有人ロケットを発射させて月へ到達させる計画、いわゆるアポロ計画に関する予算案を通過、彼の在任中には達成できなかったが、1969年7月、ニール=アームストロング(1930-2012<2012.8.27追記>)をはじめとする宇宙飛行士を乗せたアポロ11号はついに月面着陸に成功した(ニクソン政権時代。任1969-74)。

 ケネディ大統領の功績は今でも伝説的に語り告げられ、アメリカ国民の心に留められていった。そして、大統領に就任して1037日目となる1963年11月22日、ケネディ大統領は翌年の大統領選挙での再選に向けて、遊説のためテキサス州ダラス市に降り立った。その後、誰もが予期せぬ事態が勃発し、全世界に衝撃が走ったのであった。


 2008年は第44代アメリカ合衆国大統領が決定される年です。こうした経緯を元に、今回は歴史を塗りかえた偉大な大統領、JFKことジョン=F=ケネディをご紹介しました。アメリカ史における前後編形態は初めてですが、受験世界史においては、現代史の最も重要な分野に生きた大統領として、よく出題されます。

 本編では紹介いたしませんでしたが、ケネディが大統領に就任して最初にぶつかった外交は、キューバ問題に関するピッグズ湾事件です。受験には出題されない事件ですが、カストロが社会主義宣言を行って以降、キューバとアメリカは絶縁状態になり、親米派のキューバ人は次々とキューバから亡命していきました。ケネディ大統領の前のドワイト=D=アイゼンハウアー大統領(任1953-61)の時代に、カストロ政権を打倒するため、亡命キューバ人に戦術・戦法を習わせて訓練させ、アメリカ正規軍を介入させた反革命軍としてキューバに乗り込ませる作戦を考えていました。しかしアイゼンハウアー大統領は任期が切れて退任、ケネディ大統領が就任しました。いきなりの難題です。本編でご紹介したとおり、彼はれっきとした平和共存主義者であり、この計画は半ば消極的であったためキューバ上陸は実行に移されたものの結果的には失敗しました。キューバ問題はその後エスカレートしてキューバ危機に突入していくのですが、ここでは見事、大戦争となるやもしれぬ大事態を回避させるという、大統領としての辣腕を発揮しております。

 さて、今回の学習ポイントです。ケネディの就任期間である1961年から63年は知っておいて下さい。また"ニュー・フロンティア"政策はよく出題されます。これは、今年の大統領選挙においても、民主党からでた候補者のバラック=H=オバマ氏(1961生)がフロンティア精神回帰を主張し、また彼にはジョン=F=ケネディの弟エドワード=ムーア=ケネディ(1932生)や、娘キャロライン=ケネディ(1957生)が支持するなど、フロンティア精神の再自覚が叫ばれていますね。そして、受験に出るケネディの偉業はやはりキューバ危機でしょう。キューバ危機のお話は「vol.19暗黒の土曜日」でご確認いただくこととして、1962年の話であること、相手のソ連書記長がフルシチョフであることです。本編では登場しませんでしたが、ケネディとフルシチョフの2人は、キューバ危機の反省からホットライン協定直通通信協定)を結んで直通で連絡が取り合えるようにしました。用語集にも登場していますのでチェックしておきましょう。また中南米相手には"進歩のための同盟"を結成しています。マイナー用語ですが、難関校入試などには登場するかも。

 またベルリン危機も登場しました。第一次はいわゆるベルリン封鎖のことで、冷戦関連としてよく出題されますが、第二次においてはベルリンの壁構築が重要ですね。1961年8月13日、東ドイツ政府はベルリン周囲と市内の東西境界線を遮断して、その後5年かけて30kmのコンクリート壁を構築します。このときの西ベルリン市長はヴィリー・ブラントであり(市長任1957-66。西ドイツ首相任1969-74)、ベルリン危機の際、西ベルリンを訪れたケネディ大統領とも会談した著名な政治家です(このときケネディは演説で"Ich bin ein Berliner<私もベルリン市民です!>"と最後に叫んだのは有名)。ブラントはベルリン危機の経験から西ドイツ首相に就任、"東方外交"と称して東側陣営との関係修復に尽力、冷戦緩和に努めていった政治家としても知られています。余談ですが、ブラントと、彼の"東方外交"も知っておきましょう。ちなみに"壁"はドイツ統一に伴い、1989年11月9日に開放されて、撤去されました。

 また現代社会の分野になりますが、1962年にケネディが唱えた「消費者の4権利」も知っておきましょう。4つとは①安全を求める権利②知らされる権利③選ぶ権利④意見を表明する権利、以上4つの権利です。

 さて、この続きは来週末に更新いたします。その"予期せぬ事態"、"全世界に走った衝撃"とはいったい何ぞ.....

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