世界史の目-Vol.129-

戦後のインドネシア政権(1945-98)

 バリ島、スマトラ島、ジャワ島、カリマンタン島といった、大小1万7500余の島からなるインドネシア。"東インドの島々"を意味するインドネシアは1949年末、、共和国としてオランダから悲願の独立を果たした。しかし独立までの道のりは非常に険しく、独立後も国際的地位を向上させるべくさまざまな努力がはかられた。

 インドネシアは、長くオランダ領東インドとしてオランダに支配され、その圧政と搾取に苦しみ続けたが、20世紀になり、オランダに抵抗する民族運動が勃発(インドネシア民族運動)、その後1911年結成のサレカット=イスラム(イスラム同盟)にはじまる自治獲得に向けての団体活動や、共産党(インドネシア共産党)や国民党(インドネシア国民党)の発足が相次ぎ、インドネシア独立の気運が高められていった。
 インドネシア国民党を創設したのはスカルノという人物である(1901-70)。初期の国民党自体はその後分裂をたどり、スカルノも複数回にわたる逮捕・流刑となった。しかし太平洋戦争(1941-45)が勃発してオランダ領東インドに侵攻した日本が、オランダを排除し同地を占領すると、日本軍とスカルノをはじめとする民族主義者たちは協力体制をとった(1942-45)。

 1945年、日本が敗戦となったことで、同年8月17日、スカルノは独立運動家のモハマド=ハッタ(1902-80)とともに、「インドネシア国民の名において」独立を宣言、インドネシア共和国を発足、"建国の父"となったスカルノは初代大統領に選任された(任1945-67)。しかしオランダは再植民地化へ向けて軍を送り、インドネシアはこれに対抗してゲリラ的武装闘争を展開、1948年スカルノ自身も一時的に逮捕・投獄された。その後国際連合の仲介で交渉がはかられ、結果ハーグ協定1949.11)で翌月オランダも独立を認めた(12月)。
 こうして、インドネシア連邦共和国が樹立された(翌1950年8月に"インドネシア共和国"が再発足)。冷戦時代の1955年4月にはジャワ西部のバンドンにて29ヵ国の首脳会議、第一回アジア=アフリカ会議(AA会議。バンドン会議)が開かれ、インドからジャワハルラール=ネルーネール。1889-1964)、中国から周恩来(しゅうおんらい。1898-1976。任1949-76)らも協力、スカルノは第三世界のリーダーとして反植民地主義・反帝国主義を強調し、国際的地位を高めた。またスカルノは内政においても唯一神への信仰・民族主義・人道主義・民主主義・社会主義からなる"建国五原則(パンチャ=シラ)"を提唱、国政を有利に導くことに努力した。
 ところが、1957年頃からスカルノの功績とは裏腹に、行政的運営は行き詰まり、憲法により定められてきた議会制民主主義が期待通りに機能せず、分散している地方権力の強勢、共産党の陸軍との対立など事態は深刻化していく。このためスカルノ大統領は構想の修正にかかり、打ち出したのが"指導される民主主義"であった。

 この大胆な転換で、議会制をとりやめるかわりにスカルノは国内の対立勢力の良き調停者とされ、1959年に議会は解散、憲法も独立時に制定された大統領権の強い1945年度版を採用した。これにより国内における大統領支持率は上昇していった。さらに1960年にはかねてからスカルノが唱えていた国づくりのスローガンであり、"Nasionalisme(ナショナリズム。国民党など民族主義)"・"Agama(宗教。ナフダトール=ウラマー(NU)などイスラム勢力)"・"Komunisme(共産党など共産主義)"をあわせた連合、"NASAKOM(ナサコム)"を体制化、スカルノは3勢力を均衡するべき指導者として権力を握り、1963年には終身大統領、また首相を兼任した。この挙国一致体制における中で、インドネシア共産党の勢力は日を追うごとに伸張、反西側陣営・反国連・親中国を強調していき、特にアメリカとの対立路線を強調した。同1963年には、成立した隣国マレーシアを承認せず、さらにそのマレーシアが国連安保理非常任理事国に選ばれたことに激怒、スカルノは国民からの支持率維持にむけて、共産党の見解を受け入れることにし、国連脱退を敢行、これにより、インドネシアは外交上孤立化した(インドネシア、国連脱退1965.1)。国際連合は創設以来、インドネシアが初の脱退となる。国連脱退によって、IMF(国際通貨基金)と国際復興開発銀行といった国連の経済機関からの援助も停止となり、インドネシアの経済状況は悪化していったことで、スカルノと共産党に対する国民の不満が立ち籠めていく。

 スカルノが共産党を支持基盤としたことは、陸軍にとっても大いなる危機感であった。インドネシア共産党は当時あった非社会主義国のなかで200万を数える最大の共産主義政党であっただけに、軍部と共産党との対立はますます激化しており、軍部内においても共産党支持者(左派)が主流の右派勢力を上回る傾向にあったからである。容共のスカルノ体制に対する不満が叫ばれる中、民衆は軍に拠り所を求めることから、軍政転換の声も聞かれるようになっていく。軍部内の左右の対立は大いなる緊張感を帯び、ただならぬ予感をはらんでいた。

 1965年9月30日深夜、左派系であるウントゥン中佐(1926-66。大統領親衛隊第一大隊長)が、陸軍によるスカルノ政権転覆を防ぐためとして、突如軍事行動を開始した。翌10月1日未明までに、陸軍司令官、司令補佐官、法査察官など数名の将軍を拉致、大統領官邸と国営ラジオ放送局を占拠、首都ジャカルタ制圧を試みた。これが九・三〇事件の勃発の瞬間である。陸軍右派は名将スハルト少将(1921-2008)のもとで行動を開始して迅速に鎮圧、ウントゥン中佐ら首謀者は逮捕され、クーデタは未遂に終わった。

 スカルノ大統領は、九・三〇事件後の政情安定化をスハルトに託し、全権をゆだねた。スハルト率いる陸軍右派は、この九・三〇事件を皮切りに、共産党および青年団や婦人会など、党の息がかかった親共勢力を次々と一掃していき、10月2日にその勢力は一瞬にして壊滅的となった。翌3日には拉致された軍人が遺体で発見され、スカルノ体制に大いなる動揺が走っていった。
 それ以後も共産主義勢力への血の弾圧が続けられた。1966年3月まで、インドネシア内で、事件の首謀者であったウントゥン中佐をはじめとして、おびただしい数の大虐殺が敢行された。一方で、インドネシアの経済状況悪化の責任はスカルノ大統領に向けられていき、事件の影響に呼応して反スカルノ運動に発展していった。これにはスハルトが援助し、事件の責任を大統領に追及していった。

 結果的にスカルノ大統領が全権を委任したスハルトによって失脚させられるという事態に発展、1966年3月11日、スハルトはスカルノに政権委譲を求め、スハルトは大統領代行としなり、スカルノは大統領としての権限を失った。スハルト体制になり国連復帰(1966)を果たしたものの、中国と断交(1967)に至り、九・三〇事件に端を発した政変は外交的にも影響を及ぼした。その後1968年3月、スハルトは第2代大統領に就任(任1968-98)、一方のスカルノは幽閉されたまま1970年6月、ジャカルタで没した(スカルノ死去。1970.6)。

 スハルト政権のもとでは、反共・親米路線は当然のこと、スカルノ政権では反対だったマレーシアを承認し、1967年8月には東南アジア諸国の協力機構、ASEAN東南アジア諸国連合)が創設され、周辺諸国との関係強化をはかった。その後大統領選挙での再選が続いて長期政権となり、工業化発展を推し進めて経済状況を修復、首都ジャカルタを繁栄させた。また軍に支えられた政権であるため、1974年東ティモール(旧ポルトガル領。ポルトガルの海外領土放棄により解放)を自国に併合した時には、独立運動を展開していた東ティモールを武力で制圧した(その後東ティモールは2002年5月に独立が達成された)。

 長期政権であったが、政治的利権を次々と手にした結果、汚職(korupusi)、癒着(kolusi)、縁故主義(nepotisme)のいわゆる"KKN"が取り沙汰された。さらに1997年、東アジア・東南アジア各国で波及した通貨危機(アジア通貨危機)が、インドネシアの通貨・ルピアにも及んだ。ルピア危機によって国内ではインフレーションがおこり、一部民衆は暴徒化した。さらに翌1998年には退任を訴える大衆運動に発展していった。
 スハルト政権は、一連の混乱を解決できなかったが、同年3月の大統領選挙を無投票で強行再選、7選を突破させた。これで国民の不満は爆発し、首都ジャカルタで反スハルト運動が展開、さらに地方にも波及した。このため与党の中でも離反が相次ぎ、辞任要求は日増しに高まった。結果5月、スハルトは大統領を退任した。スハルトの一族はその後汚職関連で逮捕・実刑判決を受けた。

 その後のインドネシアの政権はハビビ(任1998-99)、ワヒド(任1999-2001)、メガワティ(任2001-2004。スカルノの長女)、ユドヨノ(2004就任)と続き、現在に至っている。


 2回続けて東南アジア特集でした。今回はインドネシアでしたが、戦後で最もクローズアップされたスカルノ政権とスハルト政権を中心にご紹介しました。スハルト退任以降もご紹介したかったのですが、スペースの都合で別の機会にさせていただきます。ただ、ユドヨノ政権下では2004年12月のスマトラ島沖地震、2006年7月のスラウェシ島沖地震などのように、特に地震・津波など天災からの復興・管理対策に追われていることは記憶に新しいことでしょう。
 先頃スハルト氏が死去しましたが、30代後半の私は、子どもの頃からインドネシアの首脳といえばスハルトだったというイメージがありすぎてまして、1つの大きな時代だったと改めて考えさせられたものでした。

 インドネシアのオランダ占領時代、つまりオランダ領東インドとなった時代はVol.104「東インド会社と植民地経営競争」でも詳細がありますが、今回はインドネシア民族独立運動の勃発期からのご紹介です。本編ではご紹介しませんでしたが、サミン運動というのも起こりました。1908年、中部ジャワの農民サミン(?-1914)の神秘主義が広まったのが始まりです。これはサミン主義といって、人間の法則に従って正しく生き、労役の法則に従って正しく労役を行うと、かならず神の救いが得られるというもので、サミン派は納税として課された労役を、サミン主義に反するものだとしてこれを拒否しました。これをオランダ支配からの抵抗と解放と重ねて大規模な運動に広がっていったのです。このサミン運動は頻度数は少ないですが、新旧両課程において用語集でも登場します。また同じく1908年に結成されたインドネシア初の民族運動団体、"ブディ=ウトモ"も用語集に登場しています。ジャワ語で"最高の英知"を意味するブディ=ウトモは1908年に結成され、1935年まで続きました。下級貴族官吏や知識人が中心となってインドネシア人の社会的地位獲得を目指した団体です。サミン運動、ブディ=ウトモは受験では超マイナー級で出題されることは稀ですが、余裕があれば知っておきましょう。

 では、今回の学習ポイントを見ていきましょう。スカルノとスハルト両氏は現代アジア史では欠かせない人物です。まずスカルノ時代からですが、独立運動時代でのスカルノは、インドネシア国民党を引っ張りました。インドネシア共産党ではありませんので間違えないように。ちなみにインドネシア共産党は、1920年にできたアジア最初の共産党で、中国共産党より1年早く結成されております。さらにベトナム・ホー=チ=ミン(1890-1969)のインドシナ共産党は1930年結成です。またスカルノ時代では、1955年にアジア・アフリカ会議がバンドンで開催されました。1955年という年、バンドンという地名は重要です。平和10原則が採択されましたが、これは周恩来とネルーで掲げた平和5原則の発展形です。1965年、国際連合脱退を経験しています。目立った事件ですので覚えましょう。スカルノが転落したのは共産党と結んでからで、65年の九・三〇事件で失脚します。この事件はよく出題されますが、この事件の真相は未解明な部分も多々あるそうです。
 スハルト時代では、ASEAN(東南アジア諸国連合)が有名です。インドネシア・マレーシア・シンガポール・フィリピン・タイの5ヵ国でスタートし、84年にブルネイ、95年ベトナム、97年ラオスとミャンマー、99年カンボジアと、その後も加盟国が増え、10ヵ国体制となっています。

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