世界史の目-Vol.13-

国共合作・国共内戦

 1921年に開かれたワシントン会議で、日本の中国進出を警戒する英米は九ヵ国条約(アメリカ・イギリス・日本・フランス・イタリア・中国・オランダ・ベルギー・ポルトガル)を締結した。これは、第一次世界大戦後の、日本の中国に対する圧力を外す役目をなした。そして、社会主義国として誕生したソビエト連邦(ソ連)もカラハン宣言(1919)を出して中国を支持した。中国は1918年、すでに北京大学で社会主義・共産主義についての研究が、陳独秀(ちんどくしゅう。1880~1942)や李大釗(りたいしょう。1889~1927)らによって進められており、反帝国主義・反封建主義・打倒軍閥政府などによって展開された五・四運動(1919.5.4)などを背景として、中国共産党の結成を試みた。やがて、各国共産主義・社会主義政党の統一機関コミンテルン(活動1919~45)の指導をもとに、上海において中国共産党が結成された(1921陳独秀・李大釗)。一方孫文(1886~1925)も、ロシア革命(1917)、五・四運動、さらにカラハン宣言など刺激して、自身の秘密結社・中華革命党(1914.7)を改編し、1919年、中国国民党を結成、秘密結社から公開政党として展開していった。孫文はソ連外交官ヨッフェ(1883~1927)と会談して中国国民党一全大会1924広州。第1回全国代表大会)を開催し、国民協調主義路線を唱えて国民革命の実現を目指す国民党として、改組を強調した。この大会は、共産党・陳独秀と孫文との意気投合を実現させ、国民党と共産党が力を合わせて国民革命の目標を掲げることになった。これにより、共産党員が党籍を持ったまま個人として国民党への入党が認められ、孫文も辛亥革命(1911~12)の時の三民主義(民族独立・民権伸張・民生安定)を改めて、「連ソ・容共・扶助工農」をスローガンとして掲げた。この大会により、第1次国共合作が実現したのである。翌1925年、孫文が没するが、国共合作によって中国国民党は勢力が伸長した。また国民党は広州に士官学校である黄埔(こうほ)軍官学校(校長は蔣介石。しょうかいせき。1887~1975)を1924年に立ち上げ、武力の準備も進めた。

 1925年2月、上海の日本人経営の紡績工場で、中国人労働者が待遇の改善によるストライキを起こした。5月15日には労働者が射殺されるなど、排日闘争が激化した。さらに、5月30日には学生運動に労働運動が加わり、大規模なデモが展開され、このデモにイギリス警官隊が発砲し、多数の死傷者が出た(五・三〇事件)。このため、反日・反帝国主義運動が上海を拠点に北京や武漢、青島(チンタオ)、香港各地に波及した。この民族意識の高揚で7月、国民党は広州で広東国民政府(カントン)が樹立された。国民政府は国民革命を目指すべく国民政府軍(国民革命軍。北伐軍。ほくばつぐん。)を総司令・蔣介石のもとに発動し、北方軍閥制圧による軍事行動を開始した(第一次北伐1926.7)。10月は武漢を占領した。しかし、孫文死後の国民党内では蔣介石率いる国民党右派と、左派と組んだ共産党勢力との対立がおこっていた。国民党右派は蔣介石を中心に北伐を進めていったが、その間国民党左派と共産党は、1927年2月、広東国民政府を武漢に移し、武漢国民政府となった。

 北伐軍が上海に迫った1927年3月、当時の上海は帝国主義列強が集中し、同地を中心に活動する資本家や銀行家ら(浙江財閥。せっこうざいばつ。)の活動があり、蔣介石率いる国民党右派は警戒していた。やがて、共産党の指導で上海の労働者らが蜂起し、上海を解放したため、帝国主義列強ならびに浙江財閥は蔣介石に共産党員の弾圧を求め、4月12日、北伐を中断し多数の共産党員ならびに労働者を虐殺した(上海クーデタ。四・一二事件。)。左派勢力・共産党勢力一掃後、蔣介石は国民党右派による政府を南京で樹立した(南京国民政府。1927.4)。やがて武漢国民政府も内部対立がおこり、上海クーデタを機に国民党左派は反共的になり、容共の原則が崩れた。7月共産党が離れていき(第1次国共合作解消)、9月、武漢政府は南京政府と合流した。これにより翌年北伐を再開(第2次北伐 1928.4)、当時日本の田中義一内閣(1927.4~29.7 立憲政友会)は積極外交の立場から、国民政府拡大阻止に乗り出し、山東出兵(1927~28 計3次)を行った。第2次出兵の時には北伐軍と日本軍が山東の済南(せいなん)で衝突し(済南事件 1928.5)、反日がさらに強まった。

 一方軍閥では、日本軍に支持された奉天軍閥(東北軍閥)の張作霖(ちょうさくりん1875~1928)が北京で勢力を上げていたが、1928年6月、北伐軍と戦って敗れ、北伐軍は北京を占領した。同年同月、張作霖は本拠地の奉天に列車で引き揚げる途中、関東軍河本大作(こうもとだいさく)大佐の陰謀によって、列車もろとも爆発させられ、死亡した。これは張作霖爆殺事件あるいは奉天事件などと呼ばれたが、日本ではこの真相は隠されたため、満州某重大事件と呼ばれた。張作霖の子張学良(1901~2001)は反日の姿勢をとり、奉天軍閥を消滅させて国民政府側につき、忠誠を示したことにより、北伐を完了、軍閥時代の終焉とともに国民革命による中国統一は完成した(1928.12)。

 さて、武漢政府から離れた中国共産党は、江南に移った。1927年8月1日、党指導者でもあり、軍人でもある四川出身の朱徳(しゅとく1886~1976)は約3万の部隊を引き連れて江西省南昌(なんしょう)で蜂起したが(8月1日は現在の建軍記念日)、国民党軍の反撃を受けて失敗した。この時の組織された軍隊が紅軍(こうぐん)である。南昌蜂起は失敗したが、これを機に紅軍は次第に成長・発展し、湖南出身の党指導者毛沢東(もうたくとう 1893~1976)は湖南・江西両省境南部の井崗山(せいこうざん)に、ソヴィエト政権を樹立し、朱徳の軍と合流した。1930年、江南を中心にソヴィエト地区が19区に増え、翌1931年11月、江西省瑞金(ずいきん)を首都に中華ソヴィエト共和国が誕生し、臨時政府の樹立が宣言された(主席毛沢東)。

 北伐完成による国民政府の中国統一によって、日本は満州の特殊権益確保を主張するべく、関東軍はある行動を起こした。1931年9月18日夜、奉天郊外の柳条湖(りゅうじょうこ)で、関東軍司令官本庄繁(ほんじょう しげる 1876~1945)は南満鉄の鉄道線をみずから爆破し(柳条湖事件)、これを張学良率いる中国側の仕業とし、関東軍参謀石原莞爾(いしはら かんじ 1889~1949)らによって満州は奇襲攻撃され、東北地方全土は関東軍によって制圧された(満州事変 1931.9~1932.3)。国際連盟での国際法の交戦国条項に違反せぬよう、"事変"と称し、宣戦布告なしで開戦したものだった。この間にも、上海でも日本人僧侶殺害事件を口実に軍事行動を起こしている(第1次上海事変 1932.1)。国際連盟は、日本の行動を正当防衛ではなく、"侵略"行為で不当とし、リットン調査団を派遣させた(1932.2~7)。関東軍は急いで満州人の自発的独立国とみせかけ、1932年3月にロボット国家、満州国を成立させた。さらに、清朝最後の皇帝・宣統帝溥儀(せんとうていふぎ 1906~67)を執政に就かせ、1934年には帝政をしいて皇帝に就かせた。しかし国際連盟がこれを認めなかったことで、日本は国際連盟脱退を通告1933.3)、日本はヴェルサイユ体制から退き、国際的に孤立した。これにより、中国全土に抗日運動が続発した。

 国民政府は満州事変を対処している間も、共産党の紅軍との闘争を繰り返していた。江西省瑞金を中心とする共産党支配地区(解放区という)を4度にわたって包囲したが、うまくいかず、1933年には5回目の解放区包囲戦を行った。このときの共産党紅軍はコミンテルンの派遣するソ連の留学生らによって指揮され、陣地防衛戦術をとったが失敗し、瑞金陥落の危機に直面した。このため紅軍は瑞金を捨てて陝西省(せんせいしょう)北部の延安へ1年かけて大移動した(長征大西遷。1934.10~36.10)、12000㎞の長旅で多くの犠牲者を出しながらも、延安にたどりついた共産党は、延安を解放区として、結束を固めた。長征の途中、貴州省で遵義会議を開催し(じゅんぎかいぎ 1935.1)、毛沢東が共産党の指導者として確立したのである。また同年7月、コミンテルンで第7回大会が開かれ、ナチス台頭に対抗する人民戦線戦術が打ち出され、これに共鳴した共産党は同年8月1日、国共内戦の停止と抗日民族統一戦線の結成を呼びかけた(八・一宣言)。この間の国民政府は、英米の援助をうけ、貨幣の全統一(幣制改革 1935.11)を行い、国民政府が発行した銀行券を法幣としたことによって地方に残存する軍閥を圧倒し、蔣介石の独裁政権を安定方向に導かせていた時期であり、毛沢東は国民党と結集することによって大規模な統一勢力をもたらし、日本帝国主義に立ち向かう姿勢を求めたのである。

 ただ、国民政府内では、張学良が2度目の国共合作に同意したものの、蔣介石は紅軍に対する攻撃を捨てきれなかった。このため、張学良は、1936年12月、紅軍討伐の督戦のため西安に赴いた蔣介石を、武力で突如幽閉、監禁した(西安事件)。その後は、共産党の周恩来(しゅうおんらい 1898~1976)が党代表として張学良らを説得して蔣介石を釈放させ、彼に抗日を約束させた。これにより、国共合作の動きが急速に進み、1937年7月7日盧溝橋事件(ろこうきょう)を契機にして同年9月抗日民族統一戦線が成立、第2次国共合作が誕生した。

 盧溝橋は北京郊外にあり、その周辺で日本中国駐屯軍の演習中に中国軍陣地から放たれた謎の発砲と日本軍1名が失踪した事件が盧溝橋事件である。これで日中は全面的な交戦状態になった(日中戦争 1937~45)。この時日本の近衛文麿内閣(このえふみまろ。第1次 1937.6~39.1)は勃発当初不拡大方針をとったが、軍部の強硬派におされ大軍を派兵した。上海でも第2次上海事変(1937.8)を起こすなど、戦域が徐々に拡大した。国共合作によって紅軍は国民党と合体して八路軍(はちろぐん)や新四軍(しんしぐん)などと呼ばれ、日本に抵抗したが、12月首都南京を攻略され、南京市民の殺害事件も起こった。さらに日本軍は10月下旬広州、武漢を占領したため、国民政府は英・米・ソ連の援助で四川省の重慶(じゅうけい)に遷都して抗戦を続けた(重慶政府 1938~46)。これに対し日本は1940年3月、南京において、もと国民党左派出身の蔣介石のライバル、汪兆銘(おうちょうめい 1885~1944)の親日政権を建て(南京政府。汪政権。)、戦争は長期戦となった。

 1945年、日本が無条件降伏を発したことで日中戦争も終結した。戦後中国は満州(東北地方)と台湾を回復して国際連合では常任理事国の一員となった。しかし国内では、抗日戦勝後の統一国家の在り方をめぐって国共はまた分離し、対立が再燃した。これは1945年10月重慶で毛沢東・蔣介石との間で双十協定を結んで国共停戦を約束した。翌年1月には内戦収拾のため、政治協商会議を重慶で開き、アメリカの調停で停戦協定が成立したが、国民党はこれを守らず、決議を破棄して、1945年7月、国共内戦が本格化した。蔣介石は国民政府の憲法を発布(1947)して翌年中華民国初代総統になるが、中国共産党の指導する人民解放軍(八路軍・新四軍から改称)に敗れ台湾へ亡命し、台湾国民政府を樹立した(1949.12)。一方共産党は中国本土を掌握し、毛沢東主席は中華人民共和国建国の宣言を発した(1949.10)。首都は北京で、首相は周恩来が就任し、社会主義移行政策が進められていく。

 中国史はどうしても大作になりますね。およそ30年分の歴史でしたが、内容がありすぎて、かなり長くなってしまいました。

さて、今回は初登場の国が出てまいりました。そう、日本です。世界史と日本史では、本編の範囲は覚える重要度が異なりますし、項目名の違いも多く見受けられます。例えば、世界史分野では「張作霖爆殺事件」という呼称も、日本史では「満州某重大事件」と呼ばれたりしますから、注意しないといけませんね。

 この時代のポイントを幾つかご紹介しましょう。まず、中国政府はあらゆる場所に顔を出していますので、間違えないようにしましょう。広州(広東)、武漢、重慶は国民党主体で、瑞金、延安は共産党主体です。汪兆銘の南京は日本中心の政権です。さらに、人物。孫文・蔣介石・張学良は国民党、陳独秀・李大釗・朱徳・毛沢東・周恩来は共産党、日本に関わった人物として登場するのが張作霖・汪兆銘(国民党左派)、というように、どこに属していたか知っておくべきですね。

 年代については、満州事変(1931)は"(いくさ)り口満州事変"と覚えました。1933年の連盟脱退は、"散々言われて連盟脱退"という覚え方があります。 

(注)UNICODEを対応していないブラウザでは、漢字によっては"?"の表示がされます。"蔣介石"(しょうかいせき。"蒋"のへんが爿)。

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