世界史の目-Vol.130-

王妃の親友
~革命前夜の大事件~

 18世紀末期のフランス・ブルボン朝(1589-1792,1814-30)。太陽王ルイ14世(位1643-1715)が登場して以来、ブルボン王政は宮廷の浪費、戦費捻出による平民への増税、貴族たちへの年金などで財政悪化が深刻になっていた。ルイ16世(位1774-1792)の治世になってもこの問題は打開されず、重農主義経済学者テュルゴー(1727-81)や銀行家ネッケル(1732-1804)を起用して改革を試みるなど苦心するも、結果的にはフランスの身分制議会である三部会が175年ぶりに開かれ(1789.5.5)、これはやがて勃発する大革命への途を開いた。

 ルイ16世の妃であるマリ=アントワネット(1755-93)も浪費家として有名であった。彼女はハプスブルク=ロートリンゲン家から出たオーストリア皇帝フランツ1世(位1745-65)と、その妃マリア=テレジア(1717-80。実際はマリアが主に統治)との間にできた末娘であったため、オーストリアと敵対するフランス国民からは疎まれていた。

 当時、ヴァロワ家から出たかつてのフランス国王・アンリ2世(位1547-59)の末裔でジャンヌという娘がいた(1756-91?)。彼女は、9歳の時に両親を亡くし、修道院での教育を受けたが、修道女になるのをためらい、22歳になった1778年に寄宿学校から逃亡した。ジャンヌはヴァロワ家出身であることを誇りに思っていたが、ヴァロワの天下はすでに終わり(ヴァロワ朝。1328-1589)、ブルボン王朝となってからは没落していく一方であった。ジャンヌは失意のうちに没した両親のためにも、ヴァロワ家の名誉を回復させることに力を尽くすことを誓った。
 1780年、ジャンヌは貴族と結婚し、伯爵夫人となった(ジャンヌ=ド=ラ=モット)。以後彼女は、ヴェルサイユにおける王室内の情報を取り込み、また人脈を拡げていった。しかし結局は相手にされず、宮殿を前に門前払いされる毎日であった。

 やがてジャンヌは枢機卿(カトリック教会の高級聖職。ローマ教皇の最高顧問とし、教皇選挙権を独占する)にも接触できるようになった。その枢機卿はストラスブール(フランス、下ライン県の首都)出身のルイ=ド=ロアン(1734-1803)といった。ロアン枢機卿は将来宰相になることを夢見ていたが、彼は酒や女遊びに耽って身をもちくずしていたため王室、特に妃マリ=アントワネットからはひどく嫌われていた。しかしロアン枢機卿の野心は大きく、機会がくるのを信じて待っていた。
 実はジャンヌが枢機卿と接することができたのは、ある大嘘を吹いたからである。それは、ジャンヌがマリ=アントワネットと"親友"であるというものであった。ロアン枢機卿は自身の野望と重ね合わせてジャンヌの言葉すっかり信じ込んでしまった。

 遡ること前王のルイ15世(1710-74)の治世(位1715-74)。この時代の王室も負けず劣らずの浪費三昧で、ポンパドゥール公爵夫人(1721-64)はその代表であった。夫人が没して5年後、デュ=バリー夫人(1743-93)を寵愛したルイ15世は彼女を公妾にしたが、彼女は男性遍歴が多かったとされ、当時太子ルイ(のちのルイ16世)に嫁いでいたマリ=アントワネットから娼婦呼ばわりされ嫌われた。
 ルイ15世はデュ=バリー夫人のこうした心痛を癒そうと、160万リーブル(時価200億円近く)の首飾りを注文した。540個のダイヤモンドが大小にちりばめられたこの首飾りはすぐさま王室御用達の宝石商によって製作された。しかし予期せぬ事態が起こった。ルイ15世が急逝したのである(1774)。このため発注はキャンセルされ、宝石商はこの高額な首飾りの買い手探しに難航していた。
 宝石商はマリ=アントワネットに売り込んだ。彼女はダイヤモンドに目がなかったが、元来デュ=バリー夫人に贈る首飾りとして製作されたことがわかると買うのを躊躇し始めた。また160万リーブルという高値もネックとなっていたため、宝石商はこの手の高額な商品は王妃となるマリ=アントワネットしか買えないと判断し、営業が破産するのを怖れて、それ以後も売り込みを絶えず行った。しかし直接彼女に説得するのは難しく、仲介を果たしてくれるブローカー的存在を探し続けていった。

 時代は戻る。ジャンヌはロアン枢機卿に取り入ってから、王妃の"親友"と嘘を吹き続け、金品を騙し取っていた。ジャンヌはヴァロワ家再興を掲げて大金を"嘘"で得るようになっていった。さらに伯爵・医師を自称する錬金術師カリオストロ(1743-95)の加担もあって(真相不明)、ジャンヌの嘘はますますエスカレートしていった。その"嘘"とは甚だしいもので、1784年夏、王妃に酷似した娼婦ニコル=ドリヴァ(偽名。本名マリー=ニコル。1761?-?)を王妃に仕立てて、ロアン枢機卿と面会させたのである。これは、ジャンヌが王妃と"親友"であることを証明するためであったが、ロアン自身もまた王妃に好かれていないことで、宰相に就くことの実現が常に不安であったこともあって、謁見したロアンに安心させ、実は嫌ってはいない、取り越し苦労だったことを思わせ、これによってジャンヌに対する信頼を完全なものにさせるためでもあった。会った場所もヴェルサイユ宮殿にある"ヴィーナスの繁み"と呼ばれた庭だった(現在、"王妃の樹木庭園"と呼ばれる庭園)。実際は偽王妃であったが、それとはつゆ知らず枢機卿は念願の謁見に満足であった。

 1785年1月、あのデュ=バリー夫人用の首飾りの話題がジャンヌの耳に入ってきた。首飾りが完成してから10年、いまだ買い手が見つからず、また王妃も購入に意欲がわかない状態であり、宝石商も苦悩していた。そこで宝石商は王妃の"親友"であるジャンヌに、王妃に首飾りを購入してもらうよう仲介してもらうよう依頼した。そこで、ジャンヌは生涯かけた大詐欺を計画し、この依頼を承諾した。
 まずジャンヌはロアン枢機卿に依頼した。内容によると、"親友"であるマリ=アントワネットが160万リーブルのダイヤの首飾りの購入を考えているのだが、代金の準備に時間がかかるため、枢機卿に代理としてこの首飾りを宝石商から受け取り、受け取った首飾りはジャンヌが王妃に届けるのとひきかえに、枢機卿が願っている宰相の地位を検討するというもので、当然のことながら依頼を受けることになる。

 これにより、160万リーブルもするダイヤの首飾りは、ジャンヌの手に渡ってしまった。宝石商は首飾りが王妃によって購入されたと思いこみ、念願がかなったと喜んだ。枢機卿は王妃に気に入られて、宰相就任へのステップは保障されたと、同様に喜んだ。しかし実際の彼らはジャンヌに騙されただけであった。当然、宝石商に支払われるはずの首飾り代金が送られて来ることもなく、王室からは何の音沙汰もなかった。

 宝石商は代金を滞納する王室に対し、その側近に問い詰めたことで、ジャンヌは王妃とは"親友"ではないことがわかり、騙されたことが分かった。ロアン枢機卿も自身が会っていた王妃が別人であったこと、王室御用達で製作された首飾りを王室の無関係者に手渡してしたことに衝撃を受けると同時に、自身の夢である宰相への出世にも絶望感が走った。
 そして、ジャンヌもまた同様である。騙し取った首飾りはばらで売って私財に換えてしまったが、詐欺が見抜かれた瞬間、彼女の野望であったヴァロワ家の再興は完全に打ち砕かれたのであった。

 同年8月、ジャンヌを筆頭に、ロアン枢機卿、ニコル=ドリヴァ、カリオストロ伯爵が詐欺罪で次々に逮捕された。ただでさえ国民より不人気であったマリ=アントワネットは、自身はあくまで名前を騙られた被害者で、さらに事件とは全く無関係でありながら、王妃の浪費癖が事件の根源であるとか、さらには王妃がこの事件を導かせたなどとありもしない噂が広まり、ますます王妃に対する嫌悪感が強まった。さらに王室全体の責任問題にまで発展していった。
 アントワネットは激怒して事件の関係者を全員処罰することを訴え、最高司法機関であるパリ高等法院に裁判を起こした。しかし大革命の風が吹き付ける時世、高等法院側はすでに反王室派となっており、また貧困社会から抜け出せないでいる国民の世論、さらに社会的影響の大きさも指摘されたことで、王妃の求めた判決とは大きくかけ離れてしまうことになる。
 1786年5月、判決が言い渡された。王妃に嫌われていたロアン枢機卿は無罪となり、王妃に似たニコル=ドリヴァも無罪、カリオストロ伯爵も無罪となり、この事件で王妃が初めてその存在を知った、首謀者ジャンヌ=ド=ラ=モット伯爵夫人に対しては、過去一度も出会ったことがないにもかかわらず、"親友"をさらに飛躍した同性愛による"愛人"関係であるという根も葉もない噂を取り上げられ、有罪・終身刑となったのである。したがって王妃にしてみれば、王妃の気に入らない人物は無罪に、気に入っている(とされた)人物は有罪となったわけで、事実無根の内容で虐げられた形となった王妃は、結果的に国民からの失望をいっきに加速させることになった。それは当時の政治・経済・社会の事情から腐敗王室へと映り、市民革命勃発を促す要因となっていく。

 終身刑を言い渡されたジャンヌは直ちに幽閉された後、高等法院の中庭で公開鞭打ち刑に処された。さらに両肩に「V」の焼き印(焼き鏝。やきごて)を捺された。この"V"は"Voleuse(ヴォルーズ)"、つまりフランス語で"泥棒"を意味し、当時の刑法であった。
 王室批判が増幅するなか、国民はジャンヌに対して同情された。その後ジャンヌは、収容されたサルペトリエール監獄(負傷兵医院で、当時は監獄も兼ねていた。現在はサルペトリエール病院として残る)から脱走し、イギリスに亡命した(正確な脱走時期は不明。脱走法としてはオルレアン貴族の手引きによる説もある)。ロンドンに身を落ち着かせたジャンヌは、自身の回想録を筆記した。その中には当然、フランス王室を揺るがせた大詐欺事件のことも触れられていた。王妃の悪評が蔓延している中で、ジャンヌ自身も書面で王妃を鋭く中傷し、王妃の事件関与を匂わせた。

 1791年6月20日深夜、フランスでは国王ルイ16世一家が王妃の故郷に逃げ込もうとする、いわゆるヴァレンヌ逃亡事件(1791.6)が起こり、フランス王室は窮地に立たされた。さらにオーストリアとの革命戦争の気運がもたらされる始末となる。そんな中で8月23日、ジャンヌ元伯爵夫人がロンドンのホテル(自宅?)で死体となって発見された。窓からの転落であったが、精神的発作を起こして転落したとも、強盗に襲われて転落したとも言われ、真相は明らかではない。革命が戦争に発展していき、いつ王権が停止されるか分からない中で、ひっそりと命を落としたジャンヌに、フランス国民はどれほどの関心があったのだろうか?その後フランスは王権が停止されて、共和政となった(1792.9)。王党派を撲滅しようとするジャコバン山岳派が主導権を握る恐怖政治体制の中、マリ=アントワネットは威風堂々とした姿で断頭台に立ち、刑は執行された(1793.10)。ジャンヌが死んだ2年後のことであった。


 マリ=アントワネットの当時の不人気ぶりは本編でも大いに理解できると思います。王妃は「パンがないのならお菓子を食べたらいいのに」との言葉を発したとされていますが、本当に発したかどうか真相は現在も不明であるにせよ、この言葉から彼女の性格があらわれていますね。その不人気にさらに拍車がかかった原因が、この首飾り事件です。この事件は受験世界史では全くと言っていいほど触れられないお話ですが、1789年に始まるフランス革命の遠因とされていることで有名で、近年においても映画化、歌劇化されたことでも知られています。実は真相に不明な部分が多くあり、そうしたことからフィクション化されやすく、史実とかけ離れて語られる場合も多々あるようです。

 それでは、今回の学習ポイントです。舞台は革命勃発前のフランスです。言うまでもなくブルボン朝時代です。この時代の内容は「Vol.14Vol.15Vol.16」の巻末にある学習ポイントで確認していただくとして、本編の本筋からとりあげてみましょう。と、言ってもジャンヌ=ド=ラ=モット、ロアン枢機卿、カリオストロ伯爵、デュ=バリー夫人といった人物は、先述のとおり、受験には全く登場しません。当然のことながら、"首飾り事件"という用語そのものも登場することがありませんので、受験生の皆さんはご安心下さい。

 ただし、ジャンヌ夫人の末裔であったアンリ2世に関してですが、彼の王妃は受験世界史ではかなり有名な方です。フィレンツェのメディチ家出身のカトリーヌ=ド=メディシス(1519-89)という女性です。3人の子を次々とヴァロワ朝国王に仕立てた人物で、その無定見がゆえにサン=バルテルミの虐殺(1572.8.24)が起こり、これを機に1562年から始まっていたフランス最大の宗教戦争であるユグノー戦争(1562-98)もどんどん過激さを増していきます。ヴァロワ朝が自滅するきっかけとなったこの一連の事件は入試頻出事項で、非常に大事です(「Vol.7 3人のアンリとヴァロワ朝の断絶」参照)。

 ちなみに、断頭台はギロチンのことですが、普通、断頭台での処刑の際、後頭部を上にして、つまり刃先の方向に向けて顔を下に置く形がとられました。つまり刃が落ちてくるのを見ずして首が刎ねられるのですが、アントワネット王妃の公開処刑では、なんと顔を上に向けられて処刑されたそうです(諸説あり)。つまり刃が落ちてくるのを見ながら刎ねられたということになります。それでも王妃の最後の姿は、国王の妃として威勢良く勇敢な面持ちであったとされています。国民の反感を買い、"オーストリア女"と罵られた王妃の壮絶な最期に、当時に生きたフランス国民はどのような感情を抱いたのか....皆さんはどうお感じですか?

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