世界史の目-Vol.131-

デリー=スルタン政権の諸王朝

 12世紀後半にトルコ系イスラム政権、ガズナ朝(962-1186)を滅ぼし、拠点のアフガニスタンだけでなくイラン東部をも支配下に入れたゴール朝(1100?-1215。1148年自立か?。アフガン中央部のゴール地方が拠点)は、13世紀になって、13代君主ムハンマド=ゴーリー(位1202-06。称号シバーブ=アッディーン。ムイッズ=アッディーン)の時に、ようやくインド進出を果たした。イスラム政権の北インド進出の開始である。ゴール朝はその後ホラズム朝(ホラズム=シャー朝。1077-1231)によってイラン東部は失ったが、インドでの勢力は保たれた。しかしムハンマド=ゴーリーは1206年陣没(暗殺?)し、その後ゴール朝は統一力が衰えて1215年滅んだ。
 この時代のイスラーム世界では、白人奴隷として買われていたトルコ系やスラヴ系の民族が、専門の訓練学校で軍事的な戦術と、アラビア語やコーランなどの学術の養育を受け、忠誠心でもって政治・軍事的集団として仕えた奴隷軍人階級がおり、それはマムルークと呼ばれたが(マムルークになると奴隷身分から解放される)、ムハンマド=ゴーリーに仕えたマムルーク階級は特に優秀・強力であった。ムハンマド=ゴーリー没後にゴール朝が衰えたのは、ゴーリーに仕えたマムルークが自立し、これをゴール朝の次代君主たちが統一できなかったとされているが、事実、マムルークはインドのデリーにおいて、政権を勝ち獲ったのである。

 そのマムルークはクトゥブッディーン=アイバク(?-1210)と言い、トルコ系遊牧民奴隷の出身であった。北東イランのホラーサーン地方でムハンマド=ゴーリーに買われ、その後マムルークとして君主に仕えた。ゴール朝の北インド進出の陰の立役者であり、彼はゴーリーによってインド方面の総司令官を任命されて、北インドのラージプート族(クシャトリヤに位置する上層カースト。古代統一王朝が登場しなくなった(参照)7世紀後半以降、ヒンドゥーの在地勢力としてガンジス川中流域以西に広く分布し、諸々強力な政権をおこした)を抑え付け、ゴーリーによりデリーの総督に任命され、同地を拠点に北インド支配を行った。しかし1206年、前述のゴーリー陣没によりこれ以上ゴール朝が存続することに難を示したアイバクは、自らデリーを拠点に自身の政権をたてることを決意、同年スルタンを称し(位1206-10)、デリーを首都とする奴隷王朝(1206-90)をおこした。インドにおける最初のイスラム王朝の誕生である(デリー=スルタン政権)。マムルーク出身者が政権の座についたため、王朝名には"奴隷"がつくが、れっきとした固有名詞である(英語は"Slave Dynasty"という。"奴隷"という呼称を避けるために、エジプトのマムルーク朝(1250-1517)に対し、"インドのマムルーク朝"と呼ばれる場合もある)。

 アイバクによってもたらされたインドのイスラム政権によって、同地ではイスラム文化が開化した。この時代、デリー南郊のクトゥブ地域には「クーワットゥルイスラム("イスラムの力"の意)」と言われた巨大なモスクや、クトゥブ=ミナールと呼ばれるミナレット(尖塔)が残され、アイバクの偉大さが証明されている。また彼がゴール朝時代にマムルークとして発掘したシャムスッディーン=イルトゥトゥミシュ(イレトゥミシュ。?-1236)もアイバクに仕え、彼の養子となって奴隷王朝建設に尽力した。アイバクは1210年、落馬による負傷がもとで没したが、デリー支配の基礎が確立される矢先の死であり、国中が動揺と悲しみに包まれた。子がスルタンを継いだが(アーラーム=シャー。位1210-11)、すぐさまイルトゥトゥミシュとの内紛が起こり、結果アーラーム=シャーは敗れ、イルトゥトゥミシュが第3代君主として即位した(位1210-36)。

 イルトゥトゥミシュ時代では、ホラズム朝を倒すなど当時最も勢いが盛んであったモンゴルのチンギス=ハン(ハン位1206-27)の軍が最大の敵であった。チンギスに追われたホラズムの王子がインドに逃げ込んだ時、イルトゥトゥミシュはこれを外に追いやることによって、モンゴル軍を震え上がらせ、侵攻を回避したという有名な話がある。

 内政においても軍事的・政治的にも辣腕を発揮、経済では貨幣制度を整備して中央集権体制を確立、デリーにおける安定したスルタン政権を確立させた。また彼に仕えたマムルーク出身のバルバン(?-1287)も陰から政権を支え、その後イルトゥトゥミシュの養子になった。

 イルトゥトゥミシュは1236年に没し、その後継承する一族の政権は弱体化したのを受けて、結局バルバンが政権を奪取(1266)、彼もまた世襲制をとった。歴史は繰り返すの典型で、アイバクの時と全く同様、一族は奴隷であるマムルーク出身者によって政権を奪われ、その後は世襲化されるといった事からも、奴隷王朝の名が窺える。しかしバルバン死後、彼の孫カイクバード(?-1290)が即位したものの(位1287-90)、イルトゥトゥミシュ系貴族の内紛を抑えることができず、スルタンの権威は弱まり、奴隷王朝下で冷遇されてきたトルコ系ハルジー族が台頭、カイクバードはその一族によって殺害され、奴隷王朝は10代で滅亡、ハルジー族によるハルジー朝に取って代わられた(1290-1320)。

 ハルジー朝は初代スルタン・ジャラールッディーン=フィールーズ(ハルジー。位1290-96)に始まり、6代続いた。2代目アラーウッディーン=ハルジー(位1296-1316)はモンゴル軍撃退と南インド進出に功績があり、この頃ハルジー朝の盛時を迎える。6代目スルタン・ナーシルッディーン=ホスロー(位1320)が即位した頃の宮廷は内紛状態になっていたが、それはトルコ系地方総督のクーデタによるものであった。これによりハルジー朝は滅亡し、新たなデリー=スルタン政権・トゥグルク朝が誕生した(1320-1413)。

 トゥグルク朝の建設者であり、そのトルコ系地方総督出身の初代スルタンは、ギヤースッディーン=トゥグルク(位1320-25)と呼ばれる人物である。彼はデリーだけでなく郊外の整備も行い、遠征も重ねて政権安定に努めた。
 彼のあとを受けて即位した子ムハンマド=ブン=トゥグルク(ムハンマド=トゥグルク。1300-1351。位1324/25?-51)は、デカン一帯も統一して版図を拡大、デリーのスルタン政権での支配領域は最大となった。しかし遠征費がかさみ財政悪化と地方反乱に悩まされ、農業や経済の諸政策も失敗を重ねた。彼の政権で法官として迎えられていたのが、有名なモロッコ出身の大旅行家・イブン=バットゥータ(1304-68/69?。任1333-42)であり、彼がのちに著した『三大陸周遊記(1355)』には、ムハンマド=ブン=トゥグルク政権の内容が細かく書き記されている。

 また1347年にはアフガン人傭兵出身のデカン地方総督が独立、バフマーン=シャーを称し(本名アラーウッディーン=ハサン(アラジン=ハサン)。位1347-1358)、バフマン朝バフマニー朝。1347-1482。首都グルバルガ)をおこし、さらに1336年にはインド半島南部でヒンドゥー系のヴィジャヤナガル王国(1336-1649。首都ヴィジャヤナガル)も誕生、トゥグルク朝はますます衰運著しくなった。第3代スルタン、フィールズ=シャー(位1351-88)は財政再建を目的として内政中心に諸政策を進め、幾分成功を収めるも外政はことごとく失敗に終わり、外敵の侵入を容易なものにしてしまう。フィールズ=シャー没後もスルタンは世襲されていくが、外敵侵入に加えて内紛もおこり、王朝支配はいっそう困難となっていった。

 8代目スルタンのマフムード(位1394-1413)の時代、あの鉄人ティムール(1336-1405)の軍が侵入した(1398)。このときトゥグルク朝の地方長官だったトルコ系のヒズル=ハン(?-1421)はティムールの配下となり、パンジャーブの地方総督に任命されたが、1405年にティムールがオトラルで病没したことで台頭した。ヒズル=ハンは1413年デリーを陥れてトゥグルク朝を滅ぼし、翌1414年、「預言者ムハンマド(570?-632)の一族」を意味する"サイイド"を名乗って、トルコ系政権・サイイド朝をおこした(1414-51)。

 サイイド朝は支配領域がデリー地区に限られ、デリーにおけるトルコ系のスルタン政権はすでに弱体化していた。スルタンも実質4代のみであった(初代君主ヒズル=ハンはスルタンとして即位しなかったとされている)。1451年、4代目アラーウッディーン=アーラムシャー(位1445-51)が没し、サイイド朝は滅亡、トルコ系のデリー=スルタン政権は終わった。

 サイイド朝の末期、パンジャーブ地方で勢力を上げていたアフガン系のロディー族(ローディー族)がデリーにて政権樹立を叫び、その中心人物であったバフロール(バハロール=ロディ。?-1489)がサイイド朝滅亡を機にスルタンに即位(位1451-89)、アフガン系初のデリー=スルタン政権・ロディー朝(1451-1526)をおこした。バフロールはアフガン人を積極的に用いて要職につかせ、またアフガン人傭兵を大量に扱った。バフロール死後、スルタンに即位した次子のシカンダル(位1489-1517)は版図を広げ、デリー南郊にアグラを建設、アグラは発展していく。しかし3代目スルタンのイブラーヒーム(位1517-26)の時代になると、成熟したアフガン系貴族との衝突にあい、1519年以降ではカーブル(現アフガニスタンの首都)を拠点とし、ティムール帝国(1370-1507)の復活を掲げていたバーブル(1483-1530)の軍隊による、度重なる侵攻に悩まされた。そして1526年、イブラーヒーム率いる10万の象軍と、少ないながらも鉄砲を活用したバーブルの騎馬隊がデリー北のパーニーパットで激突、激戦がおこなわれた(パーニーパットの戦い)。果敢に攻めるバーブルの軍隊によって、イブラーヒーム軍は次々と倒され、イブラーヒームも戦死した。同年、デリーとアグラは占領され、遂にロディー朝は滅亡した。その後バーブルは自身の国、ムガル帝国(1526-1858)による北インド支配の基礎を築いていくことになる。

 奴隷王朝からサイイド朝までのトルコ系4王朝、そしてこのアフガン系のロディー朝を合わせた、320年に及ぶデリーを支配したイスラム5王朝をデリー=スルタン王朝(デリー=サルタナット。1206-1526)と総称する。この時代のデリーは都市人口が増大化し、インド古来のヒンドゥー文化と融合したインド=イスラム文化がおこされた。宗教ではイスラムの神秘主義者(スーフィー)が神への愛・神との合一を主張したスーフィズムがデリーで流行し、改宗者も増大した。デリーは王朝が替わるにつれて成長が促され、強大化していったのであった。

 現在のインドの首都であるニュー=デリーの南部には、デリー=スルタンの諸王朝によって築かれた都城跡が多数現存する。


 中世のイスラーム世界を苦手とする世界史受験生は少なくないと思います。特にアジアにおけるイスラム王朝の変遷ってのはホントに複雑で、学習が困難に思っている人も多いのではないでしょうか。

 今回は「vol.22 ムガル帝国の興亡」の内容の前身にあたります。インドのデリーにおこったスルタン政権、つまりデリー=スルタン王朝のお話です。全部で5王朝を覚えます。

 デリー=スルタン王朝に入る前に、それ以前の歴史も復習しておきましょう。アフガニスタンにおこったガズナ朝(首都ガズナ。トルコ系)は、サーマーン朝(875-999。中央アジア最初のイラン系イスラム王朝)の総督アルプテギン(彼はトルコ系です。?-963)によるもの(アルプテギンは旧課程では記載され、新課程ではガズナ朝の説明の中に表記)です。
 ちなみに中央アジアとは現在のカザフスタン共和国・キルギス共和国(クルグズ)・ウズベキスタン共和国・タジキスタン共和国・トゥルクメニスタンの中央アジア5ヵ国、中国の新疆ウィグル自治区、アフガニスタン北部あたりを指し、いわゆるトルキスタン("トルコ人の住地"の意味)と呼ばれるところです。またトルキスタンはパミール高原で東西に分かれ、東トルキスタンは新疆ウィグル自治区、西トルキスタンはそれ以外を指します。サーマーン朝はのちティムール帝国の首都となるサマルカンドや、ブハラ、メルヴといった大商業都市をうみましたが、カラ=ハン朝(840?-1212)に滅ぼされます。カラ=ハン朝によるトルコ化はどんどん進みました。カラ=ハン朝はその後東西分裂をおこして弱体化します。

 さて、アフガニスタンにおこったアルプテギンのガズナ朝は7代目スルタンのマフムード(位998-1030。旧課程用語集には登場する)のときに全盛期を迎えましたが、その後ゴール朝に滅ぼされます。ゴール朝のあとは、本編にあったとおり、デリー=スルタンの5王朝となります。

 それでは今回の学習ポイントを見てまいりましょう。この分野で必ず覚えなければいけないのが、5王朝の名前と、民族系統です。奴隷→ハルジー→トゥグルク→サイイド→ロディーとリズム良く呪文のように何度も繰り返し発し続けましょう。そして、ロディー以外はトルコ系、ロディーはアフガン系であることも重要、この分野で必ず問われるところです。

 デリー=スルタン王朝時代に登場する人物は、奴隷王朝のアイバクだけでいいかとおもいます。ただし、難関私大ではマイナー系が登場することがあります。旧課程用語集に登場する前述のアルプテギン、ゴール朝のムハンマド=ゴーリー("ムハンマド"と表記)、ハルジー朝のアラーウッディーン=ハルジー、トゥグルク朝のムハンマド=ブン=トゥグルク("ムハンマド=トゥグルク"と表記)などです。また新課程では、5王朝の用語説明の中の言葉として、ガズナ朝のアルプテギン、ハルジー朝のアラーウッディーン=ハルジー、トゥグルク朝のギヤースッディーン=トゥグルク("トゥグルク"と表記)、サイイド朝のヒズル=ハン、ロディー朝のバハロールらが記載されています。

 5王朝の中ではトゥグルク朝が一際賑やかでしたが、イブン=バットゥータがやってきたこと、ティムールが攻めてきたことが問われることがあります。またトゥグルク朝から自立したバフマン朝、南部に栄えたヴィジャヤナガル王国も出題されることがありますが、こちらはマイナー系です。余談ですが、初代スルタンのギヤースッディーン=トゥグルクは、遠征から帰還した際、子ムハンマド=ブン=トゥグルクの命で、スルタン勝利の歓迎のために建てられた建物の倒壊によって死亡してます。よって、暗殺説もでているそうです。

 最後のロディー朝がムガル帝国の基礎を築くバーブル軍と戦ったパーニーパットの戦いも重要です。また、スーフィー信仰も出てきましたが、神秘主義と表記されている場合もありますので注意しましょう。

 次回は10月下旬頃に更新の予定です。受験生諸君!志望校に向けてひたすら前を向いて頑張れ!!

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