世界史の目-Vol.132-

南スラヴの大国家・前編

 1918年、第一次世界大戦が終わり、敗戦国となったオーストリア(オーストリア=ハンガリー二重帝国)は連合国とのサン=ジェルマン条約(1919.9.10)に基づき、ハンガリー分離と帝政廃止が決められ、オーストリア共和国となった。この条約で、独立を宣言していたチェコスロヴァキアは同条約で承認されたが、もう一つ、オーストリアから独立を宣言していた国家があった。セルブ=クロアート=スロヴェーヌという王国である。この王国は、セルビア王国(近代セルビア王国。1882-1918)の王家だったカラジョルジェヴィチ家から初代国王ペータル1世(位1918-21)が推戴されて、サン=ジェルマン条約によって正式に独立が承認された国家である。

 セルブ=クロアート=スロヴェーヌ王国(セルブ=クロアート=スロヴェーン王国)は文字通り、セルビア人クロアチア人スロヴェニア人の南スラヴ系民族が結集した王国で、"セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国"とも表記される。セルビア王国(1882-1918)の首都だったベオグラードを新しい首都に据えて、セルビア人を中心とする南スラヴの大国家構想を打ち立てていった。

 かねてからセルビアは、"パン=スラヴ主義"を前提に、近隣のスラヴ系が住む地域を併せて、大きなスラヴ国家を建設しようとする"大セルビア主義"を目標として掲げていた。しかし当時のオーストリアにスラヴ系のボスニア=ヘルツェゴヴィナを奪われ、大セルビア主義は停滞していた。セルビアは大戦中は連合国側につき、戦勝国となったことで、またとない機会であったのである。結局ボスニア・ヘルツェゴヴィナはセルブ=クロアート=スロヴェーヌ王国に組み込まれて、セルビアを中心とする南スラヴの大連合が実現化された。

 しかしこの集権体制はセルビア中心であったため、これに異議を唱えたクロアチア人はセルビア人と対立し始めた。これにより時の国王アレクサンダル1世(位1921-29。ペータル1世の子)はクーデタを起こして憲法を停止、国王の中央集権体制を打ち出し、国名もユーゴスラヴィア王国(1929-45)と改称、"南スラヴ人の地"を意味する"ユーゴスラヴィア"という言葉がこのとき初めて登場した。アレクサンダル1世はユーゴスラヴィア王国の初代国王となった(位1929-34)。

 民族対立を解消するための新王国樹立であったが、実質は大セルビア主義を第一としており、結果的にはアレクサンダル1世の独裁が全面的に押し出された形となった。1931年にはユーゴスラヴィア王国の新しい憲法を制定、セルビア色はますます強められた。このため、民族対立解消どころか、クロアチア人との対立は避けられない様相を呈した。こうした中の1934年10月、アレクサンダル1世は、フランス外相との面会のためフランスのマルセイユに訪問していたが、車内にいるところを何者かに狙撃され、フランス外相とともに暗殺された(1934。アレクサンダル1世暗殺)。狙撃手はクロアチア民族主義組織"ウスタシャ"出身の噂が流れた(マケドニア系革命組織の説もある)。ウスタシャとはテロリズムを用いてクロアチア独立を目指すファシズム政党で、ユーゴスラヴィア政府を怖れさせるほどの組織であった。
 アレクサンダル1世没後は子のペータル2世が即位した(位1934-45)。ただしペータル2世はまだ少年であったため、父アレクサンダル1世の従弟にあたるパヴレ=カラジョルジェヴィッチ(1893-1976)が摂政を務めた(任1934-41)。その後ユーゴスラヴィア政府は激化するクロアチアとの対立を緩和させるため、1939年、彼らの自治を認めることに同意し、クロアチア自治州を成立させたが、ウスタシャは完全独立の夢を捨てずにいた。

 パヴレはドイツやイタリアといったファシズム国に接近していったが、国王ペータル2世はこれに難色を示し、次第にパヴレと対立した。しかしパヴレは行動に出て、1941年、ユーゴ政府の日独伊三国軍事同盟(1940.9発足)の加盟を表明した。しかし折からの打倒ゲルマン主義、打倒ファシズム、親スラヴ主義、そしてクロアチアに至ってはユーゴスラヴィアからの独立といった風が流れる中での加盟表明であったため、同年3月、クーデタが勃発した(国王ペータル2世もこのクーデタに参加している)。これにて親独政権は崩壊、パヴレは辞任に追い込まれた。直後に反ファシズム・反独政権がおこされ、三国同盟加盟は取消、同盟国の敵ソ連と条約を結んだ。これにより、第二次世界大戦中のユーゴスラヴィア王国はドイツを中心とする同盟国軍(ハンガリー、ブルガリア、イタリア)の侵攻をうけ降伏(1941.4)、ユーゴスラヴィアは分割占領されてしまう。国王ペータル2世もロンドンへ亡命した。このとき、ナチス率いるドイツはクロアチアのウスタシャを援護してクロアチア独立国を成立させたが、これはドイツの傀儡国家であった。

 しばらくして、ユーゴスラヴィアによるドイツ抵抗運動、いわゆるレジスタンスが始まった。ペータル2世はロンドンで亡命政府(1941-45)を成立させてはいたが、政府軍(チェトニック軍と呼ばれる)の威力は弱かった。代わって台頭したのは共産主義者ティトーチトー。本名ヨシップ=ブロズ。1892-1980)を総司令官とする人民解放軍、つまりバルチザン部隊である。ソ連の援助も受けず、また弱体化している自国の軍に頼らずに粘り強く抵抗したティトーの軍は、やがてイギリスをはじめとする連合国軍の協力を得、次第に優勢となり、自力で解放に成功、ドイツ軍をユーゴスラヴィアから駆逐した。

 解放後、ティトーはロンドンの亡命政府に反対してペータル2世の帰国を退けるため、1945年11月末に開催された憲法制定議会で、王政廃止を決め、ここにカラジョルジェヴィッチ家によるユーゴスラヴィア王国は終焉を迎えた(ペータル2世はアメリカに渡り、1970年同国で病没)。そして同時にティトーを首相(任1945-53。国防相も兼任)とするユーゴスラヴィア連邦人民共和国(1945-63)の発足を宣言した。共産主義政党であるユーゴスラヴィア共産党による政権の誕生であった。同時にクロアチア独立国もユーゴスラヴィア連邦人民共和国に再び併合された。

 戦時中、ソ連の力を借りずにユーゴスラヴィアは復活したが、東欧諸国の多くはソ連の援助により解放された。第二次世界大戦が終結し、国際関係はイギリス・アメリカを中心とする西側陣営と、ソ連を中心とする東側陣営に分かれ、冷戦時代に突入した。
 戦構造のもとで、ソ連を中心とする東側陣営では、1947年10月に共産党情報局(コミンフォルム)が結成され、ソ連・ルーマニア・ブルガリア・ハンガリー・ポーランド・チェコスロヴァキア・ユーゴスラヴィア・フランス・イタリアの9ヵ国の共産党が集まった。ソ連のスターリン・ソ連共産党書記長(任1922-53)は、東欧諸国を従属国にして(従属した国はソ連の衛星国となる)、事実上の共産党一党独裁体制の政治形態を目指していた。このソ連の人民民主主義体制によって、ブルガリアとアルバニアは1946年、ルーマニアは1947年、ハンガリーは1949年に人民共和国宣言を行い、ポーランドは1952年人民共和国憲法を採択した。これによりソ連が行った計画経済による工業化と農業の国営・集団化が強行され、ソ連の息がかかった政治体制がつくられていった。
 こうしてソ連の衛星化は進んでいき、当然ユーゴスラヴィア連邦人民共和国の衛星化もはかっていたが、対ドイツ戦をソ連の援助なしに自力で勝ち抜いたティトー率いるユーゴスラヴィアでは、ソ連型ではなく独自の社会主義路線を望んだ。1948年、ユーゴスラヴィア共産党は第5回の共産党大会を開催して、ソ連の衛星国への拒否と、ユーゴ型社会主義を推進することを決めた。このため、スターリンは激怒し、ユーゴスラヴィアをコミンフォルムから除名した(1948.6.2。コミンフォルム、ユーゴスラヴィア除名)。

 ユーゴ型の社会主義というのは、労働者中心の自主管理制度が基本である。企業の経営は労働者評議会にゆだねられ、企業間の自主管理協定、政府機関参加の社会協約を通じて社会計画と市場メカニズムが作成される。結果的には労働者の自主管理によって経済活動が制御される分権的システムとなる(よって、会社の経営者は労働者が選ぶ形をとるため、経営者より労働者の方が地位が高くなる)。国ではなく労働者が管理するこのシステムを自主管理社会主義といい、中央統制的計画経済を施すソ連の社会主義とは一線を画した。 

 ユーゴスラヴィア共産党は1952年、ユーゴスラヴィア共産主義者同盟と改称した。またティトーは東西両陣営に属さない「第三世界第三勢力)」のリーダーとして非同盟運動を展開、中立主義と反植民地主義を掲げた。ティトーが掲げた自主管理社会主義と非同盟主義は、スターリン側からは"ティトー主義"と呼ばれて警戒され、ソ連の衛星圏でおこったティトー主義者は、しばしば粛清の対象とされた。

 1953年1月、ティトーは新憲法に基づき、初代大統領となった(任1953~1980.5)。当時のユーゴスラヴィアは、イタリア・オーストリア・ハンガリー・ルーマニア・ブルガリア・ギリシア・アルバニアの7つの隣国に接し、スロヴェニア・クロアチア・ボスニア=ヘルツェゴヴィナ・セルビア・モンテネグロ・マケドニアという、6つの共和国によって構成され(さらにセルビアにはハンガリー人が多く住むヴォイヴォディナとアルバニア人が多く住むコソヴォの自治州によって構成)、スロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人・マケドニア人・モンテネグロ人という、5つの南スラヴ系民族を擁し、スロヴェニア語・クロアチア語・セルビア語・マケドニア語の4つの言語が話され、カトリック教(スロヴェニア人とクロアチア人)・ギリシア正教会(セルビア人・マケドニア人・モンテネグロ人)・イスラーム教の3つの宗教が信仰されて、ラテン文字(スロヴェニア人とクロアチア人)とキリル文字(セルビア以南)の2つの文字が使われた、1つの国家であると表現された。

 大統領に就任した1953年はスターリンが没した年であり、1956年にはティトー大統領のモスクワ訪問が実現された。1961年にはベオグラードにおいて、アジア・アフリカ・ラテンアメリカの非同盟25ヵ国の首脳と3ヵ国のオブザーバーが参加した非同盟諸国首脳会議が開催された。ティトーをはじめ、ナセル・エジプト大統領(任1956-70)やネルー・インド首相(任1947-64)らが出席した。

 雑に構成された大国家を見事に統制していったティトーは、1963年、国名を「ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国」と改称、ティトーは終身大統領となった。その後ソ連との関係を修復、1971年には集団指導体制が発足(独裁を排除し、指導者の合議を通過して重要議案を決定)、1974年2月には新憲法が発布された。
 70年代のティトーは外政が盛んであった。1973年11月、ソ連・ブレジネフ書記長(任1964-82)との会談で始まり、1974年6月は西ドイツ、1977年8月はソ連・中国・北朝鮮、1978年3月はアメリカへと訪問、精力的な活動を見せたが、1980年5月、88年の生涯を終えた(ティトー死去)。

 ティトーは死去するまで、一貫して非同盟の立場は変わらず、ソ連のアフガン侵攻(1979)など、批判する部分はしっかりと批判していた。複雑に構成された1つの大国家を、長きにわたりまとめあげた強力な政治家が失われたことは、国家にとっては大きな悲劇であり、そして彼の代わりとなる者は現れなかった。やがて各共和国や自治州内で分裂・独立を叫ぶ運動が勃発した。80年代の最後は東欧革命により共産主義者が排除され、共産党の一党支配は終わりを告げ、自由主義・市場経済・経済民営化が行われていった。ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国も当然革命の波には勝てず、ユーゴスラヴィア共産主義者同盟の一党支配は終わり、1990年、自由選挙を導入した。

 自由選挙によって、各共和国・民族は自由化と独立を叫んだ。そして、ユーゴスラヴィアは分裂・解体の道を歩んでいく。


 「高校歴史のお勉強」が再開しました。またよろしくお願いいたします。

 さて、東ヨーロッパ史はいつの時代もややこしくできていますね。とりわけ今回の内容も非常に複雑で難解でありました。

 高校ではだいたいビザンツ帝国(395-1453)の内容が終わると、次の単元でスラヴ民族とその周辺諸民族の歴史を学習します。ロシア人・ウクライナ人をはじめとする東スラヴ人、ポーランド人・チェック人・スロヴァキア人をはじめとする西スラヴ人、そして本編に登場したスロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人ら南スラヴ人がでてくる単元です。ここでは各スラヴ人はどの宗教に改宗したかが重要ポイントになって、たとえば、東スラヴ人はキエフ公国(9-13C)のウラディミル1世(位978/980?-1015)のときにギリシア正教会に改宗、西スラヴ人は西欧の影響でローマ=カトリックに改宗、そして本編に登場した南スラヴではセルビア人がギリシア正教会に、スロヴェニア人とクロアチア人はローマ=カトリックにそれぞれ改宗します。これって、ユーゴスラヴィアの歴史を知る上でとても重要なことなんですね。

 本編では第一次世界大戦終了後のヴェルサイユ体制から始まっていますが、ここからユーゴ史がスタートします。では本日の学習ポイントです。いちおう用語集にはセルブ=クロアート=スロヴェーヌ王国は記載されています。まどろっこしい言葉ですが要するにセルビア人とクロアチア人とスロヴェニア人の国であるということで、ユーゴスラヴィアの前身です。このときチェコスロヴァキアとルーマニアの2国と小協商同盟を結成しています(1920-39)。この"小協商"なる言葉は旧課程時代では重要用語で、3国の名前と、フランスの支援があったことを覚えなければいけなかったのですが、新課程では"小協商"は登場していません。
 ユーゴが受験に登場してくる時代は冷戦時代です。冷戦構造については「vol.108 チェコスロヴァキア、三つの転機」でも紹介していますので、詳しい部分はそちらを参照していただくことにして、ここではユーゴスラヴィアが共産党のたまり場であったコミンフォルムから除名処分を受けたことを知っておいて下さい。除名を受けた1948年6月も重要(本編では紹介しませんでしたが、ユーゴは西側のマーシャル=プランを受け入れたことが除名の直接的な原因となったとされています)。これによりユーゴは他の東欧諸国とは一線を画した社会主義路線を歩んでいきますが、この時代の演習問題で"独自の社会主義"を謳っている場合、まず間違いなくユーゴスラヴィアのことです。

 そしてこの時代のユーゴスラヴィアを代表する人物といえば、やはりティトーでしょう。日本では"チトー"の表記で知られており、かつては都市伝説で非実在説などで取り上げられたりしたジョークもありましたが、言うまでもなく実在した大政治家です。冷戦時代において、ユーゴスラヴィア関連で人名を問う場合、まずティトーと答えたらいいと思います。ペータル1世(または2世)やアレクサンダル1世は本編には登場しましたが、受験にはまず出ないでしょう。ユーゴのアレクサンダル1世を覚えるのなら、ウィーン体制で神聖同盟を発足させたロシアのアレクサンドル1世(位1801-25)の方を覚えてほしいし、ユーゴのペータル1世を覚えるのなら、ペテルブルクの建設者である同じくロシアのピョートル1世(位1682-1725)の方を覚えてほしいです。

 そしてティトーで目立つ所は非同盟諸国首脳会議があります。1955年に開かれたアジア=アフリカ会議につぐ第三世界で開催された大会議で、ユーゴの首都だったベオグラードで開かれます。1961年という年代や、ネルーやナセルも参加していることも知っておきましょう。

 さて、大政治家がいなくなったユーゴスラヴィア。1990年代以降は荒れに荒れまくります。その模様は後編で!!

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