世界史の目-Vol.133-

南スラヴの大国家・後編

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 1980年にユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国ティトー終身大統領(チトー。本名ヨシップ=ブロズ。任1953-80.5)が後継者を定めずに死去すると、ユーゴを構成する各共和国や自治州はさかんに自由化や独立を主張し始めた。1990年、冷戦終結と東欧革命の波及で、ユーゴスラヴィア共産主義者同盟(もとユーゴスラヴィア共産党)の一党支配は終わりを告げ、1990年、自由化の到来を告げる自由選挙が実施された。構成される6つの共和国では民族意識の強い政権がそれぞれ誕生、ユーゴとしての国家的統一は困難を極めた。中でもユーゴの中心であったセルビアでは、大セルビア主義の主張を唱えるミロシェビッチ(ソロボダン=ミロシェビッチ。1941-2006)の政権が誕生したことで(1990)、ユーゴを構成する他の共和国、特にクロアチア、スロヴェニアなどの独立気運がいっそう高まった。

 1991年6月、まずクロアチア、スロヴェニアの両共和国が独立を宣言、続いてマケドニアも独立を宣言して(1991.9)、ティトー時代の連邦体制が崩壊した。するとユーゴ内で大胆な紛争が次々と勃発していった(ユーゴスラヴィア内戦ユーゴスラヴィア紛争)。1991年6月のスロヴェニアの独立紛争("十日間戦争"と呼ばれる。首都リュブリャナは占領、EC(ヨーロッパ共同体)の仲介で休戦)から始まったこの内戦はその後クロアチア内戦(1991.9-95)に見舞われた。ECは1992年に1月にそれぞれの独立を承認したことで、ユーゴスラヴィアは同年、社会主義連邦共和国から"連邦共和国"へと改称することに決め(ユーゴスラヴィア連邦共和国新ユーゴスラヴィア連邦)、セルビア、モンテネグロ、ボスニア・ヘルツェゴヴィナからなる連邦制をとった。ところが直後にボスニア・ヘルツェゴヴィナも独立宣言をおこしたため(1992.3。ボスニア・ヘルツェゴヴィナ独立宣言)、旧ユーゴの残存国セルビアとモンテネグロは新ユーゴスラヴィア連邦の成立を宣言後(1992.4)、同月ボスニア・ヘルツェゴヴィナ攻撃を行った(1992.4-95.11。ボスニア・ヘルツェゴヴィナ内戦。ボスニア紛争)。

 このボスニア・ヘルツェゴヴィナ内戦では、ECから発展したEU(ヨーロッパ連合)や、国際連合の仲介が行われたにもかかわらず、成功しなかった。その一因としては宗教的問題があり、ボスニアにはイスラム系ボシュニャク人、ローマ=カトリック系のクロアチア人、として東方教会(ギリシア正教会)系のセルビア人の3勢力の対立があったのである。ボスニアで行われた独立による国民投票は、3勢力の1民族であるボスニア内のセルビア人がボイコットを行い、自身の共和国スルプスカ(セルビア人共和国。スルプスカとはセルビア語で"セルビア"の形容詞形)をボスニアから独立させようとしたのであった。
 やがて、ユーゴ連邦軍と独立軍との内戦は激化、無秩序と暴力が頻繁に繰り返され、"ヨーロッパの火薬庫"は現実のものとなった。結局は、アメリカを中心としたNATO(北大西洋条約機構)の空爆制裁を行い、1995年11月の国連の調停で和平が調印され(デイトン合意)、ボスニア・ヘルツェゴヴィナはセルビア人中心のスルプスカ共和国と、クロアチア人とボシュニャク人からなるボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦から構成される連合国家となった。なお、この紛争では、スルプスカの町スレブレニツァにおいて、セルビア人勢力のボシュニャク人に対する激しいジェノサイド(大量抹殺行為)が行われたとされている(推定8000人)。

 これらの内戦はすべてミロシェビッチ政権(セルビア大統領任1989-97。新ユーゴスラヴィア連邦大統領任1997-2000)の軍事介入によるものであった。これはなにもセルビア国外だけでなく国内でも強い権力で国民を抑え付けていた。1989年に哲学者ゾラン=ジンジッチ(1952-2003)によって設立されたユーゴスラヴィア民主党はミロシェビッチ政権をかねてから批判していたが、1996年以降はこの反政権行動が大規模に出て、その後ジンジッチは非共産党系における初のベオグラード市長に選ばれている。

 またアルバニア人が9割をしめるコソヴォ自治州では、自治権拡大要求が常に起こり、こうした独立・解放を叫ぶ武装組織も誕生した。これがKLA(コソヴォ解放軍)である。コソヴォ自治州ではティトー時代から自治権が認められてはいたが、これだけでは満足せず、セルビアからの独立、ユーゴスラヴィアからの独立を叫んでいた。しかしミロシェビッチ政権はコソヴォが自治権を有していることに不満であり、1990年、コソヴォの政府と議会廃止、つまり自治権剥奪を決め、アルバニア系住民への弾圧を行う一方、コソボ自治州内では、アルバニア系住民を中心とする"コソヴォ共和国"自立に向けて、本格的な独立解放運動をおこしていった(コソヴォ問題)。KLAによるテロ活動も激化したため、ユーゴ政府はセルビア治安部隊をコソヴォに派兵、KLAとの間で内戦が勃発した(1998.2。コソヴォ紛争)。

 この紛争を通して、ミロシェビッチ政権による、コソヴォのアルバニア系住民への弾圧はますます過激さを増し、推定1万人ものアルバニア系住民がセルビア治安部隊に虐殺されたとされている。紛争によるこの掃討は大量のアルバニア人難民を出してしまう結果となった。国際連合はユーゴスラヴィアに対してコソヴォからの撤退を要求したが、ミロシェビッチ政権はこれを受け容れなかった。ユーゴスラヴィアによるこの非人道的行為は国際的非難をうけた。このため1999年3月、国連安保理の決議のないまま、NATOはセルビア全土への空爆制裁を78日間実施した(1999.3。NATO軍、セルビア空爆)。この結果、同年6月にミロシェビッチ政権が和平案を受け入れ、2000年にセルビア軍は撤退、コソヴォは国連の管理下に置かれることとなった。一方ジンジッチは紛争中、アメリカのビル=クリントン大統領(任1993-2001)と会談、これが物議を醸し、ジンジッチはセルビアに帰国後に一時逮捕された。

 コソヴォ紛争終結後、ミロシェビッチ大統領は遂に失脚した。その後彼はアルバニア系住民に対するジェノサイドに嫌疑がかかり、結果人道に対する罪で逮捕され、オランダのハーグにある国際刑事法廷(国際戦犯法廷)から起訴された。2001年には汚職容疑でセルビア当局に逮捕されて再度法廷に身柄を移送され、2006年、ハーグの獄中で心臓発作により没した。国際刑事法廷に引き渡したのは、ミロシェビッチ時代終焉後、セルビア首相に就任していたジンジッチであった(任2001-03)。しかしそのジンジッチは2003年3月12日、セルビアの警察特殊部隊"レッドベレー"出身の元隊員によって、ベオグラードにある首相執務室で射殺されている。

 その間、ユーゴスラヴィア紛争の戦地はマケドニアでも勃発した。マケドニアはアルバニア系住民が約3割を占め、ここでもアルバニア人による自治要求が高まっていた。そこにコソヴォ紛争によって続出したアルバニア難民が押し寄せ、大アルバニア主義ともいうべき民族主義が高揚、民族解放軍(NLA)が権利拡大を要求して武装蜂起した(マケドニア紛争。2001.2)。結局8月にNATOの介入で、アルバニア系住民の権利拡大を認めて和平が成立した(オフリド合意)。マケドニア紛争が歴史的ユーゴスラヴィア内戦における最終とみており、10年に及んだ。

 内戦が落ち着き、セルビアとモンテネグロの2共和国で国家を存続させることを決めたユーゴスラヴィアであったが、今度はモンテネグロが大セルビア主義に異論を唱えて、独立を主張し始めた。結果、連邦制を解体、モンテネグロが向こう3年間は独立しないことを条件に、緩やかな共同国家"セルビア・モンテネグロ"を樹立させ(2003.2.5)、EUもこれを受け入れた。これにてユーゴスラヴィアは消滅、複合民族・複合宗教を擁した南スラヴの大国家はこれにて、一つの時代を終えた。

 結果的にはモンテネグロは2006年に独立、EUもこの独立を承認した。これで、かつてのユーゴを構成していた6つの共和国は、完全独立を果たしたのであった。


 ユーゴスラヴィアという名前が消えて、5年の歳月しか経っていないのですね(2008年現在。"執筆当時は6月")。現在でもユーゴスラヴィアという国があるのではないかと錯覚するぐらいですが、今年は2月にセルビアからコソヴォが共和国として独立を果たしたことで、再度クローズアップされましたね。今後どうなるか、注目です。

 さて、今回はユーゴの後編をお送りしましたが、人物単位でなく、ほとんど国単位で話が進みました。人物ではミロシェビッチが登場しましたが、この人物、西欧や米国ではかなりの悪役で、独裁者扱いされました。ユーゴ国内のアルバニア人に対する抹殺行為、つまりジェノサイドと、多くの難民を出して生活困窮を生んだ責任者として国際法廷にかけられた人物です。
 彼が介入したユーゴ紛争は、民族同士の対立による民族浄化、略奪と殺し合いが横行した、決して忘れることのできない事件の一つです。スロヴェニアの十日間戦争に始まり、マケドニア紛争までの10年、目を背けたくなるほどの醜い殺戮が行われ、また、NATO軍の軍事介入もあり、これらが日本の報道ニュースで頻繁に流されていきました。

 ユーゴ紛争のひとつとして、激戦が行われたコソヴォは、何も現代史だけ登場するのではありません。1389年、当時のオスマン帝国(1299-1922)のスルタン、ムラト1世(位1360-89)がバルカン半島のスラヴ勢力(主にセルビア)と戦った、「コソヴォの戦い」というのがあり、ムラト1世は戦没したものの、結果的にはセルビア軍を破ってイスラム勢力によるバルカン制圧を決めた事件です。セルビア人の屈辱とされ、敗戦日の6月15日は"国辱(こくち)記念日"とされています。20世紀のバルカン問題はここからスタートしていたといっても過言ではありません。このコソヴォの戦いは用語集にも登場していますので、余裕があったら知っておきましょう。

 さて本日の学習ポイントです。ユーゴスラヴィア内戦は用語集では赤色で記されています。スロヴェニア、クロアチア、マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナといった構成国が次々と独立を宣言し、これにユーゴの中心、セルビアのミロシェビッチが軍事介入した戦争です。知っておきましょう。またコソヴォ問題も赤色刷りです。ここでは、コソヴォはアルバニア人が多いこと、1999年にNATOがセルビアに空爆制裁したことなどを知っておいて下さい。ちなみに、ミロシェビッチも用語集に登場しています。頻度数は1でマイナー扱いされておりますが、世界史だけでなく公民分野でも登場する人物です。書かせることはないと思いますが、ティトー死後(特に90年代)のユーゴスラヴィアで、人物を書かせる問題が出たら、間違いなくミロシェビッチです。国際刑事法廷はマイナーですが、用語集にはしっかりと載っています(頻度数は1ですが)。

 「高校歴史のお勉強」復帰作後編いかがでしたか。更新は時折遅くなることもありますが、忘れずについてきて下さいね∧(^_^;)

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