世界史の目-Vol.135-

大躍進と中ソ対立

戦後の中国・その1~

 日本の降伏によって、長期戦争を終えた中華民国は、国際連合・常任理事国の一員として重要な地位を認められたものの、国内では国共内戦が再発した。中国共産党毛沢東(もうたくとう。1893-1976。共産党主席任1943-76。党主席は後の総書記を示す)と中国国民党蔣介石(しょうかいせき。1887-1975。国民党主席任1945-48)との間で双十協定(そうじゅうきょうてい。1945.10。内戦終結・和平にむけた協定)と国共停戦協定(アメリカの仲介。1946.1)の合意に基づき、同46年1月に政治協商会議が重慶で開催されたものの内戦は回避できなかった。その後、毛沢東率いる中国共産党は新民主主義論(共産党の一党独裁ではなく、農民や他の民主主義勢力と協力して革命を進もうとする理論)を掲げて国民の支持を取り付け、1949年10月1日北京を首都とする中華人民共和国の成立を宣言した(新中国。首相周恩来。任1949-76。しゅうおんらい。国家主席毛沢東。任1949-1959)。一方蔣介石総統(1947年の新憲法をもとに初代総統に就任。総統任1948-75)率いる中国国民党は台湾へ向かい中華民国政府を続けた。

 中華人民共和国は1949年ソ連、東欧諸国、インド、翌1950年にイギリスによって承認された(その後は東西冷戦のため、西側の承認は60年代以降。アメリカは1954年、中華民国政府を支持して米華相互防衛条約を締結)。ソ連は1950年2月、新中国と中ソ友好同盟相互援助条約をモスクワで締結(1950-1980)させてアメリカ・日本を敵対し、中国はソ連とともに東の社会主義陣営に属する姿勢を示した。
 また1950年、地主から土地を没収して農民の土地所有を認める土地改革法を公布、その年の10月には朝鮮戦争1950-53)における人民義勇軍を北朝鮮に派遣して国連軍に反撃した。そして、ソ連の援助を受けて農業集団化と工業化をはかり(第一次五カ年計画。1953-57)、翌1954年9月には憲法が採択された(中華人民共和国憲法)。

 ところが、ソ連共産党書記長スターリン(1879-1953。任1922-53)が突如急死(スターリン死去1953.3)、フルシチョフ(1894-1971)が党第一書記に選出された(任1953-64)。フルシチョフはスターリン体制を否定して、個人独裁よりも合議を重んじ(集団指導制)、俗に"雪融け(ゆきどけ)"と言われる国際緊張緩和に積極的態度を示すようになる。それが、1956年2月、スターリン死去後、最初の大会(ソ連共産党第20回大会)で明確に顕され(スターリン批判)、4月にはコミンフォルム解散が実現化、西側、特にアメリカとの"平和共存路線"外交を促した(このためハンガリーでは同年10月に首都ブダペストで反ソ暴動が起こる。"ブダペストの惨劇"。ハンガリー事件)。

 平和共存路線を基盤とする米ソ協調の姿勢は、ソ連と友好同盟を結ぶ中華人民共和国にとって大きな影響を与えた。毛沢東の独裁政権になりつつあった中国では1956年5月、国民の動揺を和らげようとしたのか、突然共産党への批判奨励を宣言し、"自由化"、"民主化"といった意見の持ち主である民主諸党派や知識人らを集めて自由に共産主義ならびに共産党を批判させた。これを"百花斉放・百家争鳴(ひゃっかせいほう・ひゃっかそうめい。百花運動)"という(この政策の真の目的は諸説ある)。しかし彼らの批判は徐々に強さを増していき、ついには共産党の存在そのものを疑問視するにまで拡大した。このため毛沢東はこの"百花斉放・百家争鳴"政策を撤回、翌57年5月頃から、知識人を、社会主義および社会主義政権を破壊し批判する"右派"として弾圧した。これが共産党による反右派闘争である。これにより、国民が持つ言論の自由は国によって奪われたかたちとなった(右派とされた人たちが名誉回復を果たすのは、1978年以降である)。

 1958年、毛沢東は第二次五カ年計画を開始させた。中国経済は15年でイギリスを追い越せると豪語した中国共産党は、農工業の大増産を各都市また各農村で実施した。製鉄・製鋼部門では、土法高炉(どほうこうろ)と呼ばれる原始的な溶鉱炉を用いたが、原材料不足を招き、都市・農村部の所有する鉄製品を供出させなければならなかった。このため国民の生活が困窮化した。
 農業部門では、農場集団化が今まで以上に推し進められていった。土地改革法発布以降、共産党の支配した各解放区(辺区。もともと日中戦争中に、共産党が統治した地域をいった。日本敗戦時には19の辺区が存在した)では農業の協同組合化がすすみ、各地で農民生産合作社が誕生、1958年、政社合一にむけてこれを合併した。生産・流通・分配の工程をすべて把握し、生活体系に密着した社会組織と化した。これが人民公社(じんみんこうしゃ)である。4月に河南省で始まり、8月には全国に普及していった。同公社を地区組織の単位として、住民はその中で生活のすべてを行う形である。しかし農村のコミューン化は結果的には生産意欲の減退から停滞をまねき、生活水準の低下がすすんでいった。
 しかも、感染症を媒介したり、農業生産物を食い荒らす害虫・害鳥の駆除を積極的に行ったが、害鳥を駆除すると、害鳥の餌となっていた害虫が増え、農作物への被害が拡大するといった悪循環をもたらした。また異常気象・自然災害といった不運が重なり、凶作による困窮化も避けられず、大量の餓死者(約2000万人か?)を出す結末となってしまった。 
 1958年に始まった第二次五カ年計画は、当時の中国では、完璧な社会主義社会の建設を目的としたことで、"大躍進"政策と呼ばれたが、結果的に計画は失敗したことで、同年11月、毛沢東は次期国家主席辞退を表明(1959.4.27辞任。党主席は留任)、権威が失墜した。代わって、翌59年の全国人民代表大会(全人代)で、政治局常務委員を務めていた劉少奇(りゅうしょうき。1898-1969.11)が国家主席に就任することとなった(任1959.4-1968.10)。

 湖南省出身の軍人・彭徳懐元帥(ほうとくかい。1898-1974。十大元帥の1人。国防部長。もと紅軍指揮官出身の人)は毛沢東の大躍進政策を批判、この意見書は1959年7月に開催された廬山会議(ろざん。江西省の共産党幹部避暑地)で論議された(正式には"中国共産党中央政治局拡大会議")。結果、彭徳懐は反党的立場に立たされ("右翼日和見主義反党集団"のレッテルを貼られる)、国防部長を解任させられた。そして彼の後任として就任したのが、毛沢東を厚く支持する十大元帥の1人、林彪(りんぴょう。1907-1971.9)であった。

 大躍進の混乱が収まらないうちに、今度はチベット問題が浮上した。1959年3月、中国に統括されたチベットで"上からの圧力"からの解放、チベット仏教の自由布教、政教一致の原則を求めて、反中国・反共産運動が勃発しており(チベット反乱。チベット動乱)、中国人民解放軍がこの暴動を鎮定したが、これによりダライ=ラマ14世(1940年即位)はインドへ亡命、中国はチベットを保護したインドと対立を招き、国境紛争を勃発させる結果となったのである(中印国境紛争。1959.9-1962.11)。

 1959年10月、フルシチョフ・ソ連第一書記が北京を訪問した。フルシチョフの訪中は前年7月以来2度目である。フルシチョフは9月にソ連指導者として初のアメリカ訪問を実現させ、アイゼンハウアー米大統領(第34代。任1953-61。共和党)とキャンプ=デーヴィッド会談を行っていた(フルシチョフ訪米)。その翌月の訪中であった。前回の訪中では、フルシチョフは大躍進政策・人民公社建設を批判して毛沢東と対立し、今回の訪中でも、意見対立が顕著となり、共同声明も出さないで終わった。2度のフルシチョフ訪中の間、原爆に関するソ連の供与や、共同艦隊案などの話し合いが行われてはいたが、結局物別れに終わり、特に前者に関してはソ連の一方的な破棄通告へとつながり(1959.12。中ソ技術協定破棄)、1960年6月から7月にかけて、ソ連共産党は中国へ派遣していたソ連技術者を全員帰国させる強硬手段をとった(前々月の4月、中国は人民日報で"レーニン主義万歳"と発表し、フルシチョフは中国共産党を"トロツキー的"と批判する)。中ソ対立が表面化した瞬間であった。当初は社会主義国家同士のイデオロギー対立であったが(中ソ論争)、前述のソ連技術者引き揚げ、中印国境紛争によるソ連軍のインド支援(1962。武器援助)、キューバ危機(1962.10)における中国のソ連政府批判など、国家間における対立も進んでいった。

 そんな中で、大躍進批判が行われた廬山会議での彭徳懐辞任以後、中国国内では"七千人大会"と呼ばれる共産党会議が開かれた(1962.1-62.2)。地方幹部7000名召集された会議であったためこのように名付けられたが、ここでも大躍進政策の失敗が取り沙汰され、毛沢東はこれを認めて自己批判し、党内での実権は失った。代わって、劉少奇と、彼に共鳴する中央委員会総書記のポストにいた鄧小平(とうしょうへい。1904-97)らが実権を握ることになる。

 その後、中華人民共和国は、意外なところで、国家承認を受けることになった。米英に同調せず、独自の路線を歩むフランス第五共和政1958.10発足)である。初代大統領ド=ゴール(1890-1970。任1959-69)の政権であったが、アルジェリア反乱を機に組閣したド=ゴールは、1960年2月にサハラで核開発を行い、世界4番目の核保有国となった(1945年アメリカ、49年ソ連、52年イギリスに次ぐ)。そして、アメリカの中国封じ込めの一角を潰すことになった1964年1月、フランスは中国を承認したのである(フランスの中国承認)。同年10月、中国は原爆実験に成功を収め、5番目の核保有国となった。
 実は核開発に関し、ソ連ではアメリカ・イギリスと部分的核実験停止条約を成立させていた(1963.8)。承認国は多数いた中で、反対を固持したのはフランスと中国であった。フランスの中国承認はこうした経緯によるものであり、中ソ対立は核関連においてもさらに深化させた。
 中ソ対立の深化はソ連、フルシチョフに向けられた。キューバ危機や中ソ対立の処理問題が山積し、ソ連国内でも党改革失敗・農業生産停滞などで急激に支持率を失ったフルシチョフは、遂に最高会議で解任が決定した(フルシチョフ解任。1964.10)。

 中国では劉少奇と鄧小平により経済調整政策が始まった。市場経済を取り入れ、農家にも自主的な生産をさせるなど、なかば修正主義的な立場をとって再建に向かっていった。毛沢東はこれを革命の妨げとして批判したが、毛沢東失脚後は、林彪ら支持派による毛沢東神格化が進められ、彼らに支えられた毛沢東は密かに政権奪回の機会をうかがっていた。毛沢東の政策は正しかったのか否か、大躍進と経済調整の評価をめぐり、共産党は意見が真っ二つに引き裂かれ、後の大革命への導火線へとなっていく。


 東の現代史の主役であります中国の主に1950年代から60年代半ばまでをご紹介しました。流れとして「Vol.13~国共合作・国共内戦~」のその後にあたります。対外的には中ソ対立、国内では大躍進と、激動の時代となったわけですが、近現代の中国史を学習する上では決して避けられない分野ですね。今回は久々の大長編でして、5回シリーズとして予定しております。

 ではさっそく学習のポイントをみてまいりましょう。まずは国内の五カ年計画から。五カ年計画はソ連も有名ですが(詳しくはこちら)、中国の第二次五カ年計画がいわゆる"大躍進"政策に当たります。1958年に開始されたこの第二次五カ年計画でのメインイベントは人民公社の設立です。農業集団化に政治・経済・軍事・社会・文化が加わったものです。そういえば私が中学で社会地理を習った時には人民公社という用語がまだ一般的に登場してました。ただし、反右派闘争、百花斉放・百家争鳴、廬山会議といった言葉は、当時のニュースでも頻繁に登場しましたが、受験関連自体には出てくることはありません。

 続いて中ソ対立ですが、中ソ友好同盟相互援助条約(1950-80)を結んだにもかかわらず関係は冷え切っていきます。対立そのものの原因はフルシチョフのスターリン批判と、対米接近、平和共存政策の提唱が挙げられます。中ソ対立絡みの用語ではまずチベット問題(1951年チベット協定、59年3月動乱勃発とダライ=ラマ14世インドに亡命)があります。中ソ関係そのものに直接からみませんが、チベット問題に端を発する中印国境紛争によって、ソ連がインドを支援するといった行動が出ます。そしてソ連からの資材供与がなくなり中国の建設に打撃を加えられた中ソ技術協定破棄も中ソ対立の悪化によるものです。
 他にもキューバ危機、部分的核実験停止条約も関わります。

 そして人物、まずはソ連側から。ソ連の第一書記(書記長)は、スターリン→フルシチョフ→ブレジネフ(任1964-82)と続きます。スターリンが死去した1953年(つまりフルシチョフの書記就任年)、フルシチョフが解任された1964年は大きなキーワードになります。キューバ危機(1962.10)、ケネディ暗殺(1963.11)の時代のソ連共産党第一書記はフルシチョフということになりますね。ちなみにスターリン批判によってハンガリーで起こされた反ソ暴動、いわゆるハンガリー事件で首相に返り咲いた人物、ナジ=イムレ(1895-1958。任1953-55,56)の名は意外にも重要で、新課程の用語集では4の頻度数がついています。

 一方の中国側。この時代ではやはり毛沢東が存在を光らせていますが、共産党のトップだけでなく、一国の元首として君臨してきた毛沢東が、大躍進の失敗を機に国家主席を降りることになります。毛沢東自身の言った言葉"調査なくして発言なし"の精神であっても、改革はうまくいきませんでした。その後主席に就いたのは劉少奇という人物です。重要人物です。また彼の側に立っていた鄧小平と合わせて覚えましょう。一方、毛沢東側にいた林彪も意外と重要で、来たる大革命にも大きく関わります。用語集で彼は"4"の頻度数です。彭徳懐はこの時期の重要人物なのですが、全くと言っていいほど受験には出題されません。

 あと番外編ですが、フランス政局も登場しました。ド=ゴールは第二次大戦中にフランス政府を占領したドイツに立ち向かうため、ロンドンで自由フランス政府を樹立させ、抗独のレジスタンス運動を指導した人物です。ドイツが敗れてパリ解放直後に帰国して臨時政府を樹立し、首班に指名されたものの、意見がかみ合わず一度下野して第四共和政(1947.1-58.9)は加わりませんでした。第四共和政は非常に不安定な政体で、1954年、フランス領のアルジェリアで紛争が起こったのを機に第四共和政は崩れ(ちなみにアルジェリアは1962.7独立。これも重要)、ド=ゴール大統領による第五共和政となります。英米と肩を組むのを避けて、独自の路線を歩んだのが彼の政権の一番の特徴で、核開発(1960.2)、イギリスのEEC加盟阻止(1963)、中国承認(1964.1)、そしてNATO軍事機構脱退(1966.7)と、思い切った行動をとりました。これが反ド=ゴール派を生んで学生や労働者が闘争・ゼネストを起こし(五月革命。五月危機。1968.5-6)、切り抜けられたものの1969年の国民投票で敗北して10年のド=ゴール政権が終わり、社会党出身のミッテラン(1916生)による長期政権がスタートします(1981-95)。

 さてさて、話は続きます。毛沢東の反撃はあるのか?大革命とは一体......

(注)ブラウザにより、正しく表示されない漢字があります("?"・"〓"の表記が出たり、不自然なスペースで表示される)。蔣介石(しょうかいせき。"蒋"のへんが爿)。鄧小平(トウしょうへい。トウのへんは「登」、つくりはおおざと)。

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