世界史の目-Vol.136-

下からの惨劇

戦後の中国・その2~

大躍進と中ソ対立 ~戦後中国編・その1~はこちら

 1950年代の中国は、対外的には中ソ対立を引き起こし、国内では第二次五カ年計画の失敗と、大混乱の時代を疾走した。これにより毛沢東(もうたくとう。1893-1976)は国家主席から退き(1959。ただし党主席は継続。党主席はのちの総書記を表す)、劉少奇(りゅうしょうき。1898-1969.11)が代わって就任(任1959.4-1968.10)、劉に共鳴する鄧小平(とうしょうへい。1904-97)らと協力し、実権を握っていった(実質的に権力の座にあった彼らは実権派と呼ばれた)。一線から退いた毛沢東は、林彪(りんぴょう。1907-1971.9)らの支持のもとで、政権奪回の機会をうかがっていた。

 毛沢東は言うまでもなく社会主義思想の支持者である。なかでも、プロレタリアート(プロレタリア。賃金労働者階級。無産階級)が革命的に資本主義体制や帝国主義体制を打倒して国家的権力を掌握し(社会主義革命。プロレタリア革命)、独裁的地位の立場から国を統率し(プロレタリア独裁)、完璧な共産主義を目指すという考えである。かつてロシア革命1917)を起こしたレーニン(1870-1924)の考え方(レーニン主義)に近いが、毛はレーニン主義に本国の実情を結びつけた独特のイデオロギーを持っていた(毛沢東思想)。
 劉少奇・鄧小平側は、大躍進の失敗で混乱した経済を"調整政策"として回復をはかろうとした。この政策は、市場経済を取り入れるなどなかば修正主義的な推進によって、ある程度の回復がみられたが、毛沢東思想とはあまりにもかけ離れていたことで、毛沢東側はこの政策を資本主義的な復活として批判していた(このため実権派は"走資派"とも呼ばれるようになる)。毛沢東は、実権派を退かせるための"下からの改革"をめざそうとしていた。

 軍人出身で、国防相を務める林彪は、毛沢東を神格化して革命派の支持を集めようとし、毛沢東思想を周囲に鼓吹した。毛沢東の軍事思想を崇拝する林彪は、党の誇る人民解放軍を再確認させるべく、一時的に軍事階級を廃止して軍の兵器そのものよりも政治意識の高さを強調した。これにより"解放軍に学べ"という運動が全国的に展開していくことになる。また毛沢東の語録『毛主席語録(毛沢東語録、毛語録とも)』を編纂(1964)、世に広めた(のち10年間で60億冊以上印刷されたとの説がある)。さらに1965年9月には党中央委員会の機関紙「人民日報」において、"人民戦争の勝利万歳"と称して日中戦争勝利(1937-45。終戦20周年)に対する毛沢東への偉大さを強調した。そこで林彪は"世界の農村は世界の都市を包囲する"といった予言めいた言葉を投げた。中国本土を中心とする発展途上国("世界の農村")が欧米先進資本主義国("世界の都市")を征服するという意味にとれたため、中国本土に社会主義革命の風が吹くという大いなる動揺が世界中に走ったのであった。

 こうした中で、劉少奇の側近であった北京市長の彭真(ほうしん。1902-97。任1951-66)のもとで、北京市副市長を務めた呉晗(ごがん。1909-69。任1952-65)という人物がいた。彼は1957年に共産党入党後、反右派闘争を支持した政治家であると同時に、北京大学の著名な明代史研究家であった。呉晗の作品に『海瑞免官(かいずいめんかん。海瑞罷官とも)』という、1960年に彼が完成させた戯曲の脚本があり、明代中期の名官僚だった海瑞(かいずい。1514-87)が主人公である。この海瑞という政治家は、激化する北慮南倭の中、退廃する行政において、政治を省みず道教を盲信する嘉靖帝(かせいてい。世宗。位1521-66)を直接諫めたことで、帝の怒りに触れ免官処分になり、結果投獄された人物であり、清廉潔白で妥協しない性格の持ち主として知られている。
 1965年11月10日、この『海瑞免官』がまた注目された。浙江省出身で、上海市の作家協会理事に就いていた姚文元(ようぶんげん。1932-2005)が、上海の日刊新聞にこの『海瑞免官』についての評論を発表した。その内容とは、この『海瑞免官』は、大躍進を批判した彭徳懐(ほうとくかい。1898-1974。国防部長)が、1959年7月に開かれた廬山会議で当時の主席毛沢東に諫言し、国防部長を解任させられた(その座は林彪に奪われた)有様をたとえたものであり、彭徳懐を、嘉靖帝を批判し官職を罷免させられた海瑞に見立て、英雄視されているというものであった。とどのつまり、大躍進を失敗させた毛沢東を、政治をないがしろにした皇帝嘉靖帝と同様の立場であることを主張したのである。

 この『海瑞免官』問題は、劉少奇側、つまり実権派とされていた彭真を退かせたい毛沢東の意向を、姚文元が受け入れたことがそもそもの始まりであった。彭真の下にいる呉晗を退かせ、市長を務める彭真をも失脚させる意図であった。毛沢東が考える"下からの改革"を実行へと導く絶好の機会であった。結果、毛沢東側により、呉晗は副市長を解任させられた。そして、彼の同志とされ、党員である北京市のジャーナリストである鄧拓(とうたく。1912-66。市党委員会書記)や、廖沫沙(りょうまっさ。1907-90。市党委員会統一戦線工作部長)ら、"三家村"と呼ばれた知識人グループの弾圧も進められた(名前の由来は呉晗・鄧拓・廖沫沙が交替で書いた随筆「三家村礼記」に因む。"反党反社会主義の毒草"と呼ばれ、批判された)。

 こうした動揺が走る中で、劉少奇主宰による中央政治局拡大会議が開催された。1966年5月16日、ここで採択された"五・一六通知"というのは、革命派であり、日中戦争時代から毛沢東の秘書など主要側近として活躍していた陳伯達(ちんはくたつ。1904-89)が起草したものであり、会議には陳伯達以外に毛沢東夫人江青(こうせい。1913?-91。女優出身)、康生(こうせい。1898-1975。共産党内のスパイを取り締まった情報部の代表)、張春橋(ちょうしゅんきょう。1917-2005。上海における党代表)といった、革命派の要人が出席した。ここでは、実権派が握る中共中央書記処(党中央政治局と政治局常務委員会の事務処理の機関)など主要政局に代わる、"中共中央文化革命小組"の結成が叫ばれ、結果5月28日に完成された。陳伯達を組長とした、江青、張春橋、康生、姚文元らによる革命組織の誕生である。反共・反社会主義・反毛沢東を叫ぶ、また毛沢東思想に異論を唱えて書を著す、そして教壇に立つ知識人や文化人を根こそぎ排斥し、またこれらを管理する中央や地方の政局をも圧して、今度こそ真の安定した中国社会を築こうとする、プロレタリア文化大革命文化大革命文革)の発動であった。

 まず、攻撃の矛先は教育界へ向けられた。北京大学委員会指導部に対する弾圧である。実は、同大学周辺にある中学校(日本の高校に相当)の学生たちは革命勢力を支持し始めており、秘密裏に毛沢東思想を支持する人たちを防衛するための青年学生革命組織を結成しようとしていた。小組結成の翌5月29日、清華大学の附属中学生がこの10代の青年学生革命組織を結成したのが始まりであり、赤色の『毛主席語録』を常に身につけ、毛沢東支持者を防衛する若者たち、これが紅衛兵(こうえいへい)である。
 こうした中で一方の北京大学では、66年6月1日、毛沢東は大学内の革命派を使って、同大学学長をはじめとする北京大学委員会指導部を批判した内容の壁新聞(大字報)を作らせ、これを公表した。これを機に学生を中心に革命運動が拡大していき、北京市内における清華大学以外の中学においても次々と紅衛兵が結成されていった。結果、彭真の北京市長解任と、北京市党委員会改組が発表され、北京大学学長も解任された。 

 神格化されるほどの党の最高実力者が、大衆を扇動させて、政敵である実権勢力を打倒するというこれまでにない革命であったことに、プロレタリア文化大革命の特徴があった。北京で結成された紅衛兵は、手始めに実権派とされる若者や講師や学者、芸能人といった知識文化人、またブルジョワジーら反革命分子への攻撃に出た。やがてこの攻撃は死傷者がでる始末となったため、劉少奇主席は常務委員会拡大会議を開き、壁新聞の撤去や今後の紅衛兵の結成禁止、そして謀反・暴行の禁止といった指示をだしたが、全く沈静する気配はなかった。
 このような状況下で同1966年8月1日、毛沢東は清華大学付属中学生の紅衛兵宛に、紅衛兵の行動を認める書簡を送った。そこで毛沢東による、「造反(謀反を起こすこと)は理の当然」と表現する"造反有理"の意志表明によって、大学や中学を休業させて革命参加を認め、ついに8月5日、毛沢東による壁新聞「司令部を砲撃せよ」を発表し、現政権である劉少奇国家主席、鄧小平党総書記らを打倒することを示した。そしてその間に開かれた党第8期中央委員会第11回全体会議(8期11中全会)で、"党中央委員会におけるプロレタリア文化大革命についての決定16ヵ条"を採択、文革の定義が明確に打ち出されたのである。

 "造反有理"として党の権力者に認められるとなれば、紅衛兵の行動は"革命無罪"であった。8月18日、彼らは天安門広場において毛沢東、周恩来(しゅうおんらい。国務院総理(首相)。任1949-76)、林彪らと会見、公認を得た紅衛兵はその後全国的に拡大を見せていった。彼らは"四旧打破(旧文化・旧慣習・旧風俗・旧思想の四つの"旧"を打破する)"を掲げ、行動は跳梁跋扈に振る舞い、その規模は過激化を増した。市街地のありとあらゆる壁に壁新聞が貼り出され、西洋服を身にまとった若者達は切り刻まれて肌を露出させられ、貴重な文化財が微塵に破壊されていった。旧文化打破の一環として、中国文化の象徴である金魚も大量に殺され、養魚職人も弾圧された。麻雀など賭け事をしている若者は捕まり、景徳鎮における陶磁器生産者も打撃を受け、多くの陶磁器が割られた。革命の色である"赤"を重視したため、青信号で止まり、赤信号で進んだ。また実権派と見られる政治家宅に押し入り、反革命に関わる書物や資材を押収、また各職場においても実権派は辞職させられた。ハルビン市の批判集会(批闘大会。反革命分子に対するつるし上げ)では、実権派とされた黒竜江省の党第一書記らが、長い三角帽をかぶせられ、さらに反革命分子を証明するプラカードを首に提げさせられ、頭髪を刈られ、町中を引き回されるなどの暴行が加えられた。
 こうしたことから、紅衛兵による旧文化打破に基づく排斥は、かねてからの著名な文化人も対象となった。『海瑞免官』の呉晗をはじめ、中国の写実主義作家の老舎(ろうしゃ。1899-1966。著書『駱駝祥子(ルオトーシャンツ)』)、歴史学者の翦伯賛(せんはくさん。1898-1968)ら多くは死に追いやられてしまうこととなる。紅衛兵はその後イギリス大使館を放火するなど行動が過激化、また組織内での内紛などから、派閥が発生するなど暴走化していった。

 文革では毛沢東、周恩来ら以上に、江青、張春橋、姚文元、王洪文(おうこうぶん。1935-92。上海労働界の若きリーダーとして頭角)、林彪、陳伯達、康生らの主導・実行が目立った。特に江青は演劇出身であることから(当時の芸名は"藍蘋"。らんひん)、旧文化排斥の一環から京劇などの伝統的芸能文化を廃止して、多くの京劇役者が迫害された。また軍人出身の林彪も"毛沢東の戦友"を武器に、多くの軍の幹部を失脚させた。 

 そして、その年の10月に自己批判を余儀なくされた劉少奇は、1967年1月にも、"資本主義の道を歩む実権派"として批判を受けて以後、紅衛兵らによる自宅襲撃など、家族とともに激しいつるし上げを被ることとなった。劉少奇の妻、王光美(おうこうび。1921-2006)は以前より江青に強烈な政治的嫉妬を抱かれていたためその虐待ぶりは凄まじいものであった。清華大学キャンパスで、王光美は紅衛兵によりチャイナドレスを着せられ、ピンポン球で作られたネックレスを首にかけられ、その姿がブルジョワジーである動かぬ証拠であると屈辱を受けたのである。また劉少奇・王光美夫妻の子どもたちも容赦なく暴行を加えられた。劉少奇ら家族はその後監禁状態となり、立ち上がれなくなった。劉少奇は同年10月31日に国家主席の座を奪われて以後も監視を付けられた状態で、すべての自由を奪われ、翌1969年11月、体力が徐々に消耗、開封(かいほう。河南省北部)で非業の死を遂げたとされている(劉少奇死去。1969.10.31)。妻王光美ら家族も12年間刑務所に入れられ、そのうち4番目の子(劉亭亭?。りゅうていてい)ら何人かは獄死したと伝えられている。王光美は劉少奇の死を死後3年経ってから知らされたという(1979年に名誉回復により釈放)。
 また鄧小平も同様に激しく非難され、江西省の南昌(なんしょう)に追放された。1968年には劉・鄧両者とも、政界を完全に追われる身分となってしまった。劉少奇は没したが、南昌に追放された鄧小平はその後粗悪な生活条件のまま過酷な強制労働を強いられ続けたが、必死に生き延びた。また陝西省党委員会第一書記だった胡耀邦(こようほう。1915-1989)、広東省党委員会第一書記だった趙紫陽(ちょうしよう。1919-2005)らも実権派とみなされて失脚した。

 1969年3月、国内の内紛が冷めぬ間に中ソ対立が再燃、黒竜江(アムール川)の支流であるウスリー江の中流域にできた中州でおこった。その中州は珍宝島(ちんぽうとう。ダマンスキー島)といわれる小さな島で、中ソ間がその領有権を巡って大規模な軍事衝突が起こったのである(中ソ国境紛争。珍宝島事件)。ソ連は中国で起こった一連の革命行動を"極左日和見主義"と批判し続けてきており、核保有国同士の軍事的緊張が続いた。結果的には社会主義諸国(アルバニアを除く)はソ連を支持したため中国は孤立し、中ソ双方に多く死傷者が出たが、本格的な全面戦争には至らずに終わった。

 大きな中ソ危機を回避できたが、今後の再勃発もあり得る状況だけに、国内の社会秩序安定にも力を入れなければならなくなった文革派は、実権派のトップ排斥後の荒れた政局を安定化させることに努めた。
 1969年4月、第9次中国共産党全国代表大会(1969.4.1-24)ならびに党9期第1回中央委員会全体会議(9期1中全会)が開催された。実権派が握っていた中共中央書記処の廃止(1982まで)などが決められたが、林彪はこの党大会の政治報告で、下からの改革、つまり広く大衆を立ち上がらせて、修正主義者・資本主義者が集う実権派から権力を奪還しなければならないと、文革の必要性を主張した。この大会で党中央委員会副主席となった林彪は、同時に新しい党規約に"毛沢東の後継者"と明記された。そして中央政治局員に江青、張春橋、姚文元ら上海勢力が着任していった。

 プロレタリアートの力を借り、身近な大衆から整理をし、徐々に上へ上へと駆け上っていき、最後に国のトップを転落へ至らしめるという恐ろしい革命であったが、実権派を排斥した後は革命委員会ともいうべき文革派の陣営が揃い、結果、政局はいちおう安定をもたらした。しかし、革命的党員ばかり集まった党内では、新たな闘いが始まろうとしていた。 


 日本が高度経済成長の波に呑まれている間(1950年代半ば~1973年の石油危機までの間)、中国では、文革が起こされた60年代後半、国歌は今まで使われていた"義勇軍進行曲"ではなく、毛沢東の偉大さを賛美する"東方紅(とうほうこう)"に代わっていました。"文化大革命"という革命は、単に政治家のトップを引きずり下ろすクーデタとはわけがちがい、生活に密着した文化・社会から覆そうとした凄まじい革命だったことがわかります。政治家のトップを支持する(あるいは習慣で支持したことになっている)下層の若者や知識人、また旧文化に携わる文化人や学者たちから次々と排斥していき、じわりじわりと上層へ向かっていくのです。そして最後に国家主席が倒されていく...過去にこんな革命はなかったように思うのですが、この文革のセクションは、世界史だけでなく、日本史、現代社会、政治経済、さらには毛沢東思想に学ぶ倫理社会でも登場する受験必須用語です。

 さて、その学習ポイントですが、まず本編で話した革命は第一次的内容で、1966年から69年までの分野です。実権派と呼ばれた劉少奇・鄧小平と、毛沢東・林彪・江青らとの闘争が目玉です。本編で登場した人物の中で、この5人は覚えておいて下さい。周恩来はここではあまり出題されません。また江青と組んだ、張春橋、姚文元、王洪文ら上海にいる大物たちはホントは重要ですが覚えるまでには至らないでしょう(しかし彼らのグループ名は次回に登場しますが、それはめっちゃ大事ですので覚えることになります。次回で!)。実権派がどちらで、文革派がどちらかというのも答えられるよう整理しておきましょう。ちなみに実権派の別名が走資派であるのも大事。紅衛兵も必須用語です。最後に文化人ですが、呉晗・老舎など著名な人も登場しましたが、受験には登場しません。よって、文革の端緒となった海瑞のお話も登場することはないと思います。

 あと、中ソ対立の軍事衝突がありました。場所であるダマンスキー島は中国名の珍宝島とあわせて覚えておきましょう。年は1969年です。

 さて、革命政権が誕生して、形は整いましたが、まだ荒れます。続きは次回で。

(注)ブラウザにより、正しく表示されない漢字があります(("?"・"〓"の表記が出たり、不自然なスペースで表示される)。鄧小平(トウしょうへい。トウのへんは「登」、つくりはおおざと)。鄧拓(トウたく。トウのへんは「登」、つくりはおおざと)。呉晗(ごガン。ガンのへんは「日」、つくりは「含」)

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