世界史の目-Vol.138-

激動1976

戦後の中国・その4~

大躍進と中ソ対立 ~戦後の中国・その1~はこちら
下からの惨劇 ~戦後の中国・その2~はこちら
   No.2の死と米中接近 ~戦後の中国・その3~はこちら

 プロレタリア文化大革命期、中国共産党主席毛沢東(もうたくとう。1893-1976。党主席任1949-76。党主席はのちの総書記)の後継者された林彪(りんぴょう。1907-1971.9)が、1971年9月、謎の事故死を遂げた。この事件以後の中国では、毛沢東夫人の江青(こうせい。1913?-91。女優出身)を中心に文革を主導する極左路線の四人組と、文革によって混乱を招いた社会及び経済の回復を第一に考える首相周恩来(1898-1976。しゅうおんらい。任1949-76)との間で大きな対立が生じていた。また林彪事件を契機として、実権派として失脚していた趙紫陽(1919-2005)、胡耀邦(こようほう。1915-1989)ら要人が次々と復帰を許された。そして、1973年3月、実権派のナンバー2とされた鄧小平(とうしょうへい。1904-97)も北京へ戻り、職務に復帰した。鄧小平と手を組んだ周恩来は脱文革路線を推進させるべく、計画を練った。

 鄧小平の復帰のきっかけは、毛沢東、周恩来が晩期にさしかかっていること、彼らが文化大革命の失敗に目覚めたこと、そして1972年に元帥だった大将軍、陳毅(ちんき。1901-72)が死去したことである。陳毅は、文革発動中、江青や林彪ら文革小組の支持による紅衛兵(こうえいへい)から厳しく批判されても抵抗を貫いた人物である。陳毅の葬儀が行われた1972年1月、当初彼を最も強く批判していた毛沢東が病をおして突然弔問に訪れたのである。毛沢東は、陳毅の未亡人に林彪への批判を語り、林彪に弾圧された陳毅を"立派な男"だと評価した。そこで、毛沢東は林彪ら文革派によって弾圧された要人の名を挙げた時、陳毅ともう一人、鄧小平の名を挙げた。毛沢東が文化大革命によってもたらされたのは"人民内部の矛盾"であるとして、鄧小平への復帰を前向きに検討したというものであった。毛沢東は陳毅の葬儀を契機として、文革の精神が離れていったことを示したのである。米中正常化交渉が行われているさなかの大きな出来事であった。

 鄧小平の復活に動揺したのは江青、張春橋(ちょうしゅんきょう。1917-2005)、姚文元(ようぶんげん。1932-2005)、王洪文(おうこうぶん。1935-92)ら四人組である。彼らは文革推進の意味から、ある運動を起こした。文革派では四旧打破(旧文化・旧慣習・旧風俗・旧思想の四つの"旧"を打破する)、つまり中国の思想において、孔子(こうし。B.C.551?-B.C.479)がおこした儒家思想は悪の思想とみなされていた(文革派は法家を理想としていた)。四人組はこの儒家批判を林彪批判と結びつけ、林彪は旧思想を復活させ、その封建社会は極悪非道であるとした上、さらに周恩来を"現代の孔子"として批判した。四人組は、実務的な権限は国務院総理に就く周恩来には及ばないため、脱文革派を失脚に向けての大いなる手段であった(批林批孔運動)。林彪を批判していた毛沢東はこの運動に対しては肯定的であり、林彪のことを"国民党と同様で、孔子を尊び、法家に反論する"人物として批判したという。ただ、林彪は既にこの世を去った身であり、今後の展望に重点を置く上で、毛沢東は四人組と周恩来との対立に頭を悩ませてはいた。毛沢東の精神はやはり極左路線で(林彪を"極右"と批判している)、これまでの文革は失敗と思っていても革命継続の主張は変わらず、四人組の推進には期待があった。批林批孔運動も期待し、時には周恩来を批判した。しかし、彼らは実務的権限がないため、現状をはっきり捉える周恩来首相の言い分も毛沢東はよく把握し、現実性からどう決断するかについては周恩来に委ねていた。しかし、国民は文革による社会混乱と政局不安定に嫌気がさしており、脱文革をはかっていた周恩来に期待していたため、この批林批孔は国民にはあまり浸透しなかった。

 翌1974年になると、四人組の周恩来への批判は高まっていった。周恩来を党内の"大儒"と批判した。10月には周恩来側につく鄧小平への批判も強められたが、1975年1月、党10期第2回中央委員会全体会議(10期2中全会)で、鄧小平は国務院第一副総理に任命、そして党副主席に選ばれた。しかしその後も四人組は『人民日報』において批林批孔を主張し続けていった。この年、胡耀邦は鄧小平の指示により科学院副秘書長に就任、脱文革工作を推進した。そして、同1月の第4期全国人民代表大会全人代)で、周恩来は、今世紀末までに4つの部門、すなわち「農業」・「工業」・「国防」・「科学技術」を近代化することを提唱した("四つの現代化")。

 毛沢東は、周恩来首相の後任人事を模索していたが、そこに有力な人材が浮かび上がった。文革発動期から毛沢東の出身地である湖南省で第一書記として、毛沢東に忠実であった、華国鋒(かこくほう)という人物である(1921-2008)。彼は国務院第一副総理のポストに就いていた。華国鋒は、毛沢東が築いた権力の座を狙う四人組を警戒していた。当時党内序列は1位毛沢東、2位周恩来、3位王洪文、4位康生(こうせい。1898-1975)であった。康生は1975年に病没し、文革派内では若き王洪文に次期首相の期待が集まっていた(華国鋒は6位)。

 こうした中で、1976年1月8日午前、周恩来が死去した(周恩来死去)。周恩来の遺言により、火葬後、飛行機を使って散骨された(批林批孔を展開する四人組派によって、遺骨が暴かれることを避けるためとされている)。毛沢東はひとまず華国鋒を国務院総理代行として任務に就かせた。また党第一副主席にも任じた。序列3位の王洪文を抑えての就任であった。
 これに対し四人組は焦りをつのらせた。国民に理解を求めるべく、周恩来亡き後も、彼や鄧小平に対する集中批判を続けた。しかし文革後の社会安定を望む国民は、周恩来の死をひどく悼み、同時に四人組に対する反感も強まっていった。
 4月4日は清明節(中国でお盆に相当)で、この日北京市の天安門広場において、周恩来の死を悼む多くの国民が集まり、彼のために用意された弔花の花輪が捧げられた。しかし、同時に四人組に対する不満もあらわにし、彼らを批判する罵声が飛び交った。このため四人組の指示で動いた北京市当局は花輪を撤去し、群衆を解散させて広場から追い出す行為に出た。群衆はこれに抵抗して逆に天安門広場を占拠する行動に至り、場は騒然と化した。翌4月5日夜、遂に警官隊と衝突、多くの逮捕者がでる大惨事となった(1976.4.5。四五運動。第一次天安門事件)。この事態を反革命的行為とした四人組はこの事件を計画的組織犯罪と主張し、その責任は鄧小平にあるとして、翌々日の7日、党は彼を一切の職務から解任させた(1976.4.7。鄧小平再失脚)。この時点で、華国鋒は国務院総理に就任し(華国鋒首相誕生。首相任1976-80)、同時に共産党第一副主席にも就任した。

 こうして、脱文革推進者のトップ2がいなくなり、四人組は極左の文革路線を進めた。さて、当の毛沢東は病状が日増しに悪化していったが、同76年7月6日、元帥であり、紅軍時代から毛沢東とともに建国に尽力し、2人で"朱毛"と称された朱徳(しゅとく。1886-1976)がこの世を去ったことで、精神的にも打撃を被った。そして、月末には河北省でマグニチュード7.8の直下型地震が発生し(1976.7.28。唐山大地震。とうざん)、公式で死者は約24万人以上にのぼった。この地震では、被災者数など多くの情報が政局から伏せられたほか(非公式によると死者60~80万人)、諸外国からの援助が拒否されたため、復興が遅れた。経済打撃も大きかったが、この地震による影響ははかりしれず、社会不安が避けられない国民にとって、この天災は恐怖以外なにものでもなかった。こうしたなかでも四人組は毛沢東の権威をバックに、代わらぬ活動を続けた。

 しかし、1976年9月9日0時10分、毛沢東は82歳で生涯を終えた(毛沢東死去)。建国の父への哀悼行事は全国的に行われ、その死を悼んだ。しかし、悼む死への涙が乾かぬ間に、四人組は毛沢東の遺言書(?)を利用して文革路線の継続を堅持・主張した。一方失脚した鄧小平は、華国鋒を支持して再々復権を目指した。

 その華国鋒は、社会安定化を優先させるべく、四人組の行き過ぎを抑えることを第一に考え、10月、ついに動いた。四人組は、権威を失ったにもかかわらず革命継続を主張していたが、人民解放軍の元帥で、政治局常務委員である脱文革派の葉剣英(ようけんえい。1897-1986)や、周恩来を助けて財政政策を行ってきた李先念(りせんねん。1909-1992)らの台頭もあり、彼らが華国鋒首相を支持していることもあって、四人組の一斉逮捕に踏み切った。10月6日、江青、張春橋、姚文元、王洪文らは北京で逮捕され、その後党籍を剥奪された(1976.10.6。四人組逮捕。1981年、全員に有罪判決)。翌10月7日、華国鋒は中国共産党主席、中央軍事委員会主席に就任、毛沢東の座を継承することとなった(いずれの主席も任1976.10-1981.6)。これにより、1966年から続いてきた文化大革命は、名実ともに終わった(文化大革命終結)。

 建国以来、国家を支え続けた大物たちが1976年を境としてこの世を去り、あるいは失脚した。翌1977年には鄧小平の再復帰が決まり、党副主席、国務院副総理、人民解放軍総参謀長に就任した。8月には中国共産党全国代表大会(党大会)が開かれ、そこで華国鋒は文革の終結を宣言した。そして、直後の党11期第1回中央委員会全体会議(11期1中全会)において、党主席の華国鋒、副主席の葉剣英、鄧小平、李先念、汪東興(おうとうこう。1921生。四人組逮捕に尽力。元党中央警衛団団長。政治局委員)ら5人による新しい顔ぶれで、国家を統率していくことになったのである。

 華国鋒は、かつて周恩来が掲げた"四つの現代化"を実現すべく、脱文革路線を引き続き行うことを決めた。外交では1968年の日中平和友好条約(日本の福田赳夫内閣時代。1976.12-78.12)の締結や米中国交正常化(アメリカはカーター政権時代。1977-81)の実現を果たす他、反ソ・親カンボジア路線により、ベトナム(ソ連支援)のカンボジア侵攻(当時の呼称は民族統一戦線クメール=ルージュの民主カンプチア。首相ポル=ポト。任1975-79)に対する中越戦争勃発(第3次インドシナ戦争。1979)を招いた。 

 華国鋒は文革の終結を宣言し、権力把握にこだわった四人組を逮捕したが、プロレタリア独裁による革命は継続すると主張していた。真の毛沢東思想に則して、毛沢東が行った路線はどんな形であれ尊重するというものであった。それは「両個凡是("二つのすべて")」と言う。その2つとは毛沢東の決めたことはすべて守り、毛沢東の出した指示はすべて守るという意味である。しかしこれに対して現状重視・実践重視の鄧小平が賛成するはずもなく、個々の毛沢東の語録だけを支持するのではなく、思想全体を見て正しく理解せよと考えていたため、やがて華国鋒・鄧小平間に対立を生むこととなる。やがて、胡耀邦、趙紫陽ら、かつての文革期に失脚したもと幹部を重用した鄧小平側に力が集まりだした。やがて、これを機に、既にこの世を去った人たちも含む、文革の被害者となった旧幹部が、次々と名誉回復を果たしていくことになる(元国家主席であり、文革の最大の被害者劉少奇の名誉回復は1980年に決められた。りゅうしょうき。1898-1969.11)。

 1978年12月、党11期第3回中央委員会全体会議(11期3中全会)が開かれた。ここで鄧小平は革命路線を廃し、経済の抜本的立て直しをはかる改革開放政策という路線を主張したことによって党の主導権を勝ち得た。華国鋒は1980年に国務院総理を、四川省で経済政策に成功していた趙紫陽に譲り(趙紫陽首相誕生。任1980-87)、翌1981年には中国共産党主席を胡耀邦に(主席任1981-82。のち総書記。総書記任1982-87)、中央軍事委員会主席を鄧小平に(任1981-89)、それぞれ譲った。華国鋒はトップから下がったものの、その後党中央委員を2002年まで続けた。

 こうして中国の80年代がスタートし、文化大革命で惨劇を味わった胡耀邦、趙紫陽、そして鄧小平の新たな3トップの時代が幕を開ける。 


 中国現代史シリーズも第4話に突入しました。あらかじめ言っておきますが次回の第5話が最終話です。中国史を紹介するとき、必ずと言っていいほど原稿量が長くなりますが、今回は今までにない長編となりました。しかし、前にも言ったとおり、世界史だけでなく、日本史、政経、現社、倫理などにも必ず登場するセクションであるだけに、学習材料は豊富であります。政治面、社会面、経済面、文化面など、いろんな側面で学習できます。

 さて、今回は大きな転機を迎えます。周恩来の死に始まり、毛沢東死去、そして四人組逮捕と、1976年はめまぐるしい激動の年であったといえます。文化大革命を引っ張ってきた要人たちが次々とこの世を去り、あるいは失脚していきました。そして、革命期に実権派として弾圧された人たちが復権していきます。文革終焉と新時代突入のはざまにいたのが華国鋒氏であったと思います。事実上、華国鋒主席も1980年初頭に退きますが、華国鋒時代には日中平和友好条約の締結や、米中正常化といった強力外交も成し遂げています。毛沢東時代ではニクソン訪中や日中共同声明が実現していることをみると、華国鋒氏は毛沢東が最終的に果たせなかった外交を果たしたのではないでしょうかね。毛沢東→華国鋒→胡耀邦という流れではなく、いきなり毛沢東から胡耀邦、趙紫陽、鄧小平にかわっていたら、それこそ大きな激動が予想されたでしょう。いずれにしても、文革路線から改革開放路線に至るまでの良きクッション役としての、華国鋒の存在は大きかったと言えます。

 さて、今回の学習ポイントです。周恩来死去、毛沢東死去、四人組逮捕は世界史の用語集に登場します。周恩来死後に起こった第一次天安門事件は、旧課程では載っていましたが、新課程では周恩来死去の説明文内に記するにとどまっています。天安門事件は第二次(次回に登場)の方が有名です。党主席(のちの総書記)は毛沢東→華国鋒→胡耀邦で、首相をあらわす国務院総理は周恩来→華国鋒→趙紫陽であり、重要人物である鄧小平はこれには就任していません。これ、現代中国史を学習する上で重要です。鄧小平は中央中央軍事委員会主席に携わり、毛沢東→華国鋒→鄧小平となります。当然ながら副主席、副総理などは試験には出題されませんのでご心配なく。また葉剣英、李先念も登場しましたが、これらも受験では登場しません。朱徳は新課程の世界史用語集では消えていますが、旧課程では、長征時代の分野で登場していました。周恩来、毛沢東と同じく1976年に没しています。
 用語では、"四つの現代化"とその四つ(「農業」・「工業」・「国防」・「科学技術」)が大事ですね。一方、批林批孔は全くと言っていいほど出題されません。

 また、これも出題されることはないですが、逮捕された四人組は、1981年に有罪判決を言い渡されます(江青と張春橋は死刑。その後減刑)。しかし、江青は1991年に自殺しました。翌92年には王洪文が病死、張春橋と姚文元は仮出所または刑期を終え、その後2005年に両者とも病死しております。

 さて、新しい時代が幕開けとなりました。次回は現代中国史の最終編をお送りします。

(注)ブラウザにより、正しく表示されない漢字があります(("?"・"〓"の表記が出たり、不自然なスペースで表示される)。鄧小平(トウしょうへい。トウのへんは「登」、つくりはおおざと)。

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