世界史の目-Vol.140-

スイスの新しい風

 ハプスブルク家が領有していた13世紀以降のスイスでは、1291年、国内の有力な3州(原初3州。ウーリ、シュヴィーツ、ウンターヴァルデン。シュヴィーツは"スイス"の語源となる)が永久同盟を締結して、ハプスブルク家からの独立運動を展開した。1316年に自治権が認められた原初3州であったが、永久同盟は加盟州が増えて連邦国家化していき(1353。八州同盟。前述3州に加えグラールス州、ツーク州、ルツェルン市、チューリヒ市、ベルン市)、スイスにおけるハプスブルク家領が次第に奪われていった。1499年、ハプスブルク家から出た神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世(位1493-1519)は旧領回復を目的に同盟軍と激戦を交えたが(シュヴァーベン戦争。スイス戦争)、結果カルヴェンとドルナハの戦いに敗北し、同年開かれたバーゼル会議で、13州獲得が実現、事実上の独立を勝ち取った(1499。スイス独立)。

 これにてスイスの軍力は誇れるものとなり、1506年、当時領域最大の教皇領を有していたローマ教皇、ユリウス2世(位1503-13)はスイス人傭兵を近衛兵として採用し、これが現在のローマ教皇衛兵にスイス人を採用する起源となっている。無敵の軍団を誇っていたスイス軍はその後イタリア戦争(1494-1559)にも介入するなどしたが、1515年にフランス軍と戦い大敗を喫して以降は下火になった。

 スイスは古くから地理的にイタリア、フランス、ドイツに囲まれ、それらをつなぐ交通・交易の要衝としても繁栄した。なかでもチューリヒジュネーヴバーゼルベルンといった、のちに歴史的・国際的にその名が知られていく都市も発展していき、バーゼルではスイス最古の大学(バーゼル大学)も建設された(1459)。その中でもチューリヒやジュネーヴはそれぞれの教会を当時の腐敗したローマ教会の組織的・政治的隷属から解放させる動きもあり、16世紀になると、神聖ローマ帝国(962-1806)の領邦、ザクセンにおけるルター(1483-1546)のキリスト教刷新運動の影響もあって、宗教改革の気運が高まっていった。

 チューリヒでは、教皇の権威や教会の諸策に対し、様々な疑問を懐いていた司祭ツヴィングリ(1484-1531)がいた。彼はエラスムス(1465/66/69-1536)やルターに影響を受けて『新約聖書』を研究、聖書第一主義を貫いた。チューリヒ大聖堂の説教師となったツヴィングリは、1519年に贖宥状(しょくゆうじょう。インダルジェンス。免罪符のこと)販売の正当性を批判して以降、改革路線を表し始めた。この結果キリスト教刷新運動がおこされ、チューリヒ市内では旧教派とツヴィングリ派に分かれ両派の抗争が展開された。そしてチューリヒでの討論会に論題を67ヵ条提出、討論に勝利を収めた(1523)。これによりツヴィングリ派における修道院閉鎖、聖画像や遺物の教会からの撤去、典礼音楽の廃止、教皇制度の見直しなどが行われた。こうしてスイスにおける最初の宗教改革が始まった。
 また1525年4月13日、ツヴィングリはミサ廃止を決定した。この日は聖木曜日にあたり、「最後の晩餐」を記念する日である。この日は復活祭前の木曜日にあたるが、復活祭前の一週間は最も尊い期間であり、その中でも木曜日から3が日は特別な式典・礼拝・慣習が行われる。その聖木曜日にミサを廃止したツヴィングリは、「最後の晩餐」ではなく彼自身が考案した晩餐式を行った。
 ミサではイエス=キリスト(B.C.4?-A.D.30?)の肉体であるパンと、同じく彼の血である葡萄酒(これでキリストの聖体とする)を信徒に分かつ儀式、つまり聖餐(せいさん。聖体の秘跡)が行われるが、この解釈(聖餐論)について、ツヴィングリは、パンと葡萄酒は単なる象徴で、キリストの肉体および血ではないと考え(象徴説)、パンと葡萄酒の実体と共にキリストの肉体と血の実体が共在する(共在説)と考えるルターと意見を異にした(マールブルク会談。1529)。

 ルターの協力を断念したチューリヒのツヴィングリ派思想はベルンやバーゼルには浸透していったが、一方で旧教派との対立は深まっていき、特に旧教派を支持するウーリ州、シュヴィーツ州、ウンターヴァルデン州、ルツェルン州、ツーク州の5州(森林五州)との内戦がますます過激になった。ツヴィングリはチューリヒで兵を集めてスイス中部のカッペルで激戦を展開したが(カッペル戦争。1529,1531)、チューリヒの軍は連敗を喫し、遂にツヴィングリも陣没した(1531)。この宗教内戦はカッペルで休戦協定が結ばれて終結し、チューリヒではその後ブリンガー(1504-1575)といった宗教改革者が現れたものの、その規模は大きくはならなかった。

 ツヴィングリが没して5年後の1536年3月、バーゼルで新たな話題が持ち込まれていた。
それは、ラテン語で書かれた『キリスト教綱要(初版)』と呼ばれる書であった。プロテスタントのための護教論で、プロテスタントを迫害したフランス・ヴァロワ朝(1328-1589)の国王フランソワ1世(位1515-47)に献げられた書であった。その後この書は新教派伸展のために幾度も増補・改訂されて、1559から60年にかけて刊行された最終出版の分量は初版には比べものにならないくらいの厚さとなった。

 この『キリスト教綱要』は1541年にフランス語版も刊行されたが、著者はフランス出身の神学者、ジャン=カルヴァン(1509-1564)である。その彼が著した『キリスト教綱要』には、聖書を基準とした信仰の重要性と、救済はその信仰によってのみ得られるとする福音主義が書かれている。この思想は1533年にカルヴァン自身が突然回心して新約聖書の"福音書"に信仰の基礎を置くことにつとめたが、旧教国フランスでは新教派の弾圧が激しいため母国を離れたという。1536年、たまたま立ち寄ったジュネーヴで、とある牧師に教会の刷新を要請され、ジュネーヴの宗教改革に携わった。一度は市民に反感を買われて追放の身となったが、1541年にその市民から再度の要請があったため戻った。それ以降カルヴァンはジュネーヴにおける教会改革と、それに伴う政治・社会・生活の改革に生涯を捧げていった。カルヴァン自身はそれら諸改革を取り仕切るリーダーとして、政教一致を目指した神権政治(神政)を行わせ、厳格な規律を掲げて生活管理をさせた。教会では長老制度を採用し、牧師と信徒から選ばれた長老が教会の教会管理運営にあたり、信仰の指導を行った。

 カルヴァンの思想は、ルターが主張した義認説、つまり"人は信仰によってのみ義とされ救われる"をさらに発展させ、人間の意志によって魂が救済されるのではなく、神の意志によって前もって定められており(つまり教会や教皇の意志では魂の救済は決定されない)、神の恩寵(おんちょう。神から与えられる無償のたまもの)は、神が予め選んだ者のみに限られるという「予定説」であった。救済を得るには社会生活における実践が重視され、徹底した禁欲主義を貫いて快楽を戒め、自己の職業を神より与えられた天職として勤労に励めば、必ず救済を得ることができるというものである。これはルターの教義以上に徹底している。職業に励めば結果的に利潤が生まれるため、この思想は当時の新興の勤労市民階級にとって、やがて確立される資本主義社会形成に向けて大いに理解が示され、カルヴァンへの支持が高まっていった。

 しかしこうした厳しさと、カルヴァンの独裁的権勢はたびたび批判を招いた。『キリスト教綱要』での予定説を否定しただけでなく、三位一体説(父なる神・子なるキリスト・聖霊が一体である)といったカトリック教義も否定した、スペインの医学者セルヴェトゥス(ミシェル=セルヴェ。1511-1553)という人物がその代表である。彼はギリシア医学を研究し、血液の小循環や肺循環を発見した人物で、地理学や生理学にも精通していた。彼は1553年、フランス西部のヴィエンヌにいたが、そこで『キリスト教復位』を匿名で出版した。内容は前に述べた予定説の否定、三位一体説の否定を中心とする新旧両教を批判するものであった。著者がセルヴェトゥスであることが明らかになると、彼はカトリックの宗教裁判で同年4月に異端とされ投獄・幽閉された。しかし彼は脱獄に成功して各地を転々とし、行き着いたジュネーヴで今度はカルヴァン派に捕らえられた。新教側からも異端とされたセルヴェトゥスは、カルヴァンの命で、ジュネーヴ郊外で火刑に処されることが決まった。
 新旧両教とも敵に回したセルヴェトゥスは、首をロープで何重も巻かれ、身体は鉄の鎖で火刑台の柱にくくられ、両手を縛られたまま、生きたまま刑に処された。火が弱いため、ゆっくりと炎と熱で焼かれ、苦しみもだえる彼の様子を見た傍観者は、見るに見かねて枯れ草を刑台に投げつけて火力を強めさせて、少しでも苦しみを減らして死なせようとする光景がみられたといわれる(彼は没後350年の1903年に異端を解かれて名誉を回復、ジュネーヴ市民により贖罪祈念碑が建てられた)。

 カルヴァンによるこの裁判は、カルヴァン派プロテスタントの教義を確立するにあたって、見せしめとして火刑を行い、他の異端者を寝絶やしにする必要があったとされる。とはいえ結果的には神に委ねなかった裁判として、カルヴァンの不寛容さがにじみ出た結果となった。しかし、こうした徹底主義がジュネーヴを"プロテスタンティズムのローマ"と呼ぶほど教会都市・カルヴァン派プロテスタントの総本山として成立するまでになり、1559年には新教神学の権威であるジュネーヴ大学が設立されることになる。カルヴァン自身はそれから5年後の1564年に、55年の生涯を終えたが、カルヴァン派プロテスタントは他国へも流入されていき、フランスではユグノーと呼ばれ、オランダではゴイセン、イングランドではピューリタン、スコットランドではプレスビテリアンと呼ばれた。こうしてプロテスタントの発信地となった教会改革国スイスは、徐々に周辺諸国によってその活動を知られるようになっていった。

 新しいキリスト教の風が吹き込まれたスイスは、三十年戦争勃発(1618)後も傭兵として駆り出される以外は武装中立を守り、戦争終結後の1648年に締結されたウェストファリア条約で、国際的公認において、法的にも神聖ローマ帝国からの独立を勝ち取り、そして1815年のウィーン議定書に基づいて、永世中立国(永世局外中立国)として国際的に承認されたのである。しかし他国とは中立を守ったものの、国内では新旧両教の抗争は止まず、1848年に起こったフランス二月革命の近隣諸国への波及がスイスにも影響して、その前年から勃発していた旧教支持州(ウィーン体制派)と新教支持州(自由主義派)の内戦が激化した(分離同盟戦争)。

 その後内戦は終結し、連邦制度が採択され、現在の正式国名であるスイス連邦となった(1848)。2度の世界大戦中は中立を維持、その間ジュネーヴに国際連盟本部が置かれ(1920)、第2次世界大戦後も、スイスの国際連合加盟はすぐには実現されなかったものの、国際労働機関(ILO)や世界保健機関(WHO)といった、国際連合に属する重要機関がジュネーヴに置かれるなど、国際貢献は積極的に行われた。そして2002年、スイスは国民投票(レファレンダム)で国際連合加盟を果たした(スイス、国連加盟2002.9)。国内では現在でも連邦共和制をとり、前述の国民投票、国民発議(イニシアティヴ)を採用、いわゆる直接民主制を取り入れて国民の意見を反映させている。


 大学受験に登場する西欧史のなかで、スイス史は地味なようで、結構重要であります。他分野で登場する重要用語にひっついて出てくるスイス関連内容は、出題頻度の高いものが多いですね。

 さて、長らくアジア史関連が主だったので、ガラッと転換して西欧史に参りました。連載140話にしてはじめて、スイスがメインのお話ですが、これまで幾度となく登場してきました宗教改革関連のなかで、唯一カルヴァンとツヴィングリ、つまりスイスの二大宗教改革者についてははじめてのメインでの登場ではないでしょうか。カルヴァンは出てこなくても、カルヴァン派はちょくちょく出てきたりはしてましたが.... 
 本編前半に登場した永久同盟との戦争にまつわるものに、"ウィリアム=テル(ヴィルヘルム=テル)"の伝説があります。ウーリ州のお話で、州の要人に背いた弓の名手テルが捕らわれ、刑を逃れるため、我が子の頭上にのせたリンゴを射落とすことを命じられ(できないなら親子とも処刑)、結果見事リンゴを射落としたという話です。この伝説は日本でもよく知られており、ドイツの疾風怒濤時代(1770年代におこった文学革新運動)に登場したシラー(1759-1805)の戯曲『ウィリアム=テル』や、1829年イタリア人作曲家のロッシーニ(1792-1868)が発表したオペラ『ウィリアム=テル(初演)』で後世にも語られる英雄です。とくに後者のオペラに使われた序曲部分は日本でもTVやCMに使われて特に有名ですね。

 さて今回の学習ポイントです。大きく分けて4つの時代でみていきましょう。まずスイス独立時の話ですが、当時はハプスブルク家の支配を受けていたと言うこと(余談ですがこの"ハプスブルク"という名称は10世紀半ば、同家の先祖がスイスのライン川上流のアールガウ地方に築いた"ハビヒツブルク(="鷹の城"の意)"から由来しています)。15世紀末に独立を勝ち取っていることに注目です。
 続いて、2つめの時代として、ツヴィングリとカルヴァンの宗教改革ですね。ここが大きな目玉です。ツヴィングリはチューリヒ、カルヴァン派フランス人ですが、行われた場所はスイスのジュネーヴであること。スイスはチューリヒ、ジュネーヴ、首都ベルン、そしてカルヴァンの『キリスト教綱要(→重要!!)』が出されたバーゼルの4都市は必ず知っておく必要があります。カルヴァンは、前述の『キリスト教綱要』以外にも、予定説、長老制度、福音主義といった教義についての内容が多く出ますので注意して下さい。とくに予定説は、禁欲主義、勤労、資本主義といった言葉がキーワードとして出されます(またまた余談ですがこの内容は、後世の資本主義社会にも大きく影響するとして、のちにドイツの社会学・経済史学者マックス=ウェーバー(1864-1920)が『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を著したことも知られています)。
 カルヴァン派が他国へ波及したときの名称(ユグノー<フランス>、ゴイセン<オランダ>、プレスビテリアン<スコット>、ピューリタン<イングランド>)も合わせて覚えておきましょう。セルヴェトゥスの火刑はよくしられた話ですが、入試用語としては登場しません。

 そして3つめの時代は三十年戦争後のウェストファリア条約(1648)で、スイス独立が国際的に承認されたということ(オランダと同時に独立を果たしたことを知っておくこと)。4つめの時代はウィーン会議で出されたウィーン議定書によって、永世中立国として国際的に承認されたということ。ただし、これら4つの時代はスイス史としてメインで出されることは少ないです。たとえば1つめの時代はハプスブルク家が頭角を現し始めた頃のドイツ史の中で、2つめはルターやヘンリ8世(位1509-47)らと合わせたすべての宗教改革の内容の一部として、3つめは三十年戦争の項、4つめはウィーン体制の項でそれぞれ出題される頻度が高いです。

 国際連盟の本部がジュネーヴに置かれていたこと、大戦後の国際連合の所属機関であるILOやWHOがジュネーヴに置かれていること、また永世中立国であることや、直接民主制を取り入れていることは、世界史以外の分野としても一般常識として重要ですね。

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