世界史の目-Vol.141-

シチリアの晩鐘

 イタリア半島南部に位置する地中海最大の島シチリア。現在のシチリア島(英語名シシリー島。シシリア)は、イタリア共和国の特別自治州(シチリア州)であり、州の面積の大部分をこの島が占めている。古代ではポエニ戦争(B.C.264-B.C.146)の結果、ローマにおける最初の属州となり、島の属州民は、総督や徴税請負人の圧力と搾取で苦しめられた。島内では、中でもポエニ戦争の相手、カルタゴを支持する人々が多数殺され、またローマの奴隷制度に従い、大所領の集団農耕が強制された。このためローマ共和政末期にはその数20万人にも及ぶ大規模な奴隷反乱が起こり(シチリアの奴隷反乱。第1次B.C.139/B.C.135-B.C.132、第2次B.C.104-B.C.100/B.C.99)、多数のローマ人を殺害して報復に出るなどの行為に出たことがあった。

 その後ローマは帝政を経由後東西分裂を起こし、シチリア島も440年、ゲルマン一派のヴァンダル王国(439-534)に征服されて以後、東ゴート王国(493-555)、ビザンツ帝国(395-1453。東ローマ帝国)、アラブ人(827年から965年にかけて侵入。中心はアグラブ王国。800-909。アッバース朝(750-1258)支配下のスンナ派王国)といった、地中海覇権・通商圏をめぐってその中心となるシチリアに次々と侵入・征服が繰り返された。これにより島内では、民族・宗教・文化が異種混在していった。

 11世紀後半になるとノルマン勢力が活発化し、イスラム勢力下のシチリア島でも多大な影響を受けることになる。1061年にはルッジェーロ1世(1031?-1101)がシチリア島の征服を初め、1072年にシチリア伯となり(伯位1072-1101)、シチリア伯領を建設した。その後ルッジェーロ1世の子、ルッジェーロ2世(1095-1154)がシチリア伯を継承(1105)、さらにルッジェーロ1世の兄(ロベルト=グイスカルド。1015?-1085)が既に制圧していた南イタリア・ナポリ地方の公国領も受け継いだ(1127)。
 ルッジェーロ2世はこれら全所領を統合して王政を始めることを教皇から認められ、1130年、ノルマン朝シチリア王国(オートヴィル朝シチリア王国)として統合、初代国王となったのである(王位1130-54)。これが広義でいう、シチリアとナポリを合わせた両シチリア王国である(狭義で言う両シチリア王国は後述。このためこの時代の両シチリア王国は「南イタリア王国」とも言われる。ナポリも含まれるが、狭義の両シチリア王国が誕生するまで、ここでは単に"シチリア王国"と呼ぶことにする)。ビザンツ文化・イスラーム文化・ノルマン文化の3文化が融け込んだシチリア王国は、首都パレルモを中心に国際色豊かな国家形成が促進された。

 12世紀後半、神聖ローマ帝国(962-1806)では第一次シュタウフェン朝(ホーエンシュタウフェン朝。1138-1208,1215-54)が南イタリアに勢力を上げ、シチリア王国を征服した(ドイツのシチリア征服。1194)。このシュタウフェン朝シチリア王国では2代目王として、後に神聖ローマ皇帝となるフリードリヒ2世(帝位1215-1250)がフェデリーコ1世(シチリア王位1197-1250)の名で同島に君臨した。

 しかしイタリア政策をめぐって神聖ローマ帝国とローマ教皇間で紛争が勃発、イタリアでは都市単位、貴族単位にはゲルフ(グェルフ。教皇党)とギベリン皇帝党)をそれぞれ結成して対立を深めた。そこで教皇は、フランス・カペー朝(987-1328)の聖王と呼ばれたルイ9世(位1226-70)の弟で、カペー系のアンジューの始祖であるアンジュー伯シャルル(シャルル=ダンジュー。伯位1246-1285)をシチリア王位の最有力継承者として推薦、ローマ教皇(ウルバヌス4世。位1261-64)に支持されたシャルルは、当時シチリア王だったフリードリヒ2世の庶子マンフレート(マンフレーディ。王位1258-66)を南イタリアのベネヴェントで破り(ベネヴェントの戦い。1266。現カンパニア州の県都)、マンフレートを戦死させた。これにて、ホーエンシュタウフェン家のシチリア支配は終焉を迎え、アンジュー伯シャルルはカルロ1世(シチリア王位1266-1285)として王位に就いた(1266)。フランス支配下におけるシチリア王国の誕生である(アンジュー朝シチリア王国)。

 この頃、十字軍勢力が下火となってラテン帝国(1204-61)が瓦解し、コンスタンティノープルが奪回されてビザンツ帝国が再興された(1261)。この王朝はパラエオロゴス朝パレオロゴス朝。1261-1453)といい、ビザンツ帝国最後の王朝である。ビザンツ皇帝ミハイル8世(ミカエル8世。初代皇帝。位1261-82)は、以前のような強大国ではないものの、ビザンツ復活を果たしたことでその権威をあらわにし、帝国の版図を最盛期の状態に戻すことのみを考え、コンスタンティノープル奪還時に援助のあったジェノヴァや、十字軍時代におけるかつての敵ヴェネツィアとも協力体制を取るなど、数々の策略でもって版図を拡げ始めていった。また十字軍結成に至る、教皇側における本来の目的であった東西教会の統合をローマ教皇に進言して(第2回リヨン公会議。1274)、教皇から支持を得ようとした。
 一方でアンジュー朝シチリア王国のカルロ1世は、ホーエンシュタウフェン家のシチリア支配を終わらせた後、そのミハイル8世が誇るビザンツ帝国の征服を考えていた。地中海における大帝国を築くことがカルロ1世の野心であった。
 当然この動きはビザンツ帝国パラエロゴス朝にも伝わり、ミハイル8世はアンジュー家と敵対するアラゴン王国(1035-1137。1137年からはバルセロナ伯のカタルニャと同君連合国家を組み、アラゴン連合王国となる。1137-1479)と協力体制を敷いた。

 このとき、アンジュー伯シャルルことカルロ1世の支配するシチリアでは、圧政を続けるアンジュー家の支配を快く思わず、島のイタリア系住民は不満をあらわし、情勢はどちらかといえば悪化傾向にあった。これを知ったビザンツ皇帝ミハイル8世は、カルロ1世からの厳しい搾取に苦しむシチリア島民の反仏精神を扇動する行動に出て、フランス人排斥運動へと発展させていった。

 1282年3月30日は、復活祭の翌日にあたる月曜日だった。教会では大勢の島民が夕刻の祈り(晩禱。ばんとう)を捧げ、これを告げる入相の鐘、つまり晩鐘(ばんしょう)が鳴らされた。

 この瞬間、惨事は起こった。シチリア島の中心都市パレルモで、島民によるフランス兵虐殺が始まった。晩禱に集まっていた島民に近寄ったフランス兵が、地元の女性に手を出したことで、その夫が怒り、その兵士を刺し殺したことが直接の原因だった。その場にいた他の島民もたちまち暴徒と化し、次々と兵士の一団に襲いかかり、全員虐殺してしまったのである。
 晩鐘が鳴らされたと同時に起こったこの暴動は、瞬く間にシチリア全土に拡大し、フランス系住民と分かるやいなやすぐにその場で殺されていった。この事件で亡くなったフランス系住民は約4000人といわれている。この事件を、"シチリアの晩鐘"や"シチリアの晩禱"と呼ぶ。このとき、暴動を起こした島民が叫んだ合い言葉、「Morte alla Francia Italia anela(フランスに死を、これはイタリアの叫びだ)」の頭文字をとった言葉が、"mafia(シチリアの方言で「乱暴な態度」の意)"であり、"マフィア"という言葉の由来となったといわれている(創作など諸説有り。しかしマフィアの言葉そのものは、シチリアが発祥である)。

 この事件を軽く見ていた、フランス・カルロ1世は対応に遅れ、気づいた時には全土に広がる排仏運動を目の当たりにするしかなかった。結局、シチリア全土を失うことになり、シチリア王位はマンフレートの娘婿であるアラゴン国王ペドロ3世(位1276-85。シチリア王ピエトロ1世。シチリア王位1282-85)にとって代わられ、アンジュー家のシチリア支配は終わりを告げた。同時に、ビザンツ帝国征服計画もミハイル8世によって阻止されたのである(ミハイル8世は晩鐘事件のあった同1282年末に病死するが、パラエロゴス朝はローマ帝国史において最長寿王朝となる)。

 このあと、アンジュー家シャルルは南イタリアを包含していたシチリア王国からナポリを離してナポリ王国(1282-1816)とし、シャルル自身は1285年に没するも、アンジュー家の王統を15世紀半ばまで持続させた。こうして南イタリアはアラゴン家の所領であるシチリア王国と、アンジュー家の所領であるナポリ王国が存立する結果となる。しかしアンジュー家が絶えたその15世紀半ば、アラゴン家によって両国が統治されることとなった。これを最初の"両シチリア王国"とみる動きもあるが、その後シチリアとナポリは再度の分裂期を迎え、その後両国はスペイン・ブルボン家の支配を受けた。シチリアはブルボン家の支配が続いたが、ナポリではフランス第一帝政時代(1804-14,15)の時、ナポレオン1世(位1804-14,15)に支配されていく。ナポレオン1世の兄ジョセフ=ボナパルト(1768-1844。ナポリ王位1806-08)が王位に就くなどしたが、ナポレオン帝国の勢いに翳りが見え始めると、シチリア・ナポリにおける再度の両国統合が図られるようになった。スペイン・ブルボン王家でシチリア王のフェルディナント3世(1751-1825。位1759-1815)は、ナポレオン一族がナポリを占領するまではナポリ王フェルディナント4世としていちおう王位に就いていたが(位1759-1806,15)、ナポレオン帝国の衰退に乗じて一族がナポリを離れた1815年に正式に復位し、翌1816年、統合国家の王フェルディナント1世(位1816-25)として遂に統合を実現させた。これが狭義でいう、正真正銘の両シチリア王国(1816-61)である。

 シチリアの晩鐘事件以降、不安定が続いたシチリアとナポリは、これまでも何度か1人の君主が両国の王位に就くも、王号が両国で異なるなど、同一王権下でありながらそれぞれ別に統治が行われてきたが、両シチリア王国となってからは、1人の君主が、1つの王号で両国を統治することになり、文字通り2つの王国が1つの統一王国となったのである。この国を狭義の両シチリア王国と指すのはこのような経緯による。

 ようやく落ち着きを取り戻した両シチリア王国は、イタリア統一が成し遂げられる1861年2月までの45年間、4代続いたのであった。


 シチリア島は古代、中世、近代のあらゆる時代にも登場する、高校世界史では有名な島です。今回はこのシチリア島で起こったフランス人虐殺事件を中心にシチリアの歴史をご紹介いたしました。シチリアには本編で登場したパレルモの他、北東部に位置する海港都市メッシーナ(メッサーナ)や、古代最大の物理学者・数学者であるアルキメデス(B.C.287?-B.C.212)の出身地で知られるシラクサなど、有名な都市があります。特にシラクサはアルキメデスを答える問題で"シラクサ出身"といったキーワードで出ることもあるぐらい、受験世界史では有名です。

 地中海に浮かぶ島では、シチリア島以外ではキプロス島クレタ島レスヴォス島コルシカ島サルデーニャ島マルタ島など、受験に登場する島がたくさんありますので、地図帳でその位置を確認しておきましょう。

 さて、本日の学習ポイントです。古代では、ローマの初めての属州となったことや、ローマ共和政末期に起こったシチリア島の奴隷反乱は、用語集にまんま載っています。重要用語ですので覚えましょう。ちなみに前述のシラクサ市はギリシア植民市の1つとしても知っておくと便利です。
 そして、ノルマンの征服後に関しては、非常に複雑です。本編では1816年以降を両シチリア王国としました。参考書によればアラゴン家に統治された15世紀半ばと、スペイン=ブルボン家に統治された1816~60間を"両シチリア王国"と呼ぶと書かれたり、ルッジェーロ2世が南イタリア地方の全所領を統合した1130年以降の同地域を"両シチリア王国"と書かれたり、本編のように1816年以降のブルボン家が仕切った時代を"両シチリア王国"と呼んだりと、一定はしません。これは誤解を招きやすいので、大学受験生は、ルッジェーロ2世がナポリ、シチリアを含む南イタリアの全所領を統合した1130年から、同地域を"両シチリア王国"と呼んで下さい(ただし、実質的にナポリ王国が登場したのはシチリアの晩鐘事件の直後で、ノルマン時代にはありませんので間違えないように。ルッジェーロ2世はナポリ地方とシチリア島をそろって支配したにすぎず、2つの王国を合わせたわけではありません)。

 さて、今回の目玉とも言える"シチリアの晩鐘"事件ですが、頻度数は少ないですが、用語集ではしっかりと掲載されています。アンジュー伯シャルルことカルロ1世、ミハイル8世、ペドロ3世、そしてブルボンのフェルディナント1世はまず受験には登場しませんので覚えなくても大丈夫ですが、この事件で両シチリア王国がシチリア王国とナポリ王国が分裂したことを覚えましょう。アンジュー家はここでは覚えなくても良いですが、プランタジネット朝(1154-1399)を開いたヘンリ2世(位1154-89)を出した王家として知っておきましょう。

(注)ブラウザにより、正しく表示されない漢字があります(("?"・"〓"の表記が出たり、不自然なスペースで表示される)。晩禱(ばんとう。しめすへんに寿の旧字体)。

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