世界史の目-Vol.142-

アン女王とマールバラ公一家

~永遠の別れ~

 名誉革命(1688)でフランスに亡命したイギリス・第二次ステュアート朝(1660-1714)の国王ジェームズ2世(位1685-88)と妃アン=ハイド(1637-71)との間には女王となった娘が2人いる。うち1人はジェームズ亡命後イギリス女王となったメアリ2世(位1689-94。夫のウィリアム3世(位1689-1702)と共同統治)で、もう1人はその妹アン=ステュアート(1665-1714。国王在位期間は後述)である。

 アンはセント=ジェームズ宮殿(テューダー家から伝わる宮殿)で生まれた。新教徒として育てられ、読書よりもスポーツを愛好した活発な少女時代を送った。1683年、デンマーク王弟ヨウエン(ジョージ。1653-1708)と結婚したが、十数回もの懐妊があったにもかかわらず、不幸にも多くは流産・死産となり、出産に成功しても病気で夭逝するという悲劇に見舞われた。しかし、夫婦仲は非常に良かったとされている。

 アンは5歳年下のサラ=ジェニングス(1660-1744)と幼少時代から親友関係であった。サラは、1677年、軍人ジョン=チャーチル(1650-1722)と結婚し、さらにアンがヨウエンと結婚した1683年以後はアンの寝室付女官に任命されていた。ジェームズ2世の治世ではジョン=チャーチル自身が王の寵愛を受けていたことで、アン、サラも同様、このあとの革命運動に巻き込まれ、2人はジェームズに軟禁されることになるが、策としてジョンはアンの姉の夫で次期王位継承者のオラニエ公ウィレム(公位1672-1702。のちのウィリアム3世)の支持派に急遽転じてアンとサラを救い出し、オラニエ公ウィレム擁立を持ち出した。結果ジェームズが亡命後にオラニエ公が即位したことで、アンとサラ、ジョン夫妻は危うく難を逃れた。アンは我が身を守ってくれたサラとジョン夫妻にさらなる深い絆が生まれ、彼らを厚遇することになった。

 メアリ2世・ウィリアム3世が即位すると、擁立の功績をあげたジョンがマールバラ伯(伯位1689-1702)に叙せられた。サラはアン王女の側近であり、また伯爵夫人となったのである。しかし、王ウィリアム3世と姉メアリ2世は、日増しに台頭していくサラを疎ましいと感じ、議決の際にサラの権限が見え始めて以後は、王夫妻と、アン、サラ/ジョン夫妻との間に対立が次第に深まっていった。メアリ2世がアンに迫り、サラ解雇を求めたが、アンは頑なに拒絶した。これにて、アンとメアリとの姉妹関係も悪化の傾向をたどった。
 1692年にはジョンが、革命で亡命を余儀なくされた元国王ジェームズ2世と密通していたという疑惑が持ち上がり、王命によりジョンは投獄の身となった。投獄の際、アンは必死にジョンの入獄に反対したが、かなわなかった。

 当時、メアリ2世は国民に人気があった。革命達成後ということもあったのだが、性格はもともと控えめで穏和であり、オラニエ公というイギリス王家外からの国王としての夫と、国民とのパイプ役に力を尽くした人物であった。またイングランド国教会、慈善事業、教育問題にも努めて国民の理解を得ていたため、メアリ2世こそイギリス女王にふさわしいとされていたのである。一方、夫のウィリアム3世は外国出身のせいか、国民からは好かれなかったために、イングランドの敵対するフランスとの戦略を積極的に行った。ウィリアム3世はフランス・ブルボン朝(1589-1792,1814-30)のルイ14世(位1643-1715)には常に敵対してファルツ継承戦争(プファルツ戦争。1689-97)を展開、同時に新大陸でもウィリアム王戦争(1689-97)を連動させてフランスを敗北に追い込んだ。ただルイ14世とはイングランド王位に就く前から敵対しており、オランダ総督時代(1672-1702)に交わしたオランダ侵略戦争(1672-78。オランダ戦争)の時からルイを生涯の敵としていた。即位後もイングランド軍司令官にオランダ人を登用したりなど、フランスに対抗する心はイギリス人と同じであっても、周囲は官僚・貴族のオランダ化がはかられるのではと冷や汗をかかされたこともあったとされている。しかしこうした対フランス対戦争に専念していたためにウィリアム自身は常にイギリスを離れ、国内政治はほとんどメアリ任せであったことが、かえって国民から好感を持たれなかったとされ、メアリとの夫婦仲にしてもアン夫妻とは全く対照的で悪かったとされている。

 メアリ2世は1694年、天然痘により没し、ウィリアム3世の単独統治となった。夫婦仲が悪い上に、子もできなかったため、権利の章典(1689.12発布)では、アンはメアリ2世・ウィリアム3世間に子がない場合の王位継承者の有力候補で、次の王位はアンに継がれることがほぼ決定的となっていた。ウィリアム3世とは対照的に次第に支持率が上がっていくアンを見て、ウィリアム3世は仕方なくジョンを公務に復帰させた。しかしアンに対しては摂政としても任ぜず、冷遇を続け、ウィリアム3世が当時王室として愛用していたケンジントン宮殿には入らせず、セント=ジェームズ宮殿にとどまらせた。

 そのウィリアム3世は1702年、乗馬中に不運の事故で落馬(モグラの掘った穴に馬が足を踏み入れてバランスを崩したとされる)、死亡が伝えられた。ルイ14世によるスペイン継承戦争(1701-13/14)が勃発して間もない時であった。ウィリアム3世は遂にルイ14世と決着を付けることができなかったが、皮肉にもこの戦績はマールバラ伯のジョン=チャーチルがあげることになるのである(後述)。
 そしてアンの即位も正式に決まり、アン女王としてイングランド・スコットランド・アイルランドの女王となった(アン女王即位1702.4.23-1707.4.30)。即位後アンはケンジントン宮殿に居住を移し、ただちにスペイン継承戦争にむけて対策を練った。イングランド・オランダ・オーストリアと手を組み、フランス・スペイン相手に戦うことになったこの戦争は、アンによってイングランド軍総司令官に任命されたジョン=チャーチルの手腕が発揮、フランドルやドイツ地方での戦線においてフランス軍に連戦連勝を重ねた(1704年におけるブレンハイムの戦いで圧倒的勝利を遂げる)。これによりアンはジョンに戦果を称え、伯爵から公爵に昇格させた(マールバラ公位1702-22)。また新大陸においての対フランス戦も連動された。この戦争はアン女王戦争(1702-13)と呼ばれているが、一進一退が繰り返され、戦況は長期戦となった。

 戦争中は、イングランドとスコットランド両国の統合案も進められていた。1707年5月、いわゆる1707年連合法が成立、両国の議会派統一され、両国が一体となった。こうして100年余の間、同君連合を結んできた両国はグレートブリテン王国大ブリテン王国。Kingdom of Great Britain。1707-1800)となり、アンは最初のグレートブリテン王国国王となった(位1707.5.1-1714.8.1)。

 アンが即位して以降、サラとは生活を共にすることはなくなったが(サラはアンのいるケンジントン宮殿におらず、ジョンの戦功を称えたアン女王によりオックスフォード北部に築かれたブレナム宮殿にいた)、手紙による通信は絶えず行われ、あらゆる執務において助言を取り交わした。とくにアンの政務などもサラの言葉を借りるなど、絆は深かった。ただ、ジョンは常にスペイン継承戦争で出陣していたため、3人とも常に単独であった。

 やがて政局は政党のイデオロギー対決の姿勢が見え始めた。トーリ党トーリー党。のちのイギリス保守党。ジェームズ2世が王子時代に、ジェームズの王位継承者からはずすことに反対した人たちが根幹。国教会聖職者や守旧的地主が支持基盤)とホイッグ党(のちのイギリス自由党。ジェームズ除去に賛成した人たちが根幹。進歩的貴族や商工業者が支持基盤)の2政党である。両党との対決はスペイン継承戦争・アン女王戦争について向けられ、和平推進を掲げるトーリ党と、戦争継続を掲げるホイッグ党との論戦が繰り広げられた。しかし結果的には和平案が徐々に高まっていき、アン女王においても和平推進に傾き始めていき、トーリ党への支持に向き始めていった。しかし戦勝の栄光を手に取りたいマールバラ公ジョンとこれを支持するサラは、アン女王に戦争続行を強く進言し続けていった。

 アンはサラに対しては仕事として、また王として接するのではなく、これまで苦労を共に分かち合ってきた無比の親友として接したい気持ちであり、アンは今後もサラとの絆は深いままであることを期待していた。しかしサラは女王アンのもとにサラの息のかかる代役の側近を置かせて管理をおこない、仕事上の付き合いに留めて、自身は権威とアンのいる王室管理に生き甲斐を感じていたに過ぎなかった。そして戦争続行を求めるジョンを夫にもつサラは、トーリ党を支持するアンとは裏腹に、戦争続行を掲げるホイッグ党を支持するようになっていくのである。これまで続けられてきた手紙による通信においてもサラは返信を怠るようになり、サラこそが女王の本当の側近でありながらケンジントン宮殿に足を運ぶこともなく女王の下には代役を置かせるという、むしろサラが遠隔で女王を管理する始末であり、自身の政治力で議会をも動かしかねないサラに対して、すでにアン女王には我慢の限界が来ていた。当のサラはアンとの友情はもはや無しに等しく、マールバラ公である夫ジョンのことだけを考えていた。

 1708年、アンと苦楽を共にしてきた夫ジョージ(ヨウエン)が没した。子のいなかったアンの次代国王後継者問題は即位前から表面化していたが、1701年に制定された王位継承法によりステュアート家の系統でかつ新教徒を王に選ぶことになっていた。アンの親族の中では該当する人物はおらず(異母弟はいたが、旧教徒だった)、結果的にはドイツ北部のニーダーザクセン州に拠点を持つハノーファー選帝侯国に、ステュアート朝ジェームズ1世(位1603-25。イングランド=ステュアート朝初代王)の曾孫にあたるハノーファー選帝侯ゲオルク=ルートヴィヒ(1660-1727。侯位1698-1727)が候補として挙がっていた。
 アンにとっては、ジョージの死は、次期王位継承問題など比にならない事件であった。深い悲しみが立ち籠めたアンには、ましてやサラとの絆の問題など心に留めてすらなかった。
 葬儀はケンジントン宮殿にて、しめやかに行われた。サラはアンに招待されなかったにもかかわらず参列した。サラは悔やみの言葉をかけるも、アンはあくまで儀礼的態度に留め、そしてただ一人喪服を着ていなかった、サラの叔母の長女にあたるアビゲイル=メイシャム(1670?-1734)を呼ぶようにサラに命じた。アビゲイルはかつてのサラ自身の側近であったが、1704年にアンに紹介してアンに仕える女官となった人物である。トーリ党支持者で、サラがアンから離れていく間に、アン女王のよき理解者となっていったのであった。サラはアビゲイルが知らぬ間にアンの腹心になっていたことをこのとき気づき、アンとサラの絆の破綻は決定的となった。

 1710年遂に、アン女王はサラを宮廷から追放処分とした。同年、トーリ党が政権を獲得し、和平交渉が促進された。これでマールバラ公ジョン=チャーチルは圧倒的不利になった。戦況ではジョンの軍隊は勝利を重ねていたものの、多大な死傷者を出すなど損害も甚だしかった。こうしたことから戦場でも戦いを渋りだし、しかも仲間であるオランダやドイツ領邦軍が和平を掲げるようになる。
 そればかりか、ブレンハイムの戦い以降、あまり表沙汰になっていなかったジョンの軍事費横領疑惑がここへ来て表面化した。トーリ党新政権は和平を進めるためには、この疑惑の浮上は好機であった。トーリ党政権はさっそく調査に乗り出し、ジョンを追及、結果、横領の事実があったことが認められ、ジョンはイングランド軍総司令官を解任された(1711。同年妻サラのすべての地位も剥奪された)。これにより、和平交渉はいっきに促進された。1713年、ユトレヒト条約によって、イギリスはスペインよりジブラルタルミノルカ島を得、またフランスが支配する新大陸からハドソン湾地方ニューファンドランドアカディア(ノヴァ=スコシア)を獲得した。フランスとの戦争には勝ったが、戦勝に尽力したもののすでに軍の最高位を降ろされたジョンには何の勲章も授けられることなく終わったのである。

 アン女王はその後アビゲイルを側近にたてて政務を行っていたが、アン自身、愛好しているブランデーの過飲がたたり、年齢を重ねるにつれて肥満も進行、ついには歩行が困難となって車椅子生活を余儀なくされた。
 ブランデーの依存に加え、かねてからの痛風と丹毒が日増しに悪化したアン女王は、1714年8月、ケンジントン宮殿にて49年の人生に終止符を打ち(1714.8.1。アン女王死去)、これにより50年余続いた第二次ステュアート朝は途絶えた(1714第二次ステュアート朝断絶)。

 アン女王の治世では文学が栄え、イギリス文学における"アウグストゥス時代"がおこされた。『ガリヴァー旅行記』の著者ジョナサン=スウィフト(1667-1745)、『ロビンソン=クルーソー』の著者ダニエル=デフォー(1660-1731)、『髪盗人(かみぬすびと)』の著者アレキサンダー=ポープ(1688-1744)はアン女王時代にでた作家である。

 アンが没して直後、王位継承法によりハノーファー選帝侯ゲオルク=ルートヴィヒがグレートブリテン王国2代目国王ジョージ1世(王位1714-27)として迎えられハノーヴァー朝がおこされた(1714-1901)。54歳で国王に即位したジョージ1世は、英語が解せず、国政を当時ホイッグ党内閣(首相ロバート=ウォルポール。任1715-17,21-42)に委任した。これにより"王は君臨すれども統治せず"の原則、すなわち責任内閣制が確立していくこととなる。

 ジョージ1世即位と共にマールバラ公ジョン=チャーチルと妻サラはイギリスに戻ったが、ジョンの名誉回復は得られず、かつてアン女王に贈られ、なお建設中だったバロック式のブレナム宮殿の竣工に力を注いだ。しかし宮殿の完成を見るまでもなく1722年、ジョンは没した(1722.5.26。マールバラ公ジョン=チャーチル没)。サラはその後ウォルポール政府と対立するなど不遇を重ね、1744年に没した。2人の遺骸はその後ブレナム宮殿に埋葬された。

 ジョン=チャーチルに始まるマールバラ公は現在も継承されている。その中で、7代目ジョン=ウィンストン=スペンサー(公位1822-83)の時、のちに有能な人材を登場させた。彼の孫こそ、第二次大戦から冷戦期にイギリス首相として活躍して(任1940-45,51-55)、圧倒的に強い政治力で国民を引っ張り、文化面でも1953年にノーベル文学賞を受賞した、そう、ウィンストン=チャーチル(1874-1965)であった。


 今回は第二次ステュアート朝の最後のイギリス国王であり、グレートブリテン王国の初代国王であるアン女王の治世を背景に、彼女と親交の深かったマールバラ公夫妻との関係を絡めてご紹介いたしました。ブランデー好きアン女王は"ブランデー・ナン"の愛称で親しまれました。ただそのいブランデーの過飲が原因でみるみる肥満体型となっていったとされています。結局1714年に没したときも、棺に入らなかったため、正方形の棺桶を用意せねばならなかったというエピソードもあります。

 またチャーチル元英首相の生家として知られていたブレナム宮殿は、先祖であるマールバラ公ジョン=チャーチルとサラ=ジェニングスの愛の城だったのですね。それと本編では、仲の良かったサラとアンが情勢にもまれて、関係が泥沼化していくところが今回のアクセントになっていましたが、いつの世も、こうした関係ってあるのですね。

 名誉革命が達成されてからお話ししましたが、名誉革命のお話は「Vol.92 市民革命と権利の章典」をご参照いただくとして、では、本日の学習ポイントを見て参りましょう。
 アン女王について覚える項目は、<1>グレートブリテン王国の誕生(スコットランドとイングランドの合邦。アンは初代国王)、<2>アン女王戦争(スペイン継承戦争と連動していることに注意)、<3>ステュアート朝最後の王で、次はハノーヴァー朝に代わること、の3点ぐらいでよろしいかと思います。マールバラ公ジョン=チャーチルやサラ=ジェニングスは受験世界史では学習しませんので、覚えなくて結構ですよ。またスウィフトやデフォーが登場しましたが、アン女王の時代に活躍したとまでは覚えなくて良いので、イギリス文学として、著者と著書を知ってもらうだけでよろしいです。

 あと、ハノーヴァー朝・ジョージ1世が即位してから、近代的な内閣の原型が形成されました。その後、内閣が議会に対して責任を負う責任内閣制は18世紀以降に形作られていきます。初代首相ウォルポールの名前、"王は君臨すれども統治せず"の言葉もそれぞれ知っておきましょう。

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