世界史の目-Vol.143-

時間を止められた街

 B.C.27年にスタートしたローマ帝政は、五賢帝時代(96-180)までの約200年間、古代ローマの黄金時代が展開された。政局が安定して治安が守られ、都市的な商業と文化が栄え、無敵の大地中海帝国が形成される、いわゆる"パックス=ロマーナローマの平和。B.C.27-A.D.180)"が現出され、5000~6000万人の人口に達した市民は、この平和を思う存分謳歌した。時に五賢帝時代の2人目トラヤヌス帝(位98-117)にいたっては対外遠征を積極的に行い、結果的にはアジア・アフリカ・ヨーロッパの3大陸にまたがって帝国版図を最大限に拡大させた。

 しかしこの200年に及ぶ平和時代においても、およそ平和とは言えない事件が2つあった。そのうちのまず1つとは、ネロ(位54-68)がおこした数々の暴虐である。
 ネロ帝の暴虐については「Vol.38 クラディウス家の惨劇」を参照されたい。ネロ帝没後後ガルバ帝(位68-69)、オト帝(位69)、ウィテリウス帝(位69)といった地方総督出身者が次々とローマ皇帝として擁立される混乱期に突入した(68-70。ローマ内戦)。
 この内乱状態を収束させたのが4番目に擁立されたウェスパシアヌス帝(位69-79)であり、ローマの円形闘技場、いわゆるコロッセウムが起工されたときの皇帝としても有名である(このためこのローマ帝国における一連の内戦は"4皇帝の年"と呼ばれる)。70年に内乱を収めたウェスパシアヌスは、平和宣言を行ってパックス=ロマーナを復活させ、10年帝位を守った。

 ウェスパシアヌス帝没後、長子ティトゥス(39-81)が第10代のローマ皇帝として即位した(位79.6.24-81.9.13。)。ティトゥス帝は元老院とも対立することなく一貫して善政をしいた。コロッセウムも彼の治世中に完成し(80年6月)、剣闘士の試合も頻繁に行われた。彼はローマ市民の平和を誰よりも考えた皇帝として支持され、善事をしなかった日があれば「1日を失った」と言って嘆いたとされている。また、帝位に就く前にユダヤ人女性(ベレニケ。28-?)と恋に落ちていたが、彼は当時ローマの敵とされたユダヤ人を妻に持つことはローマ市民による不安をあおらせ、批判も甚だしくなると考えて、結局離縁した。 

 しかし善政をしいたティトゥス帝の時代に、大きな事件が起こった。それがパックス=ロマーナ期でありながら平和が失われた2つめの事件である。それは天災であった。

 イタリア南部、ナポリ東方に位置するナポリ湾岸。79年8月24日、ここにある標高1,281mの活火山ヴェスヴィオ(ヴェスヴィオス。ウェスウィウス)が大噴火をおこしたのである(79。ヴェスヴィオ山大噴火)。同山が噴き出す大量の火山礫や火山灰が降り注ぎ、火砕流・溶岩流が途切れることなく流れ出て、周辺の都市に襲いかかった。なかでも最も大きな被害を受けたのは同山の麓にあった、ポンペイと呼ばれる町である。

 B.C.7世紀頃、イタリア系オスキ人といわれる先住民によって形成されたことを起源にもつポンペイは、その後エトルリア人ギリシア人サムニウム人らの占領期があったとされている。ローマ共和政末期(B.C.6世紀末-B.C.27)に勃発した同盟市戦争(Bellum sociale。B.C.91-B.C.87。ローマと同盟しているイタリア半島の同盟市民がローマ市民権を要求して蜂起。ローマを相手に起こした。同盟市は軍隊提供が義務づけられていたにもかかわらず、ローマ市民権を得られなかった)も同盟側に加わって参戦したが、閥族派のスラ(B.C.138?-B.C.78)によって征服された(この戦争の軍功により、スラはB.C.88年、コンスルに就任する)。ポンペイはローマの植民市となったが、葡萄の産地であったポンペイはその後葡萄酒産業としてローマの重要商業地域となって繁栄、一時人口は2万人を超え、市内では平和な日々が続いた。観光旅行地としても繁栄し、多くのローマ人が訪れた。またポンペイの守護神は美と愛の女神ウェヌス(ヴィーナス)で、他のどの都市よりも男女間の恋愛、美貌を最重視する町であったとされている。

 こうした平和で豊かな都市が、火山の噴火によって一瞬に潰されてしまった。セメントのように重い火山灰が、豪雨のごとく降り積もって都市を覆い尽くし、翌日には完全に地中に埋没してしまったのである。ティトゥス帝はポンペイに使者を派遣したが、すでに壊滅状態であり、手立ての施しようがなかった。
 このとき、ローマ海軍を指揮していた博物学者のガイウス=プリニウス=セクンドゥス(大プリニウス。22/23/24?-79。名著『博物誌(77年。全37巻)』)は艦隊を出動させ、被災者の救出と火山調査に向かったが、彼も有毒ガスによる窒息で犠牲となった。
 のちに大プリニウスの甥にあたるガイウス=プリニウス=カエキリウス=セクンドゥス(小プリニウス。61?-112/114?。元老院議員。博物学者)は、友人である歴史学者タキトゥス(55?-120?。名著『ゲルマニア』『年代記』)宛てに書簡を送った。その書簡によれば、雲化した噴煙が焼けた岩石や高温ガス、火山灰がヴェスヴィオ山の斜面を雪崩のように急速に下っていった(いわゆる火砕流)と記されている。小プリニウスが著したこの書簡を含む『書簡集』は、当時の噴火のすさまじさを知る貴重な資料となっている。

 ティトゥス帝はヴェスヴィオ山噴火災害があった翌年、ローマ大火(80年)にも見舞われた。帝は懸命に救済策を施したが、自身も熱病にかかり、81年に没した。平和を愛した帝は、わずか在位2年で治世を終えた。

 79年の大噴火でポンペイ市民の多くは市外に避難したが、それでも約2000人が逃げ遅れて火砕流・降灰の犠牲となった。火山灰はその後硬化し、その後は何もなかったかのように硬くなった地上を人が歩いた。壊滅したポンペイの跡地では、復興作業が行われることもなく、しばらく新たな都市が形成されることもなかった。イタリア=ルネサンス期、建築家ドメニコ=フォンタナ(1543-1607)が1599年にポンペイの都市遺跡を見つけたことがあったが、大きな展開は見られることがなく、年月が経過していった。しかしポンペイの中では、被災直後の火山灰をかぶったまま、"時間"は止まっていた。

 被災して1700年もの歳月が経った1748年、ポンペイの発掘調査が遂に始まった(本格的な調査はイタリア統一後の1860年代以後)。火山灰の真下は79年当時の状況のままであった。逃げ遅れて被災し死んでいった人たちの遺骸が硬化した灰の中で腐敗して消滅し、空洞と化していた。この状態を残すために当時の考古学者は、この空洞に石膏を流し込んでその部分を固め、火山灰を取り除いていった。こうして、被災した直後から時が止まっていたポンペイが、そのままの形で再現され、息をのむほどのすさまじさをあらためて痛感させられることとなった。
 子どもを守ろうとしてうずくまりながら死んでいった母親、鎖につながれたままもだえ死んだ飼い犬、卓上に置かれた食べ物などが当時のまま再現された。また浴場施設、神殿、広場、酒屋なども再現され、壁に描かれた男女絵や、床に描かれた犬のモザイク画なども発見された。その後、発掘は現在も進行中だが、観光地として多くの旅行客が訪れ、再び注目が集められていった。

 こうして、79年に止められたポンペイの時間は、再び動き始めた。 


 今回は古代ローマ共和政時代に起こった悲惨な天災をご紹介しました。実を言うとポンペイは噴火の起こる17年前に大地震を記録しており、復興作業が完了するかしないかのうちに、噴火の災害に遭ったという、大変気の毒な古代都市でした。火山の噴火は受験日本史においても富士山噴火や浅間山噴火などが登場しますが、大地震、津波、そして今回の火山の大噴火といった大きな天災は、政治的にも経済的にも社会的にも文化的にも避けては通れず、常に歴史記録として残りますから実に重要な項目です。

 では今回の学習ポイントを見て参りましょう。ヴェスヴィオ山の噴火、ポンペイ市は受験世界史には登場しませんが、南イタリアの観光地として有名ですので、ひとつの知識として知っていただけたら幸いです。人物では、この災害で殉職した大プリニウスは、古代ローマ文化における博物学部門の代表的人物として登場しますので覚えましょう。用語集にも出ています(小プリニウスは覚えなくて結構です)。ローマ皇帝では時のティトゥス帝、父のウェスパシアヌス帝も有名な皇帝ですが、受験用語として覚える必要はございません。むしろ前半に登場した五賢帝時代の、ローマ帝国最大領域を形成したトラヤヌス帝の方が大事です。

 また歴史家のタキトゥスも登場しました。古ゲルマン文化の貴重な資料を残した『ゲルマニア』は重要です。ユリウス=カエサル(B.C.100-B.C.44)の残した『ガリア戦記』とあわせて覚えておきましょう。

 ポンペイは受験世界史には登場しませんが、インドのボンベイ(ムンバイ)は受験世界史においては重要地名です。イギリス東インド会社におけるインドの3大拠点マドラス・ボンベイ・カルカッタ)の1つです。フランス東インド会社のインドの2大拠点ポンディシェリ・シャンデルナゴル)とあわせて知っておいて下さい。

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