世界史の目-Vol.146-

長期統一王朝の誕生

~漢王朝の興亡・その1~

 王朝(しん。?-B.C.206。首都咸陽)滅亡後、中国統一をめぐって垓下(がいか。現在の安徽省霊璧県南東)で戦争が起こったのはB.C.202年のことである(垓下の戦い)。この戦いで旧楚軍(楚。そ。?-B.C.223)の項羽(こうう。B.C.232-B.C.202)を破った江蘇省出身の農民・劉邦(りゅうほう。B.C.256?/B.C.247?-B.C.195)は、中国統一を達成(B.C.202)、現在の陝西省の西安市付近に位置した長安(ちょうあん)に首都を定め、王朝(かん。B.C.202-A.D.220)をおこし、漢王朝の初代皇帝となった(高祖。こうそ。位B.C.202-B.C.195)。

 高祖劉邦は、秦時代の法家思想による中央集権体制では国民や諸侯の反乱も避けられないとして、幾分調整の必要性を主張した。その結果、長安周辺の中央直轄地は郡県制の状態で、地方の郡県に封土を与えて一族・功臣を諸侯・諸侯王とした制度を導入した。この郡県制と封建制を融合した制度を郡国制と呼ぶ。また地方村では、郷・亭・里制度といわれる郷村組織(100戸を1里、10里を1亭、10亭を1郷。諸説あり)を導入、県に属した。忠実な配下である韓信(かんしん。?-B.C.196)、蕭何(しょうか。?-B.C.193)、張良(ちょうりょう。?-B.C.186)らにも恵まれ、内政改革は速やかに執り行われていった。

 対外的には異民族、特に匈奴(きょうど)との対立が避けられず、匈奴の2代目君主である冒頓単于(ぼくとつぜんう。位B.C.209?-B.C.174)によって、劉邦は白登山(はくとうざん。山西省)の戦い(B.C.200)で敗れ、この結果、前漢は匈奴に対して対外和親策をとるようになるが、実際は匈奴に毎年膨大な金品を贈る不平等条約を取り交わすのであった。
 このため、対外不安定な情勢のもと、国内でも社会不安は続いた。中でもB.C.196年に発覚した韓信のクーデタは宮中に衝撃を与えた。

 劉邦の正妻(皇后)は呂雉(りょち。?-B.C.180)といい、呂后(りょごう)と呼ばれた。劉邦が戦地に自ら赴く傍ら、宮中を任された呂后は、張良ら重臣の力を借りて政権を維持に努めた。しかしB.C.195年、高祖劉邦は没し、嫡子の劉盈(りゅうえい。B.C.210/B.C.213-B.C.188)が第2代皇帝に就いた(恵帝。けいてい。位B.C.195-B.C.188)。恵帝は勇猛で豪傑な父・劉邦と比べて穏和で優柔な性格であり、皇太子時代においても父から皇太子位を取り上げられそうになり、劉邦の庶子(側室だった戚(せき。?-B.C.194)の子)で、対抗馬である劉如意(りゅうにょい。?-B.C.195)の方が父・劉邦に似ていると言われ、皇太子の候補者ともされていた。

 正妻である呂后は側室でありながら劉邦に接近する戚夫人と、劉邦が嫡子より庶子を好んでいる子如意の存在を抹消しようと考える(一方の恵帝にはその意志はなく、如意に対しても対抗心はなく、血なまぐさい内紛を嫌っていた)。劉邦没後、皇太后となった呂后(呂太后と呼ばれた)は如意の生母である戚夫人を捕らえ、終日、米搗き(こめつき)の労働を強制した。恵帝は、呂によって暗殺されるおそれのある如意を徹底的に警護し、母の行動を抑えようとしたが、隙を突かれ劉如意は呂により暗殺された(B.C.195)。
 呂太后の戚夫人に対する憎悪は根深く、獄中、如意の死で悲嘆に沈み、一日中米搗きをさせられ、日に日に痩せゆく戚夫人をついには陰惨な方法で殺害した。それは(<注意>猟奇的内容が含まれており、気分を害する場合がありますので反転状態にしてあります。直後の空いた部分をマウスでドラッグすると読めますが、不要の場合は読まないで下さい。

彼女の両眼をくりぬいて失明させ、両耳を焼いて視聴覚を壊し、声帯も劇薬で失わせて盲聾唖の三重苦を与え、さらに両手足を切断、彼女を"人豚(じんてい)"と呼んで便所に放置させる

という残虐極まりない方法であった。
 母・呂太后のこうした行為に恵帝はひどいショックを受け、心に大きな傷を負った癒しをすべて飲酒にあてて、政務を放棄するようになり、過飲がもとでまもなく没した(B.C.188)。呂太后は、その後も呂一族の政権維持のために庶子を嫡子にしたてて皇帝を擁立するなど専横ははかりしれず、高祖の庶子である諸侯たちをはじめとして、身分・年齢を問わず次々と邪魔者を殺害していったとされ、則天武后(そくてんぶこう。武則天。624-705)・西太后(1835-1908)と並んで中国の三大悪女とされた。

 B.C.180年、呂太后は没し、クーデタで呂一族は一掃され、高祖の庶子で、呂太后の粛清から難を逃れた劉恒(りゅうこう。B.C.202-B.C.157)が文帝(ぶんてい。位B.C.180-B.C.157)として即位してからは比較的社会も安定した。
 文帝没後、嫡子である劉啓(りゅうけい。B.C.188-B.C.141)が景帝(けいてい。位B.C.157-B.C.141)として即位、父帝と並んで善政をしいた(文景の治)。後世の(しょく。蜀漢。しょくかん。221-263)の劉備(りゅうび。A.D.161-A.D.223)は景帝の子孫であると主張しており(真相は定かでない)、こうしたことからも景帝の影響力は大きかったとされている。

 しかしこの景帝の時代に、高祖劉邦の改革のツケが回ってきた。高祖は中央集権的な郡県制に加え、劉氏一族を諸侯王として封じた封建制を融合させた郡国制を施したが、景帝の時代では封じられた諸侯王の強権化により、各国が半独立傾向にあったのである。文景の治によって国力は安定していたため、中央政府に勢いが戻り、半ば反発精神を兼ね備えた各国の諸侯王をねじ伏せる必要が出てきた。たとえば景帝がまだ皇太子の時代、呉王は子を景帝に殺されたことがあり、中央に激しい恨みを抱いていた。このため、呉は漢王朝からの反発が異常に強かった。このため、景帝は各諸侯の領地となった封土を削減し、各国の勢いを抑制しようとした。

 領地削減の決定に、呉王をはじめ楚王や趙王、済南王といった計7国が怒りをあらわにして反乱を起こした。これがB.C.154年に起こった呉楚七国の乱(ごそしちこくのらん)である。七国は南越(なんえつ。B.C.203-B.C.111)や匈奴の力を借りるなどしたが、3ヶ月で鎮圧された。それぞれの諸侯は長安に戻され、それとひきかえに中央から官吏を派遣するなどして、徐々に郡県制一本化へと戻していくこととなった。

 景帝没後、即位したのが子の劉徹(りゅうてつ。B.C.156-B.C.87)で、漢王朝前半の全盛期を現出した武帝(ぶてい。位B.C.141-B.C.87)である。
 景帝は財政の安定と産業の充実に尽力し、郡国制を緩めて徐々に郡県制に戻していった。結果、次の武帝の時代において、中央集権国家としての漢王朝の大いなる全盛期となったわけである。54年という長期にわたる治世において、武帝は内政・外政ともに強力な姿勢を貫き、その後の統一王朝にも多大なる影響を与えた。

 内政では、成功面が数多く見受けられた。呉楚七国の乱を反省して、領土相続における新制度が確立した。これは、これまで嫡子だけが相続していた諸侯領を、今後は子弟にも分割相続させ、諸侯の領土削減化に努めたのである(推恩の令。すいおん)。景帝時代から行われた郡県制への回帰がここで完成した。
 さらにB.C.140年、武帝は年号を初めて制定し、"建元(けんげん)"元年とした。首都長安を含む関中盆地を中心に灌漑事業を大規模に行い、また黄河の治水事業も行っていずれも成功を収めた。地方政策に対しては、中央政府の地方への影響力を維持させるため、官吏の任用を地方長官から推薦させる郷挙里選(きょうきょりせん)を採用した。

 これに伴う文教政策も積極的に行い、景帝時代から博士として活躍していた儒学者の董仲舒(とうちゅうじょ。B.C.176?-B.C.104?)の献策で儒学による思想統一をすすめ、儒教の重要古典である五経(ごきょう。「経書(けいしょ)」とも呼ばれる。『易経(えききょう)』『書経(しょきょう)』『詩経(しきょう)』『礼記(らいき)』『春秋(しゅんじゅう)』の5つ)を指導する五経博士を設置、五経を中心とする儒教を正統教義として広め、儒教国教化・儒学官学化を実現させた。儒家思想にもとづいたという点で、法家思想による中央集権体制だった前の王朝とは大いに異なる。

 呉楚七国の乱後、父景帝時代から積極的に行われてきた内政は大成功を収め、国家財政も黒字に転じた。充実した国富により、武帝はそれを軍事に充て、高祖劉邦時代とはまったく逆の、積極的な外政へと進むことになる。 


 さて、復帰後はじめてのシリーズ物として、漢王朝をご紹介いたします。これまでは断片的に登場してきましたが、漢王朝を主役にしてその栄枯盛衰を紹介したのは意外にも今回が初めてです。改めて学習していきたいと思います。"漢民族"、"漢語"、"漢字"といった「中国」を表す語として使われ、その後の中国に大いなる影響をもたらした漢王朝ですが、今回は高祖劉邦時代から、対外遠征へ向かう直前の武帝時代までをご紹介いたしました。

 それでは受験世界史における学習ポイントを見て参りましょう。最初に中国大陸を統一した王朝はですが、短命でした。漢は400年続く長期統一王朝としてアジアに君臨しました。ただ漢王朝といっても途中に中断があって前後に分けられ、今回は前漢です。紀元前後をまたぐ王朝で、B.C.202年創始、A.D.8年滅亡は知っておきましょう。当然、創設者の高祖劉邦(初代皇帝の諡(おくりな)が高祖のケースは他にも登場します。入試に頻出なのは(とう。618-907)李淵(りえん。位618-626)が有名。あわせて覚えておきましょう)、首都の長安は大事です。劉邦の時代では郡国制を採用したこと、匈奴の冒頓単于とやりあって、結果負けて対外和親策に転じたことを覚えましょう。景帝の時代では、なんと言っても呉楚七国の乱でしょう。B.C.154年の御家騒動ですが、"ゴソゴソ(=呉楚)越し154)"という覚え方があります。武帝時代は、次回にまとめてお話しすると致しましょう。

 入試範囲外では、中国史における三大悪女の1人とされた呂后が登場しました。嫉妬と恨みの対象である側室を、類を見ない方法で殺害した人物としてその名が知られておりますが、それ以外では、劉邦が留守中にクーデタをおこした韓信を一族ごと滅ぼしたことでも知られております(B.C.196)。血が好きそうなイメージのある女性ですが、彼女は、軍事で外出の多かった夫劉邦に対して、庶民が内政放棄の疑念を抱くことを防ぐために、内政と社会安定に尽力しています。例えばこの韓信のクーデタを防いだおかげで、王朝安定に導いたわけですから一概に悪い人としては片付けられないところがあります。これまでのところ呂后は入試には登場しませんので、覚えなくて結構です。

 さて、次回、外政に走ることになる武帝ですが、その結果はいかなる事に?また前漢・後漢とあるということはその間に何が起こったのか?次回にご期待下さい。

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