世界史の目-Vol.147-

武帝の対外発展と外戚の簒奪

~漢王朝の興亡・その2~

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 王朝(かん。B.C.202-A.D.220)が武帝(位B.C.141-B.C.87)の治世となり、内政は安定した。財政も豊かになり、これまでにない軍事部門の進出を積極化していくこととなる。武帝の対外進出の始まりであった。

 対外発展の対象として、矛先は長年の宿敵である匈奴(きょうど)に向けられた。高祖劉邦(こうそ。りゅうほう。位B.C.202-B.C.195)時代では匈奴の2代目君主である冒頓単于(ぼくとつぜんう。位B.C.209?-B.C.174)があまりにも強力であったがために対外和親策を余儀なくされたが、武帝はそれを改め、B.C.129年以降、優秀な部下である将軍・衛青(えいせい。?-B.C.106。武帝の皇后・衛子夫(えいしふ)の弟)と甥の霍去病(かくきょへい。B.C.140?-B.C.117)に匈奴征討を命じた。若き将軍霍去病(当時20歳代前半だったとされる)は7万に及ぶ匈奴兵を斬殺したと言われ、結果、漢王朝は匈奴を北方へ退かせた。
 南方では南越(なんえつ。B.C.203-B.C.111)などを征服してベトナム中部まで領土を拡大、南海郡をはじめとする9郡を設置した(南海9郡)。朝鮮方面では3代約80余年にわたって朝鮮を支配してきた衛氏朝鮮(えいしちょうせん。B.C.190?-B.C.108。首都は王険城。現・平壌)をB.C.108年に滅ぼして、楽浪郡(らくろう)・真番郡(しんばん)・臨屯郡(りんとん)・玄菟郡(げんと)の朝鮮4郡を設置、漢王朝の直轄領となった。

 中国では西方一帯を西域(せいいき。さいいき)と呼ぶ。匈奴の駆逐に成功した武帝は、大規模な西域経営に野心をおこした。まず部下の張騫(ちょうけん。?-B.C.114)を、以前匈奴に敗れて中央アジアのアム川上流まで追われていた大月氏国(だいげつし。B.C.140?-A.D.1C)に派遣した(B.C.139頃)。この目的は、匈奴の報復に備え、匈奴に対する同じ敵意でもって、匈奴を挟撃しようと約束を取り付ける以外何ものでもなかったが、結局大月氏は匈奴に対する戦意はなかったため計画は流れ、1年余同国に滞在後帰国した(B.C.129頃)。しかし張騫の大月氏派遣は、西域に点在する諸国の地理事情、文化・社会情報が漢王朝にもたらされ、今後の中国王朝における西域経営出発にむけての大きな突破口となり、張騫は主目的は果たされなかったものの、西域進出を可能にさせた大功労者となった(その後張騫は当時バルハシ湖南東部にいたトルコ系烏孫(うそん)へも使者として派遣された)。
 続いてオルドス地方(現・内モンゴル自治区。黄河の湾曲によって囲まれている)では朔方郡(さくほう)が置かれ、現在の甘粛省(かんしゅく)にあたる河西地方(かせい。"黄河西方"の意)では敦煌郡(とんこう)・酒泉郡(しゅせん)・張腋郡(ちょうえき)・武威郡(ぶい。「武帝の威、河西に到達」から)の河西4郡が設置され(B.C.121年頃)、そこに軍隊を駐屯した。河西4郡は周囲のオアシス都市にも恵まれて古代シルクロードの一部として重要な交易路となり、河西回廊(甘粛回廊)と呼ばれる国際通路となった。

 かつての張騫の報告では、中央アジアのシル川上流域に、フェルガナと呼ばれる東西300km、南北150kmに及ぶ大盆地があり、東西世界における陸路の要衝となっていた。中国では大宛(だいえん)と呼ばれたが、その地では、汗血馬(かんけつば)と呼ばれる、1日千里を走り、その様は血の汗を流すほどの迫力であったとされる馬を産したことで知られていた。そこで武帝は汗血馬を"天馬(てんば)"と呼んで注目し、大宛遠征を決行(B.C.104)、武将・李広利(りこうり。?-B.C.90)を派遣した。李広利は服属を拒否した大宛の水源を断って40日間包囲し、遂に首都を陥落させ、3000頭の天馬をつれて帰国したと言われている(B.C.102)。

 こうして大規模に行われた武帝の対外発展事業はその後も続けられたが、充分に蓄えられていた財力も徐々に底をつき始めていき、内政改革の必要性も迫られた。結果、4つの大財政改革を施すことになった。

 財政改革のまず1つとして、武帝は貨幣改革に着手し、B.C.118年、五銖銭(ごしゅせん)をこれまでの半両銭(はんりょうせん)に代わって鋳造、結果、その後の中国史上、最も長期にわたって流通した貨幣となった。
 続いて、民の必需品である塩・鉄・酒を専売化した。民間で自由に経営してきた鉄器鋳造、海水を使った製塩、そして酒の醸造をすべて禁止し、これらはすべて政府の専売となったのである。製鉄と製塩は当時最大の工業であり、罪人と官有奴隷を使って強制労働させたため、政府には高い利潤を収めることができたが、品質は悪く国民を困らせたため、武帝の死後に専売反対の論争が起こり、次の昭帝(しょうてい。位B.C.86-B.C.74)のとき、酒の専売のみ廃止された。
 3つ目の財政改革は、商工業者対象の重税である。売買する商品、利子、船、車といった資産に税(財産税)がかけられた。資産所有者は官吏に納税申告するが、不正が発覚すると戦地で力役に服して全資産を取り上げられた。またかつてから行われていた15~56歳の男女に欠けられた人頭税・算賦(さんふ)も税率を上げて強化した。
 そして仕上げの4つ目は、均輸法(B.C.115発布)・平準法(B.C.110発布)の制定・実施である。均輸法は、均輸官を各地に設置して、特産物を税として貢納させ、これを不足地に転売して物資の調達と流通をはかり、平準法は、長安に平準官をおき、均輸によって集めた物資を高物価のときに売り放し、低物価の時に買いおさめる法律である。これら両法律によって国家は一般商人の利潤をとり上げる形となった。

 このように武帝がおこした財政政策は、一種の社会政策ともみられるが、国家が商工業者の領分を結果的に侵すことになり、かえって社会不安は高まっていた。宮中でも武帝が信任していた大官・江充(こうじゅう。?-B.C.91)の謀略により衛皇后と皇太子だった劉拠(りゅうきょ。B.C.128-B.C.91。戻太子。れいたいし)が無実の罪で粛清される事件が起き(巫蠱の獄。ふこ。B.C.91)、衛皇后と劉拠の死後に江充の仕業を知った武帝は、逆に江充の一族を一掃した。この精神的打撃は武帝には大きくのしかかり、B.C.87年、武帝は没し、武帝の優秀な側近だった霍光(かくこう。?-B.C.68。霍去病の異母弟)に摂政の座を与え、次の幼い昭帝を補佐させた。

 昭帝が若くして病没し、その後霍光に擁立され即位した宣帝(せんてい。位B.C.73-B.C.49)を経て、次の元帝(げんてい。位B.C.48-B.C.33)になると、宣帝時代の側近として活躍した宦官(かんがん。後宮に仕える去勢された男子)の専横が顕在化、さらにはその次に即位した成帝(せいてい。位B.C.33-B.C.7)の時代になると、皇太后である王政君(おうせいくん。B.C.71-A.D.13)の一族(皇后の一族を外戚(がいせき)という)が要職に就くなど、勢いを上げていった。こうした宦官・外戚の権力掌握によって皇帝の権威が徐々に失われていった。

 成帝没後、元帝の孫にあたる劉欣(りゅうきん。B.C.26-B.C.1)が哀帝(あいてい。位B.C.7-B.C.1)として即位した。哀帝の治世では、広大な土地と奴婢・小作人を所有し、地方の官職を独占していた同族集団、いわゆる豪族たちの強勢ぶりが目立ったため、これらを抑える政策に出た。限田(げんでん。限田策。限田法)と呼ばれ、もともと儒学者の董仲舒(とうちゅうじょ。B.C.176?-B.C.104?)によってすでに提案されていたものであり、哀帝は土地所有の制限、農民保護を打ち出したが成功はならなかった。また権勢を誇る外戚・王氏の排斥も行い、当時の大司馬(軍の最高責任者)で、王政君の甥にあたる王莽(おうもう。B.C.45-A.D.23)を罷免し、また丞相を自殺に追い込むなど厳しい態度で臨む一方、男色の関係にあった側近の董賢(とう けん、B.C.22-B.C.1)を寵愛するなど安定しなかった。

 B.C.1年に哀帝は崩御したが、帝には子がなく、生前に玉璽(ぎょくじ。伝国璽ともいう。中国王朝で代々皇帝に受け継がれる天子の御印)を董賢に託したが、玉璽は王氏に奪われ、王氏派の皇帝即位を容易にした。結果擁立された劉衎(りゅうかん。B.C.9-A.D.5)が平帝(へいてい。位B.C.1-A.D.5)として9歳で即位し、復帰した王莽の権力は一気に集中した。王莽は自身の末娘を皇后にたてて平帝を操り(A.D.4)、王莽は天子補佐を担当する"宰衡(さいこう)"の称号を得た。その後、王莽に異を唱える平帝の母の一族(衛氏)、また王一族の中でも王莽の長子、その妻とその兄、また王莽の叔父などを政敵として次々と粛清していった。そして、ついには王莽を疎んじ始めた若き平帝を毒殺してしまう(A.D.5。諸説有り)。

 平帝没後、王莽は、帝位継承者だった宣帝の玄孫にあたる3歳の劉嬰(りゅうえい。A.D.5-25)を皇太子として擁立するにとどめ(孺子嬰。じゅしえい。"孺子"は子どもの意。太子)、王莽自身は仮皇帝と称して摂政を行った。そして遂にA.D.8年、王莽は"高祖劉邦の霊により禅譲(ぜんじょう。帝位譲渡)を受けた"として正式に皇帝として即位し、孺子嬰は帝位継承から完全に外されて地方領主に下げられた。つまり、劉一族によって200年近く王宮を維持してきた漢王朝はここで一旦滅亡することになる。ここまでの漢王朝を前漢(ぜんかん。B.C.202-A.D.8。西漢ともいう)という(前漢滅亡A.D.8)。

 王莽が前漢から禅譲の形で帝位を簒奪し、樹立した王朝は(しん。A.D.8-23。首都長安)という。新王朝の皇帝となった王莽(位A.D.8-23)は(しゅう。B.C.11C-B.C.256)の時代が理想であり、『儀礼(ぎらい)』『礼記(らいき)』とともに儒家が重視する経書・三礼(さんらい)の1つである『周礼(しゅらい)』に基づいて行政を始めた。"復古主義"政策ともいうべき内容とは、官制改革、新貨幣鋳造、全国の農地国有、商業統制、奴隷売買禁止、他国への高圧的改革(匈奴高句麗(こうくり。B.C.37?-A.D.668)など)などであるが、当時の実情にあわない政策を施したため、匈奴や高句麗、西域諸国は離反、農民や豪族の反乱を招いた。なかでも農地国有に反対する農民からなる赤眉軍(せきび。政府軍と識別するために眉を赤く染めた軍)の反乱(赤眉の乱A.D.18-27)や、反新王朝を掲げて荊州(けいしゅう。湖北省)で結成された緑林軍(りょくりん)など、全国各地で武装勢力が反乱を起こした。緑林軍は、劉一族から劉玄(りゅうげん。?-A.D.25)を擁立して更始帝(こうしてい。位23-25)とし、別の新しい政権を樹立した。一族の劉秀(りゅうしゅう。B.C.6-A.D.57)の活躍もあってたちまち各地の群雄は更始帝側に拠った。昆陽などで連勝を重ねた反乱軍は長安を陥れる事に成功、王莽は殺された(A.D.23)。結局、新はわずか1代・15年で滅亡した(新滅亡A.D.23)。王莽が殺されて新王朝が滅んだ際、前漢王朝の王宮であった未央宮(びおうきゅう。長安南西部)は反乱軍に放火させられた。王莽の末娘である平帝の皇后(B.C.9-A.D.23)は、「どんな顔をして漢の人間に会うことができるのか」と言い、火中に飛び込んで死んだ(A.D.23)。

 河南省の南陽(なんよう)の豪族の援助を得た劉秀は更始帝から独立した。A.D.25年、長安で更始帝が赤眉軍に殺されると、劉秀は洛陽(らくよう)に首都をおいて漢を再興させた。これが後漢王朝(ごかん。A.D.25-220。東漢ともいう)である。劉秀は光武帝(こうぶてい)として帝位に就き(位A.D.25-57)、27年に赤眉の乱を鎮めると、その後も群雄を制圧して遂に36年に全国統一を果たし、中国に統一王朝としての漢王朝が甦ったのであった。


 漢王朝シリーズ第2編は、前漢の黄金時代を現出した武帝の治世で始まりました。その後王莽の簒奪で前漢は滅び、新しい王朝、その名も"新"王朝が登場するもすぐ失敗して、光武帝による漢王朝復興へとすすみます。新末後漢初の時期もなにかと騒がしそうですが、統一王朝が一度瓦解するとここまでバラバラになるのかと思うと、これを1つにまとめ上げた前漢創設者の劉邦や後漢創設者の劉秀はすごいの一言に尽きます。

 では早速今回の学習ポイントを見て参りましょう。今回のチェックは武帝時代と王莽時代の2つです。まず武帝時代ですが、内政として、官吏任用システムの1つ、郷挙里選がまず挙げられます。科挙の元祖で、魏晋南北朝時代には九品中正に代わり、隋唐時代には科挙へとつながっていきます。他に、元号"建元"の創始や、儒教国教化(董仲舒、五経博士も大事)も覚える必要があります。
 続いて外政ですが、漢王朝の宿敵・匈奴を挟み撃ちするため、大月氏に張騫を派遣します。大月氏には断られますが、おかげで西域事情の分かった武帝は積極的な西域進出をはかります。李広利の大宛(フェルガナ)遠征(汗血馬が目的)は是非知ってもらいたい事項です。また、匈奴と戦った衛青や霍去病も答えとして書かせることはあまりありませんが、余裕があれば知っておいて下さい。
 西域では敦煌郡をはじめとする4郡を、朝鮮では衛氏朝鮮を征服して有名な楽浪郡を含む4郡を(楽浪郡は平壌付近)、南海地方では南越を征服して南海郡や日南郡など9郡を、それぞれ設置しております。中国史を盛んに出す大学はこのあたりも詳しく知っておく必要がありますね。
 外征の連発で財政難となった対策として五銖銭鋳造、均輸と平準の両法、塩・鉄・酒の専売の3点セットを知っておきましょう。場所的な内容は均輸法、時間的な内容は平準法となります。

 続いて王莽ですが、武帝没後の帝政は非常に荒れた時代となります。外戚や宦官が出しゃばり、帝位継承を利用していきます。とくに宦官は後漢において、王朝を衰亡させるぐらいの横暴ぶりを見せます(次回で詳しく述べます)。さて外戚の王莽ですが、新王朝における唯一の皇帝です。周の時代を理想として復古主義政策をいろいろ行いますが、結局なじませることができず、赤眉の乱に巻き込まれて死んでいきます。中国の農民反乱は赤やら紅やら黄やら緑やら、色つきの名前で出てくるのが多いのでセットで覚えてしまいましょう。

 あと、これは入試事項には無関係ですが、本編に登場した霍光という人物は、幼い昭帝が即位した時は常に行政の中心にいました。昭帝は即位する時に霍光に政権を任せる勅令を発するのですが、その文の表現「関(あずか)り白(もう)す」というのがあり、これが日本の摂関政治における「関白」の名になったといわれています。君主にかわって国政を担当する意味においては日本の関白と同じですね。

 さて、次回では後漢王朝の盛衰をご紹介します。

(注)ブラウザにより、正しく表示されない漢字があります(("?"・"〓"の表記が出たり、不自然なスペースで表示される)。劉衎(りゅうカン。カンは左右がぎょうがまえ"行"、中は"干")。また王莽の"莽"の"大"の部分ですが、正しくは"犬"です。この字は表示不可能なため(正字はMingLiUフォントで確認できます)、"莽"で統一しました。

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