世界史の目-Vol.148-

長期統一王朝の終焉

~漢王朝の興亡・その3~

Vol.146 長期統一王朝の誕生~漢王朝の興亡・その1~はこちら→
Vol.147 武帝の対外発展と外戚の簒奪~漢王朝の興亡・その2~はこちら→

 光武帝(こうぶてい。劉秀。りゅうしゅう。位A.D.25-57)により、遂に後漢王朝(ごかん。25-220)が動き始めた(首都洛陽)。光武帝の祖先の劉発(りゅうはつ。?-B.C.127)は前漢(ぜんかん。B.C.202-A.D.8)の景帝(けいてい。位B.C.157-B.C.141)の子から分家した一族出身であり、河南省南陽の豪族(大領主)であった。

 漢王朝では豪族の成長によって地方の大土地所有が進み、奴婢や小作人を使用して富を蓄積していき、また郷挙里選(きょうきょりせん)での推挙によって、豪族の官界進出を容易なものにした。私有地の拡大によって強力となった豪族は朝廷の官職を得ようと努めたのである。一方自作農は、土地税・人頭税、長期の用役といった重税による貧窮化は避けられず、豪族の手によって小作化・奴隷化を余儀なくされた。前漢の哀帝(あいてい。位B.C.7-B.C.1)の時にでた限田策はこうした状態からうまれた対策だったが、官僚そのものが豪族によって独占されていたため、効き目はなかった。

 赤眉の乱(せきび。A.D.18-27)で豪族出身の劉秀が見た地方農民の惨状は凄まじいものであった。折しも朝(しん。A.D.8-23)の失政により地方は混乱状態にある中で、新朝打倒に掲げる農民たちの切なる願いとは、奴隷解放・自作農地安定である。地方豪族を知る光武帝にとって、群雄割拠で、すでにバラバラになっている中国全土を、ひとつの王朝によって再統一するには、農民の混乱と地方豪族の専横をどのように抑えるかが課題であった。結果、光武帝は"豪族"の立場ではなく、"庶民"の立場に立って、農民奴隷の解放を幾度と発して、自由民を増加させて農業を充実化、生産を向上させた。一方で地方豪族と共に中央政権を維持するため、豪族と張り合うことを極力避け(しかし横暴を働く豪族は厳しく取り締まった)、地方豪族との連合的な中央政権を打ち立て、国家再興を実現させた。対外的にも匈奴(きょうど)など近隣諸国とは懐柔策をとって安定させた。

 光武帝は儒学の知識が深く、洛陽に学問所を建設して儒学教育を深化させた。前漢時代から続いた、儒家思想に基づいた秩序を後漢においても継続させることができたのはこうした光武帝による儒学の保護と奨励があったからである。このため、かつて(しん。?-B.C.206)の始皇帝(しこうてい。位B.C.221-B.C.210)が行った焚書坑儒(ふんしょこうじゅ。法家思想に基づいた、儒学者への弾圧事件)で被害にあった儒家の書物の復元を求めたり、経典注釈につとめる訓詁(くんこ)が進むきっかけを作った(訓詁学)。後に出る馬融(ばゆう。79-166)・鄭玄(じょうげん。127-200)は有名な訓詁学者である。

 こうして、光武帝による後漢王朝は、中央集権国家として再興を果たした。対外政策は西域と交通を断とうとするなど当初は消極的であったが、A.D.40年にベトナムの交趾(こうし)で徴(チュン)姉妹の反乱が起こり、光武帝は2~3万の大軍を派兵してこれを平定した。また49年には匈奴にも迫り、南北分裂した南匈奴を服属させた。
 また南朝宋(そう。420-479)の時代に出た歴史書『後漢書(ごかんじょ。編者范曄。はんよう。398-446)』の中の「東夷伝(とういでん)」には(わ。日本)の記述があり、倭の奴国(なのくに。A.D.1-3C?)の君主は後漢に使節を送り、光武帝から「漢委奴国王印(かんのわのなのこくおう)」なる金印を授与されたとある(これが、江戸時代に博多湾の志賀島(しかのしま)で発見された金印だとされている)。このように、中国王朝が儒家思想を基に周辺諸国と君臣関係を結んで国際関係を築くことを冊封体制(さくほう)とよぶ。

 光武帝はA.D.57年に没した。後漢の歴代皇帝で光武帝の62歳は最年長、在位33年は最長在位年数であった。中国王朝における皇帝は、後宮での奥深い場所で育ち、また外界との接触が少ないため身体が虚弱になりやすく、若くして亡くなることも決して少なくなかったが、後漢においては顕著であった。次に即位した明帝(めいてい。28-75。位57-75)は第4子でありながら皇太子にたてられ、父光武帝の死後即位し、光武帝の全盛期を維持したが、48歳で崩御、在位は18年にとどまった。実質は次の第3代章帝(しょうてい。明帝の子。57-88。位75-88)まで安定した政権が続くが、章帝が33歳の若さで崩御したため第4代和帝(わてい。79-105。位88-105)は幼少に即位する形となった。和帝の治世では北匈奴討伐などで対外的な成功を収めることができたが、歴史が繰り返されるように幼帝の即位は外戚(がいせき)や宦官(かんがん)を勢いづいて政争が展開されるパターンに落ち、早くも宮廷での衰運の兆しが見え始めた。

 政のふるわなかった和帝の治世だが、外政に対しては強力な姿勢を貫いた。97年、西域都護(さいいきとご。西域統治の官。都護府は亀茲(きじ。クチャ。タリム盆地北辺のオアシス都市)に置く)の班超(はんちょう。32-102。明帝時代に匈奴討伐の軍功をあげ、91年西域都護に任命された。「Vol.21匈奴」参照)は、西域都護の軍事担当だった甘英(かんえい。生没年不詳)をさらに西へ派遣した。西方の国家と国交を開くためであるが、その相手国は中国では"大秦(だいしん)"と呼ばれ、当時のローマ帝国(B.C.27-A.D.395)だったとされている。『後漢書』の「西域伝」によると、甘英は安息国(パルティア。B.C.248?-A.D.226?)やシリア地方にあったとされる条支国(じょうしこく)にたどり着き、西の大海(地中海?ペルシア湾?)の航行が困難との理由で(あるいは安息国の妨害との説も)、結果的には断念して大秦へ至ることなく帰国したとある。大秦行きは失敗したものの、西域経営は班超の尽力でおよそ50の西域諸国が後漢に属し、前漢時代を凌ぐ形となった。

 また、和帝時代の特筆すべきことに文化面の功績があった。前述の班超の父は班彪(はんひょう。3-54)といい、班超の兄である班固(はんこ。32-92)、妹の班昭(はんしょう。45?-117?)がおり、全員歴史家である。班彪は、前漢の歴史家である司馬遷(しばせん。B.C.145?/135?-B.C.86?)の紀伝体でつづられた代表的正史『史記』に続く歴史書の大編纂を計画したが、志半ばで没したため、この遺志を班固が受け継いだ。班固は20余年かけて100巻編纂し、82年頃成立するが、最後の仕上げ段階のところで宦官に謀られた将軍に連座して獄死し(92年)、直後に班昭が補って完成させた。これが正史『漢書(かんじょ)』であり、前漢時代をつづった紀伝体歴史書である。『史記』が創世記から武帝(ぶてい。位B.C.141-B.C.87)時代までの通史であるのに対して、『漢書』は1王朝に区切って書かれた歴史書であり、以後の歴史書の模範となっていく。
 また宦官の蔡倫(さいりん。50?-107?/121?)が改良した製紙技術もこの時代の業績である(105)。これまで紙そのものは存在していたが、文字書きはもっぱら細長い木片や竹片(木簡・竹簡。もっかん・ちくかん)、あるいは絹布(。はく)を使用していた。

 和帝没後、生後100余日で子の劉隆(りゅうりゅう。105-106)が即位したが、翌年病気のため没した。中国歴代皇帝の中で最年少で、夭逝(ようせい。若くして死ぬこと)した中国皇帝の諡(おくりな)である"殤"の文字を用い、殤帝(しょうてい。位105-106)とした。
 殤帝以降、安帝(あんてい。94-125。位106-125)、少帝(しょうてい。?-125。位125)、順帝(じゅんてい。115-144。位125-144)、冲帝(ちゅうてい。143-145。位144-145)、質帝(しつてい。138-146。位145-146)と続いたが、寿命と在位期間が示すとおり、短命政権である。この間で宦官や外戚の専横はすでに一般化しており、皇帝権はほぼ死に体と化していた。特に順帝~質帝時代に出た外戚の梁冀(りょうき。?-159)は、外戚の立場を最大限に利用して権勢をふるったが(その財産は国家財政の半分だったとされる)、質帝が梁冀を疎み始めると、梁冀は帝を毒殺して、梁一族にとって都合の良い劉志(りゅうし。132-167)を擁立、桓帝(かんてい。位146-167)として即位させた。

 桓帝即位後、梁冀は自身の妹を皇后にたて、ますます隆盛を誇った。しかし桓帝はこれに危機感が募り、宦官の援護・協力で梁冀を謀殺、一族を一掃した(宮廷は外戚である梁一族に染められていたため、粛清後の宮廷は人手不足に陥ったとされる)。外戚の横暴を圧した桓帝はその後親政を始め、梁一族一掃の功をねぎらい、協力してくれた宦官達に分封を行うなど恩賞を与えた。しかしこれが後漢王朝の衰退を促進させることになるのである。

 宮中で豪奢と専横を振る舞った外戚の梁一族が上級官僚や名門豪族らと結びついていたのに対し、宦官は地方豪族や下級官僚と結びついていた。梁一族衰退後の後漢王朝では、宦官勢力の促進と官僚の下級化が進んだ。地方と結びついたゆえに郷挙里選は宦官勢力が絶大であり、これまでの知識人階級より下級の官吏が任用されるなどの横行が目立った。汚職・贈収賄といった事件が展開し、利権追求・行政腐敗が激化して外戚の梁一族が専横していたよりもひどい状況となった。

 当時の外戚や上級官僚らの中で、こうした宦官勢力の排斥を主張する、清流派と呼ばれる官僚知識人(党人。とうじん)のグループが結成されており、宦官勢力を"濁流派"と称して批判していった。166年、儒教的・道徳的な立場に基づいて清流派党人は宮廷に宦官の専横について告発したが、宦官勢力はこの党人たちの動きを逆手にとって、党人は太学(現在の大学)の学生たちをおだてて結党し、政府に反抗させたと桓帝に申し立てた。憤慨した桓帝は学者200余名の党人を逮捕、終身禁固刑に処された(死罪が免れた理由として、清流派を支援する豪族が必死に無罪を主張したこと、宦官勢力が捕まった党人の自白で宦官の悪行が明白になることを怖れて外戚に上奏させたなどがある)。この一連の弾圧事件を党錮の禁(とうこのきん。166年。第一次党錮の禁)と呼ぶ。

 党錮の禁がおこった166年は、大秦国王安敦(だいしんこくおうあんとん)の使節が象牙などの産物を持ち込み、ベトナム中部の日南郡(にちなん。じつなん)に入朝した年でもあった。『後漢書』西域伝によると、安敦とはローマ帝国の五賢帝時代の最後の皇帝マルクス=アウレリウス=アントニヌス(位161-180)のことを指すと言われている。

 桓帝没後、章帝の玄孫である劉宏(りゅうこう。156-189)が12歳で即位したが(霊帝。れいてい。位167-189)、霊帝は為政に無関心な皇帝のため、悪政の放置によって宦官の専横をみたび招くようになり、169年には第二次党錮の禁が起こった。国家的宗教・国家的学問である儒教・儒学を身につけた党人が次々と消えゆく中、宦官を放任する霊帝は民衆には重税を押しつけ、人心を喪失、国力はみるみるうちに貧窮と化し、治安悪化は進行した。

 貧困にあえぐ農民達は儒教を捨て、民間で行われている道教の教義に支えられた太平道(たいへいどう)や五斗米道(ごとべいどう。天師道)に傾倒していった。太平道は張角(ちょうかく。?-184)が創始した宗教結社で、神仙思想(古来より信仰されている仙人と不老長生による神秘思想。道教の起源を為す。これに基づき漢代では服薬や煉炭術などが流行していく)の影響が濃く、呪文で病気を治すと称して多くの信徒が集まった。五斗米道は張陵(ちょうりょう。生没年不明)が創始し、太平道と同じく呪文や祈祷で病気を治すと称した(この際、米5斗(日本計量で約5升。約9リットル)を入門謝礼として受け取ることからこの名がつく)。太平道は河北・山東・河南地方、五斗米道は四川・陝西地方を中心に広まっていった。
 184年、張角は多くの貧しい農民達の窮状を嘆き、数十万におよぶ彼ら信徒を使って反乱を企てた。「蒼天(そうてん。つまり宮廷のこと)すでに死す。黄天(こうてん。張角側)まさに立つべし」と号した張角は目印に黄巾(こうきん)をつけて蜂起した。これが黄巾の乱である。しかし張角は同年に病死、乱もその後鎮圧された。

 霊帝は189年没し、実子の劉弁(りゅうべん。173-190)が即位したが(少帝。しょうてい。位189)、洛陽に入った辺境軍人・董卓(とうたく。?-192)が、少帝を廃して殺害(189)、異母弟の劉協(りゅうきょう。181-234)を擁立した(献帝。けんてい。位189-220)。しかし、これを担いで・皇帝の権威を背景に勢力を高めた曹操(そうそう。155-220)は、官軍の名目を得て勢力を拡大して遂に華北を統一した。曹操は献帝を操り、丞相(208)・魏公(213)・魏王(216)の地位を得たが、220年、曹操は没した。魏王の後継者である子の子の曹丕(そうひ。187-226)は献帝に迫り、禅譲(ぜんじょう。帝位譲渡)を実現させ、文帝として即位(ぶんてい。位220-226)、洛陽を都に王朝(ぎ。220-265)を創始した。これにより、200年近く続いた後漢王朝は滅亡した(220後漢滅亡)。

 その後、魏と、四川地方の(しょく。蜀漢。しょくかん。221-263)、江南地方の(ご。222-280)の三国が鼎立する三国時代(220-280)、また異民族の来襲、弱体する中央政権、王朝の乱立が続く魏晋南北朝時代(220-589)に突入し、分裂状態が続いていく。中国全土が統一するのは、589年の王朝(ずい。581-618)まで待たねばならなかった。 


 "柔よく剛を制す"という名句を残した大名君、光武帝によって後漢王朝はスタートします。一度滅亡した統一王朝を復興させ、これを成功させた光武帝を尊ぶ人々も多く、たとえば諸葛亮(しょかつりょう。181-234)や司馬光(しばこう。1019-86)といった偉人たちが彼の大ファンだったそうです。事実、後漢王朝において目立った君主はこの光武帝ぐらいで後は宦官や外戚の政争に悩まされて、政権が短命(人生も短命)に終わってばかりです。とくに殤帝は1歳も満たしておりませんし、少帝劉弁は"廃帝"と言われるほど全く活躍していません。せいぜい和帝までが光武帝政権の名残があるところでしょう。

 さて漢王朝3部作の最終章に突入しました。今回の学習ポイントです。まず後漢王朝の首都は洛陽です。前漢の長安より東に移動しましたので後漢は東漢とも呼ばれます(ちなみに前漢は西漢の異称があります)。創始者は劉秀光武帝、劉秀も光武帝も両方覚えましょう。ちなみに発音同じでも洪武帝(こうぶてい。太祖。位1368-98。朱元璋。しゅげんしょう。1328-98)は朝(みん。1368-1644)の皇帝です。

 後漢の行政はほとんど外政が出題されます。では光武帝時代から。まずベトナムでは徴(チュン)姉妹の反乱の平定(出題頻度は少ない)、金印の下賜(『後漢書』東夷伝も重要)、また南匈奴の服属も知っておきましょう。1世紀後半の明帝から和帝の時代では、匈奴討伐と西方政策が中心となりますが、匈奴関連は「Vol.21匈奴」の学習ポイントで見ておいて下さい。西方政策は西域都護の班超さんが甘英を大秦に向けて遣わします。これも重要。

 さて、後漢の衰亡期ですが、中国王朝のパターンで、皇帝が弱小の時は必ず外戚や宦官が出しゃばります。党錮の禁は宦官勢力が強大な時ですね。党錮の禁の166年と169年はあまり大事ではないですが、後漢王朝末期の事件であることを知っておきましょう。そして、太平道の張角がおこした黄巾の乱は、184年という勃発年(黄巾はいやよで覚えて下さい)は重要です。そして、魏の曹丕(文帝)によって滅ぼされます。

 まだまだあります。訓詁学の鄭玄は覚えましょう。歴史学では、司馬遷の『史記』と班固の『漢書』では、違いが重要。前漢に出たのが司馬遷の方で、後漢が班固です。ぜん漢・司馬せん漢・班といった覚え方があります。また紀伝体は『史記』にはじまり『漢書』で完成したとされています。難関私大受験であれば『後漢書』の作者、范曄も出題されることがあります。文化では蔡倫の製紙技術(のちに751年のタラス河畔の戦いで西伝)、宗教では張角の太平道、張陵の五斗米道が重要です。またあまり普及しなかったですが後漢初期には仏教も伝来しています(おそらく明帝時代)。

 さて、「世界史の目」次回は9月上旬に更新いたします。しばらく間が空きますが、次回もぜひご期待下さい。

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