世界史の目-Vol.15-

フランス革命(PART.2 革命戦争と第一共和政)

 1789年10月5日に起こったヴェルサイユ行進をきっかけに国民議会がパリへ移り、政局はパリが中心となった。国王ルイ16世(位1774~92)ら王一家もヴェルサイユ宮殿からパリ市内のテュイルリー宮殿に移っていた。パリでの国民議会はめまぐるしい活躍だった。教会財産を国有化して、これを担保に公債アシニアを発行し、このアシニアは紙幣として用いられた。また市政に参加していたギルド(商工業者の同業組合)を廃止し、経済自由化を促進させ、1791年には労働者には団結禁止を求めたル=シャプリエ法(経済自由化を望む有産市民にとって有利な法律)を制定した。また啓蒙思想の現れから、同年メートル法の実施が決定され、地球の半円(子午線)の2千万分の1を不動の1mとしたことで、絶対王政時代からの度量衡の基準単位の慣習を改めた。

 議会は、立憲君主政の主張者が多数を占め、外面では国民に人気にあるミラボー伯爵(1749~91)・ラファイエット(1757~1834)などがいた。王政廃止の共和政ではなく、憲法を制定して君主である国王を中心とする社会を望んでいた。ただミラボーとラファイエットは内部で対立し、ラファイエットは外面通りの国民寄りだったが、ミラボーはどうも国王寄りだったらしく、裏で国王と国民より太いパイプをつなげており、宮廷と議会との調停役の役目を果たしていたため、国王ルイ16世は、ミラボーのことを遊び人の女好き(妃アントワネットとの恋愛の噂が立つほど)と罵ってはいたものの、政治的にはただひとつの拠り所とも思っていたわけである。

 しかしこのミラボー伯爵が1791年4月、「私の死はフランス王政の崩壊だ」という臨終の言葉を残して病没した(ミラボー急死)。王政を残すと主張する多数の立憲君主政の右派に対して、王政を廃止して共和政を主張する少数の左派は、民衆の支持を徐々に集めていた時期でもあり、ミラボーの急死は宮廷に危機感をもたらした。ルイ16世、また妃マリ=アントワネット(1755~93。オーストリア大公ならびに神聖ローマ皇帝であるマリア=テレジアの娘)ら一家は、1791年6月20日、妃の故郷オーストリアに連絡をして援助をとりつけ、国外逃亡を図った。しかし、21日、東北国境近くのヴァレンヌで拘束、25日に一家はパリへ連れ戻され、事実上の軟禁となった(ヴァレンヌ逃亡事件)。フランス国民を見捨てようとした国王一家のこの行為は王権への信頼を完全に失墜させた。8月、マリ=アントワネットの兄の神聖ローマ(オーストリア)皇帝レオポルト2世(位1790~92)はプロイセン王フリードリヒ=ヴィルヘルム2世(位1786~1797)をドレスデン近くのピルニッツ村に誘い、フランス王家をを支援することを発表し(ピルニッツ宣言)、国王の地位を回復させなければ、フランスに対して宣戦することを約束した。いずれにせよ国民議会は立憲君主政を支持していたため、戦争にはならないと考えていた。一方、バスティーユ襲撃事件でヨーロッパ各国に亡命した保守派貴族は、各国君主に、フランス革命の急進化に警戒するよう呼びかけていた。

 国民議会は、共和政支持の左派の革命の急進化を恐れ、憲法制定を急ぎ、秩序維持に当たった。そして1791年9月3日、一院制の立憲君主制度を定めたいわゆる1791年憲法を制定した。フランスにおいてはこれが初憲法となった。時勢を考慮して王権は縮小されたが、国王は国民議会で可決した法案を、一定の期間のみ拒否権を保有できた。選挙に関しては有産市民(ブルジョワ)が選挙権をもつ財産資格選挙となり、フランス革命の急進化を抑える内容が多かった。これにて、国民議会は同年10月、解散となり、制限選挙で立法議会を成立させた(1791.10.1~1792.9)。右翼保守派は立憲君主をしく元ジャコバン=クラブのフイヤン派(立憲君主派。富裕市民・自由主義貴族。)でラファイエットや、第三身分代表で国民議会で猛威をふるったバルナーヴ(1761~93)がいた。一方左翼には王政廃止の共和政をしくジャコバン=クラブ、つまりジャコバン派がいた。ジャコバン=クラブはパリのジャコバン修道院に本拠をかまえ(その後ジャコバン協会となる)、その中で穏和派と最左派に大きく分けられていた。穏和派はジロンド派と呼ばれ、商工業を営む中産市民が支持し、最左派は貧困市民や農民に指示される山岳派(モンターニュ派)と呼ばれた。議会の最左翼の高いところの議席を占めていたので山岳派と呼ばれたのである。山岳派は医師出身のマラー(1743~93)・弁護士出身のダントン(1759~94)・同じく弁護士出身のロベスピエール(1758~94)などがいた。山岳派とジロンド派はやがて対立の方向に向かった。

 立法議会では、フイヤン派は王政擁護から、またジャコバン左派は革命の徹底から対外戦争を避ける方向であったが、ジャコバン右派、つまりジロンド派は他派に対抗するため開戦を主張した。国王も開戦を主張し、対外戦争に勝てば、フランス国民の威信を回復でき、立法議会による革命は崩れると判断し、敗れても、国王はオーストリアやプロイセンからの援助を容易にし、立法議会は崩壊して、市民とのパイプが切れると判断した。外国軍が国境にせまると、国民は立憲君主政の革命を捨てて共和政を期待し、対外戦争を希望するようになり、1792年3月、ジロンド派内閣(1792.3~6)が誕生した。これにより、1792年4月、ジロンド派は国王に迫り、フランスはオーストリアに宣戦布告した。君主政のヨーロッパ諸国に対する革命戦争の勃発であった。

 戦況はフランスが劣勢であった。軍部には王党派が多く、貴族の司令官などは戦意がない状況で、戦局は決定的であった。結局敗戦となりジロンド派は総辞職、6月、立憲君主派のフイヤン派内閣が成立した。国王はプロイセン・オーストリアとの接触を考えたため、7月11日、これまで宣戦布告の時期までは戦争に慎重だった立法議会の山岳派は、敗戦によりパリの民衆から義勇兵を募った。それは、「敗戦はすべてを失わせる、革命を守れ」と山岳派が叫んだことにあらわれ、共和主義のための革命を再び国民に奮い立たせ、祖国と革命の防衛を主張したのである。自発的に義勇兵は集まり、マルセイユからも義勇兵は集まった(マルセイユ義勇兵の軍歌「ラ=マルセイエーズ」は現在のフランス国歌である)。この義勇兵は山岳派の強力な武器となり、8月9日、ラファイエットらフィヤン派は王政復古のクーデタを企図したことで、山岳派は義勇兵とサンキュロットを従え、王一家のいるテュイルリー宮殿を襲撃した。宮殿警備のスイス衛兵は惨殺され、遂に8月10日、民衆の圧力で王党派は弾圧、立法議会は王権を停止し、山岳派により男子普通選挙の実施を約束した。国王は捕らえられて、タンプル牢獄に幽閉された(8月10日事件)。立憲君主派のフイヤン派は完全に没落した。逮捕を恐れたラファイエットはオランダに亡命した。

 事件後、パリの民衆(主にサンキュロットら)の自治組織コミューンがつくられた。立法議会が有名無実化となり、9月2日から6日にかけ、コミューンは市内の監獄に収容されている反革命派の千数百人もの囚人を虐殺した(「9月虐殺」)。またコミューンの軍隊(革命軍)である義勇兵は9月20日、パリに迫ろうとしていたプロイセン軍を東国境ヴァルミー村で撃退した(ヴァルミーの戦い)。プロイセン軍にいた文学者ゲーテ(1749~1832。著書『若きウェルテルの悩み』『ファウスト』)はフランス軍の勝利を目撃したことを、「この日、この地から新しい世界史の時代が始まる」と日記に記した。革命戦争における最初の戦勝だった。

 1792年8月末から9月初めに男子普通選挙が行われ、9月21日、立法議会に代わる国民公会(1792.9.21~1795.10)が成立した。王政廃止と第一共和政の樹立を宣言した。右派はジロンド派(穏和な共和派)、左派は山岳派となった。ジャコバン協会は山岳派が支配することになり、最左派だった山岳派はジャコバン派の主流となり、過去の広義の革命団体とはもはや異なる、急進的な共和派となっていき、ジャコバン派=山岳派となっていった。フランス最初の共和政である第一共和政は1804年まで続く。

 国民公会の最初の仕事は、国王の裁判だった。山岳派は国民公会で国王存在の抹消を主張し、"国民への敵対行為"の罪で有罪とされた。山岳派の国王死刑案は可決し、ジロンド派の死刑執行延期案は否決となった(361対360のわずか1票差で死刑が決まったと言われる)。1793年1月21日、のちのコンコルド広場と呼ばれる革命広場で、ルイ16世は断頭台(ギロチン)で処刑された(ルイ16世処刑)。国王処刑事件は他国に脅威をもたらし、革命戦争に対する警戒心をより深めた。イギリスの小ピット首相(任1783~1801,04~06。国王ジョージ3世時代)は、オーストリア・プロイセン・スペイン・ロシア・ポルトガル・オランダなどにヨーロッパ諸国に呼びかけて、同年第1回対仏大同盟が結成された。国民公会は2月にイギリス・オランダ、3月スペインに宣戦、同年末まで戦乱が続いた。

 1793年2月、国民公会は革命防衛の理念にもとづいて、徴兵制をしき、約30万人の募兵を決定した。3月10日、国内の王党派の残党はフランス西部の貧困地帯ヴァンデー県で、徴兵制に反対する現地農民を指導し、反乱を起こした(ヴァンデーの農民反乱)。山岳派は反革命の抑圧策のため、3月革命裁判所(政治犯を審理)、4月6日には公安委員会(行政・軍事の最高機関)などを設置し、改革を進めた。また5月には最高価格令を出して生活必需品や労働賃金などの最高価格を設置して経済統制も行った。右派であるジロンド派はこれらの設置に猛反対したが、6月2日、山岳派は義勇兵でもって国民公会を包囲させ、ジロンド派議員を拘束し、その多くは逮捕・処刑された。ジロンド派議員を一掃したことにより、山岳派は独裁権を握った(ジャコバン独裁)。

 独裁権を握った山岳派はその後も革命を次々と繰り広げ、まず農民解放を始めた。共有地を分割して農民に分配し、亡命貴族の資産を没収して競売をかけた。また革命勃発の1789年8月4日に出した「封建的特権廃止宣言」のときに懸案事項となっていた封建的貢租の有償廃止は、1793年7月無条件で無償廃止となり、領主権からの完全解放となった(封建的貢租の無償廃止)。自身の土地を保有した農民は、この決定により革命の関心が徐々に薄れていく。

 また6月24日1793年憲法が国民公会で採択され、8月成立した。ジャコバン憲法と呼ばれ、男子普通選挙を盛り込んだ史上初の民主憲法だったが、革命が完了し、社会が安定してからの施行ということで、施行予定は10月だったが、実質的には実施されなかった。この間の7月13日、山岳派マラーは、持病である皮膚病治癒のため、自宅の浴室で療養中、ジロンド派の女性同調者シャルロット=コルデ(1768~1793)によって包丁で刺殺された。内外の反革命に直面した山岳派は圧政をさらに強化し、テロリズムを用いて反対派を一掃する、いわゆる恐怖政治を実施した。マラー暗殺後に公安委員会に入ったロベスピエールは、公安委員会を事実上の独裁執行機関として、反対派の逮捕・裁判を促した。10月には王妃マリ=アントワネットが処刑され、その後もジロンド派・反革命者の処刑は続いた。また最高価格令の対象が拡大し、これに反対する商工業者は反革命罪となって処罰された。また同月、反キリスト教の立場からグレゴリ暦に代わって革命暦(共和暦)を制定した(1805年まで続く)。11月にはジャーナリスト出身エベール(1757~94。山岳派の極左派)によって"理性"を崇拝する祭典が行われ、年末には対外戦争は有利に導き、外国軍は撃退され、国内も安定したかに見えたのだが....

 この時代は月日刻みで歴史が大きく変わっていきますね。多くの反乱・戦争、政治家の多数の登場、政党の変化、諸外国の接近など、ほぼ現代史並みのボリュームです。実は、今回のシリーズ、ナポレオン時代が終わるまで続けようと思っていますが、一体何作できるのでしょうか?。

 さて今回のポイントを、といっても今回はほとんどが大事なのですが、まず、例のごとく、月日は知っておいた方がいいですね。ただ今回に関しては、月だけでもいい事項もあります。前回も申しましたが、月日が覚えきれない場合は、事件の起こった順番だけでも知っておきましょう。並び替えや正誤問題として出題されやすいので。1791年では4月のミラボー急死、6月20日のヴァレンヌ逃亡事件、9月3日の91年憲法、10月の立法議会成立、1792年では4月オーストリア宣戦、8月10日の8月10日事件、9月の国民公会成立、1793年では1月21日のルイ16世処刑、6月の93年憲法採択(8月成立)、7月の封建的貢租の無償廃止などはおさえておくと便利です。ちなみに、憲法は1791年と1793年に制定されましたが、施行されたのは91年憲法の法で、93年は施行されておりません。

 また、本編は政党が多く出てきました。特にジャコバン=クラブに属した3派は重要ですね。まず立法議会での右翼はフイヤン派(保守派・立憲君主派・ラファイエット。革命戦争反対。)・左翼はジャコバン派(共和主義派)です。ジャコバン派の中でも右派にジロンド派(穏和共和主義。中産市民が支持。革命戦争賛成。)、左派に山岳派(急進共和主義。無産市民や農民などに支持。マラー・ダントン・ロベスピエール。革命戦争反対。)。そして国民公会では、右翼はジロンド派で左翼は山岳派です。山岳派が台頭してきた頃は、山岳派のことをジャコバン派と言ってもあまり差し障りありません。いずれの議会おいても、右翼は左翼に倒されているのが特徴です。

 今回もルイ16世・マリ=アントワネット以外の要注意人物が登場しました。ミラボー・ラファイエット・マラー・ダントン・ロベスピエール・エベール・小ピットはおさえておきましょう。

 対外戦争では、オーストリア・プロイセン・イギリスが要注意でしょう。イギリス提唱の対仏大同盟はその後も第2回、第3回と続きます。

 さて、この後、国民公会は転機を迎えます。ナポレオンも登場します。続きは次回の「Vol.16 フランス革命(PART3)」でご紹介します。今回はこれにて。 

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