世界史の目-Vol.150-

祖国解放と大革命

 第一次世界大戦(1914-18)に敗戦を喫したオスマン帝国オスマン=トルコ。1299-1922)は、領有するアラブ地域を連合軍に占領され、国土は小アジア全域(アナトリア。トルコ名は"アナドル")と東トラキア地方(バルカン半島東部。ルメリアの一部)を削り取られた。1918年11月にはイギリス・フランス・イタリア・アメリカの連合軍がアナトリア南部に上陸して占領、さらには1919年5月、戦勝国ギリシアによってギリシア人が多く住む港市イズミル(アナトリア西海岸。旧称スミルナ。"エーゲ海の真珠")に進軍、占領された(ギリシア=トルコ戦争。希土戦争。侵入ギリシア軍との戦い。1919-22)。もともとオスマンに支配されていたギリシアは当時大ギリシア主義(メガリ=イデア。"大いなる思想"の意)に基づいて領土拡張の正当性が強調され、これに続いてアルメニア人やクルド人らの国家樹立運動も起こり、オスマン帝国はアナトリア解体の危機にさらされた。

 当時のオスマン帝国スルタンはメフメト6世(位1918-22)で、タンジマート(恩恵改革)を実施したスルタン・アブデュル=メジト1世(位1839-61)の子であり、赤いスルタンと呼ばれたアブデュル=ハミト2世(位1876-1909)の弟にあたる。首都イスタンブルに置かれた当時の政府は敗戦により崩壊寸前であり、メフメト6世は専制君主政の機会と判断して、連合軍による国土占領を依存的に認めて地位確保に専念しようとした(結果的には連合国の傀儡政権となる)。しかしその後のイズミル占領によって、アナトリア回復・祖国解放・反帝国主義思想といった反政府の抵抗勢力がトルコ人の間で起こり、"アナドル・ルメリ権利擁護団(アナトリア・ルメリア権利擁護委員会)"が結成された。これを組織したのはムスタファ=ケマル(1881-1938)という人物である。

 ムスタファ=ケマルは、1901年に士官学校を卒業し、1905年に入官したが、この時代はアブデュル=ハミト2世の専政に不満を抱き、当時反スルタン派の青年トルコ党進歩と統一委員会)に入党(1907)、1908年の青年トルコ革命(ミドハト憲法復活とアブデュル=ハミト2世廃位)を経験した。第一次大戦中の1915年、軍司令官のケマルは連合軍のイスタンブルへの航路の停泊地であるガリポリ半島(ゲリボル半島。ダーダネルス海峡西方)への上陸(ガリポリ上陸作戦)をくい止めて軍功をあげ、翌年准将に昇進、ケマル=パシャの呼び名で知られるようになり、人脈を拡大させた。敗戦後もメフメト6世はケマルを軍監察官に任命したが、ケマルはこれを利用して反政府側に立ち、1919年5月、黒海沿岸のサムスン(サムソン)に上陸、やがてエルズルム(東アナトリア地方)やスィヴァス(中央アナトリア地方)で会議が開催され、"アナドル・ルメリ権利擁護団"結集に至る。1920年1月には「国民盟約(国民誓約)」がケマルによって取り入れられ、トルコの国土保全・領土分割反対・敗戦による賠償金支払拒否を主張した。また国家・国民に対しては後回しで、連合国にすがって帝国君主の地位、ならびにスルタン制度を守ろうとするオスマン家に対しても反感があり、徹底して帝国政府に反抗していた。

 オスマン帝国政府は、ケマル側に対して懐柔策を施して、前年末に帝国議会を解散・総選挙を行ったが、その結果、国民の支持は権利擁護団へ集中した。これにより帝国議会は1920年1月、「国民盟約」を採択することになる。しかし3月、これに不安を感じた連合軍は帝都イスタンブルを占領、議会は解散を余儀なくされ(4月)、オスマン帝国は壊滅状態となった。イスタンブルを脱した90名近い帝国議会の議員たちは、トルコ復活を信じてアンカラ(現トルコの首都)に結集、権利擁護団の党員と合流した。そして同4月23日、アンカラにて抵抗政権樹立を目指した大国民議会(トルコ大国民議会)が開かれ、ケマルは議長に選ばれて臨時政府が立ち上がった(1920.4.23)。これにより、オスマン帝国はメフメト6世中心のイスタンブル政権と、ケマル=パシャ中心のアンカラ政権の二重権力状態となった。

 1920年8月10日、第一次大戦後の講和条約が連合国とオスマン帝国(メフメト6世)間で締結された(セーブル条約)。この条約によってトルコ人は帝国の大半の領土を失うことになるだけでなく、財政決定権を連合軍が管理することや、軍縮、治外法権などが決まるといった亡国的屈辱を味わうのであった。中でも、かつてのヨーロッパ争奪の的であり、オスマン帝国にとっても重要地域だったボスフォラス・ダーダネルス両海峡も開放され、さらにアラブ地域は委任統治となった。
 この条約を締結したメフメト6世のオスマン帝国政府(イスタンブル)に対し、ケマル=パシャの大国民議会政権(アンカラ)は「国民盟約」の違反とセーヴル条約批准拒否を主張し、政権樹立後から行われてきた祖国解放運動を活発化させた。依然として連合軍にすがりつくメフメト6世に対し、愛国心高揚を謳うケマル=パシャの精神はトルコ全土に拡がり、イズミル占領後アンカラにも迫ったギリシア軍を敗退させ(1921)、これまで希土戦争において劣勢だったトルコ軍は同年8月、サカリヤ川(アナトリア西北部。マルマラ地方)の戦闘でギリシア軍を敗退後優勢に転じ、1922年9月、遂にイズミル奪還に成功(ケマルの有名な指令、"目標は地中海、前進せよ"はここで生まれる)、ケマルの率いるトルコ大国民議会軍がギリシア軍に勝利した。結果、連合国側は、トルコに対して、セーヴル条約を改定した新条約を結ぶ交渉を始める通告を発表した。このとき連合国側はメフメト6世のオスマン帝国だけでなく、ケマル=パシャ政権も講和会議に招請した。

 ついに連合国を動かしたケマル=パシャは、条約改正を機に、トルコの二重政権の統一に動いた。すでに国家君主の機能を失ったオスマン家のスルタンがムハンマド(570頃-632)代理権の機能を持つカリフを兼ねる(スルタン・カリフ制)必要はあるのか、またスルタンはイスラム支配の最高地位・教権保持者であるのに、オスマン家のスルタンそのものが該当するかといった疑問を抱いていたケマルは、1922年11月1日、スルタンとカリフの地位を分離させると共に、スルタン制を廃止した。これにてメフメト6世は廃位されてマルタに亡命、620年余続いたオスマン帝国は名実共に滅亡するに至った(オスマン帝国滅亡)。
 トルコ大国民議会は11月19日、第35代スルタンだったアブデュル=アジズ(位1861-76)の子アブデュルメジト(1868-1944)をカリフに選んだが(アブデュルメジト2世。位1922.11-1924.3)、元来の宗教的指導者としての地位であり、国家元首という意味合いはなかった。

 1923年、セーヴル条約の改定会議がスイスのローザンヌで7ヶ月かけて行われ、7月23日、英仏を中陰とする連合国を相手にローザンヌ条約が結ばれた。これによりアナトリア、東トラキアの確保が実現するといったトルコの国境が画定、賠償の減額、治外法権撤廃、関税自主権回復、希土間の住民交換(複数国家間での住民の強制入替。トルコからは100万におよぶギリシャ正教徒がギリシャへ流れ、ギリシャからは50万人のイスラム教徒がトルコへ流れる)などが決められ、トルコは主権を回復した。トルコの祖国解放は一応の終結を見た。

 このケマル=パシャによるスルタン制から共和制への移行を実施するに伴い、1923年4月に権利擁護団を政党化して国民党(トルコ国民党人民党)とし、同党は総選挙で圧倒的多数の支持に立った。そして、1923年10月29日共和制の宣言を行い、アンカラを首都とする、トルコ民族のトルコ共和国が誕生した。ケマル=パシャはトルコ共和国の初代大統領に就任した(任1923.10.29-1938.11.10)。なお初代首相はケマル=パシャの忠実な側近、ムスタファ=イスメト=イノニュ(1884-1973。首相任1923-37,61-65)で、ケマルに次いで第2代大統領になった人物である(大統領任1938-50)。

 しかし就任後、共和制の反対運動が頻発し、世俗支配者としてのカリフの復活を求める親オスマン帝国派の抵抗もおこった。ケマルは国民をオスマン家からすべて自身の方へ向かせない限り、オスマン帝国時代の帝国主義思想、政教一致による国民の拘束、オスマン帝国復帰運動やスルタン制度復帰運動の勃発は避けられないと考え、カリフ制度を廃止して完全な政教分離を行い、オスマン家の追放を実施することを計画した。カリフ廃止についてはトルコ国内のクルド人や、インドやイランのイスラム教徒も反対を主張したが、ケマルはこれを抑え、1924年3月3日、カリフ制廃止を可決させて完全な政教分離を行った。これにより最後のカリフ、アブデュルメジト2世は一族とともに国外亡命し、オスマン家およびその残党は追放処分となった。

 オスマン廃絶に成功したケマル=パシャはトルコの脱イスラム化と西欧化・近代化の推進を目指し、様々な改革を施した。1924年に制定されたトルコ共和国憲法では主権在民("主権は無条件に国民のものである")・一院制議会・大統領任期(4年)といった西欧化が施され、トルコ国民党(人民党)は同年11月共和人民党と改称された。また政教分離の一環としてシャリーア(イスラム法)の廃止、マドラサ(高等教育機関)の閉鎖、ワクフ(ムスリムで行われる財産寄進。モスクなど施設を維持するために教徒が土地財産などを寄進すること)管理者の免官、イスラム法廷の廃止などが行われた(イスラム教を国教とする条項は4年後の1928年に削除された)。

 またケマル大統領は民法改正(新市民法)に伴う一夫多妻制度の禁止(1925年以降)を行った。これにより女性解放が促進され、婦人参政権などが求められた(1934年実施)。服装ではヒジャブ(ブルカやチャドルなどと同様、女性のヴェールの一種)が好ましくない着用とされる一方で、男子服装ではフェズ(トルコ帽。つばのない円筒形の帽子)の着用は全面禁止(1925)とされた。

 トルコの世俗化対策はこれだけにとどまらなかった。マドラサ閉鎖後にアラビア文字の廃止とラテン文字(ローマ字)の採用が定められ(1928。文字改革)、生活面ではヒジュラ暦(イスラム暦)をグレゴリオ暦に改正された。経済面では産業奨励を促進させようと努力したが、世界恐慌の波がトルコにも及んだため、ソ連型経済を模倣して民営から国営への転換が多く行われた。

 ケマル大統領のこうした大改革によって保守派や対抗政党の反発は絶えず、1926年には大統領暗殺計画まで発覚した。共和人民党の離党者は新党を設立するなど徹底して対抗したが、最終的には一掃され、共和人民党の一党独裁体制が敷かれるようになった。1932年には国際連盟加盟が実現し、トルコは国際的にも認められた。こうしたケマル大統領が施したさまざまな改革の成功によってケマルの英雄化・神格化が促されていった。1934年に姓氏制度(創姓法)を導入してトルコ人の姓が義務づけられると同時に、建国の英雄であるムスタファ=ケマルに「アタテュルク(=父なるトルコ人)」の姓を贈ることが大国民議会で議決された。こうしてケマル=パシャは「ケマル=アタテュルク」としてトルコ国民に崇められた。

 祖国開放から始まり、オスマン帝国を滅亡させてイスラム世界では初めてとなる、政教分離の世俗主義的な共和国トルコを建国し、一党独裁体制を現出し国内における諸改革を成功に導いたケマル=アタテュルクの功績は歴史的に非常に大きい。彼が行い、成功に導いた一連の改革はトルコ革命と呼称され、"アタテュルク主義"がトルコ国中に浸透していった。しかし大統領は、激務からくる酒類の過剰摂取がたたって肝硬変を患い、1938年11月10日、大統領職に籍を置いたまま没し(ケマル=アタテュルク死去)、アンカラ南東の丘に霊廟が建設された(アタテュルク廟。1953年完成)。

 世界はこのあと第二次世界大戦(1939-45)の渦に巻き込まれるが、ケマル=アタテュルクが主張した"内に平和、外に平和"の外交精神によってアタテュルク亡きトルコは中立を必死に守った。独裁者としての地位を築いたケマル=アタテュルクではあったが、自分自身のためではなく、国家のために革命を起こした人物であった。それは、「自分自身のこの小さな体がどんなに頑張ってもいつかは土塊(つちくれ)となるが、トルコ共和国は永遠に行き続けるのだ。」と、彼が発した言葉にも表されている。 


 『高校歴史のお勉強』として2004年8月31日に始まり、『世界史の目』となった今の教室で、5年目にしてようやく150話達成です。これもひとえにこのコーナーを支えて下さった読者の皆様おかげです。非常に感謝しております。今後もあらゆる側面から世界史をご紹介していきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたしします。

 さて今回は、トルコを建設した偉大なる父・ケマル=アタテュルクの功績を中心にトルコ革命の一部始終をご紹介しました。これまで数多くの独裁者を見てきましたが、普通なら私利私欲に走るはずが、自分のためではなく国家のためにここまで大量の改革を施した人物はいないと思いますし、トルコ人の平和と、国家の存続をここまで考えた独裁者はいないと思います。ただ、イスラム世界からすればトルコ革命に対して、相当の非難があったとおもいます。スルタン制度・カリフ制度によってオスマン家がドッカンとトップに君臨していたのが、トルコの改革にとっては大きな障壁であったということでしょうか。でもイスラム教が悪いとか、スルタンやカリフそのものが間違っているといった思想でそれらを廃止したわけではなく、イスラム教そのものを政治から離すのが目的であり、政治はあくまで国民に反映すべきで、宗教で縛るのではなく、もっと世俗的に考える必要があったということです。いずれにせよ、1923年にケマル風のイスラム国家としてトルコ共和国ができあがったわけですが、トルコでは現在でも"アタテュルク空港"など、公共施設などで頻繁に彼の名を見かけるところから、ケマルこそ建国の父であるというのもうなずけます。

 本編に登場した街サムスンは近代の産業都市で、何世紀にも渡り黒海沿岸の主要な港町となっています。サムスンは、1919年の5月19日にアタチュルクがアナトリアの防衛軍を組織するために上陸した際に、トルコ独立戦争の中心地となった都市です。この1919年5月19日は祖国解放戦争開始の記念日とされています。ケマル=アタテュルクが歴史を動かした記念すべき日であります。

 さて、150回を迎えた今回の受験学習ポイントを見て参りましょう。今回のポイントは山盛りですが、かいつまんで...オスマン帝国は同盟国側で、第一次世界大戦の敗戦国です。敗戦後もギリシア軍によってイズミル市を占領されます。用語集では「侵入ギリシア軍との戦い」として記載されています。覚えておきましょう。トルコ国民党(人民党)を中心とする大国民議会が開催されたのは1920年、またその年はヴェルサイユ体制下でセーヴル条約が結ばれました。とても重要です。ケマルがイズミルを奪還した1922年で、改革はさらに促進されます。イズミルという街は知っておいた方がいいでしょう。

 この1922年を狭義のトルコ革命の開始年とされています(1919年のサムスン上陸から見る場合もあります)。この年と次の1923年は絶対覚えて下さい。スルタン制度の廃止でまず、オスマン帝国が滅びます。翌1923年はセーヴル条約に代わるローザンヌ条約が締結されます。このあたりの出題率は高い方ですよ。1923年にトルコ共和国となり、ケマル=パシャは大統領に就任します。そのあとは国内の近代化政策です。1924年のカリフ制度廃止、これで政教分離が達成、女性解放(ヴェール廃止・一夫多妻制度廃止)、トルコ帽廃止、ローマ字採用(アラビア文字からラテン文字へ)...こんなもんですかね。これだけの改革をやってのけたケマル氏は、すごいの一言に尽きますね。まさにトルコのために生まれて、トルコのために死んだ偉人です。

 ちなみに、言うまでもなくトルコの現在の首都はイスタンブルではなくアンカラです。お間違えのないように。

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