世界史の目-Vol.151-

レオン3世と聖像崇拝論争

 ビザンツ帝国(東ローマ帝国。395-1453)のヘラクレイオス朝(イラクリオス朝。610-711)の血統が断絶し、その後3人の非王統の皇帝時代(711-717)が続いた。3人目のテオドシウス3世(位715-717)は政治的・軍事的に無能で、敵軍が迫っても何一つ仕切ることができなかった。

 ビザンツ帝国では軍管区テマ。セマ)と呼ばれる地方自治体があり、各司令官は軍事・行政の権限が与えられていた。各軍管区下では、兵農一致の屯田制を充実させており、駐屯軍団長も兼任していたため、強力な頭脳と軍事力、そして豊富な財力がある軍管区司令官が多数存在した。辺境などでは、外敵の侵入に際して、力強い軍事力でもってこれらを撃退し、中央政府に貢献した。このため皇帝の威厳が弱まると各軍管区司令官の権力が突出することが多く、自立化が進んだ。テマ・アナトリコン(ギリシャ語で"日出づる処"。アナトリアの語源)の司令官レオン(レオーン。"獅子"の意味。670/685?-741)がまさにそうだった。717年、脆弱な皇帝権力を好都合にレオンは軍隊を率いて反乱を起こした。これによりテオドシウス3世は退位、レオンはレオン3世(レオーン3世。位717-741)として即位した。

 レオンは"イサウロス"とも呼ばれたらしく、小アジア南東部のイサウリア地方出身とされていたため、彼が創始したビザンツの王朝はイサウリア朝(717-802)と呼ばれるようになった。しかしこの王朝名は誤って付けられた名前である。というのも、レオンの伝記は不明な部分が多く、イサウリア地方出身ではないことがわかっている(9世紀に誤って伝えられた)。実際は出生地もシリア北部のゲルマニケイア(現マラシュ)で下層階級の出身である(このため、イサウリア朝の正式名称も"シリア朝"と呼ばれることがある)。

 即位した年はウマイヤ朝(661-750)によるコンスタンティノープル(ビザンツ帝国首都。現イスタンブル)への侵略が甚だしかった年である。ウマイヤ朝はコンスタンティノープル包囲を行ったが(717-718)、結局持ちこたえられずレオン3世によって撃退された。その後レオン3世は軍管区制度を改善させて帝国全体の体制を整備していき、ウマイヤ朝が弱体化していくことで帝国領土が守られていった。
 内政面ではかつてビザンツ帝国ユスティニアヌス朝(518-610)のユスティニアヌス1世大帝。位527-565。帝国の全盛期を現出)時代に編纂された『ローマ法大全』を改訂、『ギリシア語法選集(エクロゲー。726/741?)』を編纂した。

 ビザンツ帝国では「皇帝教皇主義(カエサロパピズム)」がとられ、ギリシア正教会(キリスト教で、西方のローマ=カトリック教会に対抗する東方教会)の首長であるコンスタンティノープル総主教(コンスタンティノポリス総主教)の権威よりもビザンツ皇帝のそれが上位にたち、ビザンツ皇帝はコンスタンティノープル総主教の任免権を持つ。西方では皇帝とローマ教皇が並立する政教分離体制だが、東方では政教一致体制だった(近年では「皇帝教皇主義」という呼称は控えられてきている)。 

 コンスタンティノープルを中心とする帝国全土にはキリスト教的美術が繁栄し、特に教会建築と絵画が著しく発達した(黄金時代は6世紀)。前者はビザンツ様式建築といわれ、円屋根(ドーム)を特徴として多くの聖堂を生んだ。ユスティニアヌス帝時代に建築された、帝都にそびえる聖ソフィア大聖堂(セント=ソフィア大聖堂。ハギア=ソフィア大聖堂)はギリシア正教会のシンボルとも言える聖堂である。一方後者の絵画では、初期のビザンツ美術の代名詞とも言える聖堂内壁のモザイク壁画、そしてその内容はキリスト像・聖者像などを中心とする聖像画(イコン)であった。

 元来、"神"という存在の描写はゆるされないものであった(形像拒否)。ユダヤ教の世界ではヤハウェを描画したり、立体的に彫像化することは禁じられ、イスラム教でも同様、アッラーの偶像崇拝は禁じられる。こうした状況の下、キリスト教の世界では、公認された313年以降、聖像が木版・大理石・象牙などに描画・彫造されたり、聖堂の内壁・天井などにモザイク壁画が描かれた。聖像製作は主に修道院が行われていた。

 キリスト教文化が繁栄していく中で、修道院の所領を中心に大土地所有者が続出し、帝国全土を埋め尽くすほどにまで拡大していった。レオン3世は皇帝優位の政教一致の観点からこれを看過できないものとしていた。レオン3世は、コンスタンティノープル包囲をおこなったイスラム勢力が偶像崇拝を否定していることに刺激され、キリスト教信仰の純粋性を維持することを名目に、修道院の大所領化を抑える行動に出、それはイコン製作活動を絶やす形に表れた。
 726年、レオン3世は聖像禁止令(聖像破壊令。聖像崇拝禁止令)を発令して、イエス像やマリア像などすべてのイコン否定の立場を明確化し、崇拝だけでなく聖像製作活動を禁じた。4年後の730年には本格的にイコン破壊に乗りだし、当時のコンスタンティノープル総主教は罷免され、修道院は徹底的な弾圧を受け、そして数多くのイコンが壊されていった(イコン破壊運動。イコノクラスム)。レオン3世没後即位した子のコンスタンティノス5世(位741-775)も破壊運動を父以上に強力に推進、反対派を次々と弾圧・処刑した。また修道院領もことごとく没収され、皇帝領化した(このため、コンスタンティノス5世はイコン支持者から"糞"を意味する"コプロニュモス"と渾名された)。これによって、結果的にはビザンツ皇帝の権威が強化されていった。

 政教一致をとるビザンツ皇帝のこうした行為に対して、帝国内はもちろんのこと、キリスト教世界全体が動揺したのは言うまでもない。特にローマ=カトリック教会は、協力関係にあった西ローマ帝国(395-476)が476年に滅亡して以後も、教会存続のためにゲルマン人への布教手段として聖像を使用していた。ローマ教皇はビザンツ皇帝のイコン破壊運動はキリスト教世界には不適であるとして徹底的に非難し、両者間に論争が展開され(聖像崇拝論争)、787年の公会議(第2次ニケーア公会議)ではイコノクラスム及びその推進者の否定を下した。
 西ローマ帝国が滅亡し、ローマ皇帝の定義がビザンツ帝国、つまり東ローマ皇帝に移っても、"ローマ教皇"と"ローマ皇帝"との関係は形の上では消滅してはいなかったが、崇拝論争によって関係は完全に冷え込み、対立は決定的となった。これによって、かねてから教会の首位を言い争ってきたローマ教会とコンスタンティノープル教会間との対立も公然化した。

 基盤であった西ローマを失って以後も教会活動を続けてきたローマ=カトリック教会であるが、ローマ教皇がローマ帝国の一部であるビザンツ帝国を敵国として大いに明確化したのはカールの戴冠(800)であり、西ローマ帝国を復興させたことであった。これは教会だけでなくキリスト教世界全体が東西に分裂する危機的状況であった。西方が大胆な行動に出た理由は、東方、コンスタンティノス5世没後のビザンツ帝国が不安定な治世を続けていたからであり、子のレオン4世(位775-780)、孫のコンスタンティノス6世(位780-797)と続けて即位するも政治的には無能だったためである。コンスタンティノス6世の実母でありレオン4世の皇后だったイレーネ(エイレーネー。イリニ。752-803。当時は摂政)は、皇帝であるわが子を廃位し、ローマ帝国史上初の女帝として即位した(位797-802)。
 崇拝論争が渦巻く中、西方は西ローマ復興によって安定傾向に向かい、一方で皇帝教皇主義をとる東方は皇帝権力が思いのほか弱体化しており、論争は圧倒的に不利であった。女帝イレーネは古代ギリシア文化の中心だったアテネ出身だったこともあり、レオン3世以来続けてきたイコン破壊運動にはきわめて消極的であった。イコノクラスムを認めると言うことは古代ギリシア文化隆盛期に多くつくられた神像崇拝を否定することになることから、彼女は即位前から祖父レオン3世の遺志に反してイコン崇拝をすすめていき、即位後さらにイコン破壊派への弾圧を強化、同派のテマを解任するなどの行動に出た。

 イレーネによって聖像崇拝復活は果たされたが、カールの戴冠を現出したローマ教皇レオ3世(位795~816)は正統なローマ皇帝を廃位させたイレーネの行為、ならびに女帝イレーネの即位はともに受け入れず、むしろローマ皇帝は空位となったと主張、これを西ローマ復興にむけて、フランク国王カール1世カール大帝。位768-814)を正統なローマ皇帝としたのである。このため、"東方のローマ帝国"としてのビザンツ帝国はかなりの劣勢に立たされてしまった。しかもイレーネはクーデタにより廃位処分となり、イサウリア朝も滅亡した(802)。その後帝国内ではイコノクラスムが再燃したが、9世紀半ばにイコン崇拝が正統であると認められ、教義面においてのローマ=カトリック教会との関係はいちおう修復された。ビザンツ帝国はその後スラヴ民族らに布教先を求め、セルビア人(南スラヴ)やブルガリア人らを東方のギリシア正教に改宗させていく。

 レオン3世が発令した聖像禁止令、ならびにこれがもとで起こった聖像崇拝論争は、のち11世紀に実現的となる東西教会の分裂1054。ローマ教皇・コンスタンティノープル総主教が相互に破門した事件)の遠因にもなった、重要な出来事であった。


 連載151回目の今回はコンスタンティノープル(現イスタンブル)を首都に置いていたビザンツ帝国(東ローマ帝国)がメインです。

 帝政末期のローマで、カトリック教会五本山ローマアレクサンドリアアンティオキアコンスタンティノープルイェルサレム)が台頭していた時代、ローマ教会はローマ帝国を後ろ盾に他の教会に対して首位を主張し、ローマ教皇をたてた。しかしコンスタンティノープル遷都が330年に行われ、476年に西ローマ帝国(395-476)が滅亡すると、コンスタンティノープルの教会、つまりコンスタンティノープル総主教はビザンツ帝国を後ろ盾にローマ教会の首位を否定しました。こうして東西の教会のトップが対立するようになっていきます。この東西教会対立を背景に起こった聖像崇拝論争を今回は紹介しました。今回はビザンツ皇帝とローマ=カトリック教会のトップであるローマ教皇との対立です。 

 イエス=キリストや聖母マリアといった聖人たちを、形のある画像・立体像でこれを崇拝の対象とし、聖人を"形"として身近に表されるのがイコン(聖像画)であります(コンピューターの"アイコン"はイコンから来ている)。このイコンを崇拝するか、あるいはイコンの存在を否定してイコン破壊をおこすかで、ビザンツ皇帝とローマ教皇との間で大きな対立が生まれました。これが聖像崇拝論争です。この論争の勃発の直接の原因が、レオン3世の発した聖像禁止令です。なお、レオン3世がイコン否定をした真の理由には諸説あるそうです。聖像復活後にイコン崇拝禁止者は異端として焚書され、残存しないためだそうです。

 学習ポイントですが、レオン3世、聖像禁止令、発令年の726年(なにムリしてかレオン3世という覚え方があります)は重要ですよ。聖像崇拝論争という語も用語集では5の頻度数ですのでこれも大事ですね。ついでにビザンツ帝国関連もついでに、軍管区制(テマ制)と屯田制はセンター入試では必修です。
 言うまでもなく、今回主役のレオン3世と、本編最後に登場した、カールの戴冠を施した教皇レオ3世とは全く別の人物であることは、受験世界史では当然知っておくべきことでしょう。

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