世界史の目-Vol.152-

ソグディアナの万能学者

 中央アジア西南部にある、アラル海に注ぐ二本の川、アム(アムダリヤ)シル(シルダリヤ)の中間地帯。オアシスの宝庫であり、サマルカンド、ブハラ(現ウズベキスタン共和国のブハラ州の州都)などの大都市を産したこの地域はソグディアナ(ラテン語名"トランスオクシアナ"。中国名"粟特(ぞくとく)")と呼ばれた。もともとソグディアナはシルクロードを使用した東西交易で活躍するインド=ヨーロッパ語族の灌漑農耕民・ソグド人たちによって築かれた地域であるが、このソグド人は、7世紀以降の中央アジア交易で商用言語となるイラン系のソグド語ソグド文字といった独自の言語を用い、宗教ではゾロアスター教マニ教を信仰し、中国の王朝(とう。618-907)では"胡人(こじん)"と呼ばれた。

 一方で、中央アジア、イラン(ペルシア)の北東部にあるホラーサーン地方。8世紀前半はウマイヤ朝(661-750)、その後はアッバース朝(750-1258)に支配されていた。このホラーサーン一帯を含む、アケメネス朝時代(B.C.550-B.C.330)、さらにはササン朝時代(サーサーン朝。226-551)に繁栄したペルシアでは、ゾロアスター教が国教であったが、8世紀前半にサーマーン=フダー(生没年不詳。8世紀前半?)という、後期ササン朝の皇族出身の人物がでてイスラム教に改宗したのがきっかけとなり、ソグド人を中心としてイスラム教徒がソグディアナ一帯に急激に増加、ソグディアナのアラビア語名マー・ワラー・アンナフル("川向こうの地"の意)の呼称も浸透した。

 アッバース朝の全盛期を現出した第5代カリフハールーン=アッラシード(位786-809)の没後は彼の子がカリフを継承していった。そして長子マームーン(786-833)がカリフとして君臨していた時代(位813-833)、ホラーサーン一帯はアッバース朝から自立することになり、ターヒル朝(821-873)が創始された。一方マームーンの下で強力な後援に参与したサーマーン=フダーの子孫からなる一族は、サマルカンドフェルガナ、タシュケント(現ウズベキスタン共和国首都)、ヘラートの支配権を与えられるなど勢力を誇っており、ソグディアナ一帯の管理を任されていたが、ターヒル朝滅亡後はソグディアナ支配を認められた。このときサーマーン=フダーの曾孫ナスル=イブン=アフマド(864/865-892)は、アッバース朝カリフ・ムータミド(位870-892)のとき完全自立(873)、875年、ナスルはナスル1世としてアッバース朝カリフの下での支配者であるアミールを君主号として贈られ(位875-892)、自身の王朝・サーマーン朝(875-999)を創始した。ナスル1世没後は弟のイスマーイール=サーマーニ(?-907)がアミールを継ぐと(位892-907)、ターヒル朝亡き後のホラーサーン地方一帯を侵食していたサッファール朝(867-1003)からその同地方一帯を奪い返し(900)、サーマーン朝は遂にホラーサーンも支配下に入れ、ブハラに首都を置いて全盛期を現出した。イスマーイール=サーマーニー像はタジキスタン共和国首都のドゥシャンベにあり、現在も国父として崇められ、タジキスタン通貨"ソモニ"は"サーマーニー"に由来している。

 ソグディアナ、ホラーサーンという、交易の重要地帯を有したサーマーン朝にとって、経済の繁栄はまったく揺るぎないものとなった。これにより貨幣経済が盛んになり、独自貨幣の鋳造も行われた。またトルコ系遊牧民とジハード(聖戦)を行い、国境ではトルコ人奴隷を市場を通じて大量に購入し、マムルーク(奴隷軍人)として育て、それを西アジア方面へ供給した。これ以降、イスラム世界はこの奴隷軍人マムルークが中心となっていく。

  サーマーン朝はその後、そのトルコ系マムルークを重用したのがたたり、権力を掌握した彼らの抗争によって弱体化していった。なかでも強力なマムルーク、アルプテギン(?-963)の登場は王朝の衰退を一気に促進させた。アルプテギンは自立してアフガニスタン方面にトルコ系のガズナ朝ガズニ朝。962-1186)を興し、サーマーン朝南部方面はガズナ朝の脅威にさらされ、衰運著しくなる。また東方では、トルコ系としてはガズナ朝よりも早くおこり、トルコ系で初めてイスラム集団改宗を行ったとされるカラハン朝840?-1212。中央アジアのトルコ化を促進した王朝で、トルキスタンの言葉を生む。ソグディアナは西トルキスタンの中心となる)が強勢を誇った。結果、サーマーン朝は999年、ジハードを掲げたカラハン朝のソグディアナ侵入、そして首都ブハラの占領によって滅亡し(サーマーン朝滅亡。999)、ブハラやサマルカンドを含むソグディアナはカラハン朝に併合されてトルコ化が促進された。

 マムルーク交易によって経済が潤った首都ブハラは商業都市として栄え、またイラン=イスラム文化の中心となり、2人の偉人が出た。うち1人は、名が"ブハラのムハンマド"から由来しているムハンマド=アル=ブハーリー(810-870)という人物で、預言者ムハンマド(570?-632)の言行(スンナ)に関する伝承(ハディースという)を研究、またコーラン注釈で名高い。ハディース集『真正集』(サヒーフ)は数あるハディースの中でも信頼度が高く、スンナ派教徒からはコーランに次ぐ権威を認めている。

 そしてイラン=イスラム文化におけるもう一人の人物は、イスラム界のみならず、ヨーロッパ世界にも多大な影響を残した万能学者、イブン=シーナー(980-1037)である。
 ペルシアの傑出した知識人であるイブン=シーナーは、ブハラ近郊のアフシャナ出身で、サーマーン朝の政府高官の家に生まれ、ブハラで育った。幼少の頃から諸学問において優れた天分を発揮し、10歳の頃にはコーランを全編暗誦、16歳にイスラム界では外来学問の1つである医学を修了した。17歳の時、サーマーン朝8代目君主ヌーフ2世(位976-997)が重病に倒れたが、これをイブン=シーナーが治癒したことで功績を認められ、王立図書館での学業を許された。こうして、医学者イブン=シーナーとしての活躍が始まった。

 イブン=シーナーは水蒸気蒸留によって抽出される芳香成分、つまり精油の製法を確立させて医療として用いたが、これはその後のアロマテラピーに通じる療法と考えられている。他、偽薬効果の発見や、心理ストレス療法を積極的に研究した。
 またイブン=シーナーは医学のみならず、哲学・神学・数学・法学・文学(詩作)・占星術・錬金術・軍事学といった多方面にわたる分野で活動、その名が知れ渡るようになっていった。その後に執筆される著作物は100種以上にのぼるといわれている。

 サーマーン朝が滅亡した999年、イブン=シーナーは祖国を後にして各地を転々とした。21歳の時には最初の哲学書を著し、1015年にはイラン系十二イマーム派(穏健シーア派)の軍事政権・ブワイフ朝(932-1062)の高官として迎えられ、ハマダーン(現イラン北西)に定住して政務と著作に没頭する日々を送った。
 しかしその後は政争に巻き込まれてハマダーンを去り、1021年にはイスファハンに移住したが、ここでも諸学の研究は怠らなかった。
この頃、彼は医学の体系化を目指して、祖国サーマーン朝滅亡後から執筆を続けてきた代表作『医学典範(カノン)』を完成させた。中世ギリシア・アラビア医学における集大成として、西欧では後にラテン語訳されて、17世紀頃まで大学で医学の基本書として用いられ、インドでは20世紀初頭まで使用された。そして、イスラム地域では現在でも用いられている。イブン=シーナーは、古代ギリシアにおける"医学の父"と称されたヒッポクラテス(B.C.460?-B.C.375?)、また五賢帝時代(96-180)のローマで活躍したペルガモン出身のギリシア人名医ガレノス(129?-199/200)の精神を受け継いだ、中世医学の第一人者であった。彼の名は瞬く間に知れ渡り、ラテン名"アヴィケンナ(アウィケンナ)"として有名になった。

 『医学典範』完成後は哲学全書『治癒の書』の執筆を始めた。ギリシアの哲学者アリストテレス(B.C.384-B.C.322)の著作『形而上学』の思想を基盤として、新プラトン派(3-6C。プラトン哲学を中心に神秘哲学やストア哲学の要素が加わる)の思想やイスラム思想が随所にちりばめられ、哲学の体系化にも輝かしい功績をおさめることになり、その後のイスラム哲学への影響ははかりしれず、また、忘れかけていた古代ギリシア哲学の思想を呼び戻して、中世ヨーロッパのスコラ哲学に与えた影響も大きい。

 ブワイフ朝は支配地別に地方政権がたてられたが、イスファハン政権の君主の庇護の下、イブン=シーナーは14年間、同地イスファハンで過ごした。そして、かつての地ハマダーンへの遠征に際し、君主と同伴、軍医として従軍した。しかしその途上で病に倒れ、自身で自身の体を治療しながらも、1037年、57歳で生涯を終えた(1037。イブン=シーナー死去)。

 イブン=シーナーの功績はペルシア人の誇りとなった。イランの文化遺産に登録されているイブン=シーナー廟はハマダーンに置かれている。また、そのハマダーンでは1973年、フランスのアシストでイブン=シーナー大学が設立され、その後もさまざまな方面でイブン=シーナーの栄誉が称えられている。


 今回は、ヨーロッパで"アヴィケンナ"の名称で知られるイブン=シーナーを、彼の生きた中央アジアの歴史をおりまぜてご紹介しました。受験世界史で学ぶイブン=シーナーはイスラム文化史のほんのワンポイントのみで片付けられることが多いですが、実際は奥の深い偉大な人物なんですね。アロマテラピーの原型をつくった人物であるなんて、私が高校生の時にはまったく思いもしませんでしたが。

 さて、今回の学習ポイントを見て参りましょう。イラン=イスラム王朝の代表格サーマーン朝が今回の舞台です。受験世界史では、君主の名前や国制などはいっさい登場しませんが、首都ブハラを中心に、サマルカンドやメルヴといった商業都市が繁栄したこと、アッバース朝から自立したこと、カラハン朝に滅ぼされたこと、875年建国の999年滅亡は知っておきましょう。875年と言えば、もう1つ重要な事件が思い出されます。そうです、中国の唐王朝末期の農民戦争である黄巣の乱の勃発年と同じ年です。私はこの875年を"やなこった黄巣"という暗記法で覚えてましたが。ちなみにサーマーン朝の滅亡年である999年という年も特徴的ですね。

 さて、中世イスラム文化史において、イスラムの学問の区分けを覚えておきましょう。『コーラン』に基づくアラブ人が学ぶ「固有の学問」は、法学・神学・文法学・書記学・詩学・韻律学・歴史学などがあります。対照的にギリシアやインドなどから導入された学問(「外来の学問」)は、哲学・論理学・地理学・医学・数学・天文暦学・光学・錬金術などがあります(『世界史B用語集』より)。けっこう大事ですので覚えておきましょう。
 今回はイブン=シーナーがメインでしたが、中世イスラム文化史にでてくる偉人たちのなかで、シーナー以外には3人の"イブン"がいます。全員知っておきましょう。それは、『世界史序説』を著した歴史家イブン=ハルドゥーン(1332-1406)、『三大陸周遊記』を著したモロッコ出身の大旅行家イブン=バットゥータ(1304-68/69/77)、そして、イブン=シーナーと合わせてヨーロッパでもラテン名"アヴェロエス"で知られた哲学者で、医学や法学、天文学などにも通じた万能学者イブン=ルシュド(1126-98)の3人です、イブン=シーナーと合わせてこのイブン四人衆は必ず覚えておきましょう。

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