世界史の目-Vol.153-

カンボジアの曙

 チベット高原を源流とし、インドシナ半島へ抜ける国際河川・メコン川。中国・ミャンマーラオス・タイ・ベトナムカンボジアといった東南アジアの諸大国を流れる大河である。
 B.C.1世紀、現カンボジア南部からベトナム南部のメコンデルタ(広義ではベトナム南部の地方名。狭義ではメコン川下流の三角州)にかけて、周辺の港市国家を支配した広大な国家が存在した。これを扶南国(ふなん。1C?-7C)という。建国民族は不明だが、推察される中で有力な民族の1つに、南アジア語系(オーストロアジア語系)のクメール人カンボジア人)がいる。

 扶南国という呼称は、3世紀頃に中国の『後漢書』などに登場し、4世紀頃になると古代インドにおけるグプタ文化の影響を受けたとされている。東西交易の中継国として大いに栄えたが、とりわけ海上ルートでは、2世紀から7世紀の間、メコンデルタの大港市オケオが中継地となり繁栄、その後発掘された港跡からは中国製の鏡、インド製の仏像、ローマ金貨などが出土された(オケオ遺跡。1942発見。1944調査開始)。

 扶南国には周辺の小国家を属国にして権力を掌握していたが、6世紀に変化が訪れた。属国の1つであった、メコン中流域に拠点をかまえるクメール人国家・真臘(しんろう。チェンラ。狭義550?-802?。広義550?-15世紀半)が台頭したのである。中国の歴史書・『隋書』によると、6世紀末の国王ジャヤヴァルマン1世(在位598頃)で強国化、7世紀初めの国王であった質多斯那(チトラセーナ。マヘンドラヴァルマン王)の時、扶南を滅ぼして版図を拡大、次の伊奢名先(質多斯那の子。イーシャナヴァルマン1世。在位7世紀前半?)の時代になると王都・伊奢名城を建設して朝(ずい。581-618)に朝貢した(616)とある。伊奢名城跡は現在、トンレサープ湖北東岸のコンポントム(もと扶南の首都)近郊にあるソムボープレイコック遺跡(サンボール・プレイ・クック遺跡)として残っている。

 バヴァヴァルマン2世(位639?-657?)の子であるジャヤヴァルマン1世(位657-681。前述のそれとは別人)の時にメコンデルタの群雄を完全吸収したことで統一版図は膨張するが、ジャヤヴァルマン1世が没すると空位が続いたとされ、705年、内乱が勃発して真臘という国家は2国に分裂した。中国での呼称は水真臘(すいしんろう)・陸真臘(りくしんろう)であり、水真臘は海側のメコンデルタ一帯、陸真臘は山側のダンレーク山脈北方にあったとされる。分裂後は衰退の途をたどり、南の水真臘はジャワのシャイレーンドラ王朝(8C半-9C前)に一時占領された。

 9世紀に入り、滅亡しかけていた真臘を再興させたのはジャヤヴァルマン2世(位802-9世紀半ば)であった。シャイレーンドラ朝からの独立・再興をめざすジャヤヴァルマン2世は、古代インド王朝におけるダルマ(法。仏法僧の"法"のこと)によって統治する転輪聖王(てんりんじょうおう)を認められ、プノン・クーレン山(コンポントム州の北西に隣接するシェムリアップ州の州都シェムリアップ市北東)の頂上で"水"・"陸"が統一した新しい真臘の樹立、国王登位、そしてシャイレーンドラ朝からの独立を宣言した。新しく統一された真臘国は、ジャヤヴァルマン2世の手で開基されたアンコール朝(802-1431/14322?。クメール朝)として甦った。"アンコール"は都市を意味し、現在においてもプノン・クーレン山とトンレサープ湖北岸に挟まれた地域をアンコール地方と呼ぶ。

 アンコール朝に盛時が訪れたのはスールヤヴァルマン2世(位1113-50/52?)の時で、彼の3代(2代?)後にでたジャヤヴァルマン7世(1181-1218/19/20?)の時代に最盛となった。まずスールヤヴァルマン2世の治世では、版図拡大にむけた積極的な動きがみられ、チャンパー(ベトナム南部にあったインドネシア系チャム人の国。2C-15C)など多くの近隣諸国と戦った。チャンパーはその後のアンコール朝とは宿敵の相手となる。スールヤヴァルマン2世はヴィシュヌ神を信仰するヒンドゥー教信者で、のちにクメール美術と呼ばれる様式を作り出し、多くのヒンドゥー寺院の建築を行った。

 その代表が30年余かけて築き上げたと言われている、現アンコール遺跡を代表する寺院建築・アンコール=ワットである("ワット"は"寺院"の意味)。環濠を貫く石橋を渡ると3層の石造建築の入口である西塔門に至る。参道を通過すると第一回廊に到達、回廊の壁面にはインドの叙事詩「マハーバーラタ」「ラーマーヤナ」の場面や、スールヤヴァルマン2世の勇姿などを表した壁画彫刻が全面にわたって細部に刻み込まれている。

 スールヤヴァルマン2世が没すると王朝は大いに乱れ、その後即位した王も混乱を制することができず、支配したチャンパーに首都を奪われるなど王朝存亡の危機に瀕した。しかし巧みな戦術でチャンパー軍を撃退した次のジャヤヴァルマン7世が、その功を認められて支持を集め、首都を奪い返した後に国王として即位した(1181)。1190年、ジャヤヴァルマン7世は逆にチャンパーを制圧、支配下に入れた。

 ジャヤヴァルマン7世は外政だけでなく交通網の整備や病院の設営など内政にも尽力、国民から多大な支持を得た。ジャヤヴァルマン7世はヒンドゥー教の信仰者だったが、次第に大乗仏教への関心がおこり、即位後これに改宗、以後の治世は仏教的要素が濃くみられ、王国内には仏教寺院の建築が促進された。彼の治世により完成されたと言われる大都城計画もその影響がみられる。
 彼の時代に作られたその大都城はアンコール=トムと呼ばれる("トム"は"大きい"の意味)。アンコール=ワットから見て北に位置し、南大門をくぐりアンコール=トム内部にはいると、中央にはチャンパー制圧を祝い建築されたと言われるバイヨン寺院がある。大きな人面菩薩像(塔に掘られた四面像。"微笑"が特徴)で有名なこの寺院を筆頭に、象のテラス、ライ王のテラスなどの遺跡が残っているアンコール=トムは、3km四辺を城壁で囲んだ堅固な城塞都市だったことから、ジャヤヴァルマン7世はアンコール朝の最盛時を現出したと言えよう。

 ジャヤヴァルマン7世の仏教政策はアンコール=トムだけにとどまらず、アンコール=トムの東方にあるタ=プローム僧院(ジャヤヴァルマン7世が母のために建立したと言われる。遺跡に絡みつくガジュマルで有名)やプリア=カン僧院、ニアック=ポアン沐浴場などを完成させていった。しかしヒンドゥー教国家の大乗仏教改宗による国民の混乱も避けられず、さらには仏教盲信による寺院増築によって財政破綻の危機も招いたため、国民は重税を余儀なくされた。また、チャンパーを形成するチャム人のみならず、同じくアンコール朝の支配下だったタイ人も抵抗が勢いづき、遠征費も増加した。

 ジャヤヴァルマン7世は13世紀初めに没した。次々代の君主ジャヤヴァルマン8世(位1243-1295)の時、以前から配下のタイ人が国家・スコータイ朝(1238?/57?-1438。タイ北部)を創始、強大化してアンコール朝に反抗するようになり、幾度と侵攻するようになった。また中国の朝(げん。1271-1368)の世祖フビライ=ハン(中国皇帝位1271-94。モンゴル皇帝位1260-94)の圧力を受け、朝貢を余儀なくされた(1285,1292)。
 ジャヤヴァルマン8世はヒンドゥー教信徒のため、先々代の王ジャヤヴァルマン7世時代に積み上げた仏教政策の全廃をはかり、大規模な廃仏を断行した。バイヨンなど、アンコール=ワットに残るほとんどの寺院はヒンドゥー教寺院に改められ、大量の仏像が破壊された。ジャヤヴァルマン8世の在位52年間はアンコール朝君主のなかで最長で、前述の朝貢や他国侵攻など最盛時ではなかったものの、比較的安定した治世であったと見られている。また、ジャヤヴァルマン8世没後即位したインドラヴァルマン3世(シュウリンドラヴァルマン王。位1295-1308)の時、元朝からの派遣使節団の1人であった周達観(しゅうたつかん。1266?-1340。浙江省温州)が、当時のアンコール朝の政治、社会、経済、文化を見聞録にまとめ、帰国後の1297年に、『真臘風土記』として著した。

 インドラヴァルマン3世の時代から、アンコール朝は徐々に弱体を見せ始めた。次のインドラジャヤーヴァルマン(位1308?-1327)の時代になると、宗教は王即位前から伝播され、王も信奉していた上座部仏教(小乗仏教のこと)が浸透、現在のカンボジアでは国民の9割以上が上座部仏教信者で占められている。

 14世紀半ば以降におけるアンコール朝の国力低下は、タイ軍の侵攻とともに一段と加速した。特にできて間もないアユタヤ朝(1351-1767。タイ中部)はスコータイ朝以上に強力であり(1438年スコータイ朝を吸収)、アンコール侵攻は止むことなく続けられた。そして1432年(1431?)、ポニャー=ヤット国王(位1432-62)は遂にアンコールを放棄、アンコール=トムはタイ人により占領され、アンコール朝は滅亡した(1431/32?。アンコール朝滅亡)。アンコールを失った王とクメール国民は、国家を守るため南部に落ち延び、その後タイとベトナムに挟撃されながらも生きながらえ、遷都を繰り返し、現在のカンボジア首都であるプノンペンにも遷った。クメール人の国・真臘の呼称はこれ以後使われなくなり、カンボジアの呼称がのちに使用されるようになった。

 アンコール朝滅亡後のアンコール=ワットは、16世紀になって改修が進み、他国から多く参拝者が訪れ、また仏領インドシナ1863年保護国化。1887年に仏領インドシナ連邦の1つとして形成)になってからは、ヨーロッパを中心に全世界にその名が知られるようになった。
 1992年、アンコール=ワット、アンコール=トムを含むアンコール地方の遺跡群(アンコール遺跡)は世界遺産に登録され、翌1993年、カンボジア国旗のデザインとして、アンコール=ワットが起用され、カンボジア国民の誇る国家的シンボルとなっている。


 今回の舞台はカンボジアです。カンボジアの祖先となる真臘王国を中心に、それ以前にあった扶南国からの時代も合わせて取り上げました。
 真臘には1つの伝説があり、インドのシヴァ神によって、インドのバラモン僧カンプー(その子孫を意味する"チャ"を合わせ、"カンボジア"の語源となる)と仙女メラー("クメール"の語源)によって王統が形成されたといわれています。真臘という名は中国名ですが、何画あるかわからないようなヘンテコな漢字を使う国として、受験生だった頃も気になっていました。しかし、現在においても真臘という名の由来はわからないそうです。

 さて、本日の受験世界史における学習ポイントを見て参りましょう。東南アジア史は、大学入試にはなくてはならない単元です。国家が複雑に絡み合うので、受験生にとっては少々とっつきにくいかもしれませんね。カンボジアも例外ではありません。19世紀にはフランスが進出し、20世紀は内戦もあって覚えるところ満載です(近現代の単元は「Vol.34インドシナ~20世紀の戦乱~」でもご参照下さい)。カンボジアの主要民族であるクメール人(南アジア語系)の名は必修です。

 ではまず扶南編。扶南を形成した民族ははっきりしておらず、クメール人ではなくマレー人という説もあります。扶南はだいたい1世紀から7世紀の国家であること、港市国家だけにメコン下流、つまり海沿いの国であったこと、港市国家の1つで、扶南の遺跡がオケオにあることが大事です。
 つづいて真臘編。本編ではヒンドゥー教、大乗仏教、上座部仏教(小乗仏教)の入り乱れた感じになりましたが、最初はヒンドゥー教、のち仏教とおぼえ、それも小乗仏教の方を覚えておいた方が無難です。大乗仏教は忘れて下さい。水陸分裂期は、以前は重要ではありませんでしたが、現在の受験用の用語集では水真臘・陸真臘も登場しています。山手が陸真臘、浜手が水真臘ですが、なんとなく地名で分かると思います。
 真臘再統一後のアンコール朝からは、やはりアンコール=ワットとアンコール=トムが必修でしょう。ワットを完成させたスールヤヴァルマン2世、トムを完成させたジャヤヴァルマン7世ともに用語集に載っています。これまで真臘関連はスールヤヴァルマン2世だけ覚えたら良かったのですが、最近はジャヤヴァルマン7世も知られるようになってきていますね。でも書かせるようなことはないと思います。

 アンコール朝が滅ぶ原因となったのはタイの進出ですが、そのタイ関連としてスコータイ朝とアユタヤ朝が出てきました。タイの王朝はその後に出て現在も続いているラタナコーシン朝(バンコク朝、チャクリ朝とも)とあわせて覚えておきましょう。私が受験生だった頃はスコータイ朝がスコタイ朝、ラタナコーシン朝がバンコク朝という呼称が使われていたため、"スコタイアユタヤバンコク~♪"と呪文のように声を発して覚えていました。ミャンマーの"パガントゥングーアラウンパヤー"と同じ覚え方です。

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