世界史の目-Vol.154-

海東の盛国

 中国東北地方(満州地方)は現在、東北三省、つまり黒竜江省(こくりゅうこう)、吉林省(きつりん)、遼寧省(りょうねい)が位置する地方である。5世紀後半から6世紀にかけて、その東北地方の松花江(しょうかこう。スンガリ川。黒竜江(アムール川)最大の支流)流域を居住していた勿吉部(もつきつぶ)といわれるツングース系(?)の部族がいた。勿吉は中国の南北朝時代(439-589)の北朝側である北魏(ほくぎ。386-534)、また北魏分裂後の東魏(とうぎ。534-550)に朝貢していた部族で、非常に勇猛だったと伝えられ、近隣国からは怖れられていた。5世紀末には扶余(夫余。ふよ。ツングース系(?)の貊族(ばくぞく)の建国。B.C.238-A.D.494)を倒すなど強い勢力を誇っていた。

 この勿吉は、(ずい。581-618)の時代になるとその名が消え(扶余系からでた高句麗(こうくり。コグリョ。B.C.37?-A.D.668)に滅ぼされたとも言われる)、これに代わって、満州地方で勿吉の支配下にあった多くのツングース系諸部族が自立したが、これらの連合体を靺鞨(まっかつ)という(中国では、勿吉と区別するために隋朝以降に満州方面に出たツングース系諸部族の総称を、同音異字の「靺鞨」と表記した)。

 靺鞨は多くの部族に分かれていたが、中心は7つの部族で、その中でも現在の吉林省方面にいたとされ、高句麗に服属した南の粟末部(ぞくまつぶ)や、黒竜江省方面にいたとされ、のち世に出る女真族(じょしん。女直。じょちょく)を生むことになる北の黒水部(こくすいぶ)の二大勢力が中心であった。7部族の他は粟末部から東南にいた白山部(はくさんぶ)、北部にいた伯咄部(はくとつぶ)などであった。

 靺鞨二大勢力の1つであり、高句麗に付いていた粟末部は、さらに内部で幾つかの部族に分かれていた。隋の煬帝(ようだい。位604-618)は3度にわたる高句麗遠征(611,612,614)の際、粟末部内の幾部かを隋に投降させ、さらに彼らを営州(遼寧省・朝陽市方面。ちょうよう。同省西北部)へ移住させた。まもなく隋は滅び、(とう。618-907)がおこると、668年唐は高句麗を滅ぼして、最後まで高句麗に依存していた粟末の残りの部族も高句麗の遺民ごと投降させ、同じく営州へ移住させた。

 営州ではのちに台頭するモンゴル系契丹(きったん。キタイ)も移住させられていた。契丹族も同様で高句麗に服属していたが、その後は唐による服属の身となっていた。690年、唐王朝でクーデタがおこり、大混乱の中で女帝則天武后(そくてんぶこう。武則天。ぶそくてん。位690-705)が即位したことに乗じ、営州の支配下民族は徐々に強制移住への不満と民族自決を叫ぶようになり、混乱と化した。そして696年、契丹の首領・李尽忠(りじんちゅう。?-696)が、営州で反乱を起こした(李尽忠の乱)。

 靺鞨・粟末部の中でも、契丹族の反乱に呼応して高句麗の遺民とともに唐から離反しようと考え、さらに高句麗に続く新しい王国を築こうと計画している人物がいた。粟末部の首領・乞乞仲象(こつこつちゅうしょう。乞乞は"きつきつ"とも。?-699)という人物である。粟末の乞乞仲象は、子の大祚栄(だいそえい。テジョヨン。?-719)、そして同じ靺鞨の白山部首領・乞四比羽(こつしひう。コルサビウ。?-698)らとともに、靺鞨と高句麗遺民を引き連れて営州脱出を強行した。則天武后は乞乞仲象に"震国公(しん)"、乞四比羽に"許国公(きょ)"の称号を与えて事態を収拾させようとしたがかなわなかった。その後乞乞仲象と乞四比羽は絶命したが(仲象は病死説あり)、残った大祚栄は屈せず果敢に攻め、697年には安東都護府(あんとうとごふ。都護府とは辺境担当の軍事機関)を攻め落とし、安東都護府は廃止される事態に陥った。

 大祚栄軍の徹底抗戦によって、698年、ついに唐軍は撤退し、牡丹江(ぼたんこう。ムータンチャン。松花江最大の支流)上流へと向かい、現在の吉林省の延辺(えんぺん)朝鮮族自治州にある敦化市(とんか)に拠点を築いた。同市の東牟山(トンモサン)に都城を置いた大祚栄は、父乞乞仲象が則天武后から与えられた"震国公"の称号を自ら昇格させ、"震国王"として国家君主の座に出たのである(震王位698-713)。この国を"(しん。"振"とも)"という。靺鞨・粟末部と高句麗の遺民で創り上げたこの国は、大祚栄を中心に唐や倭国(わ。日本)とならぶ強力な国家を建設することを理想に掲げていった。

 則天武后はただちに震国に対して軍事圧迫を続けた。705年に則天武后が没し、その後中宗(ちゅうそう。位683-684)、さらに睿宗(えいそう。位684-690)の復位(中宗復位705-710・睿宗復位710-712)などを経て、712年に玄宗(げんそう。李隆基。りりゅうき。685-762)が即位すると(位712-756)、唐と震国間の緊張も緩和され始めた(705年には安東都護府も復活した)。713年、大祚栄は玄宗より「渤海郡王(ぼっかいぐんおう)」の称号を受け(渤海郡王位713-719。高王。こうおう)、唐の冊封(さくほう)に組み込まれたのである。つまり、大祚栄は、"郡"ではあったが、一国の統治者として唐朝に認められ、渤海郡と唐の関係は完全に修復したのである。しかしこれを境にこれまで安定した関係を保っていた契丹にとっては、同じ反唐精神を維持してきた盟友だけに、衝撃も大きかった。また唐の縁もあって朝鮮半島統一(676)に成功した新羅(しらぎ。シルラ。356?-935)も、統一後は唐との折り合いが悪かった。しかし唐と新羅の国境間に渤海が登場したことで国境がなくなった。このため渤海と新羅との関係は安定していたが、渤海が唐と和解したと同時に緊張が生じたとされている。

 初代王の大祚栄は、719年に没し、その王位は子・大武芸(だいぶげい。?-737)に受け継がれた(武王。ぶおう。位719-737)。大武芸は父・大祚栄の堅実さとは対照的であり、勇猛で好戦的であった。このため、渤海を唐の冊封に組み込まれた"郡"ではなく、1つの独立国として独自の道を歩み、周辺地域・民族を併呑して自国の版図を拡大させる野心があった。大武芸の改革の第一歩として、まず年号を仁安に定め(仁安建元)、唐からの独立姿勢を見せた。このため唐との関係悪化が再燃することになる。721年には渤海の反唐姿勢に脅威した新羅が、北方の辺境に長城を建築した。

 また渤海より北に拠点をかまえる靺鞨人の黒水部が唐と国交を結んだことで(722)、唐と黒水部による渤海挟撃を推察した大武芸は黒水部への侵攻を試みている。これにより、同系民族間での対立も発した。これにより、渤海は国境に隣接するすべての諸国家・諸民族との緊張状態が続き孤立したため、新たな友好関係を求めて、大陸を渡る決意をした。その矛先は、聖武天皇(しょうむ。在位724-749)が君臨する奈良時代(710-794)の日本であった。

 白村江の戦い(663)以来、日本は新羅と対立していた。そこで渤海の大武芸は、新羅など対立する隣接諸国を牽制するために、日本へ24名の渤海使(遣日本使)を遣使し関係を結ぶことになった(727)。日本も翌728年から送渤海客使(次から遣渤海使と呼ばれる)として渤海へ遣使した。日本と軍事的友好関係を結んだことで、その後渤海は、唐の領する山東地方へ出兵を強硬している(732)。

 大武芸没後、子の大欽茂(だいきんも。?-793)が文王として即位した(ぶんおう。位737-793)。大欽茂は父の行き過ぎた対外政策を省みて、唐の冊封を受けて文治的な政策を施すことに尽力した。
 大欽茂は唐の制度に倣い、三省六部の統治体制、府州制の設置といった中央集権制度を発展させた。755年には唐の首都長安(ちょうあん。現・西安)を模倣して建設された上京竜泉府(じょうけいりゅうせんふ。現・黒竜江省の東京城。とうけいじょう)に遷都、渤海の中心都市として確立した(一時的に南東方の東京竜原府にも遷都)。
 大欽茂はその後も唐へ積極的に遣使して唐との関係修復に努めた。結果、大欽茂は唐より"渤海郡王"から"渤海国王"の称号を受け、文字通り渤海という国号が中国に承認されたのであった。このため、国際関係は安定し、特に日本との軍事的同盟も緩和されて、文化交流を中心とした関係に落ち着くようになっていった。

 渤海国として発展させた大欽茂の功績は大きかったが、大欽茂が793年に没すると、以後即位した国王は長期政権を持ちこたえることができず、第4代国王である大元義(だいげんぎ。位793-794)から第9代国王大明忠(だいめいちゅう。位817-818)までの6人の国王でわずか25年という短命政権に終わった(一時"郡王"に降格した時代もあった)。国家情勢は比較的安定していたが、朝廷内では、大祚栄の直系は大明忠で断絶し、国家存亡の危機が訪れた。しかし結果的には大祚栄の弟・大野勃(だいやぼつ。生没年不詳。古代朝鮮史『檀奇古史』著者)の4世子孫となる大仁秀(だいじんしゅう。?-830)が即位する形となり(宣王。せんおう。位818-830)、傍系から王位を継ぐことで落ち着いた。

 即位した大仁秀はまず新羅にむけて出兵した。9世紀前半の新羅は、内紛と飢饉で混乱状態であり、好機と判断しての出兵であった。結果826年、新羅は渤海との国境部にさらなる長城を築くことになる。その後大仁秀は周辺に点在する靺鞨系部族を配下におさめ、版図拡大に集中した。また同族系にもかかわらず敵である黒水部をも攻略し、黒水部は管理下に置かれることになった。その後も旧領回復をはかった大仁秀は、結果、遼東半島を除くかつての高句麗にほぼ近い形で版図を拡大することができたのである。
 大仁秀の治世では唐・日本との友好関係が平和に保たれ、自国と両国間に使節、留学生、貿易商人らが行き交った(ただし日本では、淳和天皇(じゅんなてんのう。位823-833)の時代、渤海からの遣使の行き過ぎで一時的に冷遇されたこともあった)。
 このように興隆期が大仁秀の治世で再び訪れ、朝廷内も安定したことで渤海は息を吹き返した。渤海の異称である"海東の盛国"はこの時期から言われたものだとされている。

 興隆は大仁秀没後も継続していたが、10世紀に入り、状況が一変した。907年、唐が滅亡したのである。唐の冊封体制が弱まると、唐の周辺諸国に対する支配力も減退、当然渤海の朝廷内部による権力闘争も激化していく。日本は唐に対して遣唐使を廃止に踏み切り(894)、大陸との交流を抑えた。新羅も内部分裂をおこし(後三国時代)、死に体と化していた。さらに黒水部も渤海からの支配体制弱体化により自立をはかるなど(その後女真族と呼ばれるようになる)、唐の滅亡により周辺は混乱状態となった。こうした中、唐の服属を受けていた契丹族が唐の滅亡後に強勢化し、なかでも耶律一族の迭刺部(てつら)は強力となった。ここから出た阿保機(耶律阿保機。やりつあぼき。872-926。のちに強大化する契丹国・(りょう。916-1125)を建国。太祖。遼王位907-926)は、国家拡大のため、これまで安定していた渤海との良好関係を放棄し、渤海征討に集中していく。

 時の渤海の国王は第15代王大諲譔(だいいんせん。定王。位907-926)だった。国内では権力闘争が激化して朝廷は弱体化・不安定化が進行した。契丹が勢力を上げ、今にも領内侵攻の脅威にさらされる中、大諲譔は中国に援助を求めるが、当の中国は五代十国時代(907-979)に突入しており、建国直後で自国の武断政治に必死であり、周辺諸国にかまう余裕がなかった。また新羅も後に出た高麗(こうらい。918-1392)の勢力に圧されて、契丹に接近する動きを見せ、渤海はますます孤立した。

 中国と朝鮮が分裂状態の中、渤海征討に生涯を捧げた耶律阿保機率いる契丹東征軍がついに渤海領内に侵攻(925)、翌926年、耶律阿保機は渤海の都・上京竜泉府を陥落させ、大諲譔を投降、廃位させた。民の多くは国外へ逃げ出し、高麗などへ落ち延びた。こうして、"海東の盛国"と呼ばれた靺鞨・粟末部の国家は、約220年余で消滅した(渤海滅亡926)。
 渤海征討に余力を捧げて、ついに上京竜泉府を陥れ、目標を達成した耶律阿保機は、滅亡した渤海の故地において、長子・耶律突欲(やりつとつよく。中国名は耶律倍。899-936)に王国・東丹(とうたん。"契丹国から東方へ建国"の意。926-936?/952?)を残し与えて、同年、契丹国の帰路において病没した。これにより契丹国はモンゴル高原東部から満州地方までに版図が拡大、2代目君主耶律堯骨(やりつぎょうこつ。太宗。位927-947)において、中国の燕雲十六州(えんうん)を獲得することに成功(936)、征服王朝の名を恣にした。

 最後の渤海王であった大諲譔には後継者・大光顕(だいこうけん。生没年不詳)と名乗る人物がいたが、彼を含む渤海の遺民たちはその後も復興・再興を試みている。その大光顕の勢力があった"後渤海(928-934?)"をはじめとして、他にも定安(ていあん。938-1003)、兀惹(こつじゃく。10世紀後半頃)、興遼(こうりょう。1029-30)、大渤海(1116)"といった国家がおこったが、これらはみな渤海の遺民が建国したものであった。しかしどの国家も短命に終わり、契丹族と、これを滅ぼす女真族の勢力に取って代わっていくのであった。 


 今回が初メインとなる渤海国の登場です。日本史でも世界史でも登場します。菅原道真(すがわらのみちざね。845-903)が渤海使と漢詩のやりとりをしたことがあるそうで(著書『菅家文草』より)、日本においても縁の深い国です。しかし中国や朝鮮のメジャーな王朝に挟まれて、地道に生きながらえながらも、独自の路線で国政を貫いた渤海ですが、受験世界史や受験日本史では、唐、高句麗、新羅、遼らと比べても少々地味にうつる存在です。しかし受験項目においては必修で、頻出用語です。また歴史学の目から見た場合も、渤海の存在は非常に重要な評価があり、現在においても、朝鮮王朝の1つとしてとらえるか、中国の冊封を受けた地方政権かで、論争もあるほどです。

 さて学習ポイントですが、受験世界史において覚えることは、まずメジャー級では、渤海は靺鞨人であること(粟末部は覚える必要なし。靺鞨人と答える)、建国者が大祚栄であること(韓国では大河ドラマの主人公になるぐらい有名。また韓国の駆逐艦の名前にも使われている)、遼の耶律阿保機に滅ぼされること、これぐらい覚えておけば大丈夫でしょう。ミドル級では首都が上京竜泉府であること、靺鞨人と高句麗の遺民によって建国されたこと、異称に海東の盛国"があること、滅亡年が926年であることぐらいでしょうか。マイナー級では、世界史では建国時の名前が"震"であること。日本史では、日本との間に渤海使・遣渤海使の通交があったこと(用語集にも掲載)などですが、難関私大や、難しいアジア史を出す大学には要注意かもしれません。

 また余談ですが、大祚栄が攻め落とした安東都護府も知っておきましょう。周辺異民族を取り締まる六都護府の1つで、長官を都護と呼びます。設立当初は平壌に置かれました。大祚栄の攻撃により廃止されますが、705年、大祚栄との和解により再び設置されました。ちなみに六都護府とは安東(平壌方面)・安南(あんなん。ハノイ方面)・安北(あんほく。外モンゴル方面)・単于(ぜんう。内モンゴル方面)・安西(あんぜい。西域一帯)・北庭(ほくてい。新疆ウイグル自治区方面)です。唐王朝では、中央から監督者である都護を派遣して、都護の管理のもと、在地の族長に自治を許可して、間接統治者として任命させる政策を行っています。これを羈縻政策(きび)といいます。世界史用語では重要ですので知っておいて下さい。

 ちなみに、渤海という国名は当然のことながら残っていませんが、地理名称は、現在では遼東半島と山東半島との間にある海域「渤海」の名として残っています。ただし、当時の渤海国の領域ではないところにこの名が付けられているのがなんとも不思議ですが。余裕があったらまた調べておきます。

(注)UNICODEを対応していないブラウザでは、漢字によっては"?"の表示がされます。大諲譔→インはごんべんに"煙"のつくりの部分、センはごんべんに"巽"。

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