世界史の目-Vol.156-

リフォーム・アクト 1832

~自由主義改革への挑戦~

 19世紀初頭のイギリス。同国議会では1800年、カトリック(旧教)の隣国・アイルランドを強制的に併合することを可決した。そして翌1801年グレート・ブリテンおよびアイルランド連合王国が誕生した(1922年にアイルランド自由国(1937年よりエール、1949年よりアイルランド共和国と改称)が分離してグレート・ブリテンおよび北アイルランド連合王国となり、現在に至る)。当時の西欧はナポレオン時代(1799-1815)であり、フランスへの牽制を行いながら全欧の秩序安定と回復を図り、その後のウィーン議定書(1815)によってオーストリアらとヨーロッパ諸国の勢力均衡を指導、乗じてオランダから蘭領セイロン(スリランカ)・蘭領ケープ植民地・蘭領マルタ島を得て領土を拡大していった。

 しかしこれは一種の保守反動政策であったため、その反動から、のち自由主義(リベラリズム)・国民主義(ナショナリズム)の風潮が起こり、なかでも自由主義運動においては、18世紀半ばから始まったイギリス産業革命で台頭した産業資本家を中心に、経済活動の自由、参政権の獲得、私有財産の確立などの実現を求める運動が起こった。同じく産業革命によって産み出された労働者階級に対しては団結禁止法(1799制定)が廃止され(1824)、これにより労働組合の結成が認められた。またマンチェスターリヴァプールバーミンガム、グラスゴーといった新興都市の発展に伴い、各都市への移住や労働進出といった流入が急速に高まった。さらには新たな労働を求めたアイルランド人の流入も急増した。こうして、国内における人口移動や人口の都市集中が顕在化した。

 しかし、新興都市への人口移動・人口集中によって少人数化・空洞化した農村や古参都市などは依然としてジェントリ階級(郷紳。きょうしん。下級地主階級)や爵位貴族階級の勢力が残り、保守反動的支配が続いていた。1815年に制定された穀物法(Corn Law)という法律は、貿易の管理統制を定めた航海法(1651制定。ナヴィゲーション・アクト。その後数回制定)の下で、国産穀物価格を高く維持させ、外国産穀物に高関税を課して輸入を制限した、地主保護対策であった。完全な保護貿易体制時代の中で作り出された法律である。またナポレオン時代においては大陸封鎖令(ベルリン勅令。1806.11)がしかれており、海外から安価な穀物が入ることがなかったため、国内の穀物は高値で売られていたという背景があり、ナポレオン戦争が終結して封鎖が解除された後も、穀物法によって国産穀物価格の低落を防ぐことに努めたわけである。すべては、地主階級を保護する目的であった。

 こうして、地主勢力の強かったイギリスでは、その影響が政局でも色濃く出ていた。イギリス下院庶民院。House of Commons)の議員の選出する各選挙区では、これまで、同区の有力者のもとで選挙結果が決定してしまうような有様であった。有権者は、年間40ポンド以上の有産者とされていたため有力な地主階級が大半を占めており、投票は無記名ではなかった。こうした状態であるが故に買収が公然と成立し、毎回の選挙では民意に反して必ず同区の有力者が当選するという、不公平な選挙であった。地主有利の穀物法制定も、議会構成がこうした地主出身の議員が多かった状況下にあったためである。このような状況が長く続き、また産業革命において大規模な人口移動が起こっても各選挙区の定数は変わらぬままであった。つまり、人口移動で発展したマンチェスターやバーミンガムといった新興都市には10万単位という人口過密状態でありながら議員定数はゼロで議員が選出されない一方で、急激に人口が減って過疎化した農村の選挙区などは、依然としてジェントリ層の権力が強く残り、有権者が数十名でありながら定数を2人も出す状態であった。このような選挙区は腐敗選挙区(rotten borough)と呼ばれた。

 腐敗選挙区問題が徐々に明るみに出ると、参政権を持たない新興都市に群がった産業資本家階級、さらには労働者階級の不満は次第に高まっていった。新興工業都市マンチェスターでは、自由主義運動が活発化しており、保守反動的な議会への不満と改革の要求、腐敗選挙区の改善と選挙法の改正、そして穀物法の撤廃と自由貿易体制への転換を強く望み、1819年8月、産業資本家、労働者ら約6万人が、マンチェスター郊外にある聖ピーター教会前広場において決起大集会を開いた。このとき、地方当局の要請を受けた警官隊が出動、集会に乱入して弾圧に取りかかった。この結果、死者11人、負傷者600人以上を出す大惨事となった。聖ピーター教会前広場でおこったこの事件は、事件発生の場所をイギリス軍がフランス軍に勝利したワーテルローの戦い(ウォータールーの戦い。1815.6)にひっかけ、"ピータールー事件(ピータールーの虐殺)"と呼ばれた。

 イギリス議会においても自由主義の波は押し寄せ、下院では進歩的・自由主義的であるホイッグ党員(イギリス自由党の前身)が徐々に増え始めてきた。さらにその党内には非国教徒も徐々に増加傾向にあった。
 この時代のイギリスはまだ審査法(テスト・アクト)がしかれていた時代である。審査法とは1773年に制定された法律で、公職任務を国教徒に限定させるため、イングランド国教会の聖餐を受ける審査を義務づけられた。非国教国である旧教国アイルランドが、審査法の下に置かれたグレート=ブリテンに併合されたことで、公職に就けないアイルランド人の差別を生むことになったのである。1828年に下院議員に当選したアイルランド人旧教徒のダニエル=オコンネル(1775-1847)は審査法に触れ当選を認められず、旧教徒解放にむけた合法的解決を目指した(一方で急進勢力ウィリアム=スミス=オブライエン(1803-64)は後に青年アイルランド党を結成して反発した。1842)。
 このオコンネル事件によりアイルランド人の反発が予想されたため政府は宥和策をとり、結果、1828年に審査法を廃止し、1829年にカトリック教徒解放法を制定してアイルランド人への民族差別、さらにはカトリック教徒への宗教差別を緩和させた。当時は保守政党であるトーリ党内閣(ウェリントン首相。任1828-30)であり、非国教徒開放は渋っていたが、自由主義運動の波に呑まれた形となった。

 新たな階級(産業資本家・労働者)、新たな民族(アイルランド人)、そして非国教信者たちの加入によってイギリス社会は自由主義精神が休まることなく注入され、さらにフランス七月革命(1830)による市民の政治参加実現に乗じてイギリス自由主義運動は一気に加速した。そして同1830年、当時の経済不況を打破できなかったトーリ党のウェリントン内閣が倒れ、商工業に携わる産業資本家らの支持を得た、ホイッグ党のチャールズ=グレー伯爵(グレイ。1764-1845)が首相に就任した(任1830-34。グレー内閣。グレイ内閣)。議会改革に取り組むグレー首相は翌1831年選挙法の改正法案を提出し、議会に通した。結果、下院で1票差による可決となった。根強く残る地主層の必死の反対があっての結果であり、下院の基盤を強化するため、またイギリス上院貴族院。House of Lords)も否決は必至とみて、グレーは同年議会を解散した。
 この動きは選挙法改正運動に拍車をかけ、同1831年、労働者階級全国同盟(NUWC)や全国政治同盟(NPU)といった急進的行動も目立つようになり、グレー内閣は、再度選挙法改正法案を下院に提出、結果111票差という大差で可決され、次に上院に提出した。しかし結果は41票差で否決であった。上院の否決で、新興都市では暴動が起こるなど一時混乱状態となり、グレー内閣は総辞職することとなった。その後、トーリ党ウェリントンによる組閣が計画されたが、これは急進結社運動にもまれて挫折、結果、再度グレーが組閣した。

 1831年末、グレー内閣は三度目の正直で改正法案を下院に提出、反対者数の倍票を獲得して可決し、翌年6月、上院でも僅差ながら可決された(1832)。これには、グレーが、トーリ派寄りの国王ウィリアム4世(位1830-37)に対し、法案可決に必要な上院貴族を人数分叙任する大権を発動させたことが大きく(1831年の総辞職の原因はこれを拒否されたため)、さらに反対派が議会を退席したことで、イギリスにおける最初の選挙法改正が達成されたのである(第1次選挙法改正1832.6。Reform Act。リフォーム・アクト1832)。

 1832年のリフォーム・アクトにより、産業資本家を中心とする中産階級は参政権を獲得し、腐敗選挙区は撤廃されて新興都市には議席が割り当てられることになった。この結果30万人以上の有権者が加わることとなった(総計81万人)。グレーは議会制民主主義へ一歩前進した、歴史的な選挙法改正を達成したのであった。

 そのグレーは翌1833年に工場法成立(1833工場法。Factory Act 1833)、同年奴隷解放法成立(1807年の奴隷貿易廃止法が発端。政治家ウィリアム=ウィルバーフォース(1759-1833)の尽力)、また東インド会社の全商業活動停止の決定を下すなど(翌1834年には中国貿易・茶貿易の独占が廃止される)、1834年7月に退陣するまでさまざまな改革を行った。

 1832年のリフォーム・アクトで、改革は実現されたが、当時は納税する制限選挙であったため、地主議員は根強く残った。また、労働者階級にはまだ選挙権が与えられなかったことで、前述の労働者階級全国同盟(NUWC)などが運動を起こし、ウィリアム=ラヴェット(1800-77)やアイルランド人運動家ファーガス=オコンナー(オコナー。1794-1855)らによる改革運動が盛んになった。これらはチャーティズムと呼ばれ、社会改革・政治改革を要求する労働者階級の運動を指し、行動者をチャーティストと呼ぶ。内容はオコンナーの暴動・実力派、ラヴェットの穏健・道徳派など幾多に分かれたが、30年代後半はこのチャーティスト運動が時代の中軸となった。1836年には労働者の決起集会が開かれ、ラヴェットはロンドン労働者協会を創設して有権者の全人口比が4.5%にすぎない現状をうったえた。普通選挙制度の導入と小市民・都市労働者への選挙権を獲得するまでさらなるリフォーム・アクト改正を要求したのである。一方でオコンナーは1837年「ノーザン=スター(北の星)」紙を発行して暴力の必要を説いた。

 ラヴェット率いるロンドン労働者協会は1838年5月8日、6箇条からなる"人民憲章(People's Charter。チャーティズムはこの語に由来)"が発表された。この内容は男子の普通選挙制・無記名の秘密投票・議員の財産資格制限の廃止・議員の有給制(歳費支給)・選挙区の平等・議会の毎年改選の6箇条からなる。翌1839年にこの人民憲章を議会に提出したが、5ヶ月後に否決された。協会はゼネストや武装蜂起が提起されたが、内部分裂や指導者の逮捕もあり、この年の9月に多くの集会は解散していったが、その後も労働者たちによるチャーティスト運動は根強く残り、警官隊と衝突するなど死亡者も出て過激さは変わらなかった。一連の政治闘争は、1848年、つまりフランス二月革命の勃発した年の4月に、ロンドン(ケニントン広場)で数万人に及ぶチャーティスト運動の集大成となる大集会が開かれたが(ロンドン大デモ)、これも指導者の逮捕・投獄によって、鎮静化していった。

 しかしこの運動は少なからずとも全国の労働者階級や、自由主義者たちを刺激したのである。特にマンチェスターでは貿易関連で大きく沸き立ち、実業家リチャード=コブデン(1804-65)や綿工場主を父に持つジョン=ブライト(1811-89)らが、穀物法撤廃実現に向けて"反穀物法同盟(Anti-Corn Law League)"が結成され、保護貿易主義から自由貿易主義への転換を実現させようと運動を起こし、これにより1846年穀物法撤廃が実現したのである(1849年には航海法も廃止された)。貿易の自由化はこれで確立し、貧窮に苦しむ労働者階級、保護貿易で不利な立場にあった産業資本家が初めて大勝利を手にした瞬間だった。

 この大成功によって、リフォーム・アクト1832以来の改正もまた続けられていくことになり、産業資本家の政界加入により保守地主層との政争が大いに展開し、議会制民主主義の発達によって二大政党、つまり産業資本家が基盤のホイッグ党改め自由党と、貴族・地主が基盤のトーリ党改め保守党が対立する時代が到来し、リフォーム・アクトをはじめとする自由主義諸改革はこの後も続けられていくことになるのである。 


 今回は受験世界史においても毎年どこかの入試には必ず登場する非常に重要な分野です。連載156話目にして初めて登場しました。タイトルはリフォーム・アクト1832、つまり第1回選挙法改正(1832)をメインに持って行きましたが、ナポレオン時代が終結してウィーン体制となり、またこれに反して自由主義・国民主義運動がおこり、いろいろな自由主義改革が施されたイギリスを、さまざまな角度からご紹介いたしました。ですので、選挙法改正関連だけでなく、貿易関連、奴隷関連、アイルランド関連も登場します。受験世界史では選挙法改正は第5回まで覚える必要があり、今回本当は全部ご紹介したかったのですが、スペースの都合で残り4回はこのあとの学習ポイントで紹介いたします。

 今回登場したリフォーム・アクト1832の主役でありますグレー首相は紅茶好きだったとされ、紅茶のアールグレイは伯爵(=アール)のグレイ氏という意味で、名付けられたそうです。

 さて、今回の学習ポイントを見ていきましょう。今回は非常に多いですよ。まず1801年アイルランド併合により、グレート・ブリテンおよびアイルランド連合王国が誕生します。ここではアイルランド人はカトリック、イギリス人は国教徒であることを知っておきましょう。このためアイルランド人は民族差別と宗教差別を受けることになります。イギリスは審査法(1673。"ナミダの審査"の覚え方あり)があったので国教徒以外の信者は公職に就けなかったので、1828年に審査法を廃止して、翌29年にカトリック教徒解放法を制定します。非常に重要です。これで宗教差別が緩和されますからね。

 また穀物法も登場しました。これは貿易関連で登場する分です。保護関税によって国産だけを守るだけでなく(このような場合は高い国産品しか買えなくなる)、自由に貿易がしたいという産業資本家の反感を生みます。その中心となるのが穀物法です。反穀物法同盟、コブデン、ブライト、1846年撤廃、ついでに航海法も1849年撤廃、これらはすべて覚えましょう。本編では登場しませんでしたが、自由貿易主義は自由主義経済学を主張した『諸国民の富』の著者アダム=スミス(1723-90)や労働価値説を説いたデヴィッド=リカード(1772-1823)ら古典派経済学者が提唱していました。これも大事です。

 さて本題のリフォーム・アクトですが、前に述べたとおり、受験世界史で覚える選挙法改正は第5回まであります。これら年代、内容、当時の内閣を覚える必要があります。表にしてみましたので、特に太字の部分は確認しておいて下さい。

年代 当時の内閣 政党 内容 有権者の全人口比
1832 グレー内閣 ホイッグ党 腐敗選挙区廃止産業資本家に選挙権 4.5%
1867 ダービー内閣 保守党 都市労働者に選挙権 9%
1884 グラッドストン内閣 自由党 農業労働者・鉱山労働者に選挙権 19%
1918 ロイド=ジョージ内閣 自由党(保守と挙国一致) 男子普通選挙。21歳以上の男子、30歳以上の女子に選挙権。 46%
1928 ボールドウィン内閣 保守党 21歳以上の男女に選挙権。イギリス普通選挙制の完成。 62%

 ちなみに私の予備校時代、その年代の覚え方を"闇に(1832)、やむなく(1867)、はやしたが(1884)、悔いは無し(1918)、苦にはあらず(1928)"で教わりましたので、ぜひご参考下さい。

 第1回選挙法改正後のチャーティスト運動ならびにそのチャーティストが掲げた人民憲章も知っておいて下さい。そのチャーティストの代表で、本編ではラヴェットとオコンナーが登場しました。非常に重要な人物なのですが、書かせる問題はないと思います。またオコンナーと同じアイルランド人で、カトリック教徒解放法に尽力したオコンネルと紛らわしいですが、オコンネルは用語集には登場しますので、覚えておいて下さい。

 さて、突然ではございますが、ここで重大発表です。誠に勝手ながらしばらくの間、『世界史の目』の更新をお休みいたします。次の更新は年が明けた来年4月1週目にご紹介できればと思っています。必ず戻ってきますので、それまでは見捨てないで下さいね。決してネタ切れではありませんのでご心配なく。

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