世界史の目-Vol.157-

愛しみのメッセージ

 19世紀末期のドイツ帝国(1871-1918)。国王ヴィルヘルム2世(位1888-1918)が即位した翌年の1889年のフランクフルト市(フランクフルト=アム=マイン。「"マイン川沿いのフランクフルト"の意」)で、1つの生命が誕生した。ユダヤ系ドイツ人、オットー=ハインリヒ=フランク(1889.5.12-1980.8.19)という人物である。

 オットーの父は銀行家であり、家庭は比較的裕福であった。1914年、第一次世界大戦が勃発すると、オットーは兄・弟とともに帝国軍に徴兵され、ソンムの戦い(1916.6-11。北フランスで行われたドイツの大攻勢)などの戦線に参加した。

 1918年、帝政が崩壊して共和国となったドイツ(ヴァイマル共和国。1919-33)は、第一次世界大戦における戦敗国となり、ヴェルサイユ体制の管理下に置かれた。オットーは兄弟共に大きなケガもなく復員したが、戦後におこった国内のハイパーインフレによって、フランク家をはじめとする金融業は大打撃を被った。銀行経営回復にあたり、オランダ・アムステルダムで支店を開くなど力を尽くすも、回復に難航した。
 1925年、フランク家はアーヘン(現ドイツ、ノルトライン・ヴェストファーレン州西部の中心都市)出身の同じユダヤ系資産家アブラハム=ホーレンダー(1860–1928)の接近を受けて、フランク家のオットーと、ホーレンダー家のエーディト=ホーレンダー(エーディット=フランク。1900.1.16-45.1.6)との結婚が成立、シナゴーグ(ユダヤ教の会堂)で式を挙げ結婚した。

 オットーとエーディットの夫婦生活が始まった。二人は非常に仲が良く、イタリアへの新婚旅行も充実した。1926年2月に長女マルゴット(マルゴット=ベッティ=フランク。マルゴー=フランク。1926.2.16-1945.3.9)を、続いて3年後の6月12日に次女アンネ(アネリーズ=マリー=フランク。アンネ=フランク。1929.6.12-1945.3.12)を授かった。

 こうしてオットー一家は順風と思われたのだが、それは束の間であった。世界恐慌(1929)の影響を受けて、オットーの父が経営する銀行はついに破産を余儀なくされたのである。さらに政局も大きな変化があった。1933年1月、自営農民、商店主、中小企業家ら中産階級(プチ・ブルジョワ)らに支持されたナチス党首・アドルフ=ヒトラー(1889-1945)が首相に就任して内閣をおこすことになったのである(ヒトラー内閣。1933.1.30-1945.4.30)。ヒトラーは同年3月に民族および国家の危難を除去するための法律、いわゆる全権委任法という強力な法律を制定し、立法権を携えた内閣として権力をふるった。これにより、ヴァイマル共和国は滅亡に至った。さらに翌1934年には首相だけでなく、大統領の地位も手に入れ、同年8月、党首・首相・大統領を合体させたフューラー総統)の地位に立った。これにより、第三帝国(1933-45)が誕生した。
 ナチス第一党となった1932年7月以降、党員はユダヤ人に対して厳しい弾圧をかけており、党首ヒトラーが全権力を掌握して以降、全国各地にはナチスの支持者で溢れたことで、ユダヤ人にとっては恐怖と闇の中に入り込まなくてはならない事態であった。1933年にはフランクフルト市議会選挙が行われたが、ここでもナチス党の完勝であった。オットーはこの事態に対し、エーディット、マルゴー、アンネの家族全員をアーヘンにあるエーディットの実家に預け、行き場を探すため単身でオランダへ向かった。アムステルダムで事業を興したオットーはその後住居先を探しあて、1933年末から1934年始めにかけて家族を同市へ移住させた。そして翌1935年、娘2人はオランダのモッテソーリ小学校に入学した。オットーの職場では、仕事仲間であるユダヤ系ドイツ人、ヘルマン=ファン=ペルス(1898-1944)とは家族ぐるみで共に人生を分かち合う間柄となっていく。フランク家の近くに住んでいたファン=ペルス("ファン=ダーン"の名で知られる)一家は、妻アウグステ(ペトロネッラ。1900-1945?)、長男ペーター(ペーテル。1926-1945)の3人家族であった。

 1939年9月1日、ドイツのポーランド侵攻によって第二次世界大戦は始まった。オットーらの亡命先オランダも1940年5月10日から17日にかけて、永世中立規約を破ったナチス=ドイツ軍によって侵入を受け、占領された(1940.5。ドイツ軍のオランダ侵入。それ以外にもデンマークノルウェーベルギーを侵攻し、不法軍事占領した)。オランダ政府は降伏してイギリスに亡命政府を作った。本国はドイツの国家弁務官(アルトゥル=ザイス=インクヴァルト。オーストリア出身。1892-1946)がオランダ総督として赴任し、同国を管理することになった。オットーら家族は国外への移住を試みたが、戦況が激化したため叶わなかった。インクヴァルトはオーストリア=ナチスでの有力者であり、1938年3月のアンシュルスドイツのオーストリア併合のこと。1938.3。独墺合邦)後はナチス=ドイツに加わり、ヒトラーのもとで動いていた。

 1940年12月、オットーの会社(オペクタ商会。香辛料関係を扱う)はアムステルダム・ヨルダーン地区に流れるプリンセンフラハト運河に面した、4階建てビルに移転した(プリンセンプラハト通り263番地。1・3・4階:倉庫・店舗、2階:事務所)。このビルには同じ4階建ての離れ家(俗称"後ろの家")がビル後方にくっついており、ビルと離れ家両方には屋根裏部屋がついていた。

 インクヴァルト総督はオランダ国内でユダヤ弾圧の規模をますます拡大していった。ドイツ軍が進駐するアムステルダム市内においてもユダヤ人への迫害が激化した。ドイツ人はユダヤ人を他民族と区別するために黄色い六芒星の印をいつも目に付くところにつけていることを強制された。またすべての交通手段は使えず、自転車の供出まで義務づけられた。また娯楽の禁止、門限の強化や、公共施設立ち入りの制限も行われた。そして、オットーの会社だが、ユダヤ人の企業経営禁止が発令されたのを受けて、オットーは非ユダヤ系の同社従業員ヤン=ヒース(1905-1933)とミープ=ヒース(1909-2010.1。旧名ミープ=ザントロシェッツ)夫妻の会社とさせて、他の従業員ヨハンネス=クレイマン(1896-1959)、ヴィクトール=クーフレル(1900-1981)、ベップ=フォスキュイル(1919-1983)らとともに会社の存続に尽力した。また1941年末にオットーの娘マルゴーとアンネはユダヤ人中学校に強制的に転校させられた。

 1942年6月12日、この日はオットーの次女アンネの13歳の誕生日であった。オットーはアンネにサイン帳をプレゼントした。アンネは、表紙が赤いチェックの入ったデザインで彩られたこのサイン帳を非常に気に入り、早速誕生日当日から使用し始めた。
 同年7月5日、長女マルゴーに対し、ナチスの親衛隊SS。1923年に結成されたナチスの警護隊。占領地の支配と強制収容所の運営、捕虜の管理を行う)から呼び出し状が届いた。強制労働のため、アムステルダムに住むユダヤ系少年少女(15/16歳)に対し、ナチスの召集令状が届いたのである。オットーの家族及びファン=ダーン一家は当時居住していたアパートを出て、オペクタ商会のあるプリンセンプラハト通り263番地のビル後方に結合した離れ家、俗称"後ろの家"の3階から上の屋根裏部屋を使用することになった。11月にはユダヤ系ドイツ人歯科医のアルベルト=デュッセル(フリッツ=プフェファー。1889-1944)が加わり、オットー、エーディット、マルゴー、アンネのフランク一家、ヘルマン、ペトロネッラ、ペーターのファン=ダーン一家、そしてデュッセル氏の8人による隠れ家生活が始まったのである(飼い猫も同居)。彼らの隠れ家生活を支えたのは、ミープとヤンのヒース夫妻、クレイマン、クーフレル、ベップ=フォスキュイルら支援者たちだった。"後ろの家"の、8人の住む部屋への入口は、正面の会社2階から3階へつづく階段を上ると、会社と"後ろの家"がつながっている踊り場に到達でき、ここから進むことができたが、入口の扉("秘密のドア"と呼ばれた隠し扉)は本棚で隠され、壁面にしか見えない。

 隠れ家での生活は、潜伏を知られないように心がけ、営業時間中は水道・トイレは使用を控え、光が漏れないように窓を隠した。声も出せず、風邪をこじらせても、咳き込むことはできなかった。食糧や生活品はミープら会社の同僚たちが調達していたが、確保も難を極めていった。こうした状況の中で、窃盗の侵入騒動があったり、親衛隊が走らせる車の音や、さらには戦闘の爆音や砲声に怯えながら生活するという悲惨極まりない状況であった。しかし、イタリア降伏(1943.7)、ノルマンディー半島(コタンタン半島)制圧に対する朗報に喜び、決して生きる希望を捨てないオットーをはじめとする8人の居住者たちは、勇気と努力を維持し続け、必ず光が差し込む日を待ち続けた。

 隠れ家での生活が始まって2年目の1944年8月4日の午前10時から10時半の間、プリンセンプラハト263番地にたつ居住地に前に1台の車が停車した。中から出てきたのは、ゲシュタポ(国家秘密警察)の制服を着た、ナチスの親衛隊幹部カール=ヨーゼフ=ジルバーバウアー(1911-1972)と、武器を携えた同じくゲシュタポに属するオランダ人保安警察官数人だった。ナチス管轄地区でユダヤ人がいることを密告すれば報償が得られる時代、何者かが密告したのか、遂に263番地の建物に8人のユダヤ人が潜伏しているのが知られてしまったのである。
 このとき、オットーは隠れ家のペーターの部屋(4階)でペーターに英語を教えていた。妻エーディットはオットーの3階のフランク家の部屋におり、ファン=ダーン夫妻ならびにデュッセル歯科医は同じく隠れ家の4階のファン=ダーン家の部屋にいた。アンネと姉マルゴーは3階のアンネの部屋にいた。支援者のクーフレル、クレイマン、ミープ=ヒース、ベップ=フォスキュイルの4人が2階で事務を執っていた。

 ジルバーバウアーは、支援者たちのいる2階に駆け込み、4人に銃を突きつけ、8人のユダヤ人引き渡しを強く命じた。ジルバーバウアーに銃を突きつけられたクーフレルは"秘密のドア"である本棚の隠し扉の場所を案内させられ、ついに隠れ家の入口が知られてしまった。
 ゲシュタポの突入で、まずオットーの妻エーディットが発見・逮捕された。3階のアンネの部屋にも突入し、マルゴーとアンネ姉妹を捕らえた。4階に駆け上がったゲシュタポはファン=ダーン夫妻とデュッセル歯科医を拘束、そして最後にオットーとペーターを発見し、全員取り押さえられ、隠れ家の入口にあるフランク家の部屋に集められた。わずかながら大事に使用していた家財と現金を押収したジルバーバウアーは、がさ入れの際オットーが元帝国軍人将校出身で、ソンムの戦いに活躍していたことを知り、これまで強硬だったジルバーバウアーの態度も少し緩んだとされている。クレイマンとクーフレルも黙秘を通したため共に逮捕され、10人は警察のトラックに乗せられて、ゲシュタポ本部に向かった(ミープとベップは逮捕を免れた)。

 捕らえられた彼らは一晩監房で過ごし、翌日アムステルダムのヴェーテリングハンスの拘置所に移送、クレイマンとクーフレルは1944年9月11日、アーメルフォールト労働収容所に送られたが、クレイマンは持病を発したため同月18日に釈放された(1959年同市で死去)。クーフレルは1945年3月に強制労働キャンプに移される途中脱走、その後カナダへ亡命した(1989年死去)。
 ヴェーテリングハンスで拘置された残りの8人は、逮捕されて4日後、北東のヴェステルボルクにあったオランダ国内最大のユダヤ人一時通過収容所へ移送された。ここでマルゴーとアンネ姉妹と母エーディットは電池の分解作業を強制された。9月3日、東方へ向かう最後の列車に乗せられた8人は、3日後ポーランドのアウシュヴィッツ強制収容所(アウシュヴィッツ=ビルケナウ)に到着した。

 アウシュヴィッツ到着後、捕虜となったユダヤ人は男女別に振り分けられ、オットーは最愛の妻エーディット、最愛の娘マルゴーとアンネ姉妹と引き離されて男性用収容棟に移され、ここで最愛の家族とは永遠の別れとなった。そしてファン=ダーン一家であるが、夫ヘルマンはその1ヶ月後、ガス室に送致され、ここで殺害された(ヘルマン=ファン=ダーン処刑。1944.10/11。ガス室での集団処理が中止される直前の処刑だった)。ひとり息子ペーターは父ヘルマンが処刑された後もアウシュヴィッツにいたが、翌1945年1月にオーストリアのマウトハウゼン強制収容所に移送されたが、移送先までは"デス・マーチ(死の行進)"させられた。生き延びたペーターではあったが、19歳の少年が経験するには想像の絶する収容所の劣悪な環境、そして日々衰弱していく体力の限界により、同年5月5日(収容所が米軍によって解放される3日前)、絶命した(ペーター死亡。1945.5.5)。歯科医のアルベルト=デュッセルは1944年12月、最後に移送されたノイエンガンメ強制収容所で死亡した(デュッセル死亡。1944.12.20)。ヘルマンの妻ペトロネッラについては後で述べる。

 そして、オットーから引き離されたマルゴーとアンネの姉妹は、アウシュヴィッツの強制収容所送致後、すぐ丸刈りにされた(ヴェステルボルクでは既に短髪を強制されていた)。2人は母エーディットとともに女子専用収容所(第29号棟)に入れられた。この監房も衛生環境は悪く、虫が湧き、傷を負うとすぐ化膿し、食事も満足に支給されなかった。隠れ家の潜伏時代、反抗期に差し掛かっていたがために何度も母エーディットと衝突したアンネは、拘束後は常に母親の腕を握って離さず、エーディットは最後まで娘たちのために献身的に支え、生きる望みを捨てさせないためにも、与えられた食事もすべて娘たちに分け与えた。しかしそのエーディットも食事を施さないため日に日に体力を消耗させ、飢餓と疲労が進行していった。

同1944年10月30日、避難輸送の名目でアウシュヴィッツ強制収容所の女性収容者3000人をドイツのニーダーザクセン州にあるベルゲン=ベルゼン強制収容所に移送することになった。その中にはマルゴーとアンネの姉妹も含まれていたが、母エーディットは病気からの回復の見込みがない者として、アウシュヴィッツに残された。アンネにとって、母の優しさを再確認したばかりの矢先、今生の別れとなってしまった。エーディットは、年が明けた1945年1月6日、餓死状態で発見された(エーディット=フランク死亡。1945.1.6)。
 ベルゲン=ベルゼン強制収容所はガス室がなかったので"星の収容所"などと呼ばれた。しかし環境は劣悪であり、食料も満足に与えられず餓死者も相次ぎ、病気に罹っても医薬品不足でそのまま病死する始末であった。衛生状態が酷い、悲惨な状況であった。

 しかし2人の姉妹は絶望の淵に晒されても、希望を捨てず生き続けた。監房の中で友人ができ、同年11月にベルゲン=ベルゼンに移送されたヘルマンの妻ペトロネッラとも再会した(詳細は不明だが、ペトロネッラはその後強制収容所を転々と移され、その後死亡したとされている)。明けて1945年には、アンネが隠れ家での潜伏中に常に安否を気遣っていた、仲の良かった学友・ハンネリ=ホースラル(1928生。愛称ハンネ)と、鉄条網越しに再会を果たした。アンネは両親と離ればなれになり、両親生存への絶望感をハンネリに語ったとされている。

 しかし生きる望みを失わなくても生き抜く体力は残してくれなかった。ベルゲン=ベルゼン強制収容所に流行したチフス菌が姉妹を襲い、1945年3月、マルゴーはついに力尽きた(マルゴー死亡。1945.3。9日とも28日とも言われるが詳細ははっきりしていない)。
 アンネは、隠れ家での潜伏時代、信仰する人は正しい道を踏みあやまることはせず、"澄みきった良心は人を強くする"、と主張し(1944.7.6)、ユダヤ人としてのみならず人間として生きる誇りと喜びを表していた。いま姉に先立たれ、ただひとりとなったアンネは最後までその気持ちは失っていなかったはずである。この前向きな姿勢がこの劣悪なベルゲン=ベルゼンの環境下でも必死に生き延びようという気持ちを維持することができたのである。しかしマルゴーと同様、チフス菌に冒された体力は限界の極致であった。マルゴーが没した2,3日後、アンネも命を落とした(アンネ=フランク死亡。1945.3。3月12日とも31日とも言われているが、オランダ赤十字では31日としている)。囚人の遺体の山で覆い尽くされたベルゲン=ベルゼン強制収容所では遺体焼却炉での処理が追いつかず、1945年4月1日でもって使用中止となったため、以後、収容者の遺体は、同収容所の死体投棄穴に埋められ、マルゴーとアンネ姉妹の遺体もこの穴中に埋められたとされている。

 死を覚悟しなければならないこの絶滅収容所で、かつての潜伏時代に光を分かち合った家族や同僚、友人が各地の収容所で次々と命を落としていく中、アウシュヴィッツ強制収容所の病棟に収容されていたオットー=フランクは、1945年1月27日のソ連赤軍のアウシュヴィッツ解放によって助け出され、オデッサを経由して船でマルセイユへ送還された。その間の1945年5月2日にベルリンが陥落し、7日にドイツは無条件降伏を受け入れた(ヒトラーは4月28日に自殺)。ヨーロッパ大陸における世界大戦は終結した。
 1945年6月3日、彼らの魂を一身に背負ったオットー=フランクは遂にオランダのアムステルダムに再び足を踏み込むことができた。オットーはでミープとヤンのヒース夫妻に再会し、歓喜に浸った。しかしこの感激も続く間もなく、オットーは自身以外の7人がそれぞれの移送先の収容所で絶命したことを知り、激しい悲嘆を余儀なくされるのであった。

 同年夏、オットーはミープにある物を手渡された。見ると、表紙が赤いチェックの入ったサイン帳であった。しかし中身はサインではなく、アンネ=フランクによる日々の思いが直筆で記されていた。そう、3年前オットーが愛娘アンネに誕生日プレゼントとして贈ったサイン帳が、アンネによって2年に及ぶ隠れ家生活を事細かく書き残された日記帳として残されていたのである。隠れ家で逮捕された時、ゲシュタポのジルバーバウアーの家宅捜索の際、日記帳を収納していた鞄を逆さにして中身を無造作に出したものの、日記には目に留まらなかったようである。フランク家ら逮捕者が連行された後、逮捕を免れたミープとベップはバラバラに散乱した300枚に及ぶ日記帳のをすべて回収し、内密に保管していたのである。ミープはオットーに、アンネが遺したこの日記帳を手渡したのだった。

 アンネが遺したこの日記帳を、オットーはしばらく開けることができなかったが、気持ちが落ち着いた後、読むことを決めた。日記はアンネの誕生日だった、1942年6月12日から次の冒頭文で始まった。

"あなたになら、これまでだれにも打ち明けられなかったことを、なにもかもお話しできそうです。どうかわたしのために、大きな心の支えと慰めになってくださいね。"

 この日記には、聞き手をキティー(キット)とし、各日とも文頭は、「親愛なるキティーへ」で始まる(さらに接頭に"だれよりも"をつけて強調したり、"わたしのたいせつなキティーへ"・"だれよりもたいせつなキティーへ"・"わたしのいちばんたいせつな友へ"といった表現の日もある)。
 13歳から15歳までの娘アンネののすべてが細部にわたって書き込まれていた。趣味は書くこと、系図調べ、歴史、ギリシア・ローマ神話、映画スターや家族の写真収集。読書、美術史、詩人や画家の伝記....苦手は数学(1944.4.6記)。アンネの最大の望みは、将来ジャーナリストになり、やがては著名な作家になること(1944.5.11記)。またナチスに対する恐怖と懸命に対抗しながらも、生きる希望を決して失わず、学校生活での"家鴨(あひる)と白鳥"の話(1942.6.21記)などに含まれるアンネ独特のユーモア・センスを、日記全般にわたって披露していた。

 中には父オットーも気がつかなかったアンネの本当の気持ちも書き込まれていた。反抗期から来る母エーディットとの衝突と後悔、アンネが"閣下"と読んでいるデュッセル氏への嫌悪感、そしてペーターへの強い気持ち....ペーター(=ファン=ダーン)を"ペーテル(=スヒフ)"と呼んでいる時は、彼を慕っている時であるが、後半になると区別がなくなっていく(本人は当初恋愛意識を否定するそぶりを見せていた)。ペーターに対する姉マルゴーへの嫉妬と敬愛の交錯、そしてはじめてのキス....考え方の変化、感情の変化からくるアンネの、少女からおとなの女性へと成長していく姿が、日記を通して描写され、オットーの心を大きく揺さぶらせた。

 日記は後半になるにつれて、ドイツ軍が劣勢であることに期待を膨らませつつも、死への恐怖とそれに反発する前向きな生きる事への喜びと希望だらけの未来を強く主張していき、自身の人生・民族意識・現代社会をやや哲学的に陳述した文句が増えていく。
 そして1944年8月1日(逮捕・連行される3日前)を最後に日記は終わっていた。

 その後オットーによって、ナチス体制の中を生き抜こうとした娘アンネの書き綴った日記が公開された。1947年6月25日にオランダ語による初版『ヘット・アハター・ハウス(Het Achterhuis。直訳すると"後ろの家")』が出版、1952年には英語翻訳版が出版された。これが『アンネの日記(邦題の原題『光ほのかに アンネの日記』。1952)』であり、世界中で親しまれ、2,500万部も出版されるという大ベストセラーとなった。また1957年5月には"アンネ=フランク財団"が設立され、1960年よりその管理運営の下で隠れ家のある263番地の建物を博物館"アンネ・フランク・ハウス"として、当時の状況をそのままで一般公開している。

 オットー=フランクは1953年、当時住んでいたアムステルダムで、隣人のエルフリーデ=ガイリンガー=マルコヴィッツ(1905-1998)と再婚を果たし、2人はスイスのバーゼルに移住した。エルフリーデは共にアウシュヴィッツでの過酷な経験を共有したこともある人物である。

 1980年8月19日に没するまで、オットーは、最愛の娘が遺した人間の尊さ、強さ、慈愛を世に伝えるとともに、醜悪な戦争の惨禍を強くうったえた。アンネは苦しい生活を強いられても信ずることを忘れずに生きていくと、必ず強い人間になれると強く主張した。これがアンネの発した愛おしいメッセージ、"澄みきった良心は人を強くする"であった。

参考文献:文春文庫『アンネの日記』原作:アンネ=フランク 訳:深町眞理子

参考文献Anne Frank Musium


 「世界史の目」を再始動いたしました。今後も不定期更新となりますが、平成22年度もよろしくお願いいたします。

 さて、第二次世界大戦の被害者として、現在でも崇拝の止むことのないアンネ=フランクですが、2009年7月30日、国連教育科学文化機関(ユネスコ。UNESCO)は、『アンネの日記』を世界記録遺産(世界の記憶)に登録すると発表しました。今で言えば、中学1年生から中学3年生の、思春期に差し掛かった時代に、悲惨・恐怖・絶望感を経験するも、光を失わず、前をむいて生きていこうとする、ある意味健気なアンネ=フランクの姿を、父オットーの尽力で大いに感動を呼びました。私も上記参考文献をすべて読了させていただきましたが、ある側面からみれば非常にピュアで素朴な少女でありながら、別の側面で非常に強い心を持つ少女でもあると感じました。しかし現実的にナチスの恐怖に怯えふるえながらも必死に生きる強さを身につけ、家族や知人と別れ別れになっていく寂しさの中にも、強さ・やさしさ・未来への期待を見いだそうとする彼女の生き方には本当に感服です。

 しかし今回の主役はアンネ=フランクではなく、父のオットー=フランクとし、家族の分まで最後まで生き続けたオットー=フランクをメインに紹介させていただきました。同時に、背景である第二次世界大戦の戦況も随所に紹介させていただきました。

 さて、受験世界史での学習ポイントですが、受験であろうと無かろうと、アンネ=フランク及び『アンネの日記』は常識的に知っておくべき事だと思いますね。受験世界史には残念ながら登場することはあっても出題されることはないと思います。当然、主役のオットーをはじめ、フランク家、ファン=ダーン一家らは入試には登場しません。
 ナチスについては『Vol.20ナチス』の学習ポイントを参照下さい。ここではナチスのユダヤ迫害関連をお話しします。1935年に公布されたニュルンベルク法では、ユダヤ人を1/8の混血までと定め、該当ユダヤ人を弾圧しました。公職からの追放や企業経営の禁止といった内容から人権否定の内容まで幅広いのですが、それがやがて絶滅政策へと向かいます。これにより、ドイツにいた物理学者アルバート=アインシュタイン(1879-1955)や作家トーマス=マン(1875-1955)はアメリカ亡命を余儀なくされます。両者の名前は知っておきましょう。

 絶滅政策は「ホロコースト」と呼ばれました。本編に登場したアウシュヴィッツの強制収容所は"絶滅収容所"と呼ばれ、150万人以上のユダヤ人が虐殺されました。この収容所の名前はよく出題されます。また用語集では"水晶の夜(クリスタル=ナハト)"も記載されています。絶滅政策が本格的に行われる以前の事件で(1938.11)、ナチスによるユダヤ系商店やシナゴーグ打ち壊しと虐殺を指しますが、壊されたガラスが月明かり照らされて水晶のようにきらめいて見えたことから名付けられました(実際は殺害されたユダヤ人の数多くの遺体や大量の血、建物の瓦礫が散乱していて、名前から想像できるものではなかった)。頻度数は少ないですが、一際目立つ用語なので知っておいてもイイかと思います。

 日記では、ユダヤ人迫害を強行するドイツ軍に対する批判だけでなく、男尊女卑に対する批判やおとなに対する批判も記される一方で、ユダヤ人としての誇りにも触れています。祖国を持たないユダヤ人として、アンネは定住したオランダに愛国心をもち、オランダを祖国になってくれるのならと念願していることも主張しています。後半では自分を二重人格と考えている内容もあります。
 個人的には本編で1944年7月6日から引用いたしました、アンネの信ずればかならず強い心を持つ人間になるとうったえた"澄み切った良心は人を強くする"という言葉が非常に印象深いです。これはすべての世界の人々がそうあって欲しいという願いを込めた、アンネ自身の素直な気持ちだと思います。そもそもアンネの信仰したユダヤ教は選民思想で、万民の救済といった思想ではないので、アンネのこの言葉はユダヤだからというのではなく、人間としてのあり方で述べた一節だと思います(フランク家はそんなに熱心なユダヤ教信者ではない)。ひとりの少女が全世界の人々に対して(日記ではキティ宛てですが)投げかけた、非常に愛のある言葉だと思い、今回は"愛しみのメッセージ"のタイトルにさせていただきました。
 また、1944年7月15日に記された内容(特にあの有名な"たとえいやなことばかりでも、人間の本性はやっぱり善なのだということを"を含んだ一節)も非常に感動を覚えました。是非『アンネの日記』を読んでもらいたいと思います。

世界史の目に戻る
参考文献

Copyright (C) KOBE MANTOMAN SHIDOU SENMON GAKUIN All Rights Reserved.