世界史の目-Vol.158-

勇気ある奏で

 1818年にアルゼンチン出身のクリオーリョ(南米植民地生まれの白人)、ホセ・デ・サン=マルティン(1778-1850)の支援を得て独立を達成したチリ共和国(首都サンティアゴ。サンティアゴ=デ=チレ)。南アメリカ大陸南部にある、太平洋に面した、南北に長細く位置する国である。

 戦後、チリでは急進党や共産党らによって結集された連立内閣(人民戦線内閣)が組織されたが(ガブリエル=ゴンザレス=ビデラ政権。1946-52)、その後の冷戦構造によって、チリには西側陣営、特にアメリカの圧力がかかり、1948年に成立した民主主義防衛法に基づくソ連との断交が行われた結果、共産党が除外されて親米政権となった。
 60年代のアメリカはジョン=F=ケネディ(1917-63。大統領任1961.1-1963.11)の政権で幕を開ける。キューバ革命(1959)及びキューバ危機(1962)を目の当たりにしたケネディ政権は、この革命の影響が中南米諸国に及ぶことを怖れていたが、予感が的中した。ペルーやグアテマラ、ベネズエラなどで武装ゲリラ闘争が展開され、パン=アメリカ主義の崩壊が始まった。ケネディ大統領はこれを阻止するため、1961年8月、中南米諸国に対して「進歩のための同盟(Alliance for Progress)」を提唱した。

 これは社会主義に走ろうとする中南米諸国に対し、軍事的圧力でねじ伏せるのではなく、民生育成をあくまでも民主的に進めるという構想である。このためにアメリカは200億ドルの資金投入を行い、諸国の国内投資を促し、年2.5%以上の経済成長をねらい、また農地改革・税制改革を施して資本主義的開発を促そうとした。この政策は次のリンドン=ジョンソン大統領(任1963-69)の代まで続いたが、ラテンアメリカ諸国は保守勢力が依然として強く抵抗が激しかった。また軍事政権をしいた国では、同盟による革命勢力はいとも簡単に圧せられた。ドミニカ共和国においても1963年に起こった軍事クーデターによる反動化に対し、1965年、ジョンソン大統領は軍事介入を決定せざるを得なかったように、結果的には同盟は成功とは言えず、アメリカの軍事的制圧を選ばなければならなかった。

 チリも"進歩のための同盟"の一員であった。チリも同盟政策の一環として農地改革などが施されたが、成功には至らなかった。1964年には"中道・改良"をスローガンに掲げた保守・中道派のキリスト教民主党のエドゥアルド=フレイ=モンタルバ(人964.11.3-1970.11.3)が大統領に当選、ソ連の承認、銅山国有化("銅山のチリ化")といった改良主義的政策を施す一方、国営企業の民営化も図るなどして同盟路線を維持した。しかし諸革命は成功せず、キリスト教民主党は左右分裂、同党から左派が1969年に脱党して、左傾化した元人民戦線派(社会党・共産党・急進党)と結びつき、人民連合という大きな左翼連合が誕生した。人民連合は労働者階級を支持基盤に、サルバドール=アジェンデ=ゴセンス(1908.7.26-1973.9.11)をたてて1970年の大統領選挙に臨んだ。

 アメリカ合衆国は社会主義的な人民連合の巨大化を防ぐため、CIA(中央情報局。アメリカの諜報機関)などを使って、対立候補政党(キリスト教民主党、国民党の2党)への支援や反共勢力への煽動を行ったが、反共派がクーデタを期待した軍部が中立化したことも手伝い、人民連合のアジェンデが最多得票を獲得した。しかし過半数に至らない僅差での勝利であったため、憲法に従って議会評決による決選投票となった。

 軍部の中立は今回の選挙に大きく影響した。もともと軍部には、決選投票を有利に導くための軍部クーデタを期待した反共派・反人民連合派が多かったのだが、軍を政治的に利用されるのを嫌う陸軍総司令官レネ=シュナイダー(1913-1970)はクーデタ実行を頑なに拒絶した。決選投票を直前に控えた1970年10月22日、シュナイダー総司令官は襲撃され、死亡するという事件が発生した(反共派の軍事クーデタを支援しようとしたCIAが軍部の反共派に武器を提供したという説がある)。

 このような政情不安をうけて、国内の文化界にも変化が訪れた。音楽ではフォークのシンガー・ソングライター、ヴィクトル=ハラ(1932-73)は、もともと60年代に活躍した女性フォーク・シンガー、ビオレータ=パラ(1917-67。人民連合支持派。1967年拳銃自殺で死去)が始めたとされる"新しい歌ヌエヴァ=カンシオン)"運動の立派な継承者だった。歌を通して社会変革の実施を主張するこの運動で、1969年には"耕す者への祈り(La plegaria a un labrador)"、"アマンダの想い出(Te recuerdo Amanda)"といった作品を発表している。チリのフォーク・グループ、インティ・イリマニは代表的革命歌「ベンセレーモス(Venceremos。我々は勝利する)」を歌った。文学では詩人であり共産党政治家パブロ=ネルーダ(1904-73。代表作『100の愛のソネット』)が有名である。

 シュナイダー襲撃事件により、反共派・反人民連合派は各党から非難を受け、キリスト教民主党は人民連合を支持することとなり、投票の結果、人民連合のアジェンデが勝利し、1970年11月3日、アジェンデは大統領に就任した(アジェンデ大統領。大統領任1970.11.3-1973.9.11)。世界で初めての、民主的選挙に則った形で成立した社会主義政権の誕生であった。

 アジェンデの社会主義改革は就任後急速に進んだ。企業・銅山の国有化政策、社会保障拡大策、農地改革をはじめ、キューバとの国交回復や、ファン=ベラスコ=アルバラード(1910-77)率いるペルーの革命軍事政権(任1968-75)と社会主義改革派同志との友好同盟など、共産圏との友好関係樹立を積極的に行った。「進歩のための同盟」を掲げたアメリカは、キューバ革命に続く第二の脅威にさらされることとなった。

 そこでアメリカは反撃に出て、チリに対して経済援助の削減や資金貸付停止といった厳格な経済制裁を行った。アメリカだけでなく西側諸国もチリへの経済封鎖に踏み切った。一説によると、アメリカはチリの銅における単一経済(チリは銅輸出業に頼っていた)に焦点を当て、アメリカ保有の銅を大量に売りさばき、銅の価格を急落させてチリ経済を悪化させたと言われている。チリ国内においても政府支出が増え、外貨準備高(対外的に借金や輸入代金を支払うための資金)も底をつくなどして財政状態は悪化、民間の投資も減って極端な物不足に陥り、激しい悪性インフレーションをまねく結果となった。
 この時期フォーク・シンガーのヴィクトル=ハラは1971年、アルバム『平和に生きる権利(El derecho de vivir en paz)を発表した。当時「抗米救国」をかかげ北爆に抵抗する北ベトナムの共産主義者で、1969年に没したホー=チミン(1890-1969)を取り上げて力強く歌い、文字通り平和に生きる権利を主張した。

 不安定なチリ情勢をみたアメリカはヘンリー=キッシンジャー国家安全保障担当大統領補佐官(任1969-74)によるCIA発動を開始、アジェンデ政権の転覆を加速化させるためにキリスト教民主党を政権支持派から離脱させるなど工作を行い、また反アジェンデ派を支援してデモやサボタージュ、ストライキを頻発させた(1972年のトラック業界の大規模ストライキは1ヶ月以上続く)。CIAの策謀でチリの政情は極端に不安定化、アジェンデ政権は徐々に支持率を低下させていった。

 こうした中、シュナイダー総司令官のいない軍部に再びクーデタ実行の気運が高まった。しかしシュナイダーの後任を任されたカルロス=プラッツ(1915-74.9)も中立派であり、アジェンデの信任もあって国防相も兼任していた。しかし不安定なアジェンデ政権下ではシュナイダーの時と比べて反アジェンデ派は増加傾向にあり、軍部内においても軍事的クーデタ実行の賛同者は多かった。結局、プラッツ総司令官は辞任に追い込まれた。アジェンデ政権における、たった1つの軍とのパイプを失ったことになり、政権転覆の危機はますます高まった。そして、陸軍のクーデタ賛同者の中からアウグスト=ホセ=ラモン=ピノチェト=ウガルテ(1915-2006)が後任に推され、結果1973年8月23日、ピノチェトは陸軍総司令官に就任、軍事評議会のトップとなった。CIAの全面協力のもと、ピノチェト将軍はクーデタを用意周到に行った(1973年6月に一度クーデタが行われたが、プラッツ前将軍に阻まれ、未遂に終わっていた)。

 そして1973年9月11日、ピノチェト将軍は、陸海空軍を発動してアジェンデ大統領のいるモネダ宮殿(大統領宮殿)を包囲、襲撃した(チリ=クーデタチリ軍事クーデタ1973.9.11)。激しい銃撃戦がモネダ宮殿で行われ、宮殿は炎上した。その中でアジェンデ大統領はラジオ演説で"チリ万歳!人民万歳!労働者万歳!"叫び、降伏を拒んで自動小銃を手にして反撃したが、交戦中にアジェンデは死亡した(アジェンデ死亡。自殺か、軍による殺害かは不明)。アジェンデの死によって社会主義政権は完全に崩壊し、チリのファシズム軍政が始まったのである。翌年6月、ピノチェト将軍が第30代チリ大統領に就任した(ピノチェト大統領就任。チリ軍政。任1974.6.27-1990.3.11)。

 軍政移管後のチリでは社会主義者、人民連合支持派、アジェンデ支持派、中道派、また反軍政派らを含む左翼人に対する粛清が行われた。アジェンデ大統領の死でもって始まるピノチェトの軍事独裁政権は白色テロ的な武力弾圧を実行し(ラテン=アメリカでいう"死の部隊")、多くのの著名人が亡命・逮捕・拘禁・虐殺される運命にあう。フォーク・グループのインティ・イリマニはクーデタ時は海外公演中だったが、帰国を認められずイタリア亡命を余儀なくされた。
 作家のパブロ=ネルーダも軍政の犠牲者となった。1972年にノーベル文学賞を受賞し、アジェンデ政権を支える大きな存在であったネルーダは不幸にもガンに侵され、政治家を引退して療養生活を送っていたが、1973年のクーデタ直後、軍はネルーダ宅に押し入って焚書を行い、資産を喪失させたため、急激に病状が悪化した。数日後、危篤状態になり病院に救急車で搬送中、軍の検問により停車を命じられ、救急車から引きずり出されて亡くなった。
 元軍部のカルロス=プラッツは辞任後アルゼンチンへ亡命していたが、ピノチェトが大統領に就任した1974年、ブエノスアイレスで起こった爆弾テロで暗殺された。

 クーデタ直後、捕らえられた左翼系市民はすべてサンティアゴ・スタジアムに集められた。
 恐怖に満ち溢れたサッカー会場、サンティアゴ・スタジアムの中で、1人、革命歌"ベンセレーモス"を歌い恐怖に怯える市民を勇気づけた歌手がいた。ヴィクトル=ハラであった。彼もクーデタ時には大学にいたが、直後に逮捕され、ここまで連行されたのであった。しかし、ここでギターを片手に勇気ある奏でを行ったのである(諸説があり、逮捕時は手を縛られていたため、ギターは持ち込めなかったとも言われている)。しかしこの勇気も虚しく、スタジアムに集まったハラを含む多くの同志の左翼市民は虐殺された。虐殺を免れて生き残った者も監獄へ押し込まれた。ハラの手はギターを弾けないように打ち砕かれていたという(ヴィクトル=ハラ死去。1973.9.16)。クーデタ以後の数日間で虐殺された人数は3,000人とも、6,000人とも、10,000人とも、100,000人とも言われている。また多くの左翼系の人々が誘拐・拉致されるなどの被害を受けた。

 ピノチェトの独裁軍事政権は経済成長の混乱などで後退し、1988年の国民投票によって敗北を受け、軍政から民政に移管した(1989。チリ民政移管。キリスト教民主党)。そして1990年に辞任したピノチェトに代わり、パトリシオ=エイルウィン=アソーカル(1918生)が大統領に就任した(任1990.3.11-94.3.11)。
 2006年3月、チリは社会党のミチェル=バチェレ=ヘリア大統領(2006.3.11-2010.3.11。チリ初の女性大統領)の政権となった。ミチェル=バチェレ大統領の父親も軍政の被害者であり、大統領自身も亡命経験者である。ピノチェトは2000年代になって殺人罪・誘拐罪で裁かれたが、2006年末にサンティアゴ市内で死去が伝えられた(ピノチェト死去。2006.12.10)。

 ミチェル大統領在任中に亡くなったピノチェトの葬儀は、国葬ではなく、陸軍葬としてとり行われた。大統領は参列せず、国防相が参列した。

参考サイト:ヴィクトル=ハラ 未完の歌
参考サイト:ベンセレーモス


 2010年2月末に発生し、日本にも津波が押し寄せたチリ巨大地震は、1960年のチリ地震および大津波を思わせるような悲しい惨状でした。まさかこうした災害でチリがクローズアップされるとは思っても見ませんでしたが、地震によって尊い命を失われた方々のご冥福をお祈りいたしますとともに、被災された方々の一刻も早い再起復興をお祈りいたします。

 さて、今回はアジェンデ時代とピノチェト時代、二つの激動を経験した戦後のチリについてご紹介いたしました。9.11といえば、2001年のアメリカ合衆国で起こった同時多発テロ事件を思い浮かべますが、皮肉にもアメリカがアジェンデ政権の打倒を支援し起こされた軍事クーデタが1973年の9月11日.....なんと言うべきか、巡り合わせが運命的で、複雑な気分です。ピノチェト軍政が始まり、多くの左翼者が粛清されたニュースが全世界に飛び交った時、アメリカはこの粛清をどのように感じていたのでしょうか?

 ちなみにチリは"太平洋戦争"という戦争を経験しています。といっても1940年代の日米戦争のことではなく、19世紀後半におこった戦争です。入試には出題されませんが、非常に重要な戦争です。かいつまんでお話ししますと、19世紀後半、チリはアタカマ砂漠(チリ北部)から採掘される大規模な硝石(しょうせき。火薬や肥料の原料となる鉱物資源)や鉄鉱石の鉱床をめぐって、ペルーとボリビアを敵国として大規模な戦争をおこします。これが、南米の太平洋戦争です("硝石戦争"とも。1879-83)。この戦争は海軍力の強かったチリの勝利で終わり、1884年の講和の結果、チリはペルーから2県、ボリビアから1県を領有することになりました。特にボリビアは沿岸部の領土を奪われたことで大海への出入口を失った内陸国となり現在に至っています。現在でもチリとボリビアは正式な国交回復に至っていません。

 さて、今回の学習ポイントは少ないですが、おぼえるのはアジェンデ政権とピノチェト政権です。アジェンデは社会主義体制、ピノチェトは軍政を覚えて下さい。たぶんこれぐらいで大丈夫と思います。ただ2008年のセンター入試でも選択肢にアジェンデの名前が出ておりますので注意が必要です。歌手のヴィクトル=ハラは南米フォーク界では非常に有名なミュージシャンで、私もかつてテレビで取り上げられたのを見たことがありますが、非常にメッセージ色の濃い作品を出し続けているなと思っていましたが、これが本編でも触れたヌエヴァ=カンシオンというムーヴメントだったのかと、今回知りました。このヌエヴァ=カンシオンは南米で政治的軍事的革命が起こる度にクローズ・アップされていき、現代でも根強く残っています。入試にはまったくと言ってほど登場しませんが、興味深いです。

 中南米の政治的または軍事的変革ではキューバ革命(1959)が代表的ですが、それ以外にも有名な中南米情勢を挙げておきます。用語集にも記載されていますので、余裕があれば知っておいた方が良いと思います。太字は用語集にも出ており要チェックです。難関私大などでは出題される可能性もありますので知っておいた方が良いでしょう。

 まず1947年にパン=アメリカの一環でリオ協定が採択されて翌年OAS米州機構)が結成されます。現在加盟国は35ヵ国となっておいますが、結成当初は不安定でした。

  1. グアテマラ・・・アルベンス左翼政権が誕生(1950-54)し、農地改革法(1952)の一環で米国系企業のU.S.フルーツ社(バナナ販売)の社有地を取り上げたことでアメリカが激怒し、CIAを使って左翼政権を転覆(1954)。この後グアテマラでは内戦が勃発。
  2. アルゼンチン・・・ペロン大統領(ファン=ペロン。1895-1974。任1946-55,73-74)の社会主義政権→1955年親米右派軍事クーデタで崩壊→亡命先から帰国したペロンは大統領に復帰するも病死→夫人が全世界初の女性大統領として就任(イサベル=ペロン大統領。任1974-76)し、反米を強調、ペロニスタ(正義党)という支持グループを生んだ。→1976年の軍事クーデタで再び崩壊、軍政へ→イギリスと英領フォークランド諸島(マルビナス。マゼラン海峡東方)を領有をめぐってフォークランド戦争を勃発(1982.4-6)。イギリスのサッチャー政権(任79-90)の勝利→アルゼンチンは民政移管(1983)。
  3. ボリビア・・・1952年左翼政権の成立(ボリビア革命)。錫(すず)鉱山国有化。
  4. ブラジル・・・ヴァルガス独裁政権(任1930-45,51-54)も軍事クーデタに敗れる。復帰後は左翼的政権を作ったが、大統領自殺(1954)。
  5. ニカラグア・・・アナスタシオ=ソモサ=デバイレ大統領(任1967-72,74-79)の専政に対し、FSLNサンディニスタ民族解放戦線)の武力闘争が展開される、1979年、ソモサ大統領は国外追放処分(ニカラグア革命)→1980年代はアメリカが介入し、1984年にFSLNのオルテガ政権が誕生(任1985-90,2007- )→アメリカが支援する反政府右翼ゲリラとの内戦(ニカラグア内戦)は悪化→チャモロ親米政権(任1990-97)の誕生→内戦終結
  6. ペルー・・・ベラスコ革命軍事政権(任1968-75。反米。本編にも登場)→1980年に軍政から民政へ移管→1990年、フジモリ政権誕生(任1990-2000)。
  7. パナマ・・・アメリカ・カーター政権時代(任1977-81)、新パナマ運河条約が締結し(1977)、運河主権の1999年返還を約束→アメリカ・ブッシュ政権時代(任1989-93)に反米のノリエガ軍最高司令官(任1983-89)のクーデタ勃発によりパナマ侵攻(1989.12-90.1)→ノリエガ将軍逮捕、鎮圧→1999年、運河返還
  8. エルサルバドル・・・アメリカの支援する政府とニカラグアの支援する左翼ゲリラとの内戦(1980勃発)→1992年停戦。
  9. グレナダ・・・1979年左翼政権発足。キューバやソ連と親交→アメリカ・レーガン政権(任1981-89)のグレナダ侵攻(1983)により崩壊→親米政権

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