世界史の目−Vol.16−

フランス革命(PART.3 革命の終結とナポレオン)

PART1 革命勃発の巻はこちら→ PART2 革命戦争と第一共和政の巻はこちら→

  山岳派の独裁と化した1793年末には対外革命戦争は勝利を重ね、、国内も反革命軍による内乱も鎮まり、安定したかに見えた。しかし、外国軍が撤退して対外からの圧力が失せたにもかかわらず、ロベスピエール(1758〜94)らが所属する公安委員会による恐怖政治は依然として続いた。富裕市民(ブルジョワジー)は最高価格令による経済統制からの解放を求め、封建的貢租の無償廃止によって解放され土地を得た農民はこれ以上の革命に関心が薄れていた。また労働者においても賃金抑制の撤廃願望などから、徐々に保守化し、恐怖政治に不満を持つようになった。しかしロベスピエールは、片腕サン=ジュスト(1767〜94)とともに、恐怖政治続行を主張した。

 理性の崇拝を実施した山岳派エベールはジャーナリスト出身で、大衆新聞『デュシェーヌ親爺』を1790年に創刊し、民衆、特にパリのサンキュロットに人気が高く、民衆運動の指導者的存在であった。これはやがてエベール派と呼ばれ、山岳派の中でも極左派として過激に展開していった。やがて、エベール派の国民公会打倒計画がおこされ、これがロベスピエール派との対立を深め、エベールは告発・逮捕されて、1794年3月、処刑された。エベール派は一掃され、理性の崇拝も消滅した。続いて、ダントン率いる穏健なダントン派では、山岳右派とされ、ロベスピエールと協力して過激派エベールを粛清したが、元々新興ブルジョワジーに支持されてきており、経済統制を改め、恐怖政治の緩和を主張するようになり、恐怖政治続行を主張するロベスピエール派と対立した。エベールが処刑された3月、ダントンの汚職が発覚、サン=ジュストに告発され、4月にギロチンで処刑された。これにより、山岳派独裁は、ロベスピエール独裁に変化し、理性の崇拝も、ロベスピエールの崇拝と変わって、恐怖政治は強化された。6月には裁判において、弁護・証人・予審を省くなどの迅速化がはかられ、処刑者は激増した。

 これにより、公安委員会ではロベスピエール独裁の反感が生まれ、国民も不満が絶頂に達し、国民公会も反ロベスピエール派が形成された。1794年7月27日、革命暦だとテルミドール9日、ついに国民公会はロベスピエールを告発、サン=ジュストらを含むロベスピエール派の逮捕令が可決された。ロベスピエールは監獄へ送られたものの、収監を拒否されたため、釈放となった。支持者を集めて蜂起を呼びかけようとしたが、発覚され、再逮捕となり、裁判を経ず処刑が決定した。ピストル自殺を図って失敗し、翌未明、弟やサン=ジュストらと共にギロチンにかけられ処刑となった(テルミドール9日のクーデタ)。これにより恐怖政治は終わった。 

 テルミドール反動のあと、公安委員会は山岳派の没落で権限が縮小し、革命裁判所も改組された。国民公会では山岳派に代わり、中産階級の支持のもとに穏和派(テルミドリアン。熱月派。)が主導権を握った。しかし、恐怖政治の報復として、王党派や反革命派も徐々に勢いづき、反乱やテロが横行した。国民公会は秩序の安定から1795年8月、新憲法を制定した(1795年憲法)。二院制・5人総裁制・財産資格選挙が決められ、10月、ブルジョワ共和政府ともいうべき総裁政府が誕生した(1795.10〜1799.11)。恐怖政治時代の経済統制から一転、自由経済の伸展がはかられたが、このため貧困農民層からの対立が生まれた。農民は政府から離れ、拠り所を軍部に求めていくようになる。軍部の活躍は総裁政府発足直前に、すでに名をとどろかせていた。王党派が政府発足直前、新憲法による選挙(10月20日)を前に、テルミドリアンの延命策に反発、反乱を起こし(王党派の反乱(ヴァンデミエールの王党反乱))、軍部に鎮圧された。この軍隊を指揮していたのが、のちに台頭するナポレオン=ボナパルト1769〜1821)である。当時の政府と軍部は対照的だった。最急進派のバブーフ(1760〜97)の政府転覆計画(バブーフの陰謀)は、結果として未遂に終わったものの、その後も政府は右派と左派のクーデタの連続により動揺が続き、不安定な政権が続いた。また自由経済をすすめてきたため、インフレがおこり、国民の生活は苦しくなった。これにより、ジャコバン派の残党が勢いづき始め、行政に不安を感じた王党派も再び台頭した。一方ナポレオンの率いる軍隊は対外戦争を連勝し、オランダを征服、1795年プロイセンと講和、1796年には第1次イタリア遠征を行い、オーストリア軍やイタリア軍を撃破し、第1回対仏大同盟を崩壊させた。このような結果から、有産市民や農民は、政治と社会の安定と秩序の回復を、総裁政府以上に軍隊に望むようになり、国民の期待は軍隊の指導者、ナポレオンに集まった。

 コルシカ島の小貴族の次男に生まれたナポレオンは、ジャコバン派に属していた。94年のテルミドール9日のクーデタでロベスピエール派として一時投獄されたこともあるが、95年の王党派の反乱で功を上げ、軍部の司令官に任命され、96年、ジョセフィーヌ=ボーアルネ(1763〜1814)と結婚した。この年に前述のイタリア遠征を行い、その勝利によって、97年、オーストリアでカンボ=フォルミオ和約を結んだ(ライン左岸確保)。続いて、1798年から99年にかけて、イギリスのインド支配に対抗するため、大がかりなエジプト遠征を行った。陸上では、98年7月ピラミッドの戦いに勝利してカイロを占領したが、海上ではイギリスのネルソン(1758〜1805)率いる艦隊に、アブキール湾にて制圧され、シリア遠征(1799)も成功とまではいかなかった。このとき発見されたロゼッタ=ストーンの碑文はのちにエジプト学者シャンポリオン(1790〜1832)によって解読されている。

 イギリスは、フランスのエジプト遠征を機に、オーストリア・ロシアらと第2回対仏大同盟(1799〜1802)を結んだ。これを知ったナポレオンは、不安定続きの総裁政府を考え、軍をエジプトに残留させ、急遽帰国した。帰国したナポレオンはシェイエスタレーラン(1754〜1838。後にウィーン体制で正統主義を主張。)らと政府打倒を計画、銀行資本の援助もあって、1799年11月9日、革命暦だとブリュメール18日、遂に総裁政府を倒し、統領政府執政政府)を樹立した。4院制の立法府と3人の統領(執政)を置く、第一共和政を一応維持した形だが、実質はナポレオンの独裁政府的性格を持ち、11月、ナポレオンは任期10年の第一統領となって行政権を掌握した。これにより、1789年から続いたフランス革命は終結となり、ナポレオン時代が続くこととなる。

 内の反対勢力を鎮めるため、1800年には第2次イタリア遠征に出向いた。北イタリアに入ってマレンゴの戦いに勝利して再びオーストリア軍を撃破し、翌年リュネヴィルで講和した。1802年にはイギリスとアミアンの和約を結んで、ヨーロッパに一時的な平和をもたらし、ナポレオンは終身統領となった。さらにフランス革命で、関係が悪化していた教皇との間には、1801年にコンコルダートという宗教協約を結び、カトリック教会をフランスの公教とした。これにより、政府は聖職者を指名し、教皇が任命権を持つ仕組みが可能となった。王党派との対立緩和にも役立った。

 国内政策では、フランス銀行の設立(1800)・税制、学制の改革・ナポレオン法典の編纂(1804.3。フランス民法典)などを行って秩序の回復がはかられた。1804年5月、国民投票が行われ、皇帝となり(12月に戴冠)、第一共和政は名実ともに終結して第一帝政となり、ナポレオン1世ナポレオン帝国ボナパルト朝が誕生した。軍事独裁帝国と化したフランスは再び対外侵略に足を踏み入れた。アミアンの和約は解消となり、イギリス本土上陸を目指した。これに対しイギリスはオーストリア・ロシアらと第3回対仏大同盟を結んだ(1805)。1805年10月はトラファルガーの海戦で、イギリス海軍と戦ったが、相手の指揮はまたしてもネルソンだった。ネルソンはこの海戦で戦死したが、結局フランスはスペインと連合したにもかかわらず敗戦となり、イギリス本土上陸は実現できなかった。陸軍の活躍は1805年12月アウステルリッツ三帝会戦である。神聖ローマ皇帝フランツ2世(位1792〜1806。オーストリア皇帝としてはフランツ1世。位1804〜35)が君臨するオーストリア、アレクサンドル1世(位1801〜25)が君臨するロシア、そしてナポレオン1世が君臨するフランスとの会戦であった。フランスはオーストリア・ロシア軍を撃破、第3回対仏大同盟を壊し、翌1806年、西南ドイツ(ライン右岸)の16の領邦を、ナポレオン1世を盟主とするライン同盟(1806〜13)に組み入れて組織させた。西南16邦は神聖ローマ帝国からの脱退を宣言し、帝国の領土が消えた。フランツ2世は帝冠を辞し、名実ともに神聖ローマ帝国は消滅した。

 これまで第2回、第3回と対仏大同盟には中立を守っていたプロイセンは、フランスの脅威を感じて、1806年10月、イエナで戦いを挑んだが大敗した。この後ナポレオン1世は11月、フランス市場を確保する目的で、ベルリンで大陸封鎖令ベルリン勅令)を発して、大陸諸国とイギリス間の通商を全面禁止した。1807年にはプロイセン・ロシアとティルジット条約を結び、プロイセンの領土半減と賠償金、ロシアの大陸封鎖協力、ポーランドにワルシャワ大公国(1807〜13/14)を建てるなど、プロイセンとロシアはフランスに対して屈辱的な立場におかれてしまった。この頃ナポレオン1世の対外侵略に反対するタレーランを罷免している(1809)。ヨーロッパの大部分がナポレオンの配下に置かれる中、兄ジョセフをナポリ王(位1806〜08)とスペイン王(位1808〜13)、弟ルイをオランダ王(位1806〜10。子はナポレオン3世)に任命し、またジョセフィーヌと離婚して、フランツ2世の娘マリ=ルイーズ(1791〜1847)と結婚した(1810)。1811年には誕生した男子をイタリア王に任命するなど、ナポレオン帝政は最も栄えた時期を迎えた。

 しかし、大陸封鎖令に思わぬ落とし穴があった。封鎖が発令されるまでは、ロシア・プロイセン・オーストリアはイギリスから工業製品を輸入し、イギリスには穀物を輸出していた。フランスはヨーロッパ一の農業国であり、ロシア・プロイセン・オーストリアから穀物の輸入を受ける必要がなく、またイギリスよりフランスの方が工業製品が高く、国民経済に圧迫が生まれた。ヨーロッパ諸国はナポレオンに不満・反感を持ち始め、遂に民族意識が目覚めた。

 まず兄ジョセフが君臨するスペインでは1808年から14年にかけて、農民の反乱が起こり、イギリスも援助した(半島戦争)。続いてプロイセンではシュタイン(1757〜1831)・ハルデンベルク(1750〜1822)らによるプロイセン改革が行われ、農奴制廃止による農民解放、経済・行政改革などを展開した。教育面でもフンボルト(1767〜1835)によるベルリン大学(1810創設)の創設、哲学面でもフィヒテ(1762〜1814)の講演「ドイツ国民に告ぐ」で愛国心を国民に奮い立たせた。

 またロシアでは1812年、大陸封鎖令を違反してイギリスとの穀物輸出を再開した。ナポレオンは懲罰として、1812年、60万の大軍を動員してロシア遠征(モスクワ遠征)を行った。しかし5月に出発した60万の兵士は被征服地からかき集められた、いわば皇帝に忠誠を誓うものとはほど遠く、戦意も以前とはかけ離れて小さかった。ロシアは敵軍の事情を悟り、地の利を利用して、戦いを避けながらゆっくりと後退してロシア奥地にフランス軍を引きずり込んだ。ロシア・クツーゾフ将軍の焦土戦術によって、フランス軍は食糧を焼き払われながらも、9月14日ボロディノの戦いでモスクワに入城したが、ロシアの焦土戦術はなおも続き、フランス軍の宿泊施設となる建物を焼き、モスクワは大火となった。極寒のロシアでの冬営が困難となったフランス軍は10月撤退を決め、モスクワを退き始めたが、多くの兵士はロシア軍や農民ゲリラに倒れ、ロシアの冬の寒さに倒れ、軍は全滅状態だった。ナポレオンのロシア遠征失敗により、第4回対仏大同盟(1813〜14)が組織され、ナポレオン打倒の解放戦争が行われることとなった。1813年10月ライプチヒで同盟軍はフランス軍と戦い(諸国民戦争)、フランス軍は大敗した。ナポレオンはフランスに後退したが、同盟軍の侵攻は続き、パリも陥落した(1814.3)。1814年4月、ナポレオンは退位した。息子の譲位も認められず、マリ=ルイーズとも離婚し、彼女はオーストリアに帰った。ナポレオンは5月、同盟軍によってエルバ島に幽閉され、ルイ16世の弟、ルイ18世が即位し(位1814〜15,15〜24)、ブルボン朝が復活した。しかし、就任当初の人気はなく、これを知ったナポレオンはエルバ島を脱出し、1815年3月パリに戻って再び皇位に就いた(位1815.3.20〜15.6)。再軍備したフランスに対し、諸国は第5回対仏大同盟を結成した。1815年6月、ナポレオン軍は現ベルギーの小村ワーテルローで戦ったが(ワーテルローの戦い)、イギリス軍司令官ウェリントン(1769〜1852)らの率いるイギリス・プロイセン・オランダ連合軍に完敗し、再度皇位を奪われ、「百日天下」となった。10月、イギリスはナポレオンを南大西洋上の孤島セントヘレナへ流し、彼は同島で没した(1821)。遺体の帰国はその後許され、1840年に国内で葬られた。

 18世紀後半から19世紀前半にかけて展開したフランスの激動はここで終焉を迎えました。実際、フランス革命は市民革命ですので、ナポレオンが統領政府をおこした時点で革命は終結していますが、あえてナポレオン時代も述べさせていただきました。計3シリーズ、短い時期ながらも、内容の濃い時代でしたね。

 ではこの時代の学習ポイントを。”1789年の国民議会→1791年の立法議会→1792年の国民公会→1795年の総裁政府→1799年の統領政府→1804年の第一帝政”の流れはフランス革命・ナポレオン時代の歴史の流れを知る上でキーポイントとなりますので、覚えておいた方がいいですね。またテルミドールやブリュメールなどの革命暦の日付と正規の暦の日付も知っておきましょう。テルミドール・クーデタは9日で、7月27日(1794)、またブリュメール・クーデタは18日で、11月9日(1799)です。また年代はおおよそでもよろしいですので、数々のナポレオン戦争の順番も知っておきましょう。第1次イタリア遠征(1796)→エジプト遠征(1798)→第2次イタリア遠征(1800)→トラファルガーの海戦(1805.10)→アウステルリッツ三帝会戦(1805.12)→イエナの戦い(対プロイセン。1806.10)→半島戦争(対スペイン。1808)→ロシア遠征(1812)→ライプチヒの戦い(諸国民戦争。1813)→ワーテルローの戦い(1815.6)の順です。太字は入試頻出事項です。フランスの勝敗も知っておきましょう。ヨーロッパ中世・近世の歴史は、「フランスvsイギリス」を中心に展開し、本編のナポレオン戦争をはじめとして、さまざまな事件・戦争が出てきます(百年戦争、フレンチ=インディアン戦争、ファショダ事件など)。そして1904年の英仏協商成立でやっと対立が解消されます。

 さて、これをもちまして、3シリーズに渡ったフランス革命の学習はこれで終了です。次はまた違う時代へ飛びますよ。

世界史の目に戻る
参考文献

Copyright (C) KOBE MANTOMAN SHIDOU SENMON GAKUIN All Rights Reserved.