世界史の目-Vol.166-

アナトリアの古代帝国

 地中海、黒海、エーゲ海、マルマラ海に囲まれた半島、アナトリア。「小アジア」と呼ばれたこの地域は現在トルコ共和国の領土である。半島南部にB.C.(紀元前)7500年~B.C.6300年頃に文明があったと伝えられた、世界最古の都市遺跡チャタル=ヒュユクで示されるように、アナトリアは古くから文明の地として栄えてきた。
 紀元前2000年紀(B.C.1650年頃)、このアナトリアに突然現れた、インド=ヨーロッパ系の最古とされる民族がハットゥシャシュ(ハットゥシャ)を王都として一大帝国を築いたという記録がある。この一大帝国を築いた民族がヒッタイトである。

 ヒッタイトの先住民"ハッティ"は紀元前三千年紀後半にアナトリア半島中央部に居住していた。この民族はインド=ヨーロッパ系ではないが、青銅器文明期とは一線を画し、の発明をもたらしたとされる民族であった。B.C.2000年頃、アナトリア南東部(?)のクッシャラに、北方から移住してきたヒッタイト人が定住し始めたが、紀元前18世紀頃、クッシャラで王を称したピトハナ(生没年不明。現在確認できるヒッタイト人の支配者)が半島征服にのりだし、中央アナトリアにあったカネシュ(現在キュルテペ遺跡。中央アナトリアのカイセリ東方)を征服した記録がある。またピトハナの子アニッタ(生没年不明)もピトハナ王を受け継ぎ、版図拡大に努め、のちに先住民"ハッティ"のいるハットゥシャシュを占領して同地の王を降したとされている。ピトハナ王と子のアニッタ王がヒッタイト人だったかどうかは諸説あるが、ピトハナ王とアニッタ王はヒッタイト人にとっては英雄であり、アナトリアを征服して"ハッティ"の鉄を独占し、ヒッタイトの文化として後世に伝えたという伝説を残しているのである。

 ヒッタイト人の国家、ヒッタイト王国(ヒッタイト帝国。B.C.17C-B.C.1200?)の存在が確認されたのは、B.C.1680年頃である。ラバルナ1世(位B.C.17C)が建国者とされているが(ラバルナ1世建国のヒッタイト王国は"古王国"と呼ばれる)、明確な生没年、王位期間、出自は分かってはいない。始祖ラバルナの名は、のちのヒッタイトの"大王"の称号"ラバルナ(タバルナ)"として使用されるようになり、王妃タワナアンナ(生没年不明)の名も、王妃の称号を表すようになる。

 ラバルナ1世の時、ヒッタイト古王国はクッシャラを首都に版図を拡大、次のハットゥシリ1世(位B.C.16C頃)の頃、ハットゥシャシュに遷都したと伝えられる。ハットゥシリ1世は西方遠征を行ってその名を広めた。とくにシリア北部にあったとされるアムル人のヤムハド王国(B.C.1800?-B.C.16C初?)との交戦記録があり、次代のムルシリ1世(位B.C.16C頃)においてもヤムハド王国へ侵攻した時期がある(ヤムハド王国はその後ヒッタイトに首都アレッポを落とされて滅亡していく)。
 ヒッタイト王国を強国として印象づけたのは、B.C.1595年頃にメソポタミアの大国、バビロン第一王朝古バビロニア王国。B.C.1894?-B.C.1595?)の滅亡の直接の原因となった、ヒッタイトのバビロン侵攻である。ムルシリ1世は、バビロニア国王サムス=ディタナ(位B.C.1625?-B.C.1595?。バビロン第一王朝の最期の王)を倒しており、強敵バビロンを陥落させた。バビロン第一王朝はこの後滅亡の一途をたどり、その後のバビロニアはカッシート人(系統不明。かつてはインド=ヨーロッパ系とされたが現在は異論あり)に征服されていく(バビロン第三王朝。カッシート王国。B.C.16C-B.C.12C)。

 ヒッタイト王国はその後内紛や新たな強敵であるエジプト新王国(B.C.1570?-B.C.1070?)や、同じく北メソポタミアのフルリ人(フリ人。系統不明。旧約聖書の"ホリ人"か?)のミタンニ王国(B.C.1500?-B.C.1270?)の脅威にさらされ、衰退を余儀なくされていく。ムワタリ1世(位?-B.C.1430?)の没でヒッタイト古王国時代は終わり、次のトゥドハリヤ1世(位B.C.15C後半)からはヒッタイト王国における"新王国"の時代とされる。エジプト新王国でも全盛期が訪れており(エジプト第18王朝。B.C.1570?-B.C.1293?。およびエジプト第19王朝。B.C.1293?-B.C.1185?)、オリエントはエジプト・ヒッタイト・カッシート・ミタンニの四大勢力によって支配された。

 アナトリアを拠点とするヒッタイト王国は、まずミタンニと戦いを交えた(B.C.14C)。ヒッタイト王シュッピルリウマ1世(位B.C.1355?-B.C.1320?。ヒッタイトの最盛期を現出した国王)のとき、オリエントではエジプトに次いで二番目の版図を誇っており、ミタンニをも呑み込む勢いであった。シュッピルリウマ1世はカッシート人のバビロン第3王朝(B.C.15C-B.C.1155)と同盟を結び、ミタンニを制圧した(ミタンニもエジプトと同盟を結んでいた)。結果、ミタンニのトゥシュラッタ王(B.C.1380?-B.C.1350?)を追放させ、以後のミタンニはヒッタイトの属国的存在となる。その後ミタンニは、属国のアッシリア(B.C.2000年紀初-B.C.612)が独立をおこし衰退(B.C.14C)、B.C.13世紀半ばに滅亡したとされている。

 ヒッタイト王国の次の敵はエジプト新王国であった。エジプト第19王朝で、名君と言われたラメス2世ラムセス2世。位B.C.1290?-B.C.1224?/B.C.1304?-B.C.1237?/B.C.1279?-B.C.1212?)が戦う相手である。エジプトは前のセティ1世(B.C.1294?-B.C.1279?)の時からすでに、ヒッタイトの領域だったシリア侵攻を行い、圧力をかけていた。その後、北シリアのカデシュ(オロンテス河畔。現ダマスクス北方)を戦場に、エジプトとヒッタイトの大規模な戦闘が行われた(カデシュの戦い。B.C.1286?/B.C.1275?)。このときヒッタイト王国はムワタリ王(位B.C.1290?-B.C.1272?。ムワタリ1世とは別)は2頭立ての馬車風の戦車(戦闘馬車。チャリオット)を使って、ラメス2世のエジプト軍をしのぐ兵力で戦いに挑んだ。しかし戦況は両国とも一進一退を繰り返し、やがて膠着状態となったことで、カデシュの戦役は停戦となったが、両国共に勝利を主張し始めた。そこで、両国は成文化された講和条約を締結して決着した(B.C.1259?)。エジプト全権はラメス2世だが、ヒッタイトではムワタリ王は条約締結の際には既に没しており、次王のムルシリ3世(位B.C.1270?-B.C.1264?)は失政により追放され、その次のハットゥシリ3世(位B.C.1266?-B.C.1236?)の時に彼を全権として締結したものとみられる。このカデシュの戦いは、現在確認できる史料の中で、世界最古の軍事記録に残された戦争であり、さらに世界最古の成文化された国際講和条約が結び交わされた戦争であるとされている。この条約締結によりラメス2世は、ハットゥシリ3世の王女と結婚している。

 B.C.13C後半になると、ヒッタイトの盛時は内紛や住民の反乱などで後退していった。ヒッタイト王シュッピルリウマ2世(位B.C.1218?/1215?/1210?-B.C.1200?/1190?)の時代、地中海東岸一帯に放浪していた謎の混合移民グループ、「海の民」の領地侵犯が激化した。「海の民」はカデシュの戦いにおいても双方の傭兵として使われたりしていたが、これによりヒッタイト王国ばかりか、エジプト、シリアの諸都市国家(ウガリトやエマルなど)にも大損害を与えた。ウガリト、エマルは壊滅し、エジプトは滅亡を免れたものの著しく弱体化が進んだ。

 シュッピルリウマ2世が統治するヒッタイト王国では、内紛や住民反乱、そして「海の民」の侵攻が止まず、国力維持ができなかったとされる。こうしてヒッタイトは滅亡していった(ヒッタイト滅亡。B.C.1200?/B.C.1190)。ヒッタイトの残存勢力は、"新ヒッタイト"あるいは"シリア=ヒッタイト"の名称で、もともとヒッタイトの属国だった北シリアの都市カルケミシュを中心とする都市国家群をおこし、B.C.700年頃まで興隆が続いたが、住民の大半はフルリ人と吸収されていったとされている。

 時が経ち紀元後の1900年代初め。トルコの首都アンカラの東方約150キロの地点にあり、"峠の村"と呼ばれたボアズキョイ(ボガズキョイ)という小村があるが、この村の南西の丘上に全長4キロに及ぶ城壁跡、獅子の石像が守る巨大な城門などが確認されていた。1906年、ドイツの考古学者フーゴー=ヴィンクラー(A.D.1863-1913)が本格的なボアズキョイでの発掘調査を行い、楔形文字が刻まれた大小1万片の粘土板文書の大書庫を発見した。そこでヴィンクラーは、このボアズキョイこそ、ヒッタイトが創り上げた王都ハットゥシャシュであると確証され、さらに紀元前2000年紀のアナトリアの歴史が明らかになった。これはボアズキョイ文書と呼ばれ、この遺跡は1986年に世界遺産登録された。アナトリアに君臨した古代帝国は、近代になってその偉大さを再発見したのであった。

 ヒッタイトの滅亡後、古代オリエントは青銅器時代から鉄器時代へと移っていく。


 今回は高校世界史でシュメール人アッカド人アムル人の次に登場する民族、ヒッタイト人をご紹介しました。世界史を履修している人なら、この名前を知らない人はいないと思います。ヒッタイト人はアムル人のバビロン第一王朝を滅ぼしたこと、ミタンニ王国やエジプト新王国と争ったこと、鉄製武器を使用したことなどを、高校で学習します。ちなみに鉄利用ですが、紀元前15世紀頃、ヒッタイトによって鉄製技術が普及しますが、ヒッタイトの先祖とされた民族"ハッティ"が発明した鉄の技術をヒッタイトが独占したとされています。ですので、鉄の利用はヒッタイト登場よりもはるかに古いということですね。

 さて、今回の学習ポイントです。受験の知識は上に挙げた"バビロン第一王朝滅亡"・"ミタンニとエジプトとの抗争"・"鉄製武器の使用"の3点の他に、"アナトリア(小アジア)が拠点"・"B.C.1700-B.C.1200頃に活躍"・"インド=ヨーロッパ系"・"首都はボアズキョイ(ハットゥシャシュ)"・"「海の民」の攻撃を受けて滅亡"もおさえておけばよろしいです。詳しくは、エジプトのラメス2世とカデシュで争ったことも余裕があれば知っておきましょう。用語集でもカデシュは登場しますし、世界初の講和条約が結ばれたのもキーワードとなる時があります。

 バビロン第一王朝を滅ぼした後のバビロニアはカッシート人が活躍します。カッシートが興したバビロン王朝をバビロン第3王朝と言いますが、これも一応、用語集には載っています。また本編には登場しませんでしたが、バビロン第3王朝はB.C.1155年に、民族系統不明のエラム人に滅ぼされています。余裕があればこの民族も知っておきましょう。

 そしてミタンニ王国ですが、ミタンニ王国の民族構成ですが、大半はフルリ人という民族でした。支配層がフルリ人だったかどうかは不明となっておりますが、なんせメソポタミアのあちこちに点在していて、たくさんの国家を建設していました。その中で一番勢力の大きかったのがミタンニ王国だったということです。

 最後に本編後半に用語だけですが、"ウガリト"という言葉が出てきました。用語集でも"ウガリット"という名で登場します。シリアにあった海港都市です。受験世界史ではマイナー用語ですが、ここで見つかった粘土板は旧約聖書にも通じる内容がある神話集が刻まれていることで知られています。興味深いですね。

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