世界史の目-Vol.169-

大富豪、修道士、そして小さな樽

 12世紀以降のイタリア中部や北部では、国王や領主らといった封建的支配者から自立し、都市共和国や自治都市といったコムーネ自治権を獲得した都市共同体)が多く存在するようになった。そうした有力なコムーネでは有力市民が市政を担当して、周辺の農村地域もあわせて国家的機能を持つようになっていた。その中で、トスカナ平野にあったフィレンツェ共和国(1115-1532。13世紀より共和政。1532年より公国化)は首都フィレンツェを中心に毛織物、金融、東方貿易(地中海東岸のレヴァント地方との貿易。レヴァント貿易)を中心に繁栄した。

 15世紀のフィレンツェ共和国では銀行家のメディチ家が躍進した。1410年にはローマ教皇庁の経理担当を任され、1434年には同家からコジモ=デ=メディチ(1389-1464)がでて、メディチ家の支持者(メディチ派)を募らせて政界にも進出した。フィレンツェ共和国ではシニョリーア(シニョーレ)と呼ばれる最高議決および行政機関があり、"正義の旗手(ゴンファロニエーレ)"と呼ばれた執政官がシニョリーアを統率している仕組みであったが、コジモはゴンファロニエーレにメディチ派を置かせてこれらを操り、自身は実質的な国家元首的立場に立って国政を主導するようにまでなっていった(支配期1436-64)。コジモ没後、メディチ家の政治権力は子のピエロ=ディ=コジモ=デ=メディチ(1416-69。期1464-69)、孫のロレンツォ=デ=メディチ(1449-92。期1469-92)、曾孫のピエロ=ディ=ロレンツォ=デ=メディチ(1472-1503。期1492-94)へと続いていった。

 コジモ=デ=メディチの支配期には文化人の保護育成(いわゆるパトロン)も積極的に行われ、イタリア=ルネサンスも興隆期を迎えていく(1450年から1527年が最盛期。盛期ルネサンス)。その中で、コジモがパトロンとして支援したフィレンツェ派の画家、フィリッポ=リッピ(1406-69。聖母子像やプラート大聖堂壁画で名高い)に弟子入りした若き画家がいた。アレッサンドロ=マリアーノ=フィリペピ(1444/45-1510)という人物で、彼の長兄が"ボティチェロ"という渾名で知られていたため、本人もその後サンドロ="ボッティチェリ"と呼ばれるようになった。この語は"小さな樽"という意味で、長兄が小樽の体型をしていたのが由来と言われている。

 皮なめし工職人の子として世に出たボッティチェリは、1460年頃にリッピのもとで師事したとされるが、その後はヴェロッキオ工房にも入った。修業時代を積み、ロレンツォ=デ=メディチ期にあたる1470年、商業裁判所における寓意画として『剛殺』を発表、ボッティチェリの処女作品となった。その後はメディチ家のパトロンとして多くの作品を発表し、フィレンツェにおける初期ルネサンスの代表的画家として成長を遂げた。主な作品に『東方三博士の礼拝(1475頃【外部リンク】)』『書斎の聖アウグスティヌス(1480/81【外部リンク】)』『プリマヴェーラ。1478?/82?【外部リンク】)』『サン=マルコ祭壇画聖母戴冠と4聖人。1483?【外部リンク】)』『ヴィーナスの誕生(1485頃【外部リンク】)』など、宗教画、人物画、神話画を残したが、異教的・官能的な女性美の創造が主題となっており、優雅かつ繊細な画風は、ボッティチェリの円熟期(1480年代)における集大成であった。

 その間、若い画家がボッティチェリに弟子入りしていた。フィリッピーノ=リッピ(1457-1504)と言い、フィリッポ=リッピの子である。母はフィリッポ=リッピが修道院から連れ出した修道女で、これが原因でローマ教皇の怒りを買い、修道院の出入りを禁じられたことで知られる(のちに還俗と結婚を教皇より許される。還俗(げんぞく)とは俗人に還ること)。色事の多いフィリッポ=リッピの有名な逸話である。子フィリッピーノは『エラト~音楽の寓意~(1500頃)』など、父とボッティチェリに通じる甘美な作品を主に描き、彼は"アミーゴ=デ=サンドロ(サンドロ(=ボッティチェリ)の友人)"と称された。

 フィレンツェ共和国の政治的支配権はこれまでメディチ家によって握られていたが、15世紀末期になって、徐々にその勢力が揺らぎ始めた。ロレンツォ=デ=メディチが43歳の若さで没し、子のピエロ=ディ=ロレンツォ=デ=メディチが20歳の若さで家督を継承した(1492)。
 やがてイタリア戦争が勃発し(1494-1559)、フランス軍がナポリ侵攻を行った。しかし国を仕切るはずのピエロがこの侵攻に怖じ気づき、フランス軍を易々とナポリに入城させて、フィレンツェも占領された。これによりメディチ家は人心を失うことになる。しかしこれを予言していた人物がいた。ドミニコ修道士のジローラモ=サヴォナローラ(1452-1498)という人物である。サン=マルコ修道院長の肩書きを持っていたサヴォナローラは、かねてよりフィレンツェの行政や経済、そしてルネサンスを代表とする文化的風潮について批判していた。大富豪によって仕切られたフィレンツェでは、市民は信仰心を忘れて享楽に耽ってしまった結果、待ち受けているものは不安と混乱であり、イタリアは外敵に攻めを強いられるだろうというのが彼の主張であった。この主張は当然メディチ家への批判として集中し、彼はメディチ家専政体制によって政治腐敗を招いたと酷評したのである。またサヴォナローラは政治・経済・文化のみならず、教会までもメディチ家の支配となり、真のキリスト教の教義もどこかへ行ってしまったと嘆き、キリスト教における真の教義、そして神の至上性を信仰心の薄れた市民たちに説教していった。

 しかもこうしたサヴォナローラの予言が的中したことにより、彼にたちまち人望が集まり、メディチ家に代わる新しいフィレンツェのリーダーとして支持が集まったのである。またロレンツォ=デ=メディチの死に際して、ロレンツォは臨終前にサヴォナローラと対面し、罪を告白したという逸話も広まり、ますます信奉者が集まった。
 1494年、ついにピエロ=ディ=ロレンツォ=デ=メディチ政権は崩壊、メディチ銀行は破綻、ピエロも国外追放となった(メディチ家、フィレンツェ追放。1494-1512)。これに代わり、サヴォナローラによるフィレンツェ支配となった(支配期1494-98)。

 サヴォナローラの政治は神権政治であった。神によって守られる国を理想に掲げ、これまで享楽に耽った市民生活を禁じて厳格と質素を重んじた。その一環として人文主義を基本精神として確立されたルネサンスを批判、特にメディチ家が保護した芸術品を押収し、市庁舎広場で"火刑"と称し、焼却処分にした(1497,98"虚栄の焼却")。この結果、市民は生活が貧弱となり、殺伐としてしまった。
 さらに攻撃の的はもう1つ、当時のキリスト教である。真の教義を教えないローマ=カトリック教会にも異論を唱えたサヴォナローラは、ローマ教皇アレクサンデル6世(位1492-1503)との対立を生むことになり、その結果、サヴォナローラは破門となってしまった(1497)。
 こうした彼の一連の活動は、ドミニコ修道会と同じく清貧を重んじた托鉢修道会の1つ、フランチェスコ修道会もサヴォナローラのやり方に苦言を呈した。

 この政変によって、メディチ家のパトロンとして保護されてきた芸術家も少なからず影響を及ぼした。最も大きく影響を受けたと言われるのがボッティチェリであった。至上の神は人智の及ばないところにあるものとするサヴォナローラの教えはすぐさまボッティチェリの画風の変化に現れた。例えば『ラ=カルンニア誹謗。1495?【外部リンク】)』『神秘の降誕(1501【外部リンク】)』などがそうであり、内容は神秘主義的で、彼本来の"優しさ"に代わり、"激しさ"が現れた緊張感溢れる作品が製作された。

 そして、サヴォナローラの圧政が遂に崩壊する時が来た。フランチェスコ修道会が"火の裁判(火の試練)"と呼ばれる、火中をくぐって主張の真偽を問う裁判を要求したのである。フランチェスコ修道会の主張は、サヴォナローラが神を知る預言者であるならば、火中をくぐっても焼けないはずだというものであった。この要求をサヴォナローラは拒否したため、多くの信奉者の離反へとつながった。サン=マルコ修道院では市民の暴動が起こった。1498年4月、ついにサヴォナローラは逮捕され、拷問を受けたあげく、裁判ではローマ教皇も参加し、判決では、市庁舎前広場においての絞首刑後、火刑に処されることが決まった。5月に刑は処され、遺骨はアルノ川に投じられた(サヴォナローラ殉教。1498.5)。

 ボッティチェリの『神秘の降誕』は、サヴォナローラ処刑後に製作された。この作品の上部に記された銘文は以下の内容によるものである。

「私サンドロは1500年(1501年)の末にこの作品を製作した。イタリア混乱時代、一つの時代とその半分の時代の後、それはつまり聖ヨハネ第11章に記される悪魔が、3年半の間解き放たれるという黙示録の第二の災いの時に描いた。やがて悪魔は、第12章で述べられているように鎖に繋がれ、(この絵のように)地に堕とされるのを見るだろう。」

 サヴォナローラが没し、『神秘の降誕』完成後、ボッティチェリは製作活動を止め、それ以後の足取りは不明になった。ただ分かっていることは、1510年、フィレンツェで孤独に没したことだけであった(ボッティチェリ死去。1510)。"小さな樽"で知られ、生涯独身を通し、初期ルネサンスから盛期ルネサンスに渡ってフィレンツェに生き、歴史に残る数多くの名作を生み出した大芸術家であった。

 メディチ家は1512年、ハプスブルク家に軍事的支援を受けてフィレンツェに復帰が決まった。復帰したピエロ=ディ=ロレンツォ=デ=メディチの弟、ジョヴァンニ=デ=メディチ(1475-1521。支配期1512-13)という人物である。彼は翌1513年、ローマ教皇に躍り出る。そう、16世紀におけるヨーロッパの宗教大改革の原因を生み出すことになる、あのレオ10世(教皇位1513-21)であった。


 久々の更新です。今回はボッティチェリの没後500年を記念して、彼の生涯を彼の生きた時代背景を合わせながら紹介いたしました。メディチ家、サヴォナローラ、ボッティチェリの3者を主役に据えたかたちで話を進めましたが、当時は初期ルネサンスの時代であり、7歳(8歳?)下にレオナルド=ダ=ヴィンチ(1452-1519)がいました。ボッティチェリとダ=ヴィンチはヴェロッキオ工房で苦楽を共にしていた時期もあり、このときダ=ヴィンチはボッティチェリ画風の影響を受けたと言われています。

 受験世界史のみならず、ボッティチェリの『ヴィーナスの誕生』や『春~プリマヴェーラ~』は一度は目にしたことはあるかと思います。彼の代表作なので、ぜひ知っておきましょう。もしサヴォナローラによる"虚栄の焼却"によってボッティチェリをはじめとするルネサンス期の芸術作品がすべて焼失してしまっていたらと思うとゾッとしますが、特にボッティチェリの作品はメディチ家の保護によって焼却を免れたので、こうして歴史的名作として後世に残っているのですね。

 さて、今回の学習ポイントです。前述のとおり、ボッティチェリの作品は上の2作品を知っておくことですね(ルネサンスの入試頻出関連はこちらでご確認を!)。文化面以外では、メディチ家の2人、コジモとロレンツォは受験ではマイナーですが、出題もしばしばあります。またコジモ=デ=メディチが古代ギリシア学問研究を中心に開設したプラトン学園(アカデミー)の言葉も用語集にありますので、難関私大は知っておく方が良いでしょう。ルネサンスの盛時にいたのがロレンツォ=デ=メディチで、フィレンツェ共和国の国政に関与して実権を掌握しました。ちなみにロレンツォの次男が教皇レオ10世、あと今回は本編には登場しませんでしたが、フランス・ヴァロワ朝(1328-1589)の有名な王妃だったカトリーヌ=ド=メディシス(1519-89)は、本編でも話したメディチ家が破綻した時の当主ピエロ=ディ=ロレンツォ=デ=メディチの孫にあたります。

 最後にサヴォナローラですが、ルネサンスの行き過ぎと聖職腐敗を止めようとした修道士で、宗教改革の先駆けを作ったと言われる人物です。ロレンツォの死やイタリア戦争の勃発を予言するなどして、支持を得ましたが、改革後の専政で嫌われ、処刑されました。イギリスのジョン=ウィクリフ(1320?-1384)やベーメンのヤン=フス(1369-1415)、はたまたドイツのマルティン=ルター(1483-1546)と並び、宗教改革者として有名ですが、彼等3名と比べるといささか地味な改革のため、入試にもほとんど登場しませんが興味深いです。ちなみに、彼が所属したドミニコ修道会やフランチェスコ修道会といった托鉢系は、発祥を知っておきましょう。ドミニコ修道会はスペイン出身のドミニコ(1170?-1221)が創始、フランチェスコ修道会はイタリアのアッシジの聖者フランチェスコ(1181?-1226)の創始です。こっちの方が頻出ですね。

【参照・引用】 Salvastyle

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