世界史の目-Vol.170-

国土回復への道程

~中世のイベリア・前編~

 711年、ゲルマン王国の西ゴート(415-711。アタナシウス派キリスト教国家)がアラブ帝国・ウマイヤ朝661-750)に征服されて以降、イベリア半島はイスラーム(イスラム)勢力の支配下に入った。西ゴート王国滅亡後、生き延びた西ゴートの王族ペラヨ(?-737)は一部のキリスト教徒たちとアストゥリアス地方(イベリア半島北西部。現アストゥリアス州)へ逃げ込み、そこでペラヨを初代君主(位718-737)とするアストゥリアス王国(718-914)を建国、キリスト教国としてイベリアのキリスト教徒を保護した。ガリシア地方(半島の北西端。現ガリシア州)など隣接地域を領域に収めたアストゥリアス王国はその後領域を南へ拡大していったが、イスラム勢力がの侵攻が相次いだため、ペラヨ王は地元勢力と結束して出陣、苦心の末これを撃退した(722頃。コバドンガの戦い)。こうして、イベリア半島はキリスト教徒が守り、キリスト教の聖域として回復させるため、イスラム教徒を駆逐して同半島を再征服することを決意した運動、いわゆるレコンキスタ(718-1492。国土回復運動。Reconquista)が始まった。

 732年には同じキリスト教国家のフランク王国(481-887。アタナシウス派)がトゥール=ポワティエ間の戦い732)でウマイヤ朝を撃退し、イスラム教徒の西ヨーロッパ進出を防いだ。750年、ウマイヤ朝はイスラム帝国のアッバース朝750-1258)に滅ぼされたが、ただ一人生き延びたウマイヤ家の19歳青年がアブド=アッラフマーン1世(位756-788)として、半島南部のコルドバを都にウマイヤ朝の再興を図った(後ウマイヤ朝。756-1031)。しかし発足当初は統治力は低く、フランク王国らキリスト教勢力の侵攻に脅かされ続けた。このレコンキスタの激化に乗じ、アストゥリアス王国は南進・版図拡大をはかり、10世紀初頭までにはドウロ川(ドゥエロ川)以北一帯の半島北西部領域はすべてアストゥリアス王国が占有した。このとき、カンタブリカ山脈の南麓の都市レオンに遷都を決め、アストゥリアス=レオン王国(別称レオン王国。910-1037)となった。
 同10世紀初頭は後ウマイヤ朝の全盛期で、アブド=アッラフマーン3世(位912-961)が君主の時には「カリフ」も称するようになり、強勢を誇った。都コルドバを中心に、かつて西ゴート王国の都だったトレドなども繁栄した。行政も安定し、特にキリスト教勢力のレコンキスタにおいても、カリフのアブド=アッラフマーン3世が果敢に立ち向かい、これを撃退した。この頃のイベリア半島は、中央のグアダラマ山脈以南一帯は後ウマイヤ朝の領土となっていた。

 このため、北のアストゥリアス=レオン王国は侵入に備え、侵入経路である東側地域に数多くの城塞を築いた。これが、ラテン語で"城"を意味する"カスティーリャカスティリャ)"と言われる地域である。932年、この地にカスティーリャ伯領を置いて統治させたが、961年アストゥリアス=レオン王国から独立した。同伯領の北東部に隣接する地域にはバスク系のナバラ王国(820?-1620)があり、1029年、ナバラ国王サンチョ3世(大王。位1004-1035)がカスティリャ伯領を継承してナバラ王国に併合することに成功した。サンチョ大王はバスク人の英雄として崇められた名君で、後ウマイヤ朝の占領地域であったカタルニャ地方(地中海に面し、フランスと隣接する地方)のバルセロナ伯領を獲得し、広大な領域を確保した(その後、後ウマイヤ朝はレコンキスタの猛威で衰退し、滅亡した。1031後ウマイヤ朝滅亡)。

 1035年、サンチョ大王が没すると領地は4人の息子達に分割相続された。長男はナバラ王国(バスク地方)のガルシア5世(位1035-1054)として継承した(その後内紛などで徐々に衰退)。そして次男はカスティリャ王国(1035-1479。広義には1035-1715。カスティリャ地方)のフェルナンド1世(位1035-65)として引き継ぎ、さらにアストゥリアス=レオン王国もおさえて同国を併合した。このためカスティリャ=レオン(連合)王国とも呼ばれる。
 三男と庶子はフランスと隣接するアラゴン地方(現アラゴン州。ナバラの東側)を分けて相続したが、三男が相続直後に死亡したため、庶子が三男の領域も継承した。これがアラゴン王国(1035-1137。広義には1035-1715)であり、庶子はラミロ1世(位1035-1063?)として初代国王となった。その後のアラゴン王国は1137年の政略結婚でバルセロナ伯と同君連合となり、アラゴン連合王国(アラゴン=カタルニャ連合王国。1137-1479)となった。こうして、レコンキスタはイベリアの新しいキリスト教国家、カスティリャとアラゴンを中心として展開された。

 後ウマイヤ朝滅亡後、イベリア半島南半分一帯では25~30のムスリム支配の小国家群が形成され(タイファという)、分立状態となった。代表的なタイファに、セビリャ(半島南西部、アンダルシア地方)・コルドバサラゴサ(半島北東部、現アラゴン州)・グラナダ(半島南部、アンダルシア地方)・トレドバレンシア(半島東部、地中海沿岸)・リスボン(現ポルトガルの首都)などがあり、アラゴン、カスティリャに対抗したが、この頃、マグリブ(アフリカ北西部)にはベルベル系民族のムラービト朝(1040/56/61-1147。首都マラケシュ)がイベリア進出を狙っており、タイファを吸収してキリスト教勢力と戦おうとした。

 しかし、こうしたタイファ諸国も、レコンキスタの餌食となっていく。カスティリャの英雄エル=シド(1045?-99)の活躍もあって、バレンシア征服に成功(1094)、時のカスティリャ王アルフォンソ6世(位1072-1109)もトレド占領に成功し(1085)、イベリア半島中部に流れるタホ川(ポルトガルではテージョ川の呼称)流域まで南下に成功した。
 ただセビリャ征服においては、カスティリャ王アルフォンソ6世が大軍を率いて制圧しようとしたが、ムラービト朝から救援を受けたセビリャは徹底抗戦の姿勢をみせ、アルフォンソ6世の軍を阻んだ(サグラハスの戦い。1086)。ムラービト朝の勢いはこの頃が最盛期であり、コルドバ(1091)、セビリャ(1091)、バレンシア(1102)、サラゴサ(1110)といったタイファ諸国を次々と占領した。しかしその後ムラービト朝は衰退、キリスト教勢力の反撃が再開された。サラゴサにおいてはアラゴン王アルフォンソ1世(位1104-34。戦士王)のとき占領し(1118)、サラゴサはアラゴンの首都となった。またポルトガルにおいてポルトガル王国(1143-1910)がカスティリャ王国から独立を果たし、初代国王アフォンソ1世(位1143-85)がブルゴーニュ朝(ボルゴーニャ朝。1143-1383)を興し、1147年にはリスボンを獲得した。リスボンはポルトガルの首都となる。
 ムラービト朝は1147年に滅亡し、同拠点のマグリブで興った、同じくベルベル系民族のムワッヒド朝(1130-1269。首都マラケシュ)に取って代わった。

 ムワッヒド朝もモロッコを中心に半島南部を支配し、セビリャ、コルドバ、バレンシア、グラナダなどを支配下に入れていた。ムワッヒド朝は、アリストテレス研究に名高いコルドバ出身の万能学者イブン=ルシュド(ラテン名アヴェロエス。1126-98)を輩出した王朝としても知られており、12世紀末期にカスティリャ王国と戦って勝利を収め、勢力を上げた(1195。アラコルスの戦い)。しかし13世紀に入るとムワッヒド朝の半島での勢力も徐々に衰退、同時にレコンキスタが優勢となった。そして、1212年7月に行われた、ムワッヒド朝を中心とするイスラム勢力連合軍と、カスティリャ、アラゴン、ナバラ、ポルトガル、そして諸国を援護する宗教騎士団テンプル騎士団など)らキリスト教勢力の連合軍との大戦争(ラス=ナバス=テ=トロサの戦い)がきっかけとなり、コルドバ(1236。カスティリャ征服)、バレンシア(1238。アラゴン征服)、セビリャ(1248。カスティリャ征服)が次々とキリスト教勢力の手に渡っていった。ムワッヒド朝は1269年、北アフリカにおこったベルベル系のマリーン朝(1195-1465。首都フェズ。現モロッコの都市)に首都マラケシュを落とされ、滅んだ。

 この結果、イベリア半島におけるイスラム勢力は、アンダルシアにあるグラナダを残すのみとなった。


 イベリア半島の登場です。受験世界史に登場するアラゴンとカスティリャが登場します。王国形成期はかなり複雑で、同君連合だったり、複数国の君主である場合にそれぞれの君主名が変わったり、変わったせいで他国国王と同名になったりなど、一歩間違えると訳が分からなくなってしまいます(後述)。たとえば国家の推移を見てみると、まずカスティリャ王国ですと、

西ゴート王国のペラヨがイベリア半島北西部へ逃げ込み、国家形成
→アストゥリアス王国建国
→アストゥリアス=レオン王国(略称レオン王国)に改称
→レオン王国の配下にあったカスティリャ伯が独立
→ナバラ王国がカスティリャ伯を併合
→ナバラ王国が分割相続
→カスティリャ王国が分割された1つとして誕生
→カスティリャがレオン王国を併合(カスティリャ=レオン王国となる)
→(本編紹介無し)レオン王位はその後分割相続の際に"現れては消え"を繰り返し、1252年に完全消滅に至る。

 カスティーリャ王国はラテン語でお城の意味がありますが、これとは別にポルトガル語発音から、お菓子の「カステラ」が生まれたともされています。そしてアラゴン王国においてですが、ナバラの分割相続から登場です。

→ナバラ王国が分割相続
→アラゴン王国が分割された1つとして誕生
→カタルニャ公国のバルセロナ伯とアラゴン王女の結婚で同君連合に。アラゴン(=カタルニャ)連合王国となる。

 実にややこしいですね。もちろん受験世界史ではこのあたりは入試に登場することは稀で、アストゥリアス=レオン王国やナバラ王国は覚えなくても大丈夫です。アラゴンカスティリャの2語だけ知っていれば大丈夫です(実際はポルトガルも入れて3語必要)。

 先程君主の名称も国ごとに変わると言いましたが、たとえば、本編に登場したカスティリャ=レオン王国のアルフォンソ6世はレオン王位の名前で、カスティリャ王位だと、アルフォンソ1世となるそうです。アルフォンソ1世は、アストゥリアス王国時代にもおり(位739-757)非常にややこしいです。ただし受験生は全く気にしなくてもいいところなのでご安心下さい。
ちなみに名称ですが、"フェルナンド"はスペイン・ポルトガル圏、"フェルディナン"はイタリア語圏、"フェルディナン"はドイツ語圏です。

 さて、今回の学習ポイントです。スペイン・ポルトガル史を学習する際、レコンキスタやイスラム史は避けては通れません。レコンキスタは英語的に、"レ"は"再び(=re-)"、"コンキスタ"は"征服(=conquest)"でお分かりいただけると思います。キリスト教勢力による"再征服"です。イスラム勢力によって奪われたイベリア半島(アラビア語でアンダルスといいます)を取り返そうと、重要地点を攻略していくお話です。また本編でエル=シドなる人物が登場しましたが(受験では出題されません)、12世紀、スペインのトゥルバドゥール(吟遊詩人のこと)によって広められたスペイン叙事詩『Cantar de mio Cid(わがシドの歌)』の主人公で知られるぐらい、地元では有名です。

 イスラム勢力では、後ウマイヤ朝、ムラービト朝、ムワッヒド朝が大きく関わりますので注意が必要です。アイウエオ順に登場するムラービトとムワッヒドのキーワードは、マグリブ、モロッコ(ムワッヒド関連)、首都マラケシュ、ベルベル人ってぐらいでしょうか。この2王朝は11世紀から13世紀にかけて興亡を繰り返したことにも注意しましょう。本編に登場しましたが、アヴェロエスことイブン=ルシュドはムワッヒド朝の宮廷に仕えた学者です。"アリストテレス(B.C.384-B.C.322)の研究"が出たらイブン=ルシュドのことですよ。

 さて、イベリア半島の勢力はグラナダを残すのみとなりました。レコンキスタはこれからどうなるでしょうか?イベリア半島の大国スペインはどうやって誕生するのでしょうか?後編をお楽しみに!

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