世界史の目-Vol.171-

国土回復、そして大国の誕生

~中世のイベリア・後編~
-Vol.169- 国土回復への道程 ~中世のイベリア・前編~はこちら

 8世紀前半、イスラム勢力によって占領されたイベリア半島を奪回しようと、キリスト教徒によって始められた国土回復運動、いわゆるレコンキスタは、13世紀になってもその活動の手は止まなかった。彼等は半島中央部のメセタ中央高原にカスティリャ王国(カスティリャ=レオン連合王国。1035-1479。実質王国は1715年まで存続)、半島北東部を流れるエブロ川中流域一帯にアラゴン連合王国(1137-1479。1035-1137間はアラゴン王国であるが、その後カタルニャと同君連合。アラゴン王国としては実質には1715年まで存続)、そして半島西南部のポルトガル地方にポルトガル王国(1143-1910)の3国を中心に発展を遂げ、国土回復運動を展開していった。

 13世紀では、イスラム勢力の強国ムワッヒド朝(1130-1269)の衰退もあって、レコンキスタはより一層促進され、イスラムの支配下におかれた地域は次第にキリスト教勢力によって占領されていった。13世紀半ばにおいて、イベリア半島のイスラム勢力は半島南部に位置するアンダルシア地方のグラナダ(イベリア半島南部)を残すのみとなっていた。つまり、イスラム勢力のイベリア半島の領域、いわゆるアンダルス(アル=アンダルス)と呼ばれる一帯は、この時代ではグラナダを中心とするアンダルシア地方を意味している。

 このグラナダは、後ウマイヤ朝(756-1031)の衰退に乗じて、11世紀初めに国家として自立したものの(イベリア半島内における、イスラム支配におかれた小国家。タイファともいう)、ムワッヒド朝と、その前のムラービト朝(1040/56/61-1147)といったベルベル系イスラム勢力に長く支配され続けた。しかしムワッヒド朝が衰退すると半島南部も混乱状態になった。このとき、アンダルシアのハエン(グラナダ北方)からムハンマド=イブン=ナスル(ムハンマド=ブン=ユースフ。1191?-1273)という人物がでて、1232年、彼はムハンマド1世(位1232-1273)として王朝を創設した。これがナスル朝である(1232-1492)。ムハンマド1世は1237年頃(1238?)にグラナダに遷都してここを首都と定めたため、ナスル朝はグラナダ王国とも呼ばれた。その規模は小さく、半島南東部にその勢力はとどまったが、レコンキスタに対抗しながらも徹底して国勢を維持した。

 スル朝はムワッヒド朝滅亡後も、北アフリカにおこったベルベル系のマリーン朝(1195-1465)との関係を保ちつつ、キリスト教勢力、特にその中で最も強かったカスティリャ王国を警戒していた。1246年、カスティリャ王国のフェルナンド3世(位1217-1252。コルドバ及びセビリャの征服者)は、レコンキスタは完了させるには、イスラムの牙城であるナスル朝の都グラナダを陥落させなければならなかったため、積極的に同王朝を圧迫した。規模の小さかったナスル朝が独立を保つためには、カスティリャ王国、マリーン朝それぞれに友好関係を保たなければならなかった。そこで、ナスル朝はレコンキスタ抵抗のもとで、マリーン朝と友好関係を保ち、カスティリャ王国には朝貢、つまり臣従関係を作って貢納を行い、関係を保持したのである。フェルナンド3世がセビリャを攻略した時、カスティリャ王国を助けたのはナスル朝の軍隊であったが、カスティリャの威力が増すにつれて、ナスル朝をも攻め込む計画が出された。そこでナスル朝はモロッコのマリーン朝と友好同盟を結んで、カスティリャ王国に対抗したのである。マリーン朝も大国ムワッヒド朝を滅ぼした強国であり、カスティリャ王国がナスル朝を攻めるとマリーン朝の逆襲もあり得るため、念入りに警戒していた。ナスル朝・ムハンマド1世は、こうした巧みな外交戦術によって、王位と国家を保持し続けた。
 カスティリャ王国にしてみれば、ナスル朝を服属までこぎつけたので、あとは同王朝が滅んでしまえば、レコンキスタが完成するところまで来ていたのである。ただナスル朝がカスティリャ王国に服属したという点においてレコンキスタは成功したのも同然であり、フェルナンド3世は英雄視された。その反面、膨大な戦費で財政が行き詰まり、イスラム勢力の排斥で国内の諸産業が下降線をたどってしまった。
 またフェルナンド3世の治世でもって、レオン王位はカスティリャに吸収され、フェルナンド3世の退位でもって、レオン王国は消滅、連合王国もしくは同君連合の形はなくなり、単にカスティリャ王国と呼ばれるようになる。次のアルフォンソ10世(位1252-1282)の治世では、レオンの諸制度は廃されて、カスティリャ王国の一本体制へと移っていった。

 ナスル朝は国力をなんとか維持しながら、生存を続けた。この間、文化的にも大いに繁栄した。後ウマイヤ朝時代、グラナダに建築された軍事要塞"アルカサーバ"は、ナスル朝になって13世紀にその規模が拡張され、その東部には多くの建築物が建てられていった。14世紀になっても建築工事は止めどなく行われ、城塞的要素を持った宮殿となっていく。その後、有名な"アラヤネス(天人花)の中庭"や"獅子の中庭"などが建築され、これがやがてイベリア半島に残るイスラムの歴史的文化遺産である"アルハンブラ宮殿"となっていくのである。こうした文化的成長はナスル朝の君主、ムハンマド5世(位1354-91,1362-91)の治世に見られた。きっかけとなったのはマリーン朝が1340年のカスティリャ軍との対戦で大敗を喫したことである。このためマリーン朝は半島政策からの撤退を余儀なくされたため、半島内のイスラム勢力がグラナダに流入、その中で逃げ込んだ建築家をはじめとする文化人をムハンマド5世が保護奨励したことにより、ナスル文化が開花したという経緯による。
 アルハンブラ宮殿のみならず、それより東にあるヘネラリフェ離宮(14世紀初めに建築開始)も名高い。アルハンブラ宮殿は、"イスラム建築の華"と呼ばれ、ナスル朝が残した世界規模的な重要建築物で、ヘネラリフェ離宮、またアルハンブラ西部にあるベルベル系民族の居住区だった"アルバイシン"とともに世界遺産に登録されている。

 一般的にムハンマド5世の時代が、ナスル朝の全盛期とされている。マリーン朝が半島政策を断念し、半島から撤退したため危機的状況を迎えると思いきや、レコンキスタの足踏みもあって(後述)、王朝の国力は維持できた。ムハンマド5世は文化的功績を残しただけではなく、版図最大の領域を確保しつづけ、また外政においてもイタリアのジェノヴァ(ジェノヴァ共和国。1096-1797)、エジプトのマムルーク朝(1250-1517)といった地中海周辺諸国との友好関係を樹立するなど、強い政治力でもって王朝の存続を図った。

 カスティリャ王国を中心とするキリスト教勢力は、レコンキスタの完成を夢見て、ナスル朝の都グラナダを落として王朝滅亡させる準備を整えた。ところが予想外の展開に巻き込まれてしまう。マリーン朝の半島撤退でナスル朝は簡単に落とせるはずだったが、レコンキスタはあと一歩で完成といったところで、思わぬ敵が舞い込んだ。それは黒死病(ペスト)だった。14世紀の大流行はヨーロッパ全土に蔓延し、人口2000~3000万人(ヨーロッパ全人口の3分の1)の病没者を出したと言われ、マリーン朝と戦ったカスティリャ国王アルフォンソ11世(位1312-50)や、次王ペドロ1世(位1350-66,67-69)がの妃もペストの犠牲となった(ペドロが王子の時)。

 そればかりか、カスティリャ王国では内紛も起こっていたのである。折しもヨーロッパ大陸では英仏百年戦争(1339-1453)の最中であったが、ペドロ1世が貴族の粛清を断行して王権強化に努めたため、ペドロの対抗派(イベリア発祥の名貴族トラスタマラ家で、ペドロの異母兄エンリケが中心。1333-79)はアラゴン連合王国を支援に取り付け、また百年戦争を続けるフランス・ヴァロワ朝(1328-1589)のシャルル5世(賢明王。位1364-80)と軍事同盟を結んだ。フランスは百年戦争の一時休戦で仕事が亡くなった傭兵が略奪行為におよび、治安が悪化していたため、これらの制圧を目的としてカスティリャに支援を頼んだのであった。これに対し劣勢となったペドロ派はあろうことかレコンキスタの標的であったナスル朝と同盟を結び、対抗派がフランスならこちらはイギリスと、プランタジネット朝(1154-1399)のエドワード3世(位1327-77)の長子、エドワード黒太子(Edward,the Black Prince 1330-76)に取り入って支援を受けた。ペドロは王家の嫡流であるが、エンリケが庶流であったことを優位に話を進め、遂にイギリスと軍事同盟の締結にこぎ着けたのである。こうして英仏百年戦争はイベリア半島においても戦争の一環として戦闘が展開され、両軍それぞれペドロ1世とエンリケを中心として一進一退を繰り返した。このためレコンキスタは一時停滞することとなった。
 その後ペドロ派とイギリスとの同盟はまもなく破綻、ペドロ1世も戦没してペドロ派は衰退、エンリケがカスティリャ王として即位した(エンリケ2世。1369-79)。これにより継承戦争はいったん終息し、レコンキスタも1410年に再開された。

 一方、アラゴン連合王国では、シチリア島サルディーニャ島、そしてナポリ王国(1282-1816)を配下に入れるなど、"地中海帝国"の名にふさわしい活動を行う一方で、国内ではカスティリャ同様、貴族抗争が絶えなかった。また、ルトガル王国は、自国の版図から早々とイスラム駆逐を完了してレコンキスタを終わらせた(13世紀半ば)。14世紀に興ったアヴィス朝(アヴィシュ朝。1385-1580)では、首都リスボンは大いに栄え、絶対王権化と海外進出がすすめられた。アヴィス朝の初代国王だったジョアン1世(位1385-1433)の王子が、有名なエンリケ航海王子(1394-1460)であり、大航海時代の幕開けとなる。

 15世紀、カスティリャ王国はエンリケ4世(位1454-74)の治世となった。エンリケは次の王位に娘フアナ(1462-1530)を推したが、”実子ではない"という噂が貴族の間で持ち上がり、対立貴族側はエンリケ4世の異母妹のイサベル(1451-1504)を擁立した。またもや内乱に突入したカスティリャでは、フアナ派(ポルトガル支援)とイサベル派(アラゴン支援)で戦闘が繰り広げられたが、結果イサベル派が勝利してイサベルの即位が決まり(トロス=デ=ギサント協定)、カスティリャ女王イサベル1世(位1474-1504)が誕生した。
 イサベルは王女時代の1469年、アラゴン王子のフェルナンド(1452-1516)と結婚していた。フェルナンドは結婚を機に、カスティリャ王フェルナンド5世(位1474-1504)としてイサベルと共同統治を担当することになった。そして、1479年、フェルナンド5世はアラゴン王フェルナンド2世(位1479-1516)としても即位を決め、2人が統治するカスティリャとアラゴンが同君連合として統合に向かった。その結果、両国はスペイン王国の成立となったのである。大国スペインがイベリア半島に誕生した瞬間である(スペイン王国誕生1479)。

 この統一に驚倒したのがナスル朝であった。1470年には全盛期を過ぎた親玉のマリーン朝が既に滅亡しており、アンダルスのイスラム勢力はこの首都グラナダを拠点とするナスル朝のみであった。地中海をはじめとする海上政策もスペインによって身動きできず、経済打撃は深刻な状態であっただけに、グラナダ陥落は時間の問題であった。1480年代になると王室の内紛も頻発し、ボアブディル王(ムハンマド12世。位1482-92)の時代になるとレコンキスタによるカスティリャ王国(ここではスペインを構成する一王国)の侵攻も激化した。
 1490年に突入すると、グラナダはカスティリャ軍によって遂に包囲された。そして1492年1月2日、ボアブディル王は遂に北アフリカへの亡命を決め、アルハンブラ宮殿と王都グラナダは陥落、ナスル朝の260年の歴史に幕が下ろされた(1492グラナダ陥落ナスル朝滅亡)。イベリア半島のキリスト教勢力によって展開した国土の完全回復は、800年近い時を経てようやく現実となったのである(1492レコンキスタ終了)。

 1496年、レコンキスタを完成させたカスティリャ女王イザベル1世とアラゴン王フェルナンド2世(カスティリャ王フェルナンド5世)は、ローマ教皇によってその功績を称えられ、"カトリック両王"を授与された。その後もイベリア半島におけるイスラム教徒やユダヤ教徒はキリスト教に迫害的に改宗させられ、改宗できない各教徒は半島から外へ出された。そして、イベリア半島に住むイスラム教徒の聖地であったアルハンブラ宮殿のモスクは教会へ修築され、カトリックの宮殿と変わっていったのであった。

 その後スペインは"王国"から太陽の沈まぬ"大帝国"として大成長を遂げていく。


 イザベル色(イザベラ色)という、薄茶っぽい色名をご存知ですか?グラナダ陥落が実現するまでの3年間(9ヶ月間とも?)、イザベル女王は願を掛けて下着をいっさい替えませんでした。グラナダ陥落後、替えないでおいた下着がイザベル色になっていたというわけです。これが有名なイザベル色の由来です。お食事しながらお読みになっていた方々、すみません。

 さて、2話に渡ってお送りいたしました、イベリア半島のレコンキスタですが、スペイン誕生を生んだ歴史的大事件をご紹介しました。スペインが誕生し、イベリア半島における最後のイスラム王朝(ナスル朝)を倒してレコンキスタを完成させるまでのお話でした。キリスト教とイスラム教の両方の影響を受けたアルハンブラ宮殿も遂に登場しました(生で見たことはないのですが、個人的にも世界遺産で五本の指に入るぐらい好きな宮殿です)。
 さっそく学習ポイントですが、「カスティリャのイザベルとアラゴンのフェルナンドが結婚して1479年スペイン王国となり、1492年、美しいアルハンブラ宮殿のあるナスル朝の都グラナダを落として、イスラム勢力を駆逐し、レコンキスタは完了した。」これで良いかと思います。ポルトガルは大航海時代に入り(エンリケ航海王子は覚えましょう)、アラゴンは地中海政策を施していたので、レコンキスタはカスティリャ王国がほぼ中心で行われました。またイザベル女王は、1492年、クリストファー=コロンブス(1446/51-1506)を援助して新大陸発見を導く場面でも有名な人ですね。

 さて、このあとの内容をほんの少し。イサベルとフェルナンドの王女フアナ(1479-1555。カスティリャ王位1504-55,アラゴン王位1516-55。本編に登場したフアナとは別人)と、ハプスブルク家マクシミリアン1世(神聖ローマ皇帝位1493-1519)の王子フィリップ(1478-1506。フェリペ1世(フェリペ1世は僭称だそうです。カスティリャ王位1504-06))が政略結婚します。ヨーロッパ大陸を席巻した神聖ローマ帝国(962-1806)がイベリア半島の雄スペインと手を交わすことになるのです。フアナとフィリップとの間にはカルロス(1500-58)が生まれます。しかし王位を両親から引き継いだフアナが、精神疾患となり実際は1555年まで王位にいますが、1508年以降は軟禁状態にありました(さらに1506年フィリップは原因不明の死を遂げて以降、フアナは重症になります)。そこで1516年、カルロスがカルロス1世としてスペイン王となり(位1516-56)、1700年までスペイン=ハプスブルク家の統治が続きます。言うまでもなくカルロス1世は神聖ローマ皇帝カール5世(位1519-56)として即位し、広大な領土を支配する君主として激動の時代を歩んでいくのはご存知の通りですね。

 余談ですが本編にも登場した半島南部に位置するアンダルシアの語源は5世紀にこの地を征服したゲルマン一派・ヴァンダル人の地を意味する"ヴァンダルシア"から取られたものだそうです。世界史受験生にとってカルタゴなど北アフリカに大移動したヴァンダル人は重要用語ですが、北アフリカ定住前にイベリア半島南部にもちょこっと寄っているのですね。

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