世界史の目-Vol.172-

ピープル・パワー

 現在のフィリピンは第三共和国と言われる。最初の共和政は1899年のエミリオ=アギナルド大統領(任1899-1901)によるマロロス共和国(1899-1901)で、第二の共和政は1943年、日本の軍政下においておこされた(フィリピン第二共和国。1943-45)。そして三番目の共和政となったのは1946年、アメリカからの占領から解放され、マニュエル=ロハス大統領(任1946-48)のもとで第三共和政が始まったのである。ラモン=マグサイサイ大統領(任1953-57)の時、日本とは1956年に国交を回復している。

 マグサイサイ大統領の時の懸案事項の一つに、反政府組織のフクバラハップ(フク団)の存在があった。フク団はもともと抗日軍事組織で、1942年ルイス=タルク(1913-2005)を中心に結成され、ルソン島を中心にゲリラ活動を行っていた共産主義団体である。戦時中はアメリカの対日戦に協力し、戦後は東西冷戦が発展していく中で、共産主義組織のフク団に対して武装解除を求めたアメリカと対立を深め、遂に反米組織に変貌した。1950年にはフィリピン人民解放軍(HMB)と改称したが、政府軍の圧力に苦しみ、規模が縮小化していく。大統領就任前からHMB制圧を始めていたマグサイサイは、最後の砦であったフク団改めHMBのリーダー、ルイス=タルクを投降すべく、ジャーナリストだった当時22歳の青年を使って説得を行った。その青年はベニグノ=アキノJr.(1932-83。愛称"ニノイ")と呼ばれる人物であった。結果ベニグノ=アキノJr.は4ヶ月に渡り説得に成功、タルクは投降、逮捕され、フク団改めHMBは壊滅した。

 このベニグノ=アキノJr.の功績は国民にも大いに称えられ、同1955年、22歳の若さでルソン島タルラック州のコンセプション市長を経験、同時に同州出身のコラソン=コファンコ(1933-2009。後のコラソン=アキノ。愛称"コリー")と結婚を発表した。その後も州知事当選(1961)、上院議員(1967。フィリピンで史上最年少の上院議員当選記録)へと、順調にのぼりつめた。

 1965年、親米反共産派のフェルナンド=マルコス(1917-1989)が大統領に就任した(任1965.12.30-1986.2.25)。アギナルドから続いて10人目のフィリピンの大統領の誕生である。東西冷戦が続く中、マルコスは失業率削減、貿易自由化、工業化促進を推進、西側諸国との関係を強化していくなど積極政策を推進した。アメリカとは1951年に反共軍事条約である米比相互防衛条約を結んだ親米反共の立場から、米軍基地の提供や、アメリカのインドシナ問題に協力して派兵を行った。さらにアメリカが指揮する反共軍事同盟、東南アジア条約機構SEATO。8ヵ国。1954-77)にも参加して反共を主張した。こうした積極策を行うことによって支持率は安定し、1969年の大統領選挙では再選を果たしている。しかしフク団やHMBに代わる共産系の軍事組織・新人民軍(NPA)との武力衝突をはじめとして、マルコス行政に反する左翼・極左勢力も増加傾向にあり、不安を覗かせていた。

 そして、その不安は1970年になって顕在化した。学生や労働者の反マルコス派が台頭し、"ファースト・クォーター・ストーム(FQS。第1四半期の嵐。1970.1-70.3)" と呼ばれる反政府運動が勃興、また国内南部のイスラム系少数派民族(モロ族)の反政府組織(モロ民族解放戦線。MNLF。1996年に和平協定を締結)も登場し、政情不安定となる。しかし、マルコス大統領にとって、親米反共の姿勢は崩さないことを大前提にしていたため、こうした暴動の原因を共産主義者の存在にあると位置づけ、政権の正当化を主張した。しかし反マルコス闘争は依然として続き、共産主義者の活動も止まなかったため、マルコス大統領は遂に大きな行動に出た。

 1972年9月21日、全軍隊の最高司令官としての大統領に付与された権限に基づいて、フィリピン全土に戒厳令が発せられた。憲法(1935年制定)は停止され、議会は解散、言論・出版・表現・集会といった国民の自由は奪われ、政敵は逮捕された。特に政敵の中心と言われたベニグノ=アキノJr.も反政府行為の容疑で逮捕された。ベニグノは1977年に死刑を宣告されたが、国民に非常に人気のある政治家であったため、反マルコス活動を増長させる結果につながるとして執行は見送られ、妻コラソンと共にアメリカへ追放処分となった。

 戒厳令布告によって、マルコスは全権掌握となった。1973年には新しい憲法を制定して首相主導の議院内閣制への政体変更、1976年には大統領が長期政権を維持するため、大統領の発令で議会選挙を行うまで大統領及び首相の兼任を可能にした。これにより1978年、マルコス大統領は首相職にも就任した(任1978-81)。こうしてマルコス大統領の独裁政治が始まった(マルコス独裁)。
 独裁が始まって以降、専権と政治腐敗が一段と進んだ。また親族や取り巻き("クローニー"と呼ばれる)によるフィリピン経済の壟断・私物化が行われ、海外からの借款も急増したため、経済成長率が大幅に悪化していった。このため、国民の生活が困窮と化した。この状況は、フィリピンと同盟関係にあるアメリカも警戒した。

 こうした中で、国民議会選挙が行われた。結果は与党であるマルコス派の新社会運動(KBL。Kilusang Bagong Lipunan)の圧勝であった(161議席中151議席獲得)。一方のベニグノ=アキノJrの支持派は議席獲得はならず、マルコス派の選挙不正を主張し、次の国民議会選挙(1981)をボイコットした。その後戒厳令は解除され(1981。直後にローマ教皇の訪比があったため)、マルコスは首相職を次のセザール=ヴィラタ(財務長官任1970-86。首相任1981-86)に譲った。直後に新憲法制定後の最初の大統領選挙戦が始まったのだが、野党である反マルコス派政党はまたしても選挙をボイコット、結果マルコスの圧勝となり、再選が決定した。

 一方、アメリカのボストンで亡命生活を強いられていた反マルコス派の筆頭ベニグノ=アキノJr.は外から反政府運動を展開していたが、強権政治によって苦しんでいるフィリピン国民の窮状脱却を一番に考えるべきとして、危険を承知の上で帰国を決断した。ベニグノは1987年の大統領選挙戦に出馬するための帰国でもあった。マルコス政権ではベニグノは危険分子の筆頭とされていたため、以前のマルコス政権では死刑執行は見送られたが、今回は状況が違い、独裁政権である。帰国してすぐにでも殺されるかもしれない危険な状況であった。しかしベニグノは、帰国を決断したのである。

 1983年8月21日、ベニグノ=アキノJr.を乗せた航空機が、マニラ国際空港に到着した。ベニグノは厳重な警備に囲まれて乗降口から出てきた。タラップを降り、駐めてあった護衛車に乗り込もうとしたその瞬間、何者かがベニグノに近づき発砲、ベニグノは頭を狙撃され、その場に倒れ即死した(ベニグノ=アキノJr.暗殺。1983)。犯行に及んだとされるロランド=ガルマンなる人物(?-1983)はすぐさまその場で射殺された。ロランド=ガルマンなる人物がなぜ犯行に及んだのか、そもそもなぜ事件現場にいたのか、本人の意志なのか、それとも誰かの指示によるものなのか、その誰かとは一帯何者なのか、事件は闇のままである(のち首謀者が断定され裁判にかけられるが、無罪判決となる。1985)。

 夫の突然の死によって、妻コラソンに同情が集中し、コラソンは反マルコス派の象徴的存在となった。ベニグノの葬儀には数百万に及ぶ参列者が弔問に訪れ、その死を悼んだ(マニラ国際空港は現在の"ニノイ・アキノ国際空港"と呼ばれるようになる)。そして、独裁政権に唯一戦える存在であった英雄の死は、貧困に苦しむ国民を発憤させ、現体制の打倒を強く叫ぶようになった。コラソンは夫ベニグノの遺志を継ぐ決意をする。

 一方のマルコスは病気で療養中だったため、親族や取り巻きが国務を取り仕切っていたが、外資を投じる資本家が政情不安に憂い、さらなる離反が相次いだ。特に観光業が頭打ちとなり、海外からの観光客が激減した。こうした経済悪化により経済成長率は低下、不況が到来して失業者が増加した。とくに汚職の温床となっていたバターン原発(活火山が多いバターンに建設。構造上の欠陥や安全性の問題が指摘されるも、独裁政権の利益が重視された)に反対する民衆が廃止をうったえ、さらには反原発運動・反核運動に発展するなど、政権を脅かした。

 こうした不安なフィリピン情勢を見て、同盟国だったアメリカ、ロナルド=レーガン大統領(任1981-89。共和党第40代)もフィリピン政府に警告を発し、マルコスの政権維持が危うくなった。大統領は任期6年、次は1987年に選挙戦がある。しかしその時まで待つ余裕はなく、待っても形勢不利となるかもしれない。政情不安を解消させ、経済と国際関係の回復を国民に約束するため、マルコスは大統領選挙実施の繰り上げを決めた。
 こうして1986年に大統領選挙が行われることになったが、反マルコス派は当然、コラソン=アキノを擁立した。コラソンは民主主義のシンボルカラーである"黄"色の衣類を身につけて選挙活動を始め、国民の窮状を嘆き、この原因をマルコスの独裁政権として徹底批判し、大多数の支持者を集めていった。そして、フィリピン全土は黄色いシャツで埋め尽くされていった。独裁政権の強力な背後に負けず、果敢に反マルコスを叫び続けたのである。

 そして、同1986年2月7日、投票が行われた。コラソン及び多くの支持者、いや国民の多くはコラソン=アキノ政権の誕生と確信した。
しかし、選挙管理委員会による開票結果は160万票の大差がついた、フェルナンド=マルコスの当選と発表したのである。マルコスのあからさまな選挙不正操作であった。アメリカはすぐさまマルコス側を批判、またカトリック教会からも非難が集中した。コラソンはマニラのリサール公園で集会を開き、"マルコスは明らかに不正を行った、当選は受け入れない"と発表、そして自身の勝利を宣言した。これに同調した国民が黄色のシャツを身にまとい、反マルコス運動を展開した。そして、マニラの大通り、エドゥサEDSA。エピファニオ=デ=ロス=サントス=アヴェニュー。Epifanio de los Santos Avenueの通称)に100万人のコラソン派・反マルコス派が押し寄せ、マルコス退陣を求めた。政府内にも国防相や陸軍参謀総長ら離反が相次ぎ、改革派による空軍基地占拠行動も勃発した。そして25日、マラカニアン宮殿に囲まれたマルコス夫妻はアメリカ軍ヘリコプターで脱出し、ハワイに亡命、20余年に及ぶ独裁政権に終止符が打たれた。そしてコラソン=アキノが新たに大統領に就任した(アキノ大統領誕生。任1986.2.25-1992.6.29)。夫ベニグノが果たせなかった志を妻コラソンが果たしたこととなった。一方、マルコスはアキノ政権やアメリカのレーガン大統領から不正蓄財・国家資産横領の容疑で起訴されたが、公判中の1989年、亡命先のハワイで没したため、全容解明とはなっていない。

 フィリピンにおける一連の政変は"フィリピン二月革命"、"フィリピン人民革命"、"エドゥサ革命"、"イエロー・レヴォリューション(黄色い革命)"などと称されたが、この革命の神髄はエドゥサによる人民の力で成し遂げられた革命、文字通りの"ピープル=パワー"の革命("People Power Revolution")であった。


 2009年夏にコラソン=アキノ氏が没しました。そして彼女の遺志を継ぎ、2010年ベニグノ=アキノJr.とコラソン夫妻の三男で、"ノイノイ"の愛称で知られるベニグノ=アキノ3世上院議員(1960生)が見事、2010年大統領選挙に当選を果たしました。第15代目のフィリピン大統領の誕生と言うことになります。

 ベニグノ=アキノJr.氏の暗殺事件があったとき、私は中学生でしたが、テレビで暗殺時の映像が流されたことを思い出します。それからフィリピン情勢は頻繁にニュースやドキュメンタリー番組で取り上げられ、暗殺の瞬間や葬儀の映像、マルコス大統領のわかりやすい英語スピーチ、豪奢生活の全容など、毎日のように取り上げられていましたね。他ではアキノ大統領のとき、ルソン島にある火山(ピナトゥボ山)が1991年大噴火を起こしましたが、この大噴火による基地の被災が原因の1つとなって同年に米軍撤退へとつながりました。

 さて学習ポイントを見てまいりましょう。受験世界史では第三世界の現代史にあたるこの分野ですが、教科書には1986年におけるフィリピンの政情は、マルコス政権が倒れたといった表現で必ず出ています。本編に登場した"ピープル・パワー革命"とか"エドゥサ革命"といった名前の表記は出ませんが(かつては"フィリピン政変"の表記で出てました)、革命名は覚えなくとも、1986年だったこと、マルコス政権が退陣したことは知っておく必要があります。用語集では、米比相互防衛条約(1951)、ベニグノ=アキノJr.暗殺事件、コラソン=アキノ大統領就任、さらにはアキノ氏以降の大統領も掲載されています。詳しくは、フィデル=ラモス(任1992-98)、ジョセフ=エストラーダ(任1998-2001)、グロリア=マカパガル=アロヨ(任2001~2010.6)です。あと用語集では解説文内に収まる程度のマイナーレベルとなりましたが、国内のイスラム民族が結成した"モロ民族解放戦線(本編でも登場)"も以前は用語として出ていました。入試で書かすことは稀ですが、余裕があればモロ関連はフィリピンと覚えておきましょう(ベルベル系イスラムも属する"ムーア人"が由来)。
 また今回の分野とは関係ございませんが、太平洋戦争でフィリピン海域が激戦場となったのがレイテ沖海戦(1944.10)であることも知っておきましょう(特に日本史分野で)。

 余談ですが、マルコスが大統領に就任した頃、ワールドツアーでフィリピンに来ていたビートルズを、大統領夫人のイメルダ=マルコス(1929生)が主催するパーティーに招待しようとして断られた事件がありました。断られたイメルダ夫人側は怒ってマスコミやメディアを通じてビートルズを批判したため、帰国時空港でビートルズは暴行に遭うなど大問題となりました。マニアックなビートルズ・ファンなら誰でも知っているエピソードです。

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