世界史の目-Vol.173-

ホセと半島戦争

 フランス、ナポレオン=ボナパルト(1769.8.15-1821.5.5。皇帝ナポレオン1世。帝位1804-14,15)の第一帝政時代(1804-14/15)。皇帝となったナポレオンの征服活動は迫力を増し、大陸制覇に向けて対外諸国と戦うことになる。そしてイギリスを初めとする対外諸国は、第3回対仏大同盟(1805-06)を結んでフランス・ナポレオン帝国に対抗しトラファルガー沖の海戦(1805)では勝利を収めたがこれのみで、その後、アウステルリッツ三帝会戦(1805)、ライン同盟(1806))、大陸封鎖令(ベルリン勅令。1806)、ティルジット条約(1807)、ワルシャワ大公国成立(1807)というようにフランス優勢に進み、大陸の覇権が次々とナポレオンに手渡っていった。これにより、イタリア、オランダ、ドイツ諸邦、ポーランド、ベルギー、ルクセンブルクはナポレオン帝国の支配下に呑まれ、ロシア、プロイセン、オーストリアは屈辱的な協力国を強制されて、大陸制覇も秒読み段階であった。まさにこの時がナポレオン帝政の絶頂期であった。

 しかしナポレオン帝政による征服は、従属と化した諸国の民に対し、フランス革命(1789-1799。1794年のテルミドールのクーデタで革命終結とする場合もある)で芽生えた"自由と平等"を掲げた精神を注入させる結果にもつながった。このため、ナポレオン帝政に対する抵抗運動が各地で頻発するようになる。

 このとき、イベリア半島のスペイン王国では、ブルボン家によるスペイン=ブルボン朝(ボルボーン朝。1700-1931。現在の王政まで入れる場合もある)の治世であった。国王カルロス4世(位1788-1808)の時代だが、政務はもっぱら、国王が厚く信任する若き宰相マヌエル=デ=ゴドイ(任1792-97,1801-08)と王妃マリア=ルイサ(1751-1819)に任せていた(ゴドイと王妃は愛人関係にあったとされる)。カルロス4世と王妃マリアとの間には長男フェルナンド(1784-1833)がいたが、宰相ゴドイに敬遠されていた。

 ゴドイはナポレオンによって占領された隣国ポルトガルの南部(アルガルヴェ地方)の領有をナポレオンと協議してこれを承諾(フォンテーヌブロー密約。1807)、王太子を押しのけるほどの勢力となっていた。しかしゴドイの行政およびカルロス4世の反動的な絶対主義は民衆に反抗精神を呼びおこし、反ゴドイのフェルナンドを支持するようになっていった。しかも、フォンテーヌブロー密約に対してナポレオンは建前上締結したものであって、実質はスペイン占領を考えていたのであった。
 折しもこの時期はゴドイの執政に対して逆風であった。当時の反ナポレオン運動からくる"自由と平等"の叫びと相まって、カルロスの絶対王政を嫌う自由派や、ゴドイを嫌うフェルナンド派の抵抗運動も活発化していた時期だったのである。ゴドイは、次期王位継承者であるフェルナンドの治世になれば、間違いなく罷免させられると確信していたため、アルガルヴェ地方の領有は罷免された後の立派な保障だった。だからこそフォンテーヌブロー密約はゴドイにとって非常に好都合な密約であるはずであった。

 1808年3月、カルロス4世の絶対主義に対する暴動がマドリード南部のアランフェスで起こった(アランフェス暴動)。結果カルロス4世は退位、フェルナンドが即位してフェルナンド7世となった(位1808,1813-33)。生まれ変わったスペイン王国ボルボーン朝に、民衆は大いに喜んだ。しかしフェルナンド7世による王政がスタートしたものの、国内ではスペイン国民のナショナリズムが叫ばれ、"自由と平等"の精神を掲げて、ナポレオンに対する抵抗運動が活発化していた。この情勢を見れば、やがて迎える次の相手はナポレオンであるから、この王政もそう長くはないだろうと不安視していた。
 そしてゴドイは宰相を解任され、カルロス4世、マリア王妃とともに国外追放となった。ゴドイが保障されるはずだった、フォンテーヌブロー密約で領有したはずのアルガルヴェ地方もあてが外れて没収となり、結果ゴドイはマルセイユに亡命、密約を破棄したナポレオンは10万の軍を率いてスペインに侵攻した。国民の不安は的中したのである。

 フォンテーヌブロー密約がナポレオンのスペイン侵攻作戦の1つであったことを知ったフェルナンド7世は時すでに遅く、即位して3ヶ月足らずでナポレオンに退位させられ、フランスのヴァランセに幽閉された。これにより、スペイン・ブルボン家は追放され、新たな王として、ジョセフ=ボナパルト(1768-1844)がホセ1世(位1808.6.6-13.12.11)として迎えられた。そう、ナポレオンの実兄であり、1806年からジュゼッペ1世としてナポリ国王にも就いていた人物である(位1806-08)。

 ナポリ王を義弟ジョアシャン=ミュラ元帥(1767-1815。ベルク公位1806-08。ナポリ王位1808-15。ジョアッキーノ1世)に譲ることになったジョセフは、フランス皇帝である弟ナポレオンの意図を受けて、スペイン王ホセ1世となった。しかしホセ1世即位前から、スペインではナショナリズムによる反ナポレオン運動が活発化していた。ホセ1世はそうさせまいと早くから統治改革の実施にむけて準備していた。これはフランス革命で行われたようなブルジョワジーを優位に導く封建的特権の廃止などを始めとする近代化政策が主となったが、これはスペイン解放を期待させ、フランスとの相互協力をもとに施行される政策であるとしてスペイン人の親仏派(アフランセサドス)からは歓迎された。しかし現実はこれを嫌う国内の守旧派や大地主、聖職者のような封建的特権をもつ階級には当然睨まれた。さらに弟ナポレオンはスペインのフランス化を重んじており、スペイン近代化という考えは持っていなかったため、近代化政策を掲げると自由主義・国民主義が高揚するとして、常に兄の執政に対し牽制をかけていた。

 ホセ正式即位前の5月、ナポレオン軍が入城したマドリードでは、市民がフランス軍に対して暴動を起こし、ナポレオン軍はその鎮圧に向かった。2日夜から翌3日朝にかけ、ミュラ元帥の指揮の下で激しいマドリード市民の弾圧を実行した。カルロス4世時代の宮廷画家フランシスコ=デ=ゴヤ(1746-1828)が描いた「マドリード 1808年5月3日プリンシペ・ピオの丘での虐殺(銃殺)【外部リンクから引用】)」で示されるように、無抵抗のマドリード市民が次々と銃器で虐殺される有様で、婦女子を含む数百名の市民が虐殺されたという。
 ホセはスペイン国民との理解を深めることが重要としたが、ナポレオンは反抗者はすべて討伐する考え方であり、ホセ即位後もナポレオンはスペイン国民への弾圧を続けた。このためホセ1世は国王として国民から全く支持されない状況であった。

 ホセ即位を機に反ナポレオン運動がマドリードを始め各地に頻発したが、この運動はポルトガルにも流れ、イベリア半島一帯は混乱状態となった。ナポレオンの大陸支配に対するスペインのゲリラ兵を中心とする対ナポレオン軍の戦闘状態は日を追うにつれて激化し、ナポレオン戦争の1つとして拡大、やがてアーサー=ウェルズリー陸軍中将(1769-1852。ウェリントン公爵やイギリス首相で知られる。公位1814-52。首相任1828-30)の率いるイギリス軍がスペインとポルトガルの反乱軍を支援する大戦争へと発展していった(1808-14。スペイン反乱半島戦争。スペイン独立戦争)。ナポレオン1世帰還後も戦闘は続き、スペイン側は根強く抵抗、6年も続く長期戦となり、戦況は泥沼と化していった。ホセ1世はスペイン政府軍とナポレオンが派兵したフランス軍を併せ、半島内の至る所で連合軍と戦った。

 1810年でフランスはスペイン全土をほぼ制圧したが、フランス軍は潰れても潰れても発生するスペインのゲリラ兵に悩まされ、多大な戦費も重なった。ホセ1世は戦闘が激化するにつれて、即位時にため込んでいた、スペインとフランスの相互協力に基づく近代化計画はもはや実行できないと考えていた。ナポレオン1世は相互協力ではなく、フランス支配をもとにスペインに軍政を敷く計画を実行したことで、スペイン政府軍はすべてナポレオン軍に実権を握られ、結果的にはホセ1世はナポレオンの傀儡政権となってしまった。ホセ1世は、弟によってスペインに敷かれたフランス軍主導による軍政下で、この半島戦争をスペインゲリラ兵、ポルトガル、そしてウェリントン率いるイギリスの連合軍を敵として戦わねばならなかった。

 さらに思わぬ事態が起こった。1812年、ナポレオンが大陸制覇の矛先をロシアに向けたのだ。いわゆるロシア遠征である。遠征軍補強のため、戦闘が泥沼化しているスペインで、3万のフランス軍の削減が余儀なくされた。親仏派(アフランセサドス)から構成されていたホセ1世の軍は、ナポレオン軍の大幅な削減で劣勢に転じることになる。
 そして1813年6月、バスク地方のビトリア近郊でウェリントン率いる連合軍と、ホセ1世率いるフランス軍が対峙したが(ビトリアの戦い)、フランス軍の兵力低下と活気づいたゲリラ兵の抵抗に悩まされ、孤立したホセの軍は壊滅的打撃を受けて敗北した。ウェリントン率いる連合軍の歴史的勝利であった。同年、ドイツの古典派音楽家ルートヴィヒ=ヴァン=ベートーヴェン(1770-1827)はウェリントン公の軍功と戦勝を称え、交響曲『ウェリントンの勝利』を作曲した(同年末に自身の指揮で公演)。

 多大なる戦没者を出し、半島戦争の大敗者となったホセ1世は、弟ナポレオンに見放されたまま、廃位となった(ホセ1世廃位。1813.11)。自身が実行したかった政策は弟に阻害され続け、わずかな支持者がいただけの四面楚歌状態で、フランスに従ってスペイン国民相手に戦い敗れた、傀儡国王の哀れな末路であった。結果ホセ1世と称されたジョセフ=ボナパルトは、その後アメリカ等亡命生活を余儀なくされ、イギリスを経て最後はイタリアのフィレンツェで没した(1844)。ナポリ王、スペイン王、戦争責任だけでなく、弟没後も七月革命(1830)で新しい王政が誕生した後に、既に没落した第一帝政の皇帝に擬せられるなど(位1832-44。いわゆる帝位請求ができるボナパルト家の家長をさす)、最後まで弟に弄ばれた一生であった。

 弟ナポレオンもロシア遠征失敗後、敗戦を続けて、最後と戦いとなるワーテルローの戦い1815)で宿敵ウェリントンを相手に大敗を被り、没落した(1821年セント=ヘレナ島で没)。

 その後のスペインでは連合軍によってフェルナンド7世が再び迎えられて、ボルボーン朝が復活した(1813)。しかし、列強はその後開催されるウィーン会議をもとに繰り広げられる"勢力均衡と国際秩序の再建"からくる反動体制と向かう中で、フェルナンド7世も父カルロス4世と同様に反動的な絶対王政を実施することになり、これまでの自由主義的改革は失われていき、国内の政情不安定はぬぐえなかった。この状態から脱却できないスペインを見ていた、スペイン支配下のラテン=アメリカ諸国がスペインからの解放に向かって大いなる独立運動を始めていく。


 半島戦争は、ナポレオン軍に対して武装蜂起した、スペイン人の反ナポレオン派の軍人や国民が臨機に起こした奇襲攻撃が激化したものですが、このスペイン兵のとった作戦が小規模な戦争を意味する"ゲリラ(guerrilla)"になったそうです。"ゲリラ"という言葉の由来がここから来ているのですね。またこの戦争を題材として上演されたオペラが、かの有名な『カルメン』です。半島戦争が終わってもスペインの政情は安定せず、結果的にスペインからの独立を目指して、ラテン=アメリカで独立運動が起こるという事態に陥ります。

 今回の学習ポイントを見てまいりましょう。ナポレオン時代におこったスペインでの戦闘が今回のメインですが、"半島戦争"という呼び名を知らなくても"スペイン反乱"、"スペイン独立戦争"といった呼称で聞き覚えもあるかと思います。高校生の使用する用語集ではこの3通りの呼び方のどれかが使われていると思います。ホセ1世ことジョセフはスペイン王だけでなく、ナポリ王にも就いていたことは当然知っておきましょう。ただ、ホセ1世という呼び名は知らなくてもよろしいです。半島戦争、その後のロシア遠征でナポレオンの第一帝政は転落の一途をたどっていきますが、そのあたりの内容はこちらでご確認下さい。画家ゴヤのマドリードでの虐殺を描いた「マドリード 1808年5月3日プリンシペ・ピオの丘での虐殺(銃殺)【外部リンクから引用】)」は教科書や資料集で掲載される頻度が高いので、ご存知だと思います。ゴヤの名も覚えておきましょう。

 最後に帝位を請求できるボナパルト家の家長が登場しましたが、ナポレオンの弟、ルイ=ボナパルト(1778-1846)も兄ジョセフ=ボナパルトと同じ運命をたどり、ナポレオンに征服されたオランダの国王として操られます(位1806-10。ローデウェイク1世。ルイが当時オランダ国王だったことは入試でも重要)。ジョセフの次に第一帝政皇帝に擬せられます(位1844-46)。当然帝政ではなかったので、ボナパルト家の中での話ですが。ルイの次に擬せられたのが息子のルイ=ナポレオン(1808-73)で、彼はのち1852年に本当の帝政(つまり第二帝政。1852-70)をしくことになります。そう、ナポレオン3世(位1852-70)です。

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