世界史の目-Vol.175-

消えたローマ教皇・前編

~フランス王権の強勢~

 ローマ=カトリック教会の長であるローマ教皇。その権力の絶頂期は、11世紀半ばから13世紀前半にかけてとされている。その中には1077年の"カノッサの屈辱"で神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世(帝位1084-1105。ドイツ王位1056-1105)を屈服させたローマ教皇グレゴリウス7世(位1073-85)や、カンタベリ大司教の任命権をめぐって英王ジョン(位1199-1216)を破門し、第4回十字軍(1202-04)を提唱したローマ教皇インノケンティウス3世(位1198-1216)など、強力な教皇が現出された。なかでもインノケンティウス3世の治世では、各ヨーロッパ君主は教皇権によって意のままに任免され、宗教のみならず、政治、軍事、経済、文化、社会までその勢力を拡大した。1215年のラテラン公会議において発した言葉である「教皇は太陽、皇帝は月」から、当時の教皇権の絶大さがうかがえる。

 一方で、各国の君主権、特にフランス王権は非常に弱体的であった。当時フランスはカペー朝(987-1328)の時代だった。12世紀にでた第6代国王ルイ7世(位1137-80。若年王)の治世においても王権の弱体は避けられなかった。
 そもそもルイ7世と言う人物は、アキテーヌ公位をもつ王妃アリエノール(エレアノール。公位1137-1204)とともに第2回十字軍(1147-49)に参加したが失敗して撤退、その後アリエノール王妃との離婚によってアキテーヌ公位と広大な領土を失い、しかもアリエノールはルイ7世の臣下であるアンジュー伯ヘンリ(伯位1151-89)と再婚を果たしたため、アキテーヌ領をめぐって英仏戦が勃発するなど、政治的・軍事的に功績を残せる力はなく、性格も気弱で、カトリック信仰が唯一の癒しとするなど、国王には似つかわしくなかった。最愛の妻をヘンリに取られ、アキテーヌ領がイングランドに渡り、しかもイングランド・プランタジネット朝(1154-1399)の初代王となる広大な国家君主ヘンリ2世(位1154-89)として台頭させたのは、対抗するフランスの君主権力にとって大きなマイナスとなった。相手国イギリスがそのような状況下であってもルイ7世はカトリック心酔がエスカレートする一方で、ヘンリ2世の迫害したカンタベリ大司教トマス=ベケット(1118-70)を保護し(しかしその後ヘンリ2世によって暗殺される)、また修道院長の進言もあってパリにあるノートルダム大聖堂の修築(1163-1225)を王令として発するなど、まるで聖職者そのものであり、禁欲を重んじるなど信仰心の厚い国王であった。当然、第2回十字軍の指揮も教皇の命というより、自身の信心深さから来たものだったかもしれない。
 ルイ7世は、その後2度目の結婚をしたが2女を残して王妃は死別、もし男児が生まれなかったらイングランドのプランタジネット家に吸収されるという男子相続に危機感が募る中、シャンパーニュ伯の娘アデル(1140?-1206)と結婚を果たし、遂に男子を誕生させることになった(1165)。この人物こそ、フランス王権を強化させてフランスを救い、カペー朝の全盛期を前出した第7代王フィリップ2世(尊厳王。オーギュスト。位1180-1223)なのである。

 フィリップ2世はノルマンディー、ブルターニュといった大陸のイギリス領を奪い(1204)、また第3回十字軍(1189-92)に参加するなど活躍、父ルイ7世の足りなかった部分を充分に補った。一方こうした活躍とは裏腹に、イギリスではヘンリ2世の三男のリチャード1世(獅子心王。位1189-99)らをはじめとする息子達4人の内紛に巻き込まれ、フランス軍との抗争にも劣勢に立たされた。結果父の残した広大な領土を失い、フランスに手渡るという有様で(しかも前述のジョン王による失政も重なる)、ヘンリ2世の残した功績をつぶす形となり、親の治世と子の治世が英仏それぞれ逆転した形となった。

 フィリップ2世の登場によってフランスの君主権が瞬く間に伸張していった。しかし他国の君主と比べて、あるいは自国カペー朝のこれまでの国王とくらべると、確かに王権は強化されていた。しかしローマ教皇の権威と比べるとまだまだであり、ローマ教皇インノケンティウス3世の絶大な権力には歯が立たなかった。フィリップ2世が離婚問題を持ち出すと、即位したばかりのインノケンティウス3世は容赦なくこれを罰したといった事件もあった(1198。聖務停止)。フィリップ2世は「自身がイスラム教徒ならば」と嘆くほど、ローマ教皇に対して不満であったとされている。

 フィリップ2世没後即位した子・ルイ8世(獅子王。位1223-26)、つづく孫ルイ9世(聖王(アメリカ・セントルイス市の由来)。位1226-70)もフィリップ2世の遺した事業を継承し、中央集権化をはかった。特にルイ9世は功績が大きく、ルイ8世時代から続く南フランスの異端アルビジョワ派カタリ派マニ教の影響がある)の弾圧にむけてアルビジョワ十字軍(1209-29)を主導、南フランスの異端諸侯やアルビジョワ派を壊滅させた(ただし、エジプト・チュニスへの攻撃を中心とした2度にわたる十字軍は失敗している。1248-54,1270)。また英王ジョンの子ヘンリ3世(位1216-72)からノルマンディー、アンジュー、アキテーヌ、ポワトゥーなどを獲得し(パリ条約。1259)、南フランスを手中に収めた。内政では私戦禁止、貨幣統一、ソルボンヌ神学校創設(のちのパリ大学)、裁判制度の改善、施療院建設、騎士修道会の1つであるテンプル騎士団の育成などを施し、フランス君主権の強さを発揮した。彼の伝記はジャン=ド=ジョアンヴィル(ルイ9世に仕えた騎士。1224-1317)は『聖王ルイの生涯』に詳しい。

 なかでもルイ9世のアルビジョワ派根絶と南フランス王領拡大は、まだ親政期でなかったにせよ、王権が拡大するに従い、異端を生むほど堕落した聖職界に対する革新運動も徐々に広がりを見せ始め、教会権威がインノケンティウス3世時代の絶頂期と比べると、明らかに下降線をたどっていた。もともとアルビジョワ十字軍は1209年、ローマ教皇インノケンティウス3世が提唱した十字軍であったが、この十字軍の活躍で南仏の有力諸侯が国王の権威に屈服し、皮肉にも教皇権を下降させる結果をもたらすことになる。

 ルイ9世没後、次子のフィリップ3世(剛勇王。位1270-85)も安定した王権を現出した。そしてフィリップ3世が没し、子のフィリップ4世(端麗王。位1285-1314)の治世となると、教会権力はさらに揺らぎ始める。
 フィリップ4世は強力な中央集権化を貪欲にもとめた。これまで官僚には聖職者が存在したが、それらを退けてローマ法に通じる法曹界からの採用を促し、官僚制度を強化した。これは後のフランス絶対王政の基礎固めとなった。
 また結婚・相続を通じてナバラ王国(820?-1620)とシャンパーニュ伯を支配下に入れたフィリップ4世は、イギリスの貿易相手であるフランドルギュイエンヌ(ギエンヌ)に対し出陣(1294-1314間。フランドルは1314年まで、ギュイエンヌは1299年まで)、イギリスの影響力を排除しようとしたが(特に1302年7月、フランドルのコルトレイクでの戦いは"金拍車の戦い"と呼ばれる)、必死の抵抗にあい、長期にわたったものの成果は得られなかった。そして、今回の戦争により発生していった戦費負担で財政が逼迫し、税制改革を余儀なくさせられることになる。それが聖職者への課税であった。

 これまでは免税とされてきた聖職者だったが、官僚を外された上に免税権も廃されるとなると、もはや一般市民階級と同様であり、当時のローマ教皇であるボニファティウス8世(位1294-1303。ローマ南東のアナーニ出身)は断固として反対、1296年に教皇勅書"クレリキス=ライコス("俗人は聖職者に")"を発表、教皇の許可なくして聖職者の課税を認めなかった。しかし動じない国王フィリップ4世は、教皇庁への献金を停止し(1296)、対抗した。

 ボニファティウス8世はウルトラモンタニスト(教皇至上主義者)であり、王権が教皇権を凌ぐことは絶対許されないとしていた。落ちかけている教皇の権威を取り戻すため、1300年、初めて「聖年(ローマ=カトリック教会における、ローマへ巡礼できることの、特別の赦しを与えた年)」を規定した。ボニファティウス8世はこの聖年制定でローマに巡礼者を集め、多額の浄財を得ることができ、ローマ教皇の威信回復に尽力した。また、国王支持派のローマの有力諸侯だったコロンナ家と争い、結果彼等を破門にして所領を奪うなど、財政難で苦しむフランス国王をよそに、ボニファティウス8世の勢力は安定していくかに見えた。

 しかし教皇権回復も束の間であった。フィリップ4世は、無礼な言動をとったボニファティウス8世の使節を逮捕し、裁判にかけたのである(1301)。ボニファティウス8世はこの経緯についてするどく非難した。これを受けたフィリップ4世は、ローマ教皇と対立する傾向を示し、教皇の豪勢な生活や異端性のある言動など、逆に教皇を非難し、フランス国民の教皇に対する不支持勢力が増大化した。そこで、絶妙のタイミングとなる1302年4月、パリのノートルダム大聖堂に聖職者・貴族・平民の代表からなる身分制合同会議、いわゆる三部会を初めて開催した。この画期的な身分制議会開催によってフィリップ4世の支持が急上昇、伝統を重んじて聖職者階級の特権を主張するローマ教皇への非難が集中することになる。

 フィリップ4世の反撃に対しボニファティウス8世は、1302年11月、教皇勅書"ウナム=サンクタム(唯一の聖なるもの)"を発表、至上なるものは(王権ではなく)教皇権であると主張し、フィリップ4世へ破門を突きつけた。しかし、フィリップ4世は、宰相を通じて以前破門された国王支持派であるコロンナ家と結び、ローマに軍を送らせた。破門の苦しみを味わい、財産を奪われたコロンナ家の教皇に対する怨恨は大きく、フィリップ4世側を支援することになったのである。1303年、ボニファティウス8世はローマを出て生まれ故郷のアナーニの別荘に逃げたが軍に取り押さえられ、教皇を逮捕した。アナーニ市民の教皇支持者によって助け出されたが、国王から受けた人生最大の侮辱と屈辱は教皇の体をむしばみ、数週間後に没した。これがアナーニ事件である。

 教皇の憤死で教皇庁は危機に立たされた。教皇に即位した北イタリア出身のベネディクトゥス11世(位1303-04)は、選出後数ヶ月で謎の死を遂げ、1年間教皇空位がおこった。フィリップ4世は枢機卿(教皇の最高顧問)に圧力をかけ、結果フランス人でボルドー大司教のクレメンス5世(位1305-14)がコンクラーヴェ(教皇選挙)で選出され、フランス南東部にあるリヨンで戴冠式を挙げさせた(1305)。またフィリップ4世はフランス人の枢機卿を多数任命して、教皇庁内においてもフランス化をすすめ、王権をさらに強化させた。

 フィリップ4世は教皇庁が王権でもって機能が動くようになったことで、教皇クレメンス5世に対して、ローマからフランス南東部(地中海側)のアヴィニョン(ローヌ川にかかるサン=ベネゼ橋で有名)への教皇庁移転を強要した。クレメンス5世はフィリップ4世の意のままに操られて、結局アヴィニョンに教皇庁をそっくり移転させることとなった。これにより、70年近く、ローマに教皇および教皇庁が消え失せる事態となった。フランスにしてみれば、ローマ教皇ならぬ、"アヴィニョン教皇"の誕生であった。この教会組織のアヴィニョンへの強制移転のことを、古代ユダヤ民族が新バビロニア(カルデア。B.C.625-B.C.539)に強制移住させられた故事になぞらえ、教皇のバビロン捕囚1309-1377)といい、約70年近く、ローマ=カトリック教会およびローマ教皇は、フランス君主のもとで管理されることになった。

 カトリック教会の拠点であるローマからローマ教皇庁およびローマ教皇が姿を消した、衝撃の瞬間であった。


 ある高校世界史用の用語集に"王の奇蹟(奇跡)"という言葉を見かけました。フランスの歴史学者マルク=ブロック(1886-1944)の著書名からとられていると思いますが、これはのち16世紀以降の絶対王政時代に出てくる"王権神授説"そのもので、つまりキリスト教でこれまで神が行ってきた病気治癒などの奇蹟を、国家の王が行うということで、カペー朝やプランタジネット朝の王は、呪術的権威はキリスト教を管理する教会にはなく、王室にあるという宣伝を行うことによって、神の代わりを務めたというものです。特に中世の西ヨーロッパでは王より各地諸侯勢力の方が強勢だったから、当時の国王が病人に触れると治るという国王の神聖化を喧伝することによって、国王の権威を高めたのですね。

 今回は受験世界史においても大事な大事な分野です。君主権が強勢化していくフランス・カペー朝の王朝史と中世における西ヨーロッパの大事件、アナーニ事件と教皇のバビロン捕囚を、イギリスの王朝史も交えながらご紹介しました。ただ今回は長い時代を扱いますので前後編形式になります。

 さて、今回のポイントです。フランス・カペー朝は言うまでもなく、パリ伯だったユーグ=カペー(伯位956-996。王位987-996)が始めたフランス王朝です。受験で覚えるカペー王はこのユーグ=カペーと、フィリップ2世、ルイ9世、フィリップ4世の4人でよろしいでしょう。カペー朝の全盛期を現出したフィリップ2世は第3回十字軍や、イギリス・ジョン王との領地奪い合いのところで出てきます(新版用語集では赤字で登場しますが、なぜか前版は名前すら記載されませんでした)。ルイ9世は十字軍関連でジプト・ュニス侵攻(エッチのルイ9世で覚えよう)で登場しますし、アルビジョワ十字軍関連でも登場します。このルイ9世の登場で王権が伸張していくと考えてよろしいです。アルビジョワ十字軍ですが、アルビジョワ派は南フランスのアルビ地方で広まったカタリ派キリスト教のことを言います。カタリ派は異端宗教で、マニ教の影響を受けていることがキーワードとなって出されることがあります。そして、メインのフィリップ4世ですが、三部会開催、アナーニ事件、教皇のバビロン捕囚などを行った国王として、よく出題されます。
 本編ではルイ7世も登場しますが、受験ではマイナー事項で、超難関校でたまに見かけるぐらいです。覚えなくても大丈夫でしょう。
 イギリス王朝史については、Vol.32「英国議会の誕生」やVol.94「ノルマン=コンクェスト」などで確認して下さい。

 そしてローマ教皇ですが、絶頂期はインノケンティウス3世の時です。この人は十字軍関連、ジョン王関連で登場します。諸国の王を次々に破門を突きつけた王で有名です。そして、アナーニ事件(1303年)のボニファティウス8世、教皇のバビロン捕囚(1309-1377)のクレメンス5世は事件、内容、年代と合わせて知っておきましょう。教皇のバビロン捕囚では、移し先がアヴィニョンというフランス南東部の都市も覚えておきましょう。アヴィニョンの西郊にあるガール水道橋は有名です。

 さて、教皇庁がアヴィニョンに移り、フランス国王によって支配されてしまったローマ教皇。この続きはいかに!?

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