世界史の目-Vol.177-

翠玉(すいぎょく)の聖島・その1

~ある伝道師の布教~

 紀元前(B.C.)3千年紀末から紀元前2千年紀にかけて、ヨーロッパ中・西部に独自の文化を形成したインド=ヨーロッパ系民族がいた。その民族はケルト人と呼ばれ、青銅器文明、そしてこれに続く鉄器文明を通して民族的発展を遂げていき、ライン川、ドナウ川、エルベ川の流域を支配するようになり、B.C.7世紀からB.C.3世紀にかけてガリア(フランス方面)、ブリタニア(グレート=ブリテン方面)を中心に移り住んで交戦・交易をさかんに行っていった。ガリアのケルト人はガリア人、ブリタニアのケルト人はブリトン人と呼ばれ(古代ローマ人がこう呼んだ)、それぞれの地を支配していった。

 大陸のガリアではB.C.1世紀、ガイウス=ユリウス=カエサル(B.C.100-B.C.44)のガリア遠征(ガリア戦争。B.C.58-B.C.51)が行われ、ガリア人はローマに征服された。一方ブリタニアのブリトン人は紀元後(A.D.)1世紀にローマ皇帝クラディウス1世(A.D.41-54)によって征服された(帝政ローマのブリタニア征服。A.D.43-410)。これによりケルト系民族の活動は縮小の一途をたどり、ローマ人との同化がすすんだ。
 5世紀になると、ゲルマン民族の大陸での活動が盛んになり、ガリアにも侵入した。このためローマのホノリウス帝(位395-423)は大陸政策を強めるためブリタニアから撤退してガリアに集中したことで(410)、ブリタニアのブリトン人はその後侵入したゲルマン一派のアングロ=サクソン人に支配され、七王国時代(449-829。ヘプターキー)を形成してケルト社会を圧迫していった(410年から449年までの間はブリトン人の部族社会が行われてたらしいが、この時代はいわゆる暗黒時代であり、歴史文献も少なく不明の部分が多い)。

 グレート=ブリテン島に西接するアイルランド島においても、紀元前3世紀頃(B.C.265?/B.C.250?)よりケルト人の移住が行われ、ケルト人文化が形成されていった(この時、アイルランド移住を果たしたケルト人の最後の集団を"ゲール人"とも呼ぶ)。ケルト社会ではドルイドと呼ばれる自然崇拝の宗教的指導者が立法と行政の両権を携えて支配し、しかもローマに支配されることもなかったとされるが(古代ローマ人はアイルランドを"ヒベルニア"と呼んでいた)、A.D.5世紀までのアイルランドは前述と同様に暗黒時代であり、不明な部分も多い。またケルト人が大陸からブリテン諸島へ渡ったこと自体疑問視されており、諸島の民族が大陸のケルト文化・社会を吸収したという説もあり、真相はまだ謎である。

 またアイルランド島におけるケルト系民族をアイルランド人と呼ぶが、前述の紀元前に大陸から渡来したケルト系民族だけでなく、ケルト渡来前の有史以前から居住して石器時代・青銅器時代・鉄器時代を歩んだ民族、そして中世以後の移民族も総称して"アイルランド人"と呼ばれる。ちなみにケルト渡来前のアイルランド事情を簡単に言うと、最初に島に居住した民族はおそらくスコットランドからの入植者で、紀元前7500年頃であるとされている。アイルランドにおける石器文明の誕生である。そして紀元前2000年頃の青銅器時代を経て、前述のケルト人が入植した紀元前3世紀頃に鉄器時代を迎えることになる。

 アイルランド島では多神教が信仰されたが、A.D.5世紀、イギリスのウェールズ出身のキリスト教信者パトリキウス(聖パトリック。387?-461)がでて、432年、ローマ教皇ケレスティヌス1世(位422-432)の命により、アイルランドへキリスト教の伝道を行った。アイルランド布教の始まりである。

 聖パトリックは16歳の頃、奴隷としてアイルランドに連れてこられ、アイルランド人の経営する牧場で働かされたことがあった。その後パトリックは神のお告げを聞いたとされ、牧場を脱出してウェールズに戻ったという。その後ガリアで神学を学び、司教位を授かった。聖パトリックは自身を奴隷にしたアイルランド人に対して、アイルランド人への教化が必要であると心に決め、キリスト教の伝道を使命として、今度は自らの足でアイルランド島北東部のアルスター(全9州。2010年現在、うち北部は6州)に上陸した。

 アイルランドの首長はドルイドに基づく独自の宗教を行っていたために聖パトリックの布教に嫌悪感を示していたが、聖パトリックはアイルランド人の伝統と宗教を理解しつつ、キリスト教との融合をはかりながら、30年かけて布教を行った。このときパトリックは、三つ葉のシャムロック(シロツメグサ)を使い、「シャムロックが三つ葉になっているのは、父なる神・子なるキリスト・聖霊が1つとなっている"三位一体"を表している」と教えたのである。シャムロックは現在のアイルランドの国花である。
 またドルイドという絶対的な宗教的権力を持つアイルランドの首長に対し、パトリックはある魔力を用いた。これを見た首長はパトリックこそ神の遣使と信じ、首長はパトリックに屈したとされる伝説がある。またケルト教会のシンボルとなっているケルティック・クロス(ケルト十字架。【外部リンク】)は聖パトリックが産み出したといわれる。

 この布教によって、司教ではなく修道院が中心のキリスト教が広まった。これがケルト教会と呼ばれるケルト系キリスト教である。当時のアイルランドが部族制国家であったため、中央集権的要素の濃い司教区を形成するのは不利だったために、修道院制度を優先適用したとされる。結果、一人の殉教者を出さずに布教が成功し、アイルランド布教に貢献した聖パトリックは、アイルランドの守護聖人として崇められた。パトリックの命日である3月17日は、ローマ=カトリック教会では記念日とされ(聖パトリックの日)、現在のアイルランド共和国では祝祭日であり、人々はシャムロックを身につけ、盛大に祝う。

 こうしてアイルランドには独自のキリスト教が広まっていったが、9世紀になるとノルマン人ヴァイキング)の活動が激しくなり(第2次民族大移動)、アイルランドでもノルマンの来襲に遭い社会不安が押し寄せた。修道院活動は停止を余儀なくされ、アイルランドにおけるケルト教会は衰退に向かった。またこれと同時に、大陸やイギリスからローマ=カトリック教会における幾多の修道会が流入し(有名なのはヌルシアのベネディクトゥス(480?-547)モンテ=カシノに創始したベネディクト会)、徐々にカトリック化が進んだ。

 12世紀になると、イングランド東部のハートフォードシャー出身のローマ教皇ハドリアヌス4世(位1154-59)が即位、アイルランドの完全なカトリック支配を計画した。これはアイルランドが十字軍遠征に協力が無かったためで、同1154年にイングランド・プランタジネット朝(1154-1399)の初代王として即位したヘンリ2世(位1154-89)に対し、イングランド国王のアイルランド支配を認めることを口実に教書、同地のカトリック化を狙ったのである。ヘンリ2世はその後アイルランド遠征を行って現在の首都であるダブリンに築城、アイルランド諸豪族の首長として同地を服属することになった(1171)。イングランドのアイルランド支配熱はここから始まったとされる。

 結果、アイルランドのカトリック化がいっきに進み、ケルト教会を代表とするアイルランドのキリスト教はほぼローマ=カトリック教会に吸収された。


 ヨーロッパ史が続きますが、連載177回目にして、ようやくアイルランド史をご紹介することができました。アイルランドをメインにしたのは初めてでございます。前回も前後編で分けましたが、今回はさらに数話に分けたいと思います。何せ今回は膨大ですから。

 アイルランドの首都ダブリンは、9世紀にノルマン人がアイルランド侵攻を行った時、築城した場所をアイルランド語("ゲール語"とも言います)で"Dubh Linn(=黒い水溜まり)"と読んだことが名前の由来だそうです。

 さて、今回の学習ポイントです。高校教科書では中国史のように独立したアイルランド史の分野はあまりありませんが、通史・テーマ史関わらず入試には出題されやすい、非常に重要な国です。具体的にはイングランドやスコットランドなど、隣接地域と関連させる問題が多いかと思います。
 本編に登場した聖パトリックは、難関私大や難関国立大などでまれに問題文に登場することがあり、また問われる場合もあります。用語集には出てませんが、余裕があれば知っておきましょう。
 またアイルランド分野とはあまり関連されませんが、本編でベネディクト会ベネディクトゥス派修道院)が登場しました。ヌルシアのベネディクトゥスが6世紀にモンテ=カシノという中部イタリアの岩山に修道院を創設して、厳しい戒律を掲げたことは受験では必修事項ですので注意しましょう。ベネディクトゥスは"禁欲・清貧・純潔・服従"を修道生活の体系に組み込み、欲の依存力や世俗勢力の強いローマから離れて、宗教活動だけでなく貧民救済や農作業など純粋な社会活動の必要性を説きました。これが有名な "ora et labora(祈り、かつ働け)"です。この聖ベネディクトゥス戒律は要チェックですよ。

 最後に、ヘンリ2世のアイルランド遠征ですが、イングランド王としては初めて、アイルランド侵略を行った人物です。マイナー事項ですが、私大入試では稀に、初めてアイルランド侵略を行ったイギリス王は誰かという問題でヘンリ2世を答えさせることがあります。要注意です。

【外部リンク】・・・wikipediaより

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