世界史の目-Vol.180-

翠玉の聖島・その4

~反撃と合併~

その1~ある伝道師の布教~はこちら
その2~イギリスの侵略~はこちら
その3~残酷な征服~はこちら

 17世紀にイングランドによって征服されたアイルランド(第二次アイルランド王国。1660-1800)。アイルランド農民の所有地はすべてイングランドに収奪され、イングランドの不在地主によって、小作労働を強いられていった。宗教的見地からすれば、プロテスタントのイングランドがカトリック刑罰法によってアイルランドのカトリック教徒を強制的に抑え込む形態となっていた。アイルランド議会においてもプロテスタント化が進行、カトリック議員は退けられてカトリック信者の参政権も奪われるなど(1727)、宗教的差別は続いた。また入植者であるイングランド系住民の、在地ケルト系住民に対する民族的差別も消えることはなかった。

 18世紀のイングランドは、第二次ステュアート朝(1660-1714)の歴代国王がアイルランド国王・スコットランド国王を兼ねていった。最後の君主アン女王(英(イギリス)・蘇(スコットランド)王位とも1702-1707。愛(アイルランド)王位1702-14)の時、イングランド・スコットランド同君連合から両国一帯の統一国家となり(グレートブリテン王国。大ブリテン王国。Kingdom of Great Britain。1707-1800)、アン女王はグレートブリテン王国初代王(位1707-14)兼、引き続きアイルランド国王となった。第二次ステュアート朝に続くハノーヴァー朝(1714-1901)も大ブリテン国王がアイルランド国王を兼ね、アイルランド支配は続いた。

 そのアイルランドで、アイルランド議会はイギリス議会および政府との対立を深めていった。重商主義をすすめるイギリス議会は、本国の産業を保護する目的で植民地に対英輸出の制限をかけ、1699年の毛織物法(羊毛品法)をはじめとし、帽子法(1732)、糖蜜法(1733)、鉄法(1750)などの施行はそれぞれ植民地の産業体制・貿易体制を大きく動揺させ、イギリス本国を経済的に優位に導かせるものであった。製造業・貿易業を制限されたアイルランドや北米植民地はイギリス本国への不満を増大させた。こうした状況から、アイルランド内のプロテスタントの特権階級や富裕層などはアイルランド人としての意識が芽生え始めた。これはアメリカ独立革命(1775-83)の時代、北米大陸におけるプロテスタントのイングランド入植者が、イギリス本国に対してアメリカ人として独立する意識に近いものがある。 

 そもそもイギリスによる征服後、収奪されたアイルランドの農地はイギリスの不在地主によって管理され、それ以降アイルランドの民はイギリスへの激しい不満と対立を深めていた。もともと同地を所有していたアイルランドの地主は隷属的な小作農("コティアー"と呼ばれる。入札小作人)としてイギリスの不在地主に搾取された。地主がイギリスにいる状況であるから、つくりあげた商品作物はアイルランド国内では流通されず、すべて高関税で輸出品にまわった。結果、アイルランド国内に農産物が流通されにくくなり、窮状化はますます激しくなっていった。18世紀前半のアイルランドでは寒波や飢饉などで大量の農民が命を落とし、国力は衰退していった。

 『ガリヴァー旅行記』の著者で知られるダブリン出身の風刺作家ジョナサン=スウィフト(1667-1745)は、イギリスに渡ってトーリ党を支持し、アイルランドを抑圧するホイッグ政権を批判していた。1720年代は母国アイルランドの惨状をうったえ続け、貧民救済となるべき私案を発表している。これは『穏健なる提案(1729)』と呼ばれ、限界に来ているアイルランドの、窮状から脱却する救済方法を述べている。スウィフトはアイルランド政策を続けるロバート=ウォルポール政権ホイッグ党。首相任1715-17,21-42)へ向けて、この方法を手掛けるしか道はない状況を訴えたとされている。
 この『穏健なる提案』は当時のアイルランドにおいて、母親が貧困のため育児ができない理由で、堕胎もしくは間引く(養育困難の理由により親が育児を殺害すること)ような最悪の状態であったことが根底にあり、こうすれば生活費が切り詰められ、人口が抑えられて1人あたりの生活水準が下げられずに済み、国家負担を防ぐというものであった。これをスウィフトは窮状から脱却するために子どもを利用するのなら、人口を抑制するのなら、そして国家負担を防ぐのなら別の解決法を見出すべきだと主張、発表に至ったわけである。その提案とは具体的には、(<注意>多少猟奇的な内容を含むため、気分を害する場合がありますので反転状態にしてあります。直後の空いた部分をマウスでドラッグすると読めますが、読む場合は良識をもって読むとし、不要の場合は読まないで下さい。新年早々、恐縮です。

"産まれた子どもをまず1年間、母親の母乳とわずかな食物でしっかり育てる。これだけで2シリングほどの経費で抑えられる。1歳になった幼児は食料として国内の富裕階級や貴族階級に売りつけ、これで貧民は収入を得ることができる。しっかりと育てられた健康な幼児は1歳になるととても美味で栄養があり、富裕階級や貴族階級、地主階級にとっては高価で最適な食材となる。この方法を用いれば貧民を救済でき、子を持つ親も堕胎および間引きによって子どもの人生を不幸に終わらせることもない。これで民生が安定し、国家負担を防ぐことができる。"

という内容を、スウィフトは数値を用いて算術的に説明しており、真面目な持論として主張している。しかしこれは、アイルランドの貧困状態が極限まで迫り、こうした解決しか貧民を救済できる方法はないぐらいひどく落ち込んでいることをイギリス政府に訴えたものであった。『穏健なる提案(A Modest Proposal)』という反語的なタイトルもイギリス政府に対して揶揄的に投げかけた皮肉であろう。植民地の惨状を理解せず、解決法を見出さないばかりか、重商主義政策で自己の国益のみを追求する態度のイギリス政府に対して、アイルランド議会も嫌気がさし、反政府運動を行うようになっていった。

 1775年、北米植民地で勃発したアメリカ独立戦争(1775-83)が勃発し、イギリスは北米を失う危機に立たされ、アイルランド政策どころではなくなった。というのは、英仏植民地戦争によって奪われた植民地を奪回しようと狙い、北米の独立支持側についたフランスが参戦すると想定されたからである。もしフランスが参戦となると、一番近いイギリス植民地であるアイルランドも侵略の対象となる。そして1776年、北米は独立宣言(1776.7.4)を発し、1778年、フランスは北米植民地と米仏同盟を結び、イギリスに宣戦した(1778。独立戦争のフランス参戦)。
 フランス参戦でアイルランド侵攻が予想されたことで、アイルランド議会では侵攻を予想してアルスター義勇軍(アイルランド義勇軍。IV。Irish Volunteers)を組織した。このアルスター義勇軍組織の第一人者はヘンリー=グラタン(1746-1820)という議員で(任1775-97・1800)、アイルランドにおける敏腕政治家であった。
 グラタンはダブリン出身で、アイルランド人としての誇りを持っていた。彼は貿易の自由化とアイルランド議会の立法自主権の獲得、つまり議会のイギリスからの独立を常に呼びかけていた。そもそもアイルランド議会は庶民院・貴族院の二院とアイルランド王を兼ねるイギリス王で構成されていた。アイルランド議会は国内においては最高議決機関であるが、植民地であるだけに最終議決はイギリス議会に委ねられた。このため、アイルランド議会の議決は、イギリス議会の圧力によって抑えられることも多かった。
 アメリカ独立戦争が進行するにつれて軍事費支出が続くイギリスでは財政負担が続いた。グラタン議員はイギリスの財政状態に乗じてイギリスに迫り、貿易自由化と議会独立を要求した。結果、まず1779年に自由貿易は承認された。そして1781年10月にイギリスの戦敗と北米独立がほぼ確定したことで、グラタンはさらにイギリスに圧力をかけ、1782年になってようやく議会独立に成功した(1782アイルランド議会の独立承認)。以後18年間、アイルランド議会は"グラタン議会"と呼ばれ、イギリス議会と対等な地位を確立した。

 ただ、アイルランド国内においては、議会は独立したものの、国家的独立の実現は遠いものであった。また依然として消え失せない新旧の宗教対立、とくにカトリックへの差別撤廃は大きな課題で、自由と平等という、持って生まれた人権の獲得にむけて、好機を待った。
 1789年、イギリスの敵国フランスでフランス革命(1789-99)が勃発し、人権宣言(1789.8.26)がフランス国民議会(1789.6.17-1791.9)で採択された。フランス革命政権に刺激されたアイルランドに対して、イギリス首相ウィリアム=ピット(小ピット。首相任1783-1801)はアイルランドのカトリックへの理解と寛容が示されたが、1793年にフランス国王が処刑されたことで、対仏大同盟(第1回。1793-97)が結ばれ、フランス革命政権に抵抗を示したことで、革命政権に通じたアイルランドの改革派(1791年結成の"ユナイテッド・アイリッシュメン"など)はカトリック解放にむけて国内各地で反乱を起こした(アイルランド反乱。1798年蜂起が最大)。しかし改革派の反抗は長続きせず、フランスの支援があったものの、イギリス軍によって鎮圧された。

 イギリスの小ピット首相はアイルランドを併合してフランスと対抗する必要を考えた。また首相がアイルランドのカトリック系住民に対する寛容策を示したことで、アイルランドのプロテスタント議員は、アイルランド議会を解散してイギリス議会との合同を考えるようになった。しかしグラタン議員はアイルランドの自治を獲得することを主張していたため、合併合同に反対した。そこでイギリスは、アイルランド反乱の反省を持ちかけて、信教の自由におけるカトリックの解放を条件にアイルランド議会を宥め、1800年、イギリス議会及びアイルランド議会双方でアイルランド合同法(1800。合併法。1800年連合法。ユニオン・アクト)が可決成立、第二次アイルランド王国とグレートブリテンの合併が決まり、アイルランド議会は解散してイギリス議会に組み込まれた。連合法をアイルランド議会が同意したのは、合併後のイギリス議会で100議席以上の確保が約束されたことにあった(またカトリック解放を喜ばないプロテスタント主体のアイルランド議会がカトリック解放を条件に連合法を可決したのは、イギリス議会の、アイルランド議会議員への贈賄・地位の約束・土地分配などがあったとされる)。

 1801年1月1日、グレートブリテンおよびアイルランド連合王国が成立(1801-1927。アイルランド併合)、国王はハノーヴァー朝ジョージ3世(英・愛とも王位1760-1800。連合王位1801-20)、首相はトーリ党の小ピット(1759-1806。任1801年3月まで)から対仏穏健派のヘンリ=アディントン政権(任1801-04。トーリ党)に代わるが、その後小ピットが再任され、没するまで政権を維持した(任1804-06)。イギリス議会には上院・下院あわせて130数名のアイルランド議員が加わることになった。

 しかし、カトリック解放は理解できても、行動に移すにはまだ困難であった。カトリックの参政権は併合後も認められない日々が続いた。このため、アメリカ独立の二の舞になるという怖れを抱いたジョージ3世によって、公約だったカトリック解放は連合誕生の段階では見送られてしまった(小ピット首相の1801年3月辞任の原因)。これにより連合王国ではアイルランドのカトリック解放が当面の課題となっていく。
 グラタンは議会合併直後は下野していたが、その後イギリス下院議員として(任1805-20)、カトリック解放問題の解決に向けて奔走したが、1820年没し、墓碑はウェストミンスター寺院の小ピット首相の墓碑のそばに埋葬された。同1820年は、カトリック解放を拒んだジョージ3世の没した年でもあった。

 カトリック解放にむけて、1800年代新たな嵐が吹き上がる。その中心にいた人物こそ、1823年、「カトリック協会」を結成して解放運動を展開した、ダニエル=オコンネル(1775-1847)であった。 


 あけましておめでとうございます。本年も神戸マンツーマン指導専門学院、ならびにこの「世界史の目」をよろしくお願いいたします。

 さて、総数180話目の大台に乗った第4話ではアイルランドがグレートブリテン王国に併合されるまでのお話をご紹介しました。世界史の目が前身の"高校歴史のお勉強"から数えて遂に180作品目を突破するとは夢にも思いませんでしたが、これもひとえに支えて下さった読者の皆様のおかげであります。本当にありがとうございます。

 さて本編ですが、18世紀のアイルランドと、イギリス本国の動向が中心となりました(グレートブリテンとなったことで、国名をイギリスとさせていただいております)。17世紀の征服後、アイルランドの状態は酷いものでした。本編・そして前話でもその惨状がお分かりいただけたと思いますが、この苦しみは18世紀中、ずっと続きました。これが、いわゆるアイルランド問題として後世に残っていくのです。

 では、今回の学習ポイントを見てまいりましょう。ここで受験世界史に登場する内容では、1801年の合併でしょう。連合王国時、内閣は対仏大同盟のピット政権、国王はジョージ3世です。ジョージ3世は受験で答えさせる問題はあまり出ないと思いますが、いわゆるアメリカ独立戦争、フランス革命、第一次イギリス産業革命といった全世界激動の時代を渡り歩いた国王として、問題文などに登場することがあります。ハノーヴァー朝を開いたのがジョージ1世(英・愛とも王位1714-27)ですから、3番目の王様であることが分かると思います。今回の第180作品目にふさわしい1800年のアイルランド合同法もキーワードになる場合がありますので注意です。1801年の合併年とともに知っておきましょう。

 またグラタン議員が登場しました。アルスターで義勇軍を組織した人物として出てきましたが、このグラタンという人名とアルスター義勇軍という用語は改訂前の用語集には出てましたので、難関私大には問題文に登場することはあるかもしれません。余裕があれば知っておいても良いかと思います。

 さて翠玉の聖島は第5話に進みます。かつてVol.156『リフォーム・アクト1832~自由主義改革への挑戦~』にも登場したオコンネルのカトリック解放活動から始まります。アイルランドのその後の行く末は....

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