世界史の目-Vol.181-

翠玉の聖島・その5

~オコンネルの魂~

その1~ある伝道師の布教~はこちら
その2~イギリスの侵略~はこちら
その3~残酷な征服~はこちら
その4~反撃と合併~はこちら

 アイルランド南部ケリー州のカトリック一家に生まれたダニエル=オコンネル(1775-1847)。生まれた1775年とはアメリカ独立戦争(1775-83)が勃発した年で、思春期から成年にかけては、フランス革命(1789-99)が起こっていた。
 そして、イギリスでは審査法(1673発布。テスト・アクト)が敷かれていた時代である。それは、公職は国教会の信者しか就けないと言われた、宗教的自由のない時代であった。

 オコンネル一家は土地を収奪されたアイルランド地主出身であった(イングランドの土地収奪)。またカトリック信者という理由でケンブリッジ大学の入学を拒まれ、フランス北部のドゥエーに渡って学業を積むなど苦労を重ね(しかしこの時代もフランス革命政権の圧政に苦しむ)、ロンドンのリンカーン法曹院を出て帰国(1796)、弁護士となった(1798)。

 その後アイルランドは1801年の合併(1800年のアイルランド合同法による)でグレートブリテンとの連合王国となったが(グレートブリテン及びアイルランド連合王国。1801-1927)、連合王国を発足する際、ハノーヴァー朝1714-1901)国王ジョージ3世(英(イギリス)・愛(アイルランド)とも王位1760-1800)は公約だったカトリック解放を先延ばしにし、アイルランドの差別は合併後も変わらなかった。こうした状況からアイルランドの反抗もおこり、連合王国成立後の1803年、一人のダブリン出身国民主義者(ロバート=エメット。1778-1803)が合併反対・アイルランド独立を願い、武装蜂起したが失敗、逮捕後処刑された(エメットの蜂起。1803)。連合成立後の大きな反乱であった。その後もイギリスとアイルランドの緊張・対立は続いた。

 オコンネルは不安定なアイルランド情勢を宗教的見地から解決し、アイルランド解放および独立を実現しようと、1823年カトリック協会を設立、カトリック刑罰法の廃止、アイルランドのカトリック信者の自由と平等を主張した。会費を安く設定していたため協会の規模・活動は徐々に大きくなり、これを機にオコンネルはマンスター州(島南西部)のクレア州から下院議員に選出されたが、審査法により国教徒以外の公職就任は許されなかったため、オコンネルの政界入りは拒否された(オコンネル事件)。この決定にカトリック協会員は激怒し、彼等の武装反乱が不安視された。このためイギリス政府は、同1828年審査法を廃止し、非国教徒(イギリス国教徒以外のプロテスタント)は公職就任が可能とり、まずイギリス国教徒だけの特権は取り払われた。そしてカトリック教徒については翌1829年カトリック教徒解放法を制定した。カトリック協会を宥める目的で制定されたものの、オコンネルの尽力は実を結び、遂にカトリック教徒の公職就任を可能にさせたのである。

 1837年、イギリス・ハノーヴァー王朝はヴィクトリア女王(1819-1901)の治世になった(位1837-1901)。この時代においても、オコンネルはアイルランド解放活動を行っていた。1840年、オコンネルはリピール協会(アイルランド分離協会)を設立し、イギリスとの合併廃止を掲げ、翌1841年にはカトリック教徒として初めてダブリン市長に選出され、市政を担当した(任1841-42)。

 しかしこうしたオコンネルの活動は、徐々に革命政権を望む声を生んだ。もともとオコンネルは合法的非暴力主義を貫いたため、独立・解放を革命によって成し遂げることに反対だった。フランスにおける彼の学生時代はフランス革命期で、革命政権によって学業中断を余儀なくされた経験を持っていたからだと言われているが、解放運動が大衆化しても穏健的態度で臨むオコンネルの姿を疎ましいと思う若き国民主義者も多く、革命によって解放を達成させようとする急進的な国民主義者も多かった。こうした中で、トマス=デーヴィス(1814-45)、ジョン=ブレイク=ディロン(1814-66)、マイケル=ドヒニー(1805-63)といった作家陣たちが中心となり、1842年に週刊紙『ネイション』を創刊(1842-48)、オコンネルのリピール協会とは一線を画した、急進的秘密結社、青年アイルランド党(ヤング・アイルランド)の結成と至るのである。ウィリアム=スミス=オブライエン(1803-64)などもその1人で、1843年にリピール協会に入会したものの協会在籍3年目でオコンネルと決別、1846年に脱会し、青年アイルランド党に入党した。雑誌『ネイション』は全世界に読まれることにな
 こうした内部分裂もあって、オコンネルは解放運動の指揮権を失い、活動は急激に縮小した。この失意は大きく、オコンネルは祖国を離れ、ジェノヴァで没した(1847。オコンネル死去)。
 オコンネルの奮闘によって、その後も解放・独立運動は形を変えながらも消えることなく続いた。

 1839年初頭にはアイルランドの雪害・風害が相次ぎ(ビッグ・ウィンドの夜)、数百人ものアイルランド人が犠牲になる大災害が起こったが、これを遥かに凌いで、アイルランドの歴史を変える大規模な大災害がその後に起こった。アイルランド大飢饉(Great Famine)と呼ばれる1845年から1849年にかけて起こった、疫病を中心とした大凶荒である。その対象となったのはジャガイモで、ジャガイモ飢饉の名で知られる(1845-49)。この時代はジャガイモの生産し易さ・消費量の高さに加え、貧農の多いアイルランドでの常食化が進んでいたこともあって、ジャガイモの疫病は国家も滅ぼしかねない状況であった。これによりやや解放・独立運動は下火になると思われた。
 結果4年間で100万人以上の餓死者を出したが、それ以上に深刻だったのが、アイルランド住民の国外移住であり、100万人以上のアイルランド住民がイギリスや北米に移民として他国へ移った(アイルランド移民)。しかもこの大飢饉に対するイギリス政府の黙殺もあって、イギリスからの分離独立、アイルランドの自治権要求、そしてさらなる移民増加が加速し、1848年7月、オブライエン指揮の青年アイルランド党は武装蜂起したが失敗し(1848-49。青年アイルランド党の武装蜂起)、オブライエンは逮捕、死刑判決を受けた(のち減刑)。
 この年は2月にフランス二月革命(1848)が起こり、この影響が全ヨーロッパに波及したこともあり、大混乱の時代であった。本国イギリスにおいてもチャーティスト運動が激化し、アイルランド出身のイギリス下院議員ファーガス=オコンナー(オコナー。1794-1855)の活躍も見られた。

 このようにしてアイルランドの解放・独立運動は絶え間なく続き、この動きは全世界から注目を集めることになった。オコンネルは当初はアイルランドのカトリック信者から解放を考えたが、その後は宗教差別の解決だけでなく、自治獲得や国家独立も掲げられるようになった。オコンネルの遺志を受け継ぐアイルランド人は、その後も数多く産み出されることになる。 


  まさにアイルランドのために生涯を捧げたオコンネルの活躍劇でした。国家独立や国家統一運動にはこうした人物が欠かせませんね。
今回のお話はVol.156『リフォーム・アクト1832~自由主義改革への挑戦~』と連動します。ウィーン体制の反動政策に対抗した、自由主義・国民主義の高揚がイギリスにも起こりましたが、イギリスは連合の相手であるアイルランドにこうした自由主義・国民主義による反抗を受ける形となったわけです。

 アイルランドの差別はより一層深刻な状態で進んでいきました。特にイギリスの不在地主と、アイルランド農民の対立は激しくなっていました。アイルランド農民はイギリス地主の小作人に成り下がったカトリック信者で、17世紀にイギリスに土地を収奪されて以降、この状態が続いていました。
 ここで、こういった話があります。1880年、アイルランドの土地を管理するイギリス大尉に対して、アイルランド小作農が小作料の減免を要求しましたが、この大尉は要求に応じません。このため小作争議に発展し、小作農は要求に応じるまで農作業を行わず、農村全体の協力も得て店の品物や食べ物を彼の家族に売らない行動をとります。農村が食料供給を拒んだことで、この大尉の家族は生活が困窮と化し、ついに屈服して要求を受け入れることになります。この大尉の名前を、チャールズ=ボイコットといいます(1823-97)。"ボイコット"という言葉はここから来ているのですね。

 さて、今回の学習ポイントを見てまいりましょう。まずオコンネルの努力によってもたらされた内容が重要です。1828年の審査法廃止で非国教徒(この場合イギリス国教会以外のプロテスタントをさし、カトリックは含まれません。イングランドのピューリタンやスコットランドの長老派など)の公職就任が可能となり、最後に残されたカトリックは翌1829年のカトリック教徒解放法で公職復帰を果たします。
 続いて1840年代ですが、オコンネルの晩年にあたるアイルランドではジャガイモの悪疫で大飢饉に襲われます。このジャガイモ飢饉は近年の入試で出題されるようになりました。ジャガイモ飢饉によってアメリカに移民したアイルランド人の子孫にあたる有名な人物がジョン=F=ケネディ民主党大統領(1917-63。任1961-1963)です。カトリック教徒発のアメリカ大統領です。
 また穏健派オコンネルに対して、急進派オブライエンが、青年アイルランド党を率いて1848年に反乱を起こした事件は、超マイナー事項ですが、難関校ではオブライエンや青年アイルランド党を答えさせる問題もあります。オブライエンは用語集にも登場しない場合が多いので注意しましょう。

 ちなみに私は経済学部出身ですので、ジャガイモ飢饉の話になると、経済学に出てくる専門用語「ギッフェン財」を思い出しますね。財の需要は普通、値段が下がると増え、値段が上がると減りますよね。高くなると買わない、安くなると買うということです。これは安くなれば所得が増える分たくさん買え(所得効果)、これまで他の財を買っていた人も安くなった方を買います(代替効果)。
 でも値段が安くなったのに需要も減る財もあります。これがギッフェン財と呼ばれる財で、この現象がこのジャガイモ飢饉でおこり、ジャガイモこそギッフェン財となりました。また値段が上がると需要もふえるのです。
 これは常食化していたジャガイモが値上がりすると、ジャガイモより高い食物を買う余裕がないため、当時のアイルランド事情から、"ジャガイモでいいや"という結末を生みます。よって値上がりしたはずのジャガイモの需要が増えます。しかしジャガイモが値下がりすると、ジャガイモを買うのをやめて本来買いたかったジャガイモより高い食物を買うケースが増えるので、ジャガイモの値下がりと同時に需要も減ります。価格低下によって需要が減る財は劣等財って言うのですが、ギッフェン財は劣等財の1つです。べつに品物が劣化していることを指すわけではありません。

 なんか全然本編と関係ない話をしてしまいました。さて、アイルランドの話、まだまだ続きます。19世紀後半からいよいよ20世紀突入です!!

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