世界史の目-Vol.183-

翠玉の聖島・その7

~事実上の独立~

-Vol.177- その1~ある伝道師の布教~はこちら
-Vol.178- その2~イギリスの侵略~はこちら
-Vol.179- その3~残酷な征服~はこちら
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-Vol.181- その5~オコンネルの魂~はこちら

-Vol.182- その6~王冠なき国王と自治法案~はこちら

 イギリスとの連合王国の形態となって以降(グレートブリテン及びアイルランド連合王国。1801-1927)、国内・国外で自治獲得運動、さらには独立・解放運動が頻発していたアイルランド。19世紀後半、チャールズ=ステュアート=パーネル(1849-91)の尽力でイギリス自由党政権を動かし、2度の挫折を経て、パーネル没後の1914年、念願の自治法案成立を果たしたアイルランドだったが、第一次世界大戦(1914-18)勃発によって状況が変わってしまった。イギリス首相アスキス(任1908-16)は、自治法施行の延期を決定したのである。

 パーネルは自治法成立の実現に向けて、当時のウィリアム=グラッドストン自由党政権(首相任1868-74,80-85,86,92-94)に接近したが、当時パーネルの活動はアイルランド国内での大きな影響をもたらしていた。それはユニオニストナショナリストの運動・そして両者の対立であった。ユニオニストは北アイルランドのアルスター6州北部6州。アルスターは全9州で、うち6州)に多く存在した。また国教徒が多く、ブリテン島からの移民が多いため、さほどアイルランド独立には関心を示さず、むしろイギリスとの連合を志した。一方のナショナリストはカトリック教徒が中心で、アイルランドとしての自治成立、そしてイギリスからの独立・解放を叫び続けた。ナショナリストの古くは1848年に蜂起した青年アイルランド党や、国外から発展し、1867年に暴動を起こしたIRB(アイルランド共和主義者同盟。共和兄弟団。Irish Republican Brotherhood)や同じ時期に結成されたフィニアン団体(フェニアン)などである(この頃はIRBも含め、急進的なナショナリストはすべて"フィニアン"の呼称が使われた)。

 パーネル没後のアイルランドでは、ナショナリストにおけるゲール語(古代アイルランド語)を使用した文芸復興・文化運動が起こっていた(アイリッシュ=ルネサンス。ゲール語復興運動)。英語よりもアイルランド語やゲール語を深く知ろうとする、アイリッシュ=ナショナリズムから来る運動であった。ダブリンではプロテスタント系の学者ダグラス=ハイド(1860-1949)によってゲール語連盟が設立され(1893)、詩歌や戯曲、小説など文学を中心に開花した。またゲール語連盟より10年近く前から結成された協会で、アイルランドのスポーツ、特にゲーリック・ゲームスと呼ばれた、ゲーリック・フットボールやハーリングなど、アイルランドの伝統スポーツを広めようとしたGAA(ゲール人体育協会。ゲーリック体育協会。 Gaelic Athletic Association)の存在は、アイリッシュ=ナショナリズムを高揚させ、イギリス文化の流入を止めようとした。またGAAにはIRB出身のメンバーも存在した。

 1905年、ゲール語連盟やIRBに所属していたダブリン出身のジャーナリスト・アーサー=グリフィス(1871-1922)という人物がいた。グリフィスは、グレートブリテン及びアイルランド連合王国を、「国王は同一、議会は別々」を掲げており、当時存在したオーストリア=ハンガリー二重帝国(1867-1918)を理想としていた。パーネル没後、混乱状態だったアイルランド議会党は1900年になって安定したが、グリフィスはこの党が、イギリス議会をボイコットすると同時にダブリンで議会を起こし、グレートブリテン=アイルランド二重王国を樹立させることができればと願った。それはかつてヘンリー=グラタン(1746-1820)が1782年におこしたグラタン議会の時代、つまり、イギリス議会と対等な地位で開かれるアイルランド議会の必要性を主張したのである。そして1905年、グリフィスは急進的な反英活動を行うナショナリストを集め、独自の団体を結成した。これが"シン=フェインシン=フェイン党。アイルランド語で"我々自身"の意)"である。

 パーネル没後、混乱したアイルランド議会党をまとめた新党首のジョン=レドモンド(1856-1918。党首任1891-1918)は、アスキス政権に対して自治法案成立を再度求めた。彼もまたパーネルと同様、イギリス自由党政権と連携して法案成立に向けようとしたのである。3度目となる自治法案提出は1912年から始まった。この年から3年続けて提出されたが、1911年に議会法(議員法。上院は下院を3回通過した法案及び予算案には反対できない)が制定されていたため、3回目となった1914年の自治法案は成立する見込みが高くなった。

 この状況は北アイルランド・アルスター6州に居住するプロテスタントを震撼させた。ユニオニストが多く存在するアルスター6州では、自治法案成立によってイギリスと分離されることを怖れていた。アルスター6州では1905年にアルスター統一党(Ulster Unionist Party)というユニオニスト政党が誕生し、自治法案成立に反対していた。1913年にはアルスター義勇軍(1912結成。ユニオニストの義勇軍。Ulster Volunteers。18世紀のそれとは別として扱う)が結成され、武器が調達された。法案通過を武力で阻もうとしたのである。そして、法案成立のあかつきには北アイルランドのみ独立して臨時政府をつくることが約束された。

 北の動きに対して、ナショナリストの多い南アイルランド26州(南部26州)も事態が変わった。当時のダブリンでは低賃金・高死亡率といった、生活水準の低下が懸念されていた。この頃ダブリンの社会主義者ジェームズ=コノリー(1868-1916。エディンバラ出身の移民)らが労働者階級の生活改善を条件にストライキ闘争を起こした(ダブリン=ストライキ)。また同1913年に義勇軍を募り(アイルランド義勇軍。IV。Irish Volunteers。18世紀のそれとは別として扱う)、アルスター義勇軍を阻止する構えを見せた。そして、翌1914年に自治法案はアルスター地方を法適用範囲から除外した形で成立し、国王の認可が下りたものの、冒頭に述べたように同年に勃発した第一次世界大戦によって、自治法施行は棚上げとなってしまった。

 これによりアイルランド義勇軍も分裂、レドモンド議会党党首の呼びかけにより、この軍隊は国民義勇軍として、イギリスの戦争遂行の努力に協力することになる。戦争協力に反対した義勇軍の少数派は"アイルランド義勇軍(IV)"として残った。ここで少数派のリーダーに元教師でゲール語連盟、IRBに所属するパトリック=ピアース(1879-1916)が指揮官となって、義勇軍を建て直した。またピアースと同じく教職に属していた中で、若きエイモン=デ=ヴァレラ(1882-1975。アメリカ出身のアイルランド人)も有能で、早い段階で大隊長にまで階級をあげていった。こうしてアイルランド義勇軍はIRBの指揮の下で活動することになった。

 ピアースは大戦へ乗り込んだイギリス軍の混乱に乗じて、アイルランド義勇軍による武装蜂起の計画をおこした。Xデーは1916年4月24日の月曜日であった。この日は復活祭イースター)の日であった。この武装蜂起には、ただ武力を行使するだけでは物足りず、アイリッシュ=ナショナリズムを根底とした活動を見つめ直す機会で、特にIRBはアイルランド義勇軍だけでなく、GAA、ゲール語連盟、シン=フェイン党、そして労働組合のいずれにも息がかかるメンバーがおり、大いなる変革を起こすほどの形勢を持ち合わせていた。それだけでなく、ダブリンでストライキを起こした社会主義者コノリーにおいても、彼らと行動は別に"ICA(Irish Citizen Army。アイルランド市民軍)"なる軍隊を結成するほどにまで発展していた。1916年1月にIRBはコノリーと会見、復活祭蜂起に合意した。

 1916年4月24日、復活祭の月曜日、ダブリンにおいて反乱軍における武装蜂起がおこされた。イースター蜂起の勃発である(1916.4.24)。オコンネル通りのGPO(中央郵便局。General Post Office)を始め、ダブリン市内の数多くの建物を占拠した。GPOの屋根には緑、白、そしてオレンジ色の三色旗(のちのアイルランド国旗)を掲げ、ピアースはGPO玄関口において、「アイルランド共和国臨時政府」の樹立宣言を行った。同時に軍の最高司令官であるピアースは臨時政府の大統領となり、コノリーが副大統領に就任した。

 このように息巻く反乱軍であったが、イギリスは余裕であった。アイルランドの反乱軍1200人に対し、イギリス軍は約1万6000人であり、また致命的にも反乱軍内部では蜂起反対者や、IRBで重職を務める若きマイケル=コリンズ(1890-1922)のように綿密な戦略ではないとしてピアースに異議を唱える者もいたからである。結局反乱軍の鎮圧は一週間で終わった。ピアース、コノリー、デ=ヴァレラ、コリンズら反乱の指導者は次々と逮捕された。
 ただちに軍法会議が開かれ、反乱軍の指導部は死刑が確定、ピアースとコノリーら指導者16名は即刻銃殺刑に処された。しかしアイルランドのナショナリストたちは指導者16名を"殉教者"として崇め、かえって独立運動が高まる結果を生んだ。このためイギリスはデ=ヴァレラ、コリンズらを特赦として釈放することになった。

 ただこのイースター蜂起によって大きな変化が起こったのはシン=フェイン党であった。イースター蜂起主導の中心はIRBではなくシン=フェイン党であると誤解を受けたのである。彼らにいたっては、もともとグリフィスが当初持っていた二重王国論が中心であり、独立・解放を主張してはいなかったはずである。しかし党員はこれを逆利用して反英で急進的な民族主義政党としての支持を集めていった。結果完全独立を主張するナショナリストや共和主義者が党内で勢いを増すことになり、グリフィスは党首を辞任(1917。党首任1908-17)、デ=ヴァレラが党首に就任した(党首任1917-26)。アイルランドのナショナリストをくすぐる新しいシン=フェイン党の誕生であった。こうしてアルスター6州を除くアイルランドでは、シン=フェイン党こそが統一したナショナリスト政党であるとされた。 

 第一次世界大戦が1918年に終了し、直後にイギリス下院総選挙が行われた。この結果、アイルランド議会党は敗北したが、シン=フェイン党が躍進、得票数476,458、73議席(候補者102名中)を獲得した。アイルランドにおけるナショナリスト政党の大いなる前進であった。イースター蜂起によってもたらされた影響はあまりにも大きかった。

 1919年1月21日、シン=フェイン党は元来の信念、つまり国王は一人だが議会は各国別々という主張に基づき、下院議会に出席せず、母国アイルランドの都ダブリンにて、1800年のアイルランド合同法が施行されてからは初となる第1回アイルランド下院議会を開催した("アイルランド国民議会"とも。アイルランド語で"ドイル=エアラン"という。デ=ヴァレラが議長を務めた)。

 このシン=フェイン党の動きは、イギリスからの独立宣言(アイルランド共和国臨時政府。1919-1921)、さらにはイギリスへの宣戦布告に等しかった。そしてアイルランド義勇軍をIRA(Irish Republican Army。アイルランド共和軍)と改称して、アイルランドに駐留するイギリス軍を相手に武装蜂起し、ゲリラ戦を展開した。コリンズが中心となって行われた、義勇兵たちにおける本格的な対英独立戦争であり、アイルランド独立戦争と呼ばれた(1919-1921)。

 この間1920年にアイルランド統治法、いわゆる19世紀から3度にわたって議会で争われたアイルランド自治法案の成立を遂に実現する時がきた。今回は自由党のデヴィッド=ロイド=ジョージ(1863-1945)の連立内閣(ロイド=ジョージ挙国一致内閣。首相任1916-22)によって施行に至った。ここでは、アイルランドを南北分割した上で、南部の26州・北部の6州それぞれの自治権を認めることになり、ようやくアイルランド自治法案にいちおうの決着が付いた。

 翌1921年、独立戦争は休戦協定でもって休戦となった。同年末アイルランド共和国臨時政府はイギリス政府との間に英愛条約イギリス=アイルランド条約。1921)を締結した。イギリス政府はロイド=ジョージ首相、植民相ウィンストン=チャーチル(大臣任1921-22。のち首相。任1940-45,51-55)、アイルランド共和国側の全権はグリフィスとコリンズであった(デ=ヴァレラ議長は不参加。自身がイギリス国王と対等な立場であるとの主張から、国王が出席しない限り参加しないと表明)。

 この条約の結果、南部26州はイギリス国王を元首とする同君連合国家・アイルランド自由国1922-37。Irish Free State)として分離した。南部26州の南アイルランドは独立国家とするがイギリスの自治領であり、共和国ではない。完全独立ではなかった。しかもユニオニストの多い北部・アルスター6州がイギリス、アイルランド自由国のいずれに帰属するかは、北部6州の中での決定に委ねられた。
 さらに自由国議会はイギリス国王及びイギリス議会に忠誠を誓う、英愛条約はアイルランド自由国では憲法を含むすべての法を超越する、北アイルランドは条約発効から1ヶ月以内であれば、自由国からの離脱権を付与するといった内容であった。

 この決定は多くの南部26州のナショナリストを失望させた。しかしドイル=エアランでは意見が分かれたものの、英愛条約受け入れを解決の第一歩として、僅差で条約批准を支持することとなった。結果条約は批准され、アイルランド自由国は誕生した。しかし完全独立、つまりイギリスの支配から解放され、アイルランド島の統一として、北アイルランド6州も自由国に合わせることを理想としているナショナリストたちは英愛条約反対派として批判した。デ=ヴァレラも英愛条約反対派として条約を結んだグリフィス、コリンズと対立を深めた。デ=ヴァレラは自由国議会の議長を辞任し、グリフィスが就任した。この自由国議会の議長は事実上、自由国大統領としての権限を持っていた。一方のデ=ヴァレラは、自身が掲げる"アイルランド共和国臨時政府"の代表として、自由国と英愛条約の無効を主張した。自由国では軍隊においてもIRAに代わり、IDFアイルランド国防軍。Irish Defence Forces)が設立されたことで、IRAはIDFに編入されることが決定したが、これを嫌う兵員はIRAに残り、デ=ヴァレラと合流した。

 こうして、アイルランド自由国内では、条約を承認するコリンズ率いるIDFと、条約に反対するデ=ヴァレラ率いるIRAに真っ二つに分かれ、アイルランド島は多大な緊張状態に包まれた。条約反対派のIRAは占拠したダブリンの最高裁判所(フォー=コーツ)を拠点としていたが、コリンズは同所への砲撃命令を下し、事実上の内戦に突入した(アイルランド内戦。1922.6-1923.5)。そして次第に各主要都市が戦闘状態となった。条約賛成派の自由国では、1922年8月にはグリフィスが心臓発作で病死、同月にはコリンズも条約反対派の銃撃を受け死亡するという緊急事態に陥るものの、戦場となった主要都市はほぼ自由国側によって占領された。
 その後デ=ヴァレラが反対派に戦闘を中止する指令を出し、内戦は終結となった(1923.5)。この時デ=ヴァレラはIRAに対し、"武器を隠せ"と指令したとされている。結局この内戦でも多くの死者・逮捕者を出し、フォー=コーツ内の大量の歴史的公文書が置かれてある建物を爆撃ですべて灰にし、醜さだけが残った戦いとなった。条約反対派への支持も集まらず、カトリック教会は自由国を支持し、北アイルランド6州は結局自由国から離脱してイギリスに再編入されることになった(もちろん1920年のアイルランド統治法により、独自の議会・政府を持つことは許される)。結局アイルランドは南北に分裂することになった。

 内戦終結後もデ=ヴァレラへの支持力は決して衰えていなかったが、国民が社会の安定を第一に考えた上で、アイルランド自由国を支持する態勢になったことで、デ=ヴァレラ自身も自由国政府を承認するようになっていった。しかし自身がシン=フェイン党の党首であると言うこと、シン=フェイン党には"アイルランド共和国"の議会しか参加しないという活動理念があった。結果デ=ヴァレラは1926年、シン=フェイン党の党首を辞任して離党、アイルランド共和党フィアナ=フォイル。アイルランド語で"運命の兵士たち"の意)を結党、初代党首となった(党首任1926-59)。フィアナ=フォイルは英愛条約の流れからすると、条約反対派で占められた。条約賛成派の中では、1933年、統一アイルランド党(フィナ=ゲール)等が登場している。

 アイルランド自由国が落ち着いた1927年、本国イギリスは現在の名称であるグレートブリテン及び北アイルランド連合王国となった。1931年、ウェストミンスター憲章イギリス連邦(これまでの"イギリス帝国"の呼称に代わり、自治領を対等な連合体として定める"イギリス連邦"の呼称を使用した)の自治領の地位が本国と同等であることが定められ、それらの司法と立法は本国イギリスとは別の権限として独立することを認めた。英連邦王国の1つとなったアイルランド自由国は、イギリス支配が完全に消えなかったにせよ、事実上独立を果たすこととなった。

 アイルランド自由国はイギリスと対等な国家となり、1937年に国名を「エール(アイルランド。Éire)」と改称、新たな憲法(アイルランド憲法)も施行された。憲法では、民族自決と国民主権、イギリス連邦からの離脱、イギリスによるアイルランド南北分割の不当、アイルランドのカトリック教会の正当、アイルランド語の国語化、アイルランドの国家元首をイギリス国王からアイルランド大統領とすること、国旗はイースター蜂起でも使用された、ケルトの伝統を示すウィリアム3世(オラニエ公ウィレム。英王位1689-1702)の支持者を示すオレンジ色、そして緑とオレンジ両者の平和を示す白色、これらを使った三色旗を定めた。
 また施行当初ではカトリック制度の強い法規制があった。たとえば離婚禁止、女性の服装制限、避妊具の販売および貿易規制、そして堕胎の禁止などである(その後、これら法律の宗教的抑制は緩められた)。

 そしてエールとしての行政がスタートし、初代はフィアナ=フォイルの政権となり、デ=ヴァレラが初代エール首相に就任した(デ=ヴァレラ首相就任。任1937-48,51-54,57-59)。翌年はゲール語連盟設立者だったダグラス=ハイドが初代エール打大統領に就任した(ハイド大統領就任。任1938-45)。

 エールは第二次世界大戦中もイギリスの対独戦に対して協力することなく中立を貫き、1949年、イギリス連邦からの離脱を決め、エールは文字通り、「アイルランド共和国」となった。
 そして1959年、デ=ヴァレラは大統領の地位に昇りつめた(デ=ヴァレラ大統領就任。任1959-73)。デ=ヴァレラにとって、念願の、そして正真正銘の共和国大統領であった。


 『翠玉の聖島』における最大の山場を迎えました。イースター蜂起、独立戦争、内戦、そして自由国誕生と、めまぐるしい動きを見せたアイルランドですが、今回は非常に重要な話ばっかりだったと思います。16世紀のヘンリ8世(位1509-47)からはじまったイギリスの侵略と征服に端を発し、"アイルランド問題"として民族的にも・宗教的にも・政治的にも大きな闘争を生みました。『翠玉の聖島』は次回を一応の最終回としておりますが、歴史だけでなく、現代社会としても直面する問題でもあります。しかし本編でお分かりのように、内容はいたって複雑で根深いものがあります。

 さて、受験世界史から見た、学習ポイントです。今回は非常に多いです。まずアイルランドにおける地理的な理解をしておきましょう。北アイルランドと南アイルランドですが、全32州のうち、北部に位置するアルスター地方の6州が北アイルランドで、最大都市ベルファストは北アイルランドの中心です(北アイルランドの首府扱い)。南部は、今回独立したアイルランド自由国改めエール(アイルランド共和国)で、26州あります。首都はダブリンです。南北アイルランドと、アルスター(地方名)、ベルファスト(都市名)、ダブリン(都市名)を覚えましょう。
 続いて、通史の理解ですが、まず、自治法案が1914年に成立するも流産したため、ナショナリストによるイースター蜂起(1916)が起こります。これに関わった政党がシン=フェイン党です。同党は1918年に総選挙で圧勝し、1919年臨時政府をつくります。この首班が同党首のデ=ヴァレラです。ただ、独立戦争、1920年統治法、内戦は試験に出ることはなく、用語集にもでていませんので、覚えなくても良いかと思われます。受験生にとっては、"イースター蜂起でシン=フェイン党が台頭し、1922年にアイルランド自由国となった"と覚えれておけば良いでしょう。自由国の代表も紆余曲折を経てデ=ヴァレラとなるわけですが、これも受験生にとっては、"自由国とくればデ=ヴァレラ"と覚えておけば良いと思います。そして1937年に国名はエールとなり、1949年にイギリス連邦からの離脱してアイルランド共和国と改称したという流れも重要です(アイルランド自由国→エール→アイルランド共和国)。

 政党は他にアイルランド議会党アルスター統一党アイルランド共和党(フィアナ=フォイル)、統一アイルランド党(フィナ=ゲール)などが登場しましたが、出題されたことはありません。組織はゲール語連盟GAAアイルランド義勇軍アルスター義勇軍IRBICAIDF(IDFは現在におけるアイルランドの国防軍)などが登場しましたが、これらは世界史Bでは特に覚える必要はありません。ただIRA(アイルランド共和軍。あるいはアイルランド共和国軍)は時事的にも有名な軍隊で、難関私大の世界史BではIRAを答える問題が出されたことがあります。世界史Bだけでなく現社や政経でIRAが用語集の説明に登場しますし、重要用語だと思いますので、知っておくと良いでしょう。

 人名ですが、アイルランド自由国ができた時はロイド=ジョージ挙国一致内閣だったことを知っておきましょう。チャーチルは言うまでもなく第二次世界大戦に登場する首相です。今回の主役の一人であるデ=ヴァレラは、頻度数は少ないですが用語集には登場しています。本編で述べたとおり重要人物ですので知っておく必要はありますね。ピアースレドモンドグリフィスコリンズコノリーハイドはまず出題されないでしょう。

 余談ですが、1912年にはアイルランドにまつわる大きな事件があった年です。ベルファストは世界最大の造船所として有名ですが、そこで建造され1911年に進水式が行われたのが豪華客船のタイタニック号です。同号は翌1912年4月、アイルランドのコーヴ(コーク州。当時"クィーンズタウン"と呼ばれた)を出港し、アメリカ・ニューヨークへ向かう途中に海難事故に遭って沈没し、多くの被害者を出しました(1912.4.14)。この事件は映画化されるなどして非常に有名ですが、ちょうどアイルランド自治法案で揺れていた時代にタイタニック号が海を渡っていたのですね。タイタニック号は受験世界史ではまず見かけませんが、歴史的に見て興味深いですよね。

 さて、177話目からアイルランドの歴史をつづってきましたが、次回は最終回。アイルランド現代史にうつります。アイルランド問題はどの後どういう展開になっていくのでしょうか?少しだけですが、イギリス側ではあの、"アイアン=レディ"も登場します。翠玉の聖島・最終回をお楽しみに。

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参考文献