世界史の目-Vol.186-

二つの市民革命に立ち会った男

 イングランド東部のイースト=アングリア地方にあるノーフォーク州。1737年、服飾品製造業(女性のコルセットを製造した)の家にひとつの生命が誕生した。男児であった。彼は13歳に職人として父親に弟子入りしたが、その後断念して職を転々とした。2度の結婚と離婚を繰り返すなど、生涯の前半で早くも激動ぶりを見せつけた人物であった。しかし彼の生涯の後半は、それ以上に波乱に富んだ人生であった。彼の名は、トマス=ペイン(トマス="トム"=ペイン。1737.1.29-1809.6.8)という。

 1774年6月、トムは2番目の妻と別れ、ロンドンに出向いた。そこでトムは友人の紹介で、大学創設者(この大学はのちのペンシルヴァニア大学)であり、また科学者でロンドン・ロイヤル・ソサエティの一員でもあり、ペンシルヴァニアで議員活動もしていたことがあるベンジャミン=フランクリン(1706-90)と知り合った。フランクリンはトムにイギリス領アメリカ(独立前のアメリカ)への移住を提案、フランクリンからの薦めを受けて、北アメリカ大陸に渡った。大西洋横断中は過酷で、船内チフス菌が蔓延し乗客数名が死亡するなど悲惨な航海であり、トムも航海中に重い病気にかかった(回復までに1ヶ月半かかったという)。1774年11月にやっとの思いでフィラデルフィアに到着した。翌1775年にはペンシルヴァニアの市民権を得、「ペンシルヴァニア・マガジン」の編集者になり、成功を収めた。

 1775年アメリカ独立戦争(1775-83)が勃発した。当時の植民地人は約250万人、その中で独立を支持する愛国派パトリオット)は植民地人全体の3分の1ほどで、いまだ独立という危ない橋を渡るより本国イギリスを支持する国王派(勤王派。忠誠派。ロイヤリスト)や、同じく独立よりは本国と北米植民地との和解を望む中立派が多数を占め、独立気運を呼び起こす状況ではなかった。こうした中、フィラデルフィアでトムの出版したパンフレット、『コモン=センス(Common sense。常識)』が2シリングで発刊された。
 簡易な表現で記された『コモン=センス』の内容とは、イギリスにおける君主制と批判とアメリカ独立の正当性、つまり共和政をおこして独立することを"常識"としたものであった。初版1000部が出ると、同パンフは飛ぶように売れ、結局3ヶ月で12万部売れるという大ベストセラーとなった。これにより、植民地ではいっきに独立支持に傾くこととなった。

 独立宣言1776.7.4)採択後、トムはパンフレット『危機シリーズ(Crisis)』を発刊する傍ら、独立軍として従軍し、その後は外務委員秘書官、州議会書記を歴任した。パリ条約(1783)でアメリカ独立が達成されると、トムはフランスに渡り(1787)、その年に故郷であるイギリス・ノーフォーク州に戻った。

 折しもフランスはアメリカ独立革命の影響を受けて、旧制度打破と財政・政治改革の気運が高まっていた。やがてバスティーユ牢獄襲撃(1789.7.14)をきっかけにフランス革命が勃発するが、イギリスでは翌1790年、かねてから革命思想について批判的であったホイッグ党下院議員エドマンド=バーク(任1765-94)が、著書『フランス革命についての省察』においてフランス革命をするどく批判したことにトムが反論、翌々1791年にフランス革命を擁護する『人間の権利(人権論。Rights of Man)』を発表した。トムが発表したこの書はイギリスで約200万部売れたといわれる。しかし以前、対フランス戦争を匂わせていたイギリス首相ウィリアム=ピット(小ピット。任1783-1801)に対して、非戦を説得したことがあり、今回フランス革命擁護を主張したためイギリス政府から追放処分が下された。しかしトムはこれを機に『人間の権利』の仏訳に努めるべく、再度フランスへ渡った。

 フランスでのトムは、革命派によって大いに歓迎された。フランス語はできなかったが、『人間の権利』発表時にフランス市民権を得ていたトムは、第一共和政(1792-1804)の幕開けとなったフランスの国民公会(1792.9.21-1795.10)の議員として参加し、共和政憲法の草案担当メンバー(ジロンド憲法プロジェクト)に加えられた(1792)。ジロンド憲法プロジェクトには、1789年の"第三身分とは何か"で知られるアベ=シェイエス神父(1748-1836)もいた。トムは憲法草案の前文を書いたと言われるが、その後ジロンド派政権と対立する山岳派(ジャコバン派。最左派)の台頭でジロンド派は没落し(1793)、トムの関わったジロンド憲法制定は幻となった。
 またトムはフランス国王だったルイ16世(王位1774-92)の処刑には反対し、『人間の権利』の内容を基に、国王はアメリカへ亡命することを提案、国王処刑反対の演説を行ったが(1793年1月15日)、同月21日に処刑は執行された(1793.1.21刑執行)。その後ジロンド派の没落と合わせて、ジロンド支持派のトムも対仏外国人の1人として逮捕された(1793.12.28)。

 トムは後に第5代米大統領となるジェームズ=モンロー駐仏大使(大使任1794-96。大統領任1817-25。民主党の前身である民主共和党出身)によって翌1794年11月に釈放された。この時点で国民公会は同年7月にテルミドールのクーデタ(1794.7.27)によって変動、山岳派リーダーとして恐怖政治を行っていたマクシミリアン=ロベスピエール(1758-94)は既に処刑されており、テルミドール派(反ロベスピエール派)による主導となっていたことで、身分回復を許されたトムは再び国民公会に迎えられた。トムはこの頃、やがて独裁政権を形成するナポレオン=ボナパルト(1769-1821)についても評価しており、「これまでに存在した中で最も完全ないかさま師」と述べている。

 1802年、トムはトマス=ジェファソン第3代米大統領(任1801-09。民主共和党)の招きで再渡米した。しかしフランスを敵対するフェデラリスト連邦派。後の国民共和党ホイッグ党共和党)たちとの対立を深めたため国内では孤立していき、不遇な晩年となった。そして1809年6月8日朝、トムはニューヨークで没した。72歳であった(トマス=ペイン死去。1809.6.8)。

 アメリカ独立革命、そしてフランス革命という、歴史を揺るがした二大市民革命に生き、後世に大いなる影響を与えたトマス=ペイン。彼の晩年の作品『理性の時代(The Age of Reason。1794,95,1807)』に心を動かされ、"アメリカ独立に関わったすべてのアメリカ人において、最も偉大な人物の1人である"と、常に心に留めていたのは、後にアメリカの大発明家となるトーマス=エディソン(エジソン。1847-1931)であった。


 『世界史の目』、再始動いたしました。またよろしくお願い致します。

 さて、今回はアメリカ独立革命とフランス革命の双方で活躍するトマス=ペイン(トム)をご紹介しました。私が学生時代にたまたまトマス=ペインの名言集みたいな書籍を図書館で読んだことがあり、そこで体全身に電気が走ったような印象深い文章が今でも頭にこびりついています。その名言というのは、“I love the man that can smile in trouble,that can gather strength from distress,and grow brave by reflection(困難の中でも微笑むことのでき、悲しみの中から力を集めることができ、非難を受けることによって勇気を育む、私はそんな人が好きだ).”というもので、人間の生き方・在り方をトム流に主張した言葉です。彼の偉業・功績は後世において多大な影響を及ぼしていて、たとえば本編最後に登場したエジソンもその1人です。wikipediaで記載されている『人間の権利』によると、エジソンはトマス=ペインを、アメリカ独立を可能にした点でジョージ=ワシントン(1732-99。初代大統領任1789-97)に匹敵する人物であると言い、ワシントンが実行したことは、トマス=ペインが考え書いたことであると評価しているそうです。

 さて、受験世界史における学習ポイントですが、言うまでもなくトマス=ペインの名前、アメリカ独立気運を高めたパンフ『コモン=センス(常識)』は最重要項目です。絶対知っておきましょう。トマス=ペインはアメリカ独立革命とフランス革命の双方に関わっている人物として取り上げましたが、他に彼と同様アメリカ独立戦争にも携わり、またフランス革命にも大いに関わっているフランス貴族で、入試にも登場する人物がおります。ラ=ファイエット(1757-1834)です。本編では登場しませんでしたが、フランス人権宣言の起草者、立憲王政の自由主義改革を志すフィヤン派の人物としてチェックしておきましょう。

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